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東京都美術館「イサム・ノグチ 発見の道」展

東京都美術館で開催中の「イサム・ノグチ展」に行ってきた。恥ずかしながら私のイサム・ノグチ知識は「北海道モエレ沼公園の設計をした人」位しかなく、ずっと掴みどころのない存在だった(勉強しろよというツッコミはご容赦願いたい)。多分あらゆるところでちょくちょく目にする事はあっただろうが、イサム・ノグチという人物(作品)の全貌を俯瞰した事がなかった。そんな私にとって本展はまたとない絶好の機会となった。

「イサム・ノグチ 発見の道」展
会期:2021年4月24日(土)~8月29日(日)
会場:東京都美術館 企画展示室
休室日:月曜日 ※5/3(月・祝)、7/26(月)、8/2(月)、8/9(月・休)は開室
開室時間:9:30~17:30(入室は閉室の30分前まで)
観覧料:一般 1,900円 / 大学生・専門学校生 1,300円 / 65歳以上 1,100円
展覧会HP:https://isamunoguchi.exhibit.jp/index.html

1.展示について

20世紀を代表する芸術家イサム・ノグチ(1904-1988)は、彫刻のみならず、舞台美術やプロダクトデザインなど様々な分野で大きな足跡を残しました。しかし、彼はその生涯を通じて一貫して彫刻家であり続けました。
晩年に取り組んだ石彫は、ノグチ芸術の集大成というべき世界です。
日本人の父とアメリカ人の母との間に生まれ、アイデンティティの葛藤に苦しみながら、独自の彫刻哲学を打ち立てたノグチ。
その半世紀を超える道のりにおいて、重要な示唆を与え続けたのが、日本の伝統や文化の諸相でした。例えば、京都の枯山水の庭園や茶の湯の作法にふれたノグチは、そこから「彫刻の在り方」を看取することができたのです。本展では、晩年の独自の石彫に至るノグチの「発見の道」を様々な作品で辿りつつ、ノグチ芸術のエッセンスに迫ろうとするものです。そのため、彫刻と空間は一体であると考えていたノグチの作品に相応しい、特色ある3つの展示空間の構成を試みます。          (展覧会HPより抜粋)

 展覧会の概要は上記の通りで、展示は作家の生涯を辿るのではなく、作品を3つのテーマに分け、その本質に迫っていくものだが、とは言いつつ緩やかに、時代の変遷、彫刻の素材の変遷も感じることができるようになっており、考えられた設計だ。

第1章「彫刻の宇宙」

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最初の展示室では、展示室中央に飾られた大小さまざまな150個の《あかり》の下で、彼の初期のブロンズ作品から、晩年の石の作品を展望する。宙に浮かび柔らかな光を放つ《あかり》群は、まさに宇宙空間に流れる天の川の如く、訪れた鑑賞者を誘う。

ブロンズによる作品はいずれも複雑な形状をしており、一見しただけでは何を表象しているのか分からない。(タイトルを見ても「??」となるものもしばしば)これは、インターロッキング・スカルプチュア(複数のパーツの組み合わせによる彫刻)という手法らしく、様々なパーツが複雑に組み合わさって生まれるしなやかな造形が不思議にも心地良い。私は下の《化身》という作品が気に入った。上部の乳房のような形状から何か母性的なものを表象しているのだろうかと思った次第。

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”アート”的な彫刻作品だけでなく、こうした茶器も展示されてる。こうした作品まで作っていることは知らず、いかに様々な文化やイメージを経て、抽象的な作品へと昇華しているのかを知ることができた。(茶器などの工芸作品と”アート”的な作品という分け方をすること自体、工芸とアートを分ける必要はなく全てが彫刻と考えるノグチにとって不本意なところであろうが)

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《あかり》の川をくぐって展示室の奥に進めば、晩年期の石の彫刻も一部展示されている。石の作品の中で特に良いなと思ったのが上の《無題》と言う作品。1つの石とは思えない程、削った面によって色が異なる。石としての重みがある一方で、スパッと切れた断面が作り出すリズム、色味などから軽やかさ、心地良さを感じる。こうしたリズムを見ると《蔦の細道図屛風》を思い出す。《蔦の細道図屛風》は直線という事ではないが、線と面だけで画面を構成し、そこに永遠性を感じさせる構成の見事さ。本作にもそれを感じる。また、こういう言い方をすると悪いのだが、一番手前の灰いろの面は上下で二色に別れており、これがちょっと杉本博司の「海景」シリーズっぽくて、石の中に海がある気がして面白い。ずっと眺めていられる。

第2章「かろみの世界」

続く展示室のテーマは「かろみ」。アメリカ人の母と日本人の父の間に生まれたイサム・ノグチだが、その少年期は複雑であった。日本人でもありアメリカ人でもある彼は同時に「日本人でもなければ、アメリカ人でもない」。その中で彫刻という表現に出会い、それを生涯の仕事へとしていくのだが、世界を旅し、中でも日本の文化から多くのインスピレーションを得る。その1つが「かろみ」という美意識。この展示室は、折り紙から着想を得た金属板を素材とした作品を中心に、《あかり》シリーズ、《プレイ・スカルプチャー》など、ノグチの「かろみ」の世界で遊ぶ空間となっている。

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一目見てコントラバスっぽい!と思ってバス奏者を気取った一枚。土台に近づきすぎて監視員さんに注意されたので、遊ぶのは程々に(というより心の中で遊ぶべきですよね、反省)。

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《あかり》シリーズ。一番右奥の長方形のボックスが組み合わさった作品は、和紙の皴の感じが一番映えていて素材の美しさを堪能。中央奥の縦長の捻じれた作品(丸型の作品と芋虫かミカヅキモのような作品の間)は、何となく《ミロのヴィーナス》のように感じた。S字の曲線がしなやかで、これも見れば見るほど味わい深い。

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室内で圧倒的な存在感を放つ真っ赤なボディーの《プレイ・スカルプチャー》。実際には遊具として遊べる彫刻作品だが、本展ではお触り禁止のようで触れないのが残念。これは絶対触りたくなるやつだし、いかにも「触ってくれ」というフォルム&材質だし、プレイ・スカルプチャーというぐらいなのだから「触ってなんぼではないのか?」と主催者には言いたい(笑)

第3章「石の庭」

晩年期、ノグチが香川県牟礼町で製作した石の彫刻群。

制作拠点であったニューヨークと香川県牟礼町には、現在、イサム・ノグチ庭園美術館が開館しています。ノグチにとって「庭園」とは、自らの彫刻の在り方を考えるうえで、最も大切なキーワードでした。
とりわけ牟礼は野外アトリエがそのまま公開されていますが、そこは単なる仕事場の領域を超えた、自らの感覚と世界がつながることのできる「特別な空間」でした。四季折々の風光が味わえる豊かな自然環境のもと、未完の作品を含め、あらゆるものが照応しあうアトリエは、空間全体がノグチにインスピレーションを与え、それ自体が作品と言い得る、聖性と啓示にみちた小宇宙=庭だったのです。           (展覧会HPHPより抜粋)

ここは撮影禁止エリアのため写真は撮れないが、静謐な空間でじっくりと作品と向き合う。最初の展示室では、作品に対して「これは何だろう?これはどういう事を表しているのだろう?」などと考えたりもしていたが、ここに来ると良い意味で考えるのを止めて、ただそこに「在ること」を受け入れ、自身も身を委ねる感覚になっていた。一緒に行った友人が音声ガイドの解説を教えてくれたが、それによると「まるで自然物として最初からそこにあったかのような」ものとして制作しているということで、納得した。

「かろみ」を一つの美意識としてもっていたノグチが最終的に晩年は石という素材に行きつくのも興味深いが、そこには「全ては土(石)に帰る、人間も石に帰る」という思想に基づいており、大地を壮大な彫刻とみなしたノグチらしい思想だ。今まで石の彫刻のイメージはなかったので、新鮮だった。作品としては一番「分かりづらい(分かりづらい)」作品かもしれない。それは作品の形状も具体的に「何か」を表そうとしていないから、現代の「アート作品は何か意味を表象するモノ」という強迫観念で向き合うと、ヒントがなさ過ぎて手も足も出ないからだろう。しかし、それであっても私はこの作品群の中にいる時が、一番静かで心地良い時間であった。何故か。それは自然物に対して私たちは「この形で何を表そうとしているのか」とは考えないはずで、「こういう形だから、こうしてあるだけ」とありのまま受け入れるのみである。それと同じ感覚で作品を眺め、愛で、受け入れていたのだと思う。

こうして改めて展覧会を振り返ると、各章のタイトルが実に秀逸だ。「彫刻の宇宙」「かろみの世界」「石の庭」。「宇宙→世界→庭」と、スケールを表す言葉自体は、どんどんと狭くなっている。しかし、作品自体がもたらすスケール感がどんどん広がって行く印象だったので、空間の濃度(密度)が高まっていく印象だった。その密度を高めるためにも空間を表す言葉は少しずつ小さくなっている。つまり、最初の展示室では、1つ1つある程度の具体性をもつ作品群が集まる事で宇宙を構成していたのが、徐々に作品自体のスケールが拡張され、作品自体が”宇宙”となり、それを展示する空間のスケール感を小さくすることで、濃度が高まるということだ。

北海道という広大な面積でモエレ沼公園という「大地の彫刻」を生み出した一方で、濃密度の石の庭を牟礼町に残したイサム・ノグチ。まるで真逆のベクトルに思える2つの場所を、気軽に各地を往来できるようになった暁には訪れてみたい。

2.サウンドツアーについて

本展では作品解説を行う音声ガイドとは別に、「サウンドツアー」が用意されている。バンドグループ「サカナクション」のボーカル・山口一郎氏が手掛けるもので、今回は音声ガイドではなくこの「サウンドツアー」を利用してみた。サウンドツアーの概要は下記の通り。

音楽と一緒に展覧会を楽しむ新体験
山口さんがミュージシャンとして、音楽というこれまでにない視点からイサム・ノグチを紐解く“サウンドツアー「イサム・ノグチと音楽」”。
ノグチが生きた時代、旅した場所、出会った人物、そして耳にしたサウンド…彼の辿った足跡をもとに、山口さんが古今東西の楽曲リストを選び出し、完成した展示空間に合わせて独自に編成。鑑賞者はヘッドホンを装着し、このサウンドを楽しみながら、イサム・ノグチの作品世界を堪能することができます。音声ガイド端末で音楽中心のコンテンツを提供するのは、東京都美術館では初めての試み。ほとんどの人にとって、新しい展覧会の鑑賞体験になるでしょう。            (展覧会HPより抜粋)

結論から言うと、これが私には非常に合わなかった。事前にHPで上記の説明をちゃんと読んでいればよかったのかもしれないが、サカナクションの山口一郎が出てきて「ゆかりのある楽曲の編成」だけで終わる事はないだろうと思っていたのだが、本当にそれだけだった。これで作品解説もなく800円だったので、正直「サカナクションという看板に釣られてしまった…」と非常に後悔した。何がこんなにも腹立たしいか、その理由を悶々と考え、次の2点に至った。

①「ゆかりのある楽曲や同時代の音楽」を聴かせるだけなら別に新しくない
音声ガイドをよく利用する人なら分かるだろうが、解説ナレーションのBGMに作品や作家に縁のある音楽、もしくは同時代の音楽を流すことはよくある。最近では音楽トラックが解説とは別に用意されていることもあるので、はっきり言えば「新体験」と謳う程のことではない。「音楽だけ」というのが新しいのかもしれないが、個人的にはもっとイサム・ノグチの作品の本質を浮かび上がらせるような音楽を追求して、そのサウンドと共に作家の創造の宇宙に没入していくような、そんな体験を期待していた。そのため、選曲のコンセプトが、結局音声ガイド界では常套手段である「聞いていたかもしれない/ゆかりのある曲」というところで終わってしまっているのが、「わざわざ山口一郎を出してきて、やることがそれ?」感が否めない。

②そもそもそのコンセプトが展覧会の主旨とずれているのではないか
ゆかりのある音楽という選曲でもそれが展示と合っていればよかったのだが、とにかく聞いていて音楽と展示が合っていないと強く感じた。最後の展示室「石の庭」エリアの音楽はそれほど強い違和感はなかったのだが、特に最初と2番目の展示室内での音楽は、展示室の空間と音楽に乖離を感じた。サウンドツアー用のリーフレットを見れば、曲自体は作家についてかなり勉強した上で選ばれている事は分かるので、恐らくこうした選曲が間違っていないのだろうと思われるのだが、ではなぜこれほどまでに「合っていない」と思ったのか。
 考えた挙句、イサム・ノグチの作品が無国籍的なのに対し、流れてくる音楽に国籍の属性(楽器やジャンル、あるいは時代性)が強いことだと思い至った。私はイサム・ノグチの作品に対して「無国籍的」、つまり何か特定の場所(美意識)を想起させるようなものではないと思っている。もちろんその作品の制作の根源に日本、アメリカなど数々の文化や思想がある事だろう。しかしそれらをその内に取り込んで醸成していった先、最終的なアウトプットとしての作品は、どこか特定の国(地域)の美意識に根差したものではない。「日本人でもありアメリカ人でもある」彼は、裏を返せば「日本人でもなければ、アメリカ人でもない」ーーそして事実作家はその孤独感を抱くーー。生まれながらにして自分の”属性”が揺らぎ、その中で模索し続けたイサム・ノグチの作品は、本人が意図していたかどうかは分からないが、何か1つの特定の属性を表象するようなもではないと思う。自身の内の中にあり、また世間の中にもある、あらゆる”属性”の枠を越えた存在として、彼の作品はそこに在るのだと思う。だから「無国籍的」なのだ。そのため、それぞれの属性が強い音楽が、目の前にある彫刻群によって生まれる空気と合っていないと感じたのだ。

そして、イサム・ノグチが聞いたであろう曲で構成するというコンセプト自体が、そもそもこの作家の作品に向き合う姿勢として、少なくとも今回の展覧会の主旨とずれているのではないかと思う。本展ではイサム・ノグチの生涯の変遷は展示室内ではほとんど説明がない。あくまでも彼が残した彫刻群の宇宙の中に鑑賞者が身を置き、その作品と自分との対話に集中できるようにしている。作家がこの作品を制作した時にどこにいて、何をしていて…という作家自身の物語は極力意識をさせないようにしている。そうした展覧会において、わざわざ「イサム・ノグチが聞いたであろう音楽」を掘り下げることが「間違っている」とまでは言えないが「ずれている」のではないかと思う。例えばこれが作家の生涯をたどりながら見る展覧会であれば、今回選ばれた音楽を聴きながら作品を観ることは大いに意味があったと思う(それでも800円は高い気がするが…)。

今回の展覧会の主旨に沿えば、山口一郎氏にオリジナルの楽曲を作成してもらえなかっただろうか。個人的にはサカナクションのノスタルジックでもあり近未来的な音楽が非常に合っていると思っている。最初にこのサウンドツアーの情報を知った時も「なぜサカナクション?」とは思わなかった。山口一郎氏が《あかり》シリーズを持っていてイサム・ノグチに造詣が深いというバックボーンを知らなくても「イサム・ノグチとサカナクション(山口一郎)、これは期待できる!!」と思ったものだ。先日放送された『日曜美術館』でもサカナクションの「茶柱」という楽曲が流れていたが、よほどその方が鑑賞者の聴覚、そして全身の感覚細胞を活性化させる効果があったのではないかと思うし、そういう体験を期待していた。それであれば800円も惜しくはないし、他にはない新体験となっただろう。

イサム・ノグチと山口一郎というまたとないコラボレーションという私の期待は大きく裏切られて終わり、展覧会の鑑賞直後はこの「ガッカリ」感に支配された。サウンドツアーではリーフレットがもらえるのだが、その中にイサム・ノグチの略年譜と同時代の音楽の系譜、彼が旅した場所と音楽などが記されている。今回は800円で略年譜を買ったと思って気持ちを鎮めるしかない。






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