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ここぞという服

 いつも記事のタイトルは、先に本文をすべて書き終わってからそれにふさわしいものを考えてつけるのだが、今回はまずこのタイトルが先にあって書いている。珍しい。

 一昨年に買った値の張る「罪悪感コート」と呼んでいた、ひとめぼれ衝動買いコースで入手したデザイン的にも(当時は)アッパーだったコートだが、週の登板においてはかなり劣勢。昨年選びに選んで入手したピーコートが半数以上で、あとはその他アウターがちらほらと、という状態。そこで気づいたのが、結局登板回数の多い服とは着やすい服であるということ。ピーコートのサッとはおるだけでよい感じにはよそいき感がなくて「着やすい」だけでなく「気安い」ことがわかった。

 そういう意味ではクローゼットにいくつかの圧倒的に登板回数が減った「着やすくも気安くもない」服がある。そういう服はいまの自分に不要になったのか?と言えば逆にここで不要として切り離してはいけないものだ、とも思った。要するにそれが、よそいきの服ってことなんだ。
 意外とこの事実に気づくのが遅かった。むしろよそいきの服をデイリーに着るアンビバレンツ生活が長かったからだ。

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 出版社にいた頃、その会社が入っていたオフィスビルは周囲で有名だった。理由が、「なんであのビルに入っていく人たちはみんなモデルのような服を着ているのか」というもの。もちろん、外国人のモデルたちも日々大勢出入りしていたし、編集者においては本当にエッジィなファッションの人もたくさんいた。毎日が時間割形式で顧客企業に訪問するので、編集者は訪問先に合わせて礼儀としてドレスを変えている人もいた。よそのメゾンのものと、ひと目でわかる服を着て競合に行くことはできないからだ。その点、広告部はもう少し楽ではあったが、それでもかなり被服費に割かなくてはならず苦労した。

 その頃に「服とはコスプレ」と思い、社会的にどう映れば仕事がうまく進むかで服をまとっていた習慣が根付いたが、この3~4年ほどでだいぶこの感覚がラフになって風通しがよくなったと感じる。端的に言えば、日常服というジャンルを見出したということに尽きる。
 考えてみたら、ハイブランドを扱う編集者にとって仕事着は日常着であり、かつオールタイムよそいきになる。だから、かの人たちにとってそれは全然ふつうのことであるが、自分はあるときから無意識的に面倒になって「ずっとよそいき状態」で固定されてしまったと思う。

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 よそいきの服とは、ここぞというときの服だ。この認識を思い出せたことは大きい。着るのに少し緊張が伴う服は気安くないので日々に登板が減っていくが、それでいいのだ。しかし、ここぞという時にこそ輝く。そして、平常があるからこそ、「ここぞ」という瞬間があるわけだから、デイリー登板がなくてよい服なのだ。

 けれど大事なことは、この着やすくないよそいきの服は、体と精神の緊張が失われると着こなすことができないという点を、忘れてしまってはなならないということだ。あなおそろしや。

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