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【文学と手品(サンプル)】手品死

 手品師の死について考えることがある。
 アーティストや芸人の口からよく「舞台の上で死にたい」という言葉を聞く。「死ぬまで表現者を続けてやる」という決意の表れである。
 調べてみると、実際に舞台上で死んだ事例が無数に見つかった。そのほとんどが心臓発作や心筋梗塞だが、歌唱中に喉の血管が破裂して死んだテノール歌手なんかもいた。
 脱出手品の事故や弾丸受け止め術の失敗によって命を落とした手品師の例も枚挙にいとまがない(最近ではデビッド・ブレインによる弾丸受け止め術のドキュメンタリーが話題になった)。
 かっこいい、と思う。
 表現者の鑑だ。
 たとえショーとしては失敗でも、彼らの勇姿は後世まで語り継がれるだろう。
 ビートたけしが「奇跡体験!アンビリバボー」や「世界丸見え!テレビ特捜部」でコスプレをしている姿を見ると感慨深い気持ちになる。たぶん、ビートたけしのコスプレを楽しみにしている視聴者は少ないだろうし、「いい歳してみっともないな」と嗤う人もいる。本人だってウケるためにやっているのではないはずだ。
 あれは舞台で死ぬための滑走だ。
 コスプレをして冷凍ガスをゲストに吹きかけている最中に死んだら、それこそ芸人にふさわしい最期といえる。
 かっこいい。

✳︎

 ショーの帰り道、サカナクションの流れる車内で、黄色く染まったイチョウの並木道で、人のまばらな駅のホームの「売切」の表示が並んだ自販機の前で、涙が堪えられなくなることがある。上手く会場を沸かせられたときにかぎって、感情を制御できなくなる。死ぬならさっきの舞台だったな、と思う。もう手遅れだ。死ぬべき舞台は終わってしまった。最適な死のタイミングは、いつも終わったあとに発覚する。
 しかしながら、蓬生の手品に危険な演目はなく、舞台上で死ぬのは困難を極める。あっても釣り針を口の中に含む程度のちょっと痛い系手品。誤って飲み込んでも致命傷にはならない。釣り針を喉につまらせて悶え苦しんでいる姿は最高のエンディングから程遠い。それこそ死ぬまで笑われてしまう。
 剃刀やナイフを使った危険術は怖くてできないし、綱渡りで落下して死んだ軽業師や炎を使ったパフォーマンスで全身火傷を負った大道芸人もいたが、痛いのや苦しいのは苦手だ。かといって心臓発作は狙ってできるものではない。ましてやテノール歌手でもない。
 だったら自殺だろうか。
 蓬生の自殺にはどれだけの価値があるだろう、と考えてみる。
 ますます自信がなくなってくる。
 たとえば、こんな名言がある。

 シンプルであることは複雑であることよりも難しい。

by Steve Jobs

「深い」「さすがジョブズだ」「私もシンプルになりたい!」となることだろう。ところが、この(by Steve Jobs)を(by Hosho)に置き換えてみる。いかがだろう。たちまち、「わけわからん」「こいつ誰?」「複雑に骨折させたろか!」となる。
 名言の価値は“何を言うか”ではなく“誰が言うか”に大きく左右される。自殺の価値も“いかにするか”ではなく“誰がするか”が重要といえよう。
 寺山修司先生は『青少年のための自殺学入門』の中でこのように説く。

 何かが足りないために死ぬ―というのは、すべて自殺のライセンスの対象にならない。なぜなら、その〝足りない何か〟を与えることによって、死の必然性がなくなってしまうからである。家庭は幸福で、経済的にも充足しており、天気も晴朗で、小鳥もさえずっている。何一つ不自由がないのに、突然死ぬ気になる―という、事物の充足や価値の代替では避けられない不条理な死、というのが、自殺なのであり、その意味で三島由紀夫は、もっとも見事に自殺を遂げたことになる。自殺はきわめて贅沢なものであり、ブルジョア的なものであるということを知ることから始めない限り、〝何者かに殺される〟のを、自殺ととりちがえているのに変わりはない訳である。

寺山修司『青少年のための自殺学入門』より

 自殺は満たされた者だけに許された最後の娯楽だ。パッとしない人生を華やかに飾るための自殺は、ダサい。ダサいのはいやだ。
 蓬生が自殺するには、やっていないことが多すぎる。
スカイダイビング未体験だし、富士山頂にも登ってないし、ルーブルでモナリザも見たことない。インド人とキスもしてない(※蓬生の〈死ぬまでにやりたいことリスト〉の中になぜかこの項目がある)。
 三島由紀夫だって、あれだけの名声を得ていたからこそ歴史に残る切腹事件になったわけで、蓬生のような弱小手品師が自殺しても〈自殺者カウント1〉に数えられて終了だ。匿名的な死として処理されるのは悔しい。どうせなら世間に一矢報いてから死にたいではないか。
 いや、やっぱりまだ死にたくないよ。先生。

✳︎

 かつて俺には結婚を誓った女性がいた。アイコ(仮)である。
「自分はグレイビーボートをつくっている会社の社長だ」と嘘をつき、彼女と会うたびに薔薇の花束を贈っていた。だが、薔薇の買いすぎで金のなくなった俺は、恥ずかしくて本当のことを言い出せず、「じつは自分はボリビアのスパイで、もうすぐ国に帰らなければいけない」と、さらなる嘘を重ねてアイコと別れたのだった。
 本当の俺はグレイビーボートの社長でもボリビアのスパイでもなく、しがない手品師で、しかも、よく炊飯器のスイッチを入れ忘れるし、脱いだ靴下を廊下に放置するような男である。真実を知ったアイコは俺のことを心から憎む。
 ある夜、俺は企業の立食パーティーで手品のショーをしていた。
 ショーは順調だった。観客からのアンコールを受け、得意とするテッシュの手品をやるために一人の観客をステージに上げる。最前列でショーを見てくれていた大きな帽子の女性だ。彼女は照れているのか、終始顔を伏せたままだった。目深に被った帽子のつばで表情は窺えない。
 手品はクライマックスを迎えた。
 俺は「ありがとうございました!」と観客席に挨拶をし、お手伝いいただいた帽子の女性に視線を向ける。
 彼女の手には拳銃が握られていた。
 響く銃声。
 鳴り止む音楽。
 薄れゆく意識の端に、帽子の下で満足そうに微笑んでいるアイコの顔を見る。
 嗚呼、俺の愛した笑顔だ。
 ゆっくりと地面が近づいてくる。
 どうやら俺は死ぬらしい。
 最高のエンディングじゃないか。
 新聞の一面を飾るに違いない。
 テレビで特集が組まれるかも。
〝手品師、舞台上で撃ち殺される。これも演出?〟
 悪くない見出しだ。
 おい……まってくれ!
 みんな、
 みんな、
 俺を見てくれ。
 ビュッフェに群がってる場合じゃねぇ!


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