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【紹介】アゴタ・クリストフ著『悪童日記』【強かな双子に惚れる】

 知る人ぞ知る? と言っていいのでしょうか、本読みの間では人気の高い作品『悪童日記』の紹介です。

あらすじとか

 戦時中、双子の少年たちがおばあちゃんの家に預けられます。そこで双子が目にしたこと耳にしたことが六十数編の短い日記のような形で語られます。戦争中というだけでもすでに悲しいのに、双子の預けられたおばあちゃんが強烈です。〈おばあちゃん〉という章の三行を読むだけでよくわかります。

 ぼくらはおばあちゃんを、おばあちゃんと呼ぶ。
 人びとはおばあちゃんを、〈魔女〉と呼ぶ。
 おばあちゃんはぼくらを、『牝犬の子』と呼ぶ。

 梨木 香歩さんの『西の魔女が死んだ』に出てくる優しい魔女ではありません。風呂に入らない、着替えないし、不潔、双子に送られてきたものをぶんどるetc……さらには夫を毒殺したと周囲から噂されています(おまけにおばあちゃんの口癖は「悪魔に攫われてしまえ!」です)。

 この物語の見所は、戦争が激化する時代で、そんな強烈なババアの元に預けられながらも、幼い双子が強かに世界に反抗してくところなのです。

ああだこうだ説明するよりも

 印象的だったのは〈精神を鍛える〉の章です。
 魔女と呼ばれる婆さんの家に預けられた双子、当然のように町の人々に虐げられます。罵詈雑言を浴びせられると、どうしても気持ちが落ち込んでしまいます。これを克服するために双子はどうしたと思います?

 なんと、一日30分ずつ、お互いにむごい言葉を浴びせ合う練習をして克服するのです。斬新!

 この章はコレだけでは終わらなくて、罵詈雑言に慣れたのはいいですが、今度は以前、母親が彼らに言った「私の愛おしい子!」「私の天使!」などの温かい言葉を思い出すと胸が痛むようになってきます。この痛みを乗り越えるために、彼らはまた別の練習をします。お察しの通り、お互いに温かい言葉を掛け合うのです。

 そしてこの章は、〈いく度も繰り返されて、言葉は少しずつ意味を失い、言葉のもたらす痛みも和らぐ。〉としめられます。胸にくるものがありますね。

 これらの苦痛を克服する行為を彼らは【練習】と呼びます。他にも殺すことに慣れる練習や乞食の気持ちを理解する練習など、様々な【練習】を行っています。それが無数に収録されています。
 一つの章につき一つの教訓や一つの真実を突きつけられて、驚いたり胸を痛めたりするのです。

タイトルを直訳すると『大きなノート』

〈ぼくらの学習〉の章では、二人で学習し合っている姿が描かれています。ここの章では、お互いに作文の課題を出し合い、それをあとで採点しあいます。そこには極めて単純なルールがあります。作文の内容は真実でなければならないというルールです。例えば、「おばあちゃん」について作文をしたとすると、「おばあちゃんは魔女と呼ばれている」は真実ですが、「おばあちゃんは魔女に似ている」はNGです。なぜなら、「似ている」は個人の主観が含まれているからです。そのように、すべて自分たちで見聞きした真実を綴ったのがこの『悪童日記』なのです。

 本書のあらゆるところに垣間見える戦争の描写——空襲警報、兵士による暴動、収容所に連行される人々の姿——そう言ったものの凄惨さを強調して描くことはなく、ただ真実のひとつとして客観的に記してることが特徴の一つです。

 また、故意に固有名詞をなくしていて、住んでいる街も大きな町、小さな町と表記されています。「昔々あるところ」と同じ感じですね。物語に御伽話性が加わって、国や時代を超えて、感情移入しやすくなっています。

 その上で、死、労働、貧富、飢餓といったネガティブなテーマが扱われていますが、後ろ暗い印象より、むしろ爽快感さえ感じました。この小説、何かに似てるなと思ったら、前に紹介しましたカミュの『異邦人』です(こちらにまとめてあります)。

 感情を混ぜてしまうと物悲しいお話になって、無数にある戦争の記録に埋もれてしまうのですが、あくまでも客観的に描いたことにより、世界中で読まれる名作になって、私たちの手に届いているわけです。
 この表現方法は、ルポルタージュのような強さを持っています。これを善悪の判断すらおぼつかない少年の口から語らせることで、戦争の残酷さを白日の元に晒す効果があります。

主人公が双子

 もうひとつの特徴としてまして、一人称が「ぼくら」という点が挙げれれます。
 双子は学校に通っていたとき、常に二人で行動し、クラスを分けられると眩暈で倒れてしまったくらいです。彼らは二人で一つという、特殊な世界で生きていました。
 この双子は、強かで、合理主義者なんですが、感情がないわけではなく、歪な現実に押しつぶされないように、あらゆる物事に屈しないように生きているといった感じです。背中合わせに立ち、お互いを守り合っているかの印象をうけました。

 著者に関して

 著者アゴタ・クリストフは1956年、ハンガリーの動乱の折に亡命、オーストリアに逃げ、スイスに移り住んでいます。亡命作家による戦時中の話なので、なるほど説得力を持つわけです。

 出版の経緯が面白くてスイスでフランス語を学び、書き上げた作品をパリの三大出版社に郵便で送りつけたそうです。そのうちの一社が彼女の作品に目をつけ、出版に至ったとのこと。出版後、これといったPRもせずに、口コミだけでバカ売れ。翻訳版も、日本に何のつてもなかった著者が早川書房に郵送し、出版に漕ぎ着けたそうです。それだけ一発で分かるほどの名作ということですね。

続編

 本作、じつは三部作なんですね。もともと三部作構成になる予定はなかったらしかったのですが、そこに続きを描ける余白を作っていたと著者は語っています。続編には、この双子のその後が描かれています。
 ただ、『ふたりの証拠』からは、もう全然スタイルが違います。『悪童日記』がショートショートの詰め合わせだったのに対し、ここからは一編の長い物語であり、かつミステリのような、フーダニット的要素を孕んできてきますので、『悪童日記』をイメージして手に取ると出鼻を挫かれるかもしれません(もちろん面白いですが)。
 この続編に、著者が砲塔に描きたかった過去が詰まっている印象です。『悪童日記』の双子のその後が「気になったら読む」くらいの感覚でいいと思います。

 さらに、掌篇集『どちらでもいい』では、『悪童日記の』シリーズの習作が収録されています。たとえば、『二人の証拠』に登場する少年マティアスが現れたり、『第三の嘘』の夢に出てくるピューマが描かれていたり。
 物語というより詩に近く、『斧』や『先生方』といった作品はバリー・ユアグロー『一人の男が飛行機から飛び降りる』に似た印象を抱きました。一種の悪夢です。これはこれで面白かったので、気になったら、ぜひ!


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