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わさび栽培法の確立が握りずし誕生を可能にした

なぜ、わさびの名産地といえば静岡なのか?

 わさびの産地といえば静岡。お土産売場では、様々なわさび関連商品が売り出されている。しかしなぜだろうと、疑問に思ったことはないだろうか。

 静岡市から安倍川沿いに車で北へ約30キロ、支流沿いに道を分かれて溯ったところが静岡市葵区有東木(うとうぎ)地区で、わさび栽培発祥の地という石碑が立っている。慶長年間に自生していたわさびを村人が湧水地に植えたところ繁殖し、栽培方法が確立されていったという。

 慶長12年(1607年)に駿府城に入った徳川家康に献上したところたいそう気に入り栽培法を門外不出とさだめ、また徳川家の家紋が葵であったことから、ことさら珍重されたと伝えられている。

 

 門外不出だったはずの有東木地区の栽培法が伊豆半島に移植されたのは、延享元年(1744年)に天城山守の板垣勘四郎(1686年~1761年)が三島代官斎藤喜六郎の命により椎茸栽培の師として赴き栽培方法を持ち帰ったとされるが、有東木の村人から贈られた苗を弁当箱に隠して持ち帰ったとする説(「上野村誌」)と、もともとわさびは天城山中に自生しており有東木で見た栽培方法をもとに湯ヶ島村で試作したとする説(「豆州誌稿」)があるようだ。前者のほうがストーリーとしては面白いのだが、後者優勢のようである。

 伊豆半島への栽培方法の移植がなぜ重要かといえば、伊豆半島にはわさびの栽培に欠かせない豊かな湧水がふんだんにあり各村へと栽培方法が広がっていったことで有東木より大量の生産が可能になったこと、大消費地である江戸への交通の便がよく換金性の高い農作物として出荷量が増えていったことの2点にある。

目新しい食材が握りずしブームの起爆剤に

 伊豆でのわさび栽培のひろがりについては『人づくり風土記(22) ふるさとの人と知恵 静岡』(農山漁村文化協会)がわかりやすく解説してくれている。押えておきたいポイントは、

・わさび栽培に熱心に取り組んだ背景には、湯ヶ島村の生計の柱だった椎茸栽培に必要なシデの木が不足して遠方まで出稼ぎに行かざるを得ない状況があったこと。
・栽培が軌道に乗るには時間がかかっており、もっとも古い記録は寛政4年(1792年)であること。
・文化4年(1807年)には湯ヶ島村のわさび冥加永(雑税)が従来の2倍の500文に引き上がられるほどの急成長だったこと。
・湯ヶ島村では天保年間(1830年から1844年)に600両から700両の収入があり、天保の飢饉でもあまり困らないほど豊かだったこと。
・文献上の記録はないが、天城山内で生産されたわさびは伊東へ運び、船で江戸に運ばれたと言い伝えられていること。当時は活鯛を伊東から船に乗せて江戸へ運ぶなど海上高速輸送網が整備されていたこと。

 つまり、握りずしの考案者である華屋与兵衛が両国に店を構えた文政7年(1824年)には、わさびの栽培が軌道に乗り、江戸への出荷が増えていった時期だと考えて良いのではないだろうか。華屋与兵衛は寛政11年(1799年)に生まれ、転職を繰り返したあげくに握りずしを考案し、岡持に入れて売り歩いたり、屋台を引いたりしながら、文政7年(1824年)、25歳の年に両国へ店を構えた。大坂風の押し寿司に飽き足らず新しいすしの形を模索していた時期は、わさびが目新しい食材として江戸の町に急速に浸透していく時期であったのだ。

 華屋与兵衛は、越前福井藩・松平家 の中屋敷 に出入りしていた八百屋 の息子だったという。であればなおさらのこと、わさびへの感度が高かった可能性がある。

 平成の始めに目新しい食感がブームを巻き起こしたタピオカが令和の始めに第2次ブームとなりタピオカドリンクの店に長蛇の列が出来ていることを思えば、カラムーチョの発売(1984年)に代表される激辛ブームが今またSNSで「マー活」などと盛り上がり第4次ブームを生み出していることを思えば、江戸の30年は決して目新しさを失うほど長すぎる期間ではない。

 そうした食材をうまく使ったからこそ握りずしは新規なアイデアのファーストフードとして人気を博し、ますます江戸でのわさびの消費が伸びていった考えて良いのではないだろうか。

伊豆のわさびは伊東の港から船で江戸に直送

 当時の輸送方法については、『中伊豆町山葵組合百年史』(平成3年 /1991年)が詳しく書いているので、確認しておこう。

 江戸時代から明治にかけて、山葵は伊豆半島沿岸の海港から、船によって江戸へ運ばれていたと言い伝えられている。馬で下田まで行き、そこから船に乗せたということも聞くが、伊東からという話のほうが多い。当時下田港や伊東港などからは石船が、土肥湊などからは木炭船が出ていたが、船脚の遅いこれらの船に山葵を積んだことは考えにくい。近海産の鮮魚を日本橋魚河岸へ運んだ「押送船(オシオクリブネ)」(帆ノ力ヲ仮ラズ、数十人、櫓ニテ波ヲ押シ切リテ海ヲ渡ル舟。ー大言海ー)に、野菜や、木炭なども一緒に運んだとされているので、おそらく山葵もこの舟に便乗させてもらっていたのではなかろうか。

華屋与兵衛は伊豆のわさびを使わなかった?

 では、華屋与兵衛の店でも伊豆産のわさびを使っていたかというと、違うらしい。『静岡市産業百年物語』(静岡商工会議所/昭和43年 1968年)は、こう書いている。

 駿府の山葵屋は、この「与兵衛ずし」を訪ねて、質の良い安倍奥産の山葵の売り込みに成功した。その後、山葵とわさび漬は、清水の港から船便で江戸に送られたこともあった。

 有東木地区を含む安倍川上流域のことを今でも「安倍奥」と呼んでいる。つまり華屋与兵衞は、新興の生産地である伊豆よりも、伝統ある有東木一帯のわさびを採用したということだろう。

 ただし、この話を裏付ける資料はまだ探せないでいる。この資料、わさびの項には

資料提供並びにご協力頂いた方 静岡県山葵工業組合 松本寅治氏。

 とあるだけで、原典や傍証の確認が取りづらいのだが、ある種のオーラルヒストリーと考えれば、なかなか魅力的な独自説が散見されるのである。

 先の文章に続けて、こうに書いている。

 この様に述べると、この時代にはもう相当大規模に、山葵、わさび漬の事業が行われた様に錯覚を起すかも知れないが、この頃は未だ一年のうち六ケ月位しか出荷も出来ないので、他の商売を主とした副業的存在であったのである。

 歴史の真相は単純ではないという意味では面白いが、困ったなあ(笑)。私としては、すしのブームとわさびの生産が素直にリンクしてくれたほうが説明が簡単なのだが、伊豆の農家もわさび作りの仕事しかしていなかったわけではないだろうし、わさび漬けも含めた静岡全体のこととなると、そういう見方もできるのかも知れない。

 農家における重要度というこの問題は現時点でこれ以上深掘りする手がかりがないから一旦脇の置くとして、江戸時代に一年中すしを食べられていたかという論点は気に掛かる点だ。

 この話は大変興味深いのだが、すしの明治、大正史へと入って長くなりそうなので一旦脇において、本稿のまとめとしては、伊豆におけるわさびの人工栽培技術の確立が、華屋与兵衞が握りずしを発明する背景にあったことを確認いただきたい。

蕎麦とわさびの関係は?

 ここまでわさびと握りずしの密接な関係をさんざん書いて来たが、「江戸のもうひとつのファーストフード、蕎麦はどうした?」という声も聞こえてきそうなので、ここで簡単に触れておきたい。

 ひとことで言えば、蕎麦はわさびの普及に積極的な役割を果たしていない。

 そばのウンチクに詳しい方は多いのでネット上にも様々な情報があるが、人気コミック『そばもん』6巻(山本おさむ/ビッグコミックス 小学館)をお読みいただくのが一番手っ取り早い。

 人気演歌歌手が福井へ巡業に行き、大根おろしで食べさせる越前おろし蕎麦を江戸の蕎麦と比べて下に見てこき下ろすという展開で、主人公のそば職人矢代稜が過ちを正すために、日新舎友蕎子が寛延4年(1751)に著した『蕎麦大全』などを紹介しながら、江戸時代に蕎麦には大根の絞り汁が一番でわさびは代用品であったことや、出汁はカツオ節を使わない「精進汁」とカツオ節を使う「なまぐさ汁」があり(この生臭さを消すためにわさびを入れたという説がある)「精進汁」の方が人気だったことなどを手際よく説明していく。

 さらにP42の

そして決定的なのは、一九七〇年代に病気に強く辛みの少ない「青首大根」が登場した事だ。それが形もよく、箱詰めしやすいというので農家・流通業者に歓迎され、様々な辛味大根は駆逐されてしまったんだ。

 という説明は興味深い。

 また、東京都麺類協同組合・東京都麺類生活衛生同業組合のサイトはわさびの普及を戦後のものとしており、蕎麦の薬味の御三家にわさびを加えていない。

薬味とはもともと、毒消しの”薬”と、風味や食欲を増すうまみの”味”の2つの意味。
そばの薬味の御三家といえば、「刻みネギ」「七味唐辛子」、そして江戸時代には大根のおろし汁でそばを食べていたことから「大根おろし」とされています。
冷たいそばには「わさび」も欠かせない薬味とされていますが、高価だったため、戦後に粉わさびが普及するまで一般にはあまり使われなかったようです。

 粉わさびの普及を戦後としているのは遅いようにも思うのだが、これは前出の青首大根の話と重ね合わせると、蕎麦屋で扱う習慣が広がったという意味で普及と言っているのかも知れない。

蕎麦職人から見たわさびとは

 札幌の手打ちそば喜心庵のサイトは「そばとわさび」という項目を設けている。そこには、蕎麦屋でつかうわさびに、粉わさび、ラミネート詰めわさび(冷凍わさび)、本わさびの3種類があるとして、粉わさびが「手軽さと値段の安さで、最もよく使われています」と説明。やはり、すしとはわさびの重要度が違うように思う。

 興味深いのは次のくだりだ。蕎麦のプロからのこうした評価を含めた話題が表に出ることはあまりないのではないだろうか。

ラミネート詰めわさび(冷凍わさび)
 このタイプは、ほぼ業務用だけです。スーパーなどには置いていないので、見たことのないかたも多いのではないでしょうか。西洋ワサビをすりおろして着色剤で緑色に着色したり質感や味を整える添加物を添加したりして、ラミネートのパックやチューブに詰めたものです。
 業務用食品店などでは冷凍して売っています。高級品は本ワサビが入ったものもあります。
 本物のワサビに比べると少し緑色が鮮やかすぎる感じはしますが、見た目は本ワサビにそっくりです。本ワサビを使っているかのような高級感があるので、高級指向のお店ではよくつかわれています。

 最近はわさびと鮫皮のわさびおろしを出す蕎麦屋もあるが、おろしたては味にカドがあって勧めないというそば店のサイトもみかけた。

 さて、このように江戸時代までの整理が終わったところで、次回は明治以降に目を移して、与兵衞ずしと松が鮨のその後を追いつつ、握りずしの人気が江戸から徐々に全国へと広がって行く様子を追いかけてみたい。

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