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「目 非常にはっきりとわからない」展@千葉市美術館

千葉市美術館で開催されていた「目 非常にはっきりとわからない」展。展示の性質上ネタバレ自粛で、それがかえって話題を呼び、最終日には長蛇の列ができた模様。無事に最終日を迎えたので、ネタバレ大いにありで、心おきなく今回の感想認める。
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展示概要 ※ネタバレあり

 展示は美術館の7階と8階の全フロア。どちらのフロアから見てもOK(その理由はすぐにわかる)で、会場内は全面的に撮影禁止。会場内は足元の白線あるいは黄色と黒の縞模様のテープの範囲内のみから鑑賞できる。そうした諸注意をチケット購入の受付時にスタッフから申し渡され、鑑賞者は見える位置に「AUDIENCE」と書かれた黄色のシールを服に貼る。
 まず7階から鑑賞を始める。はじめすべての展示室の状況を説明しようと思って書き出したが、そこにあまり意味がないと気づき、ずばり結論から言います。7階と8階は全く同じ構造になっており、展示作品(的なもの)から、作業途中の様子を再現した梱包材や木枠、作業台、移動式の足場、そしてその上で一休みする人間(を表したもの)までパラレルになっているのだ。「展示作品(的なもの)」と表現したのは、どこまでが作品かが不明瞭であるため。幾千もの時計の針(しかも動く)が宙づりとなった巨大なインスタレーション、壁にかかる地層や海を彷彿させる円形の作品、展示ケースの中に入れられている黄色とオレンジの作品(展示ケース全体が半透明のシートで覆われているためぼんやりとしか見えない)など、普段私たちが美術館で「作品」として認識するであろうモノがあるが、それはあくまで鑑賞者が「作品」として見ているに過ぎない。
 1つのフロアを見ているときは、「ふーん」と各展示室をざっと眺めていたが、8階に上がり、展示空間全体がパラレルになっていることに気づくと、雑然と置かれていた作業道具も意識的にそこに置かれていることに気づき、”作品”的なるものだけが作品でないとわかる。
 そうしてもう一度7階に戻ると、今度は時計のインスタレーションが完全に白い布で覆われていた!!「何だ?何だ?」と思っていると、二人のスタッフが、作品を入れていたであろうケースを移動させたりしている。こちらに置いていたものをあちらに移動させるだけの意味のない作業であるとわかり(というより解釈し)、これがパフォーマンスで展示の1種であると理解する。ではこの時もう一方のフロアも同じように作業しているのだろうと予測し、さらに8階に戻ると、別の展示室の作業をしていた!

様々なレベルの”見る”

 このようなルートで7階と8階を2回ずつ鑑賞した結果、様々な段階の「見る」を実感することができた。まず最初に7階を歩いた時の”見る”、これを別の言葉で言い換えるなら、「眺める」が近いだろうか。特に何かを意識することなく、目の前の光景ととりあえず肯定するように見る。もちろん「これってこういう事じゃないか」「これが作品?」など解釈しようとしたり、疑問はある程度考える。私も「このどこまでが作品でどこまでが”作業”なのか判然としない」ことが展示の意図だと思っていた。
 次に8階で展示空間が同じ構造になっていることに気づき、先ほどの「見る」は単に「眺めて」ていただけであり、今度こそ「見る」ぞと思う。ここでの”見る”は「(違いを)発見すること」であった。ここでは私は、「いかに普段”見る”ことが曖昧であるか」を浮き彫りにするのが本展の目的だと思い、「さっきのフロアはこんな感じだったっけ?」と一緒に来た友人と言い合う。
 しかし、たまたまミュージアムショップに行くついでにもう一度7階に行くと、宙づりの時計群に布が掛けられている。ここでは抽象的なことではなく具体的事象としての「見る(見える)/見ない(見えない)」ということにぶつかる。どういう意味での「非常にはっきりとわからない」なのかを考えながら、しばらくそこで起こる作業するスタッフ二人の動向を見守る。ここで一緒に来た友人が「なるほど」と言うも、何が「なるほど」なのか私にはわからない。同じ光景を「見ている」はずなのに…
 ではこのタイミングで8階はどうなっているのかと思ってもう一度8階に行くと、7階とは違う場所で可動式の壁の移動をしている。。。その作業を通してみて、1回目の時には気づかなかった可動式の壁がズレていること、その前のオブジェがそこに置かれている経緯が見えてくる。ここでの「見る」は言い換えれば「浮かび上がる」。2回目の「発見すること」のような、こちらから能動的に目を動かして見るのとも違う、じんわりと「浮かび上がる」感覚は、私一人の努力でできることではない。作業するスタッフというパフォーマンスによって、最終形態である「展示状況」のストーリーを知ることで見えてくるのだ。

”見る”という行為のゲシュタルト崩壊

 まず最初の7階と8階を移動している間に、先ほど見ていた光景とどう違うか、「ここにこんなものあったっけ??」という疑いがどんどん出てくるし、目の前に歴然と”モノ”があるし、作業する人たちも彼らが不可解な動きをしている訳でもないのに、全体として「わからない」。だからこそ「見るってどうすればよかったんだっけ??」となってしまった。同じ時間、同じ光景を見ていることはずだけど、果たして隣にいる友人と自分が見ているものが”同じ”なのか疑いたくなる。何をもって「見る」という事ができたと言えるのかわからなくなったので、そういう意味で今回の体験を一言で言い表すなら、「”見る”という行為のゲシュタルト崩壊」だと思った。

我ながら面白かったのは美術館の帰り道。来た時と同じルートを通っているのに、展覧会の余韻(衝撃)で終始パラレルワールドにいるのではないかというフワフワとした違和感があったこと。途中でモノレールが通る光景を見て「あれっ、この辺りってこんな光景だったっけ??」と思ってしまった。そうした違和感を生み出すことも狙いだったのかな…と友人と言い合いながら帰った。
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「分からない」は楽しめることなのか?

 今回の展覧会の感想をネットで見る中で、ちらほらと「(理解できなくて)怒ってる人がいる」というのがあった。不満を言っている人のコメントではなく「会場にそういう人がいた」という報告コメントだが、その件についても少し考えた。私は「現代アート」だから「分からなくていい」「そういうもの」というか「分からないことを楽しんで」というのは違うと思っている。今回のような「お金を払っているのに何もないじゃないか!」などの不満を言う人は「(自分だけの力では見る力がないけど)何とか分からない」って思っている人だと思う。そういう気持ちを持つ人に「これがアートだから」という理由で手がかりすら与えないのは、万人に開かれているように見せかけて、実は排除しているように思う。(たとえるなら、背の高い子と低い子がいるグループでキャッチボールをしてるけど、背の低い子の手の届かない高さでずっとボールが行き交っている感じ。一見全員が参加しているように見せかけている分タチが悪い。)”自分の価値観ないしは快・不快”で判断してよいという理屈がOKなのであれば、その境地がそれこそ、あいちトリエンナーレの「表現の不自由」展の騒動ではないだろうか。

 今回は、何度もリピートできる展覧会だからこそ公式図録の他に500円くらいの少し手軽に読めるパンフレットか、鑑賞のヒントになるフリーペーパーがあっても良かったかなと思った。もしかしたら最初は不満に思った人もそういうツールを使ってみて何かに気づいた時に「面白い!」と思うかもしれない。美術鑑賞において決して「知識」は悪ではないし、美術館側が「そういうもの」で済ましてしまうのは、新しい美術ファンが生まれる機会を自分たちで奪っている気がする。
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最後に…

 少し話がそれたが、私自身これほど「わからない」ことが楽しく感じる体験はなかった。閉幕間際に観に行ったこと、千葉市民でないことが悔しく思うくらい面白かった。もっと早く行って、もう一度来るくらいしたかった。
 自分が認識したことがすべてではないだろうし、もしかしたら会期の前半の光景と自分が見た光景は違うかもしれない。そして同じ時間を過ごした人同士であっても「同じものを見た」と言える自信がなくて、それがまた面白いと思える経験もないと思う。「見る」こと「認識する」こと「感じる」ことの様々な感覚に自覚的になり、隣の人と分かち合えそうでできないもどかしさ、不安も含めて、それが世界の在り様かと思っている。そうやって自分を「分かった」ことにして安心しようとする無意識がまたもどかしい…だから会場を後にする人は誰もが思ってしまうんだ。

「非常にはっきりとわからない…」

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