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文学と手品(note版)

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まえがきのようなもの

 ふと思うことがある。
 文学と手品にはどれほどの隔たりがあるのだろう?
 今川焼きと大判焼きくらい近い気もするし、お好み焼きの関西風と広島風くらい遠い気もする。わからない。いずれにせよ蓬生はどちらも好きだ。文学も手品も、仲良くしてほしい。だから、書く。ふたつを一緒くたにして美味しそうに語りたい。そんな思いを込めて、一〇の書籍と一〇の手品的考察、あるいは妄想について思いつくかぎり記す。
 きっと「こじつけだ」と思われるだろう。
 「あなたの感想ですよね」と言われたら、たぶんその通りだろう。
 「買って損した」と言われても、蓬生が得をしているから問題はない。
 しかし、ピエール・バイヤール著『読んでいない本について堂々と語る方法』〈未〉には、〝本の意味は時代や解釈によって大きく変容するのであって、真の意味で「本を読む」という行為は存在しないのだ〟といった意味のことが書かれていた。
 すなわち、誤読や誤解を抜きにして文章を読むことは不可能なのである。文章を読んで得られるものが「あなたの感想」だけだったら、世の中にもうひとつくらい「あなたの感想」が混じったところで痛くも痒くもないだろう(痛いのは読者の懐くらいだ)。
 また、ピエール・バイヤールはこうも言っている。〝テクストを正確に読み取ることは不可能だが、何かしらの方向性を持って文章を読むのは大切だ〟と。
 ビジネス書を読むのは「ビジネスに役立つ知見を得たい」という方向性があってのことだろうし、手品のレクチャー本を読むのは〝手品を習得したい〟という方向性があってのことだろう。〝方向性〟を持たない読書は、掃除機の使い方を知るために冷蔵庫の説明書を読むのと大差ないのだ。
 そんな能書きはなくとも、きっとみなさんは何かしらの方向性を持って拙著を読み解こうとしているだろう。
 だから、最初に断言しておく。
  『文学と手品』を読んでも手品は上手くならないし、文学への理解は深まらない。
 まあだからといって、まるで価値がないかといえば、そうでもない(そうでもない、と思い込みたい。蓬生にだって心はあるのだ。何時間もかけて書き上げた文章に価値がないと思いたくないから五〇〇円で販売している)。
 手品の世界には「魔法は観客の頭の中で起きる」という言葉がある。手品を手品たらしめているのは、観客の脳内で起きる思い込みや勘違いなのだ。隠し持っていたものを取り出すだけでも、観客が魔法性を見出せば手品として成功なのである。
 つまり何が言いたいかといえば、〝拙著に意味を持たせるのはみなさんの思い込みにほかならない〟ということだ。「五〇〇円分の元を取ってやろう」と目を皿にして意味を見出すか、「時間の無駄だった!」と地面に叩きつけるかは、あなたの思い込みにかかっている(投げつけるなら印刷してからがおすすめ)。

 それでは『文学と手品』をお楽しみください。

阿修羅の如く

 優れた小説にとって一番大切なものはなんだろうか。
 感動的な結末、魅力的な登場人物、流麗な文体、あっと驚くどんでん返し、気の利いたあとがき(世の中にはあとがきから本を読む人種も少なからずいる)など、様々な要因が思い浮かぶ。
 好みの問題もある。
 人がバッタバッタと死ぬミステリが好きな人もいれば、情熱的なラブロマンスの末に事故や病気で男か女あるいはその両方が死ぬ恋愛小説が好きな人もいるし、冴えない人生を送った孤独な人間が世を憂いながら死んでいく文学作品が好きな人もいる。「作者が死んでいないと読む気にもならない」という謎のこだわりを持つドクショカもいる。
 好みもこだわりも人それぞれなので、一番を決めるのは難しい。マスクメロンとボウリングのボールを比べるのに似ている。どちらも同じ球体なのに決着はつかないだろう。
 しかし、優れた小説に二番目に大切なものだったら蓬生の中で決着がついている。
 書き出しである。
 優れた作品は優れた書き出しで始まることが多い。

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