見出し画像

かなしい黄昏

意識して生活を変え、規則正しさを骨身にしみ込ませようとしていたのにとうとう記録が絶たれた今日。鬱々として背中をえびのように丸めて悲しい気持ちで過ごした。夕方近くなってやっと、なんとか気力を奮い立たせることができたけれどこの悲しみに「理由もなく」などと、見ないふりをすることをよすくらいには年を取った。「わけもなく悲しい」なんてことはないのだ。大抵、正面から対峙したくないだけできちんとした理由が必ず、ある。

バスが好きだ。きわめて利便性の高いエリアに住んでいるのに、わざわざ時間をロスするバスに乗ることが多い。これは会社勤めをやめてから身についた習慣である。会社員時代は時間のロスなんて一番忌避したものだから。黄昏時のバスには、一日の終焉に差し掛かる静かな達成と疲労が充満している。ああ、わたしは今日、そこからもはみ出している。

下車の際、「ありがとうございました!」と大きく叫ぶ小学生の男の子の姿を目にして静かに胸を打たれる。なんと正しい美しさだろうか。せいぜいがところ、わたしにできるのは運転手の方向に頭を下げることくらいなものだ。恥ずべきことでないのに、できなくなったことがいろいろとある。大人というものは一体何が成熟した生命体なんだろう。

わたしのなかに在る、いまだ根絶やしにできず瀕死の文学少女の心が騒ぐ。ここまで汚れ過ぎると、その存在は苦しみしかもたらさないというのに。誰の声も聞きたくないし、誰とも会話をしたくない。誰にも心配されたくなどないし、荒んだ心に自分が傷ついていく。こんな日もある。こんな日が、ある。

こんなことには慣れっこで、自分のなだめ方をよく知っている。勝手に傷つき落ち込んで、勝手に再生できる自分が好きだ。それをたった1日で行う自分の生命力のタフさを、たぶん誰よりも愛している。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?