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テニスに夢中な友だちの話

 住まいの街にいくつかある商店街のうち、自分の帰宅途上にある商店街のなかに運よく友人一家が経営している本屋さんがある。さまざまなことに不精で不義理な自分にとって、帰宅途中に立ち寄れる友人宅というのはとてもありがたいことで、それがゆえに交友が続いていると言える。しかも、ただの友人ではなく、とりわけ愛する友人なのだから幸運としか言いようがない。

 彼女とは虎ノ門にあった会社で同僚だったのだが、彼女は新卒来のプロパー、自分は20代終わりの転職者。カオスな組織のなかでほとんど唯一心を許せる人としていてくれて、当時本当に救われていた。非常に偶然なことに、彼女の実家が自分の今も住まう街であり、お互いに退職しても彼女はいつでも本屋さんにいてくれたのだ。

 訪ねると「羨ましいな」と思う光景にいつも出くわす。商店街の中で生活する商店主の小さな子供たちが彼女の本屋に遊びにくるのだが、彼女はそこで宿題の算数をレジのあるカウンターで立ったまま教えたりしている。同僚だったときには耳にしたことのなかったかなりざっくばらんな口調も新鮮だった。子どもだけではない。いろんな人が本を買うだけでなく訪れていた。そしてみんな何かしらの手土産を置いていく。手土産なんて気取ってはおらず、「あのねー今日物産展で買ってきたかまぼこ、すごくおいしそうだから食べない?」とか、一つ二つ。それがいい。心が感じられる。見事なぶどうひと房とか、柿の実一個とか、日常生活のなかで愛するものをおすそ分けしあっている。そう、彼女もお客さんや私に、惜しみなくおすそ分けしてくれるのであった。私なぞ、本を購入するよりここに立ち寄っておやつや食料をいただくことの方が断然に多いのであった。

 年が明けて、まだ一度も立ち寄っていないことが気になっていた。けれどこのところ、ひどく内側に向いてしまう心持ちの私はどうにも足が向かずにきたのだが、昨日ふと思い立って帰り道に寄ってみた。同い年の彼女は、すっぴんで美しい小麦色に全身が日焼けしていた。私のように紫外線をおそれいろんなものを塗りたくっているのより、ピュアでとてもまぶしかった。なんと初心者で2年前に始めたテニスに彼女は夢中になっていて、週5で練習しているという。昨年などは大会にも出場したらしいからどれほど熱中しているかがわかる。

 彼女が言うには、お仲間にはさまざまな方がいて、80歳のご婦人もテニス仲間なのだそうだが、ピラティスもやっていらしてとにかく体力に脱帽すると言っていた。そして、「70代の方なんて男性も女性もたくさんいらしてテニスを楽しんでいるの!普通の生活をしていたら関わる機会の少ない方々と楽しめて、そりゃいやな思いをすることもあるんだけど、こういうのいいなと思うの」ときらきらした目で言う。ふと私の胸がしわしわと悲しくなった。

 「…いいなぁ。私ってさ、そういう夢中になれるものがないんだよね。夢中になるってさ、バイタリティじゃない。バイタリティだけは無理したってわいてこないからさ、自然にわきあがってくる情熱がないんだよね。本当につまんない人間だなって」と、彼女の前では気負うことのない自分でいられるため、本音を漏らした。これは常に思っていたことだった。すると、

「何言ってるの!?●●ちゃん(私)は仕事がそうでしょう?」

「え…それって超かなしいじゃん…。つまんないやつ過ぎるよ…」

「だからそれが違うの。私、●●ちゃんほど全力で仕事する人、見たことないんだよ?同じ会社にいるときから変わらない。みんな、自分の欲のためだったり政治的にふるまったりさ、そういう仕事の仕方だったけど、●●ちゃんだけはいつも人のために自分ぜんぶ使ってたじゃない!」と言う。

「あー…。うん。それはそうだと思うんだよ。でもさ、仕事だよ?」

「だからね、私たちがテニスとかなんでもいいけど、そういうことに夢中になるのと同じで●●ちゃんはそれが仕事ってだけなの。すごいことじゃない!そんなふうに働ける人って本当に私、会ったことないよ」と熱弁をふるってくれる。

 私はすこし、ほんの少し目からうろこが落ちた。そうなのだ。自分は昔から「仕事のため」となるとすべてを賭けることができた。個人的に苦手なことでも「それも仕事」となると進んでできた。大仰でなく生命を賭けることが簡単にできてしまうのでいつも「この辺が限界」というのがわからず基本的に倒れて病院送りになったときに振り返って「あそこか!限界は!」と知る。そもそも自分は31歳で結婚しない人生を選んだが、その理由は当時出資してくれる人から「生涯結婚しないこと」を条件にされたからだった。躊躇なく「わかりました」と答えた。今も毎日思うのは、ベッドで眠りにつく瞬間に「もうこれ以上できない」ってほど働いてから眠りたいということ、「いい仕事したな~」って思って死にたいと願う。

 今も書きながらわらかない。友人が言うように、「たまたま夢中になる対象が仕事」ということなのかもわからないし、仮にそうなのだとして、自分はそれがなんだかうら悲しく感じられるのだ。そして一番の問題は、そのことを「うら悲しい」と思う心境にあると思っている。

 仕事以外に夢中になれるものがないことが、少し自分を欠陥品のように感じる心。仕事という名のもとであれば、自分を丸ごと捧げてしまえること。これらを知ることは、自分のなかのまだ開かれてない何かしら禁断の扉のように思える。

 そしてふと思うけれど、私の仕事の仕方が人のためだと言ってくれた友人であるが、彼女こそ店を開けそこに立ち寄るすべての人を憩わせ、こんなふうに気が軽くなるようにさりげなく鼓舞して、よっぽど偉大な仕事の仕方であろうと思ったのだった。

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