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【創作BL小説】メンタル弱い殺人犯の男をサイコ人質の少年が弄ぶ話

殺人などの犯罪描写があります。


「ねぇお兄さん。明後日、ヤレるよ?」

 慣れた様子で玄関口をくぐったなぎは、口端を吊り上げて歪な笑みを浮かべた。

 そいつが見せつけた、スマートフォンの画面を見る。映っていたのは、壁に貼られた粗末な紙。「19〜21日、旅行につきおやすみします」。近所にある、自宅で食堂を開いている店の休業を知らせた張り紙だった。

「……やるって、何を」

 当然分かっているが、その答えを疑いたかった。聞いておきながら、俺はその回答を聞きたくなかった。

「え、本気で言ってる? 入んだよ、盗みに」

 俺の顔に飄々とした表情を近づけ、人質は愉快そうに笑った。

 ◇

 本当は金さえ手に入ればよかった。完全なる初犯だ。万引きもしたことがなければ、未成年の時に煙草を吸ったことだってない。とにかくまともでいたかった。それでも仕方なかったんだ。
 どこで働こうと、俺を受け入れる場所などなかった。変わっている、劣っている、人と同じことができない、新人以下。何度そんな言葉を聞いただろう。
 社員、同期、後輩までもが俺を苛むための標的にした。だから逃げ出した。
 それでも無情に金だけは減っていく。だから、あの家を襲った。留守のはずだったのに、そうじゃなかった。

 殺す気なんかなかったのに、背を向けた途端あの女が俺の包丁を奪おうとした。逃げるつもりだったのに、刃の先があいつの腹を貫いた。
 窓から出て行こうとした途端、玄関から足音が聞こえた。見られたかもしれない、そう思った。影の正体は小さい、子どもだ。これ以上は殺せない。どうする? 逃げるか、だがそもそもいつからいたかわからない。もし顔を見られていたら。隠れて現場を撮影されていたら。

 連れて行くしかない。

 うちは近所付き合いなんかろくにないアパートだ。見つかりはしない。万が一見つかっても、これ以上殺すよりかは罪もマシなはずだ。そう思った。
 リビングの入り口で死体に目を落とす、その背に近づいた。小さな体に掴み掛かり、震える包丁で首筋に触れる。それが過ちの始まりだった。

 ◇

「ねね、天気予報見た? 明日、雪降んだって」

 俺はその選択肢をとったことを、すぐに後悔することとなる。「凪」と名乗った人質は、まるで恐怖の感情などないように飄々と俺の部屋に居座り始めた。奴は友人でも揶揄うように、俺を小突くこともある。そしてなんとも馬鹿馬鹿しいことに、凪は俺に懐いているような素振りすら見せた。

「お前、母親に虐待されてたんだろ。それで俺のこと、救ってくれただとか思ってんだろ」

 靴から踵を外す凪の世間話を無視し、そいつに詰め寄る。この見解には自信があった。図星をつくことで、なんとかこいつへの優位性を保ちたかった。だが次の解答で俺は、そんな思いすら木端微塵に崩されることとなった。

「はぁ? あのさ、お兄さんに母さんのなにがわかるわけ? 俺、母さんっ子だよ結構。一人で超頑張って育ててくれたし、俺がなに言っても、どんな格好しても、なんも言わなかったんだから。ヒトの母親のこと悪く言うなし」

 その返しは、どんな回答よりも気味が悪かった。

「……じゃあ、じゃあなんでお前は俺に懐いてんだよ。お前は、俺が憎くてしょうがないはずだろ」
「なんでって、お兄さんみたいな人、俺好きだからね。そりゃ、あれについてはもちろん怒ってるよ。でも終わったことだし、そんなの言ったってしょうがないじゃん」

 ふざけているわけではない。こいつは、自身の母親への侮辱を本気で怒っている。なのに、人間とは思えないほど冷静に“割り切って”いた。

 母親を殺したこと。俺の何かがこいつの琴線に触れたこと。それぞれが別々の事柄として処理されている。その結果、愛する母親を殺されたこいつは平然と笑みを湛えている。こいつの思考が何一つとして理解できない。

 奴は依然、へらへらと笑う。身も小さく力もありはしない小動物のようなそいつが、俺を嘲笑っている。
 小さな子どもを捕まえたはずだった。手のひらの上に乗せて、支配したつもりでいた。
 捕らえられたのは、俺の方なのかもしれない。

 サイレンの音に怯え、部屋の明かりさえろくに点ける気にはなれなかった俺は、以前にも増して外での労働意欲を失っていた。だが「もうお金ないじゃん」などと能天気に宣うそいつの言葉もまた、無視したくてもできなかった。
 八方塞がりの状況から逃げ出そうと、窓の淵に足をかけたこともある。きっとここから落ちれば、“次”はまともになれるはずだ。そう思った。そんな俺の姿さえ、あいつはなんでもない顔でせせら笑った。
「できるの?」
 奴の放った四文字が、俺のむき出しにされた臆病さを握りしめる。あいつの読み通り、俺は結局飛ぶことなどできなかった。

「働けないなら、しょうがないよね。ほら、一緒にやってあげるから」
 そう言って凪は、俺に空き巣や窃盗を提案した。はみ出しものになることを拒む俺を嘲笑するように、そいつははみ出した世界へと俺を引き摺り込んでいく。

 凪はまるで常習犯のように、あらゆる犯罪をやってのけた。特別器用かと言えばそうではなかったが、ただただ躊躇がなかった。

「お前、盗みとかやってたのか?」
「うーん……やったことない、と思う。別に、お金に困ってなかったし」
「……人とか殺したこと、あるだろ」
「あぁ、それもないね。俺、あんまり人にムカつかないから」

 レジではありがとうを言い、物を落とした人間には駆け寄って届ける。だが必要とあれば、そのスーパーから、すれ違った人間から、当たり前のように物を盗む。
 凪はただ、割り切ることに長けていた。

 奴の奇怪さに翻弄される日々が続いたが、それもある日を境に区切りがつくこととなった。
 人間は危機的状況に至った際、一種の防衛本能としてその状況を受け入れるために偽のポジティブ反応を示すことがある。そんな情報が、偶然目に入った。
 つまりこいつが奇怪な思考を得た原因は、俺にあるということだ。
 俺を受け入れたのは、きっとその一時的な異常のせいだ。母の死や誘拐によって回路がショートし、感情にバグが起きている。そうわかった途端に奴への恐怖は薄れ、代わりとして共感の同情心さえ湧いた。

 そうか。こいつは、早くまともに戻りたいのだ。

 俺はずっと、まともになりたかった。普遍的な思考が持てない、人と仲良くできない。「変わっている」「おかしいんじゃないか」という言葉が何より嫌いだ。好奇の目で見る奴らが死ぬほど憎かった。
 俺はこの子どもを、俺と同じ苦しみの中に引き込んだのだ。

 それでも償いなどする勇気はなく、胸の引っ掛かりから目を逸らしたまま、凪の隣で眠りについた。

 朝、隣に空っぽの布団が残っていた。

 逃げられた。その推察が、寝惚けた俺の頭を叩き起こした。

 今までは押し入れの中で寝かせて、俺がその入り口で眠ることで奴を捕らえていた。だがカビの匂いが気になるなどと言うものだから、昨夜は隣に寝かせた。あいつは俺に心を許している。どうせ、逃げる気などないのだろう。そうたかを括っていた。
 何を考えてるんだ、俺は。全部、あいつの思う壺じゃねぇか。

 その瞬間、部屋の外から奴の笑う声が聞こえた。窓辺に駆け寄る。間接のない人形のように覚束ない足取りで、視界が揺れる。
 覗いたその下、電信柱の脇で、凪が知らない同年代の少年と言葉を交わしていた。

「……ほんとお兄さんは、心配性だねぇ」
 部屋の中に戻った凪は、そう言ってにやにやと笑う。

 気晴らしに外の空気を吸いに行ったら、野良猫を撫でている少年がいた。近づいて一緒に撫で、適当な話を振ったら、意外と会話の続く子だった。ちなみに、お兄さんのことは話してないから安心していいよ。

 そんな内容を、暖房器具の前で凪は淡々と語った。

「そらくん……あの子ね、俺が何言っても嫌な顔せず、けらけら笑うんだ。結構面白いよね。こんなに会話ができたの、初めてだなぁ」

 暖房の網目に手のひらを向け、細い指先をかざす。しばらくして、手の甲にひっくり返した。

「遠くに行っちゃうと思って心配した? じゃあ、これからもさっきのとこで話すよ。そしたらいつでも覗けるし、逃がす心配もないでしょ」

 揶揄うように白い歯を見せ、そいつは笑った。

 それからも凪は、同じ少年と談笑をしていた。会話の内容は、耳を澄ますといつでも聞こえる。言った通り、奴は俺のことを一切話さず、終始その子どもに話題の主導権を握らせていた。ドラマの話、猫の話、少年の部活動の話。どれも他愛もない話題だ。
 凪は三言に一回ほどのペースで、微妙にずれた発言や異様な発言、不相応な発言をする。他人事にも関わらずそれを聞くたびに肝が冷えるが、子どもはむしろそんなところに愉快さを感じているようで、凪の発言ひとつひとつをにこやかに受け取っていた。
 子どもが学校に行くまでの数分程度言葉を交わし、それから帰ってくる。それが奴のルーティーンになっていた。

 ◇

 今朝も、外から漏れる凪の軽快な笑い声で目が覚めた。窓の外には、雨よりもゆっくりと落ちていく白い円の群れ。昨日聞いた通り、雪が降っていた。

 横たわったままぼんやり窓を見ていると、純白のうちのひとかけらが、わざわざ窓の内に入り込んだ。それからこちらと外を隔てる枠の内側に降りて、音もなく沈む。
 ほかの粒と同じように地面へと落ちていれば、白い景色を彩る雪の一部になれたのに。ほかの雪と同じように、ただ当たり前にある生涯を終えられたのに。

 愚かなそのかけらは、窓の淵に溜まった汚れを吸い込んで黒く染まる。地に降り積もる雪のような純白を残すこともできず、あえなく惨めな水滴となって消えた。

 重い体を起こして、窓の淵に歩みを進める。白い息を吐いて笑う、凪の姿が視界に映る。
 少年と話す凪は、正真正銘ただの子どもだ。罪など知らない、ほかと何ら変わりないただの人間。

 俺は、こいつから「まとも」を奪ってしまったのか。こいつに本来与えられるはずの人生を、一生ないものにしようとしているのか。

 ずっと忘れたふりをしていた胸の棘が、再び強く抉り始める。痛みに呼応するように、半端に開いていた手を思わず握り締めた。

 明日、自首しよう。

 あいつが共犯だと疑われるようなことがあれば、無理やり脅してやらせたと言えばいい。
 きっと今ならやり直せる。まだ間に合う。
 あの子どもは、凪になんの軽蔑も向けていない。その子なら、お前のすべてを受け入れてくれるんじゃないのか。
 きっと俺がいなくなれば、あの子どもが凪をまともな世界に引き込んでくれるだろう。

 明日、凪が昨日写真を撮ってきた食堂に入る。警察を呼んで。
 もし今俺が警察を呼んでも、今のあいつは俺を庇うかもしれない。あいつが俺のしてきたことを言わなければ、俺は逃げ切れてしまう。そんなことあってはならない。

 だから明日、俺は現行犯として捕まる。現行犯なら、どんなにあいつが俺を庇おうと逃げられはしない。これでいい。これで俺もお前も、全部終わりにできる。
 明日でお前は、俺とさよならだ。

 ◇

 耳鳴りのような音だけが響く住宅の裏口に、一歩を踏み入れる。冷えたフローリングの上に、ぎし、と足を乗せた。
 招かれて友人宅にでも入るように、凪があっけらかんと後をついてくる。廊下を通り、部屋の入り口をくぐり、目星い棚を開いた。

 手袋の平で煩雑な引き出しの中をかき分ける。息の詰まる時間を過ごしていた頃、ゴッ、と後ろで鈍い音がした。背筋を走った嫌な予感に、一瞬で身の毛がよだつ。
 振り返ると、灰皿を持った凪の前に人間が一人倒れていた。
 凪と言葉を交わしていた、あの子どもだった。



「そらくんさ、受験生なんだって。だからおうちでお留守番して、ひとりで勉強してたって。偉すぎだよね」

 凪がしゃがみこみ、縛り上げた子どもの頭を撫でる。ガムテープ越しに、しゃくりあげる震えた声が漏れた。それを見て、凪の笑みがより強く深まる。反応を楽しむように、握った包丁の平で子どもの頬を叩いた。

「……なぁ、なんでだよ。お前、そいつと仲良くしてただろ。なのに、なんでそいつの家を選んだ。そいつから情報得るために、友達のふりして騙してたのか?」
 なんでこんなことになった? そいつならお前を、元の世界へ連れてってくれたのに。

「いや、マジでそらくん家って知らなかった。本当に偶然。ヤクザじゃないんだからさ、そんな計画的犯行とかやんないよ」
 不味い飯に文句を言うように、口を尖らせて凪がぼやく。

「そりゃさ、そらくんと話すのは楽しかったよ。他人? ってくらい趣味とか合うし。でもしょうがないじゃん、やることにしちゃったんだから。どうしようもないよ」

「どうしようもないなんて言うな。なぁ、もうやめよう。今日のも全部、俺がやったことにする。だから早く離れろ。まだお前は戻れる、だから……」
「そういうの、もういいよ」
 凪は喜びでも怒りでもない表情でそう返し、そのまま子どもの方に向き直った。その顔は、呆れや哀れみに似ている気がした。

「……ねぇそらくん、ごめんね? 俺もあんまりそらのことやりたくないけどさあ、でもしょうがないよね。見られちゃったから」

 それは嫌味などではない。こいつは本当に、この子どもを「やりたくない」のだ。本心で同情し、本心で別れを惜しみ、その上で何の躊躇もなく殺そうとしている。

 こいつが理解できない。こいつが怖い。
 全部、全部俺のせいなのか。

 あのときお前を連れ去ったから、お前はまともになれなかった。本当ならまともに遊んで、まともに働いて、まともな奴とつるんで、まともに生きていけた。
 今ならまだやり直せるはずだった。あの笑顔を見たとき、そう思った。でも、それさえ狂わされたこいつの一部でしかなかった。

 お前はもう、戻れないのか? 

「……凪」
 笑顔がこちらを見る。まだ若いその手に、包丁を握ったまま。

「ごめんな」

 振り返ったその体に近づいて手を回し、背中を包丁で貫いた。

 肉に食い込む生々しい感触がして、握りしめた手に生暖かい液が伝ってくる。

「ごめん、ごめんな。痛いよな、ずっと痛かったよな。俺なんかに出会わなきゃ、お前は幸せになれたのに」

 お前はもう元には戻れない。俺が戻れなくした。だから、俺がこうしなきゃいけない。輪廻転生なんて本当にあるのか知らないが、今はただあって欲しいと思う。それで、来世は絶対別々になろう。

 抱いた体がぐったりと沈む。その表情は見えない。力尽きたのだと感じた途端、凪が狂ったような笑い声を上げた。

「アハハ、この世界ってほんと最悪!」

 その声に、身が慄くのを感じた。狂気と諦観に満ちたその笑いが、耳元で叫んでいる。故障したおもちゃのような声。未だ突き刺したままでいる包丁の柄が、馬鹿みたいに震えている。
 抱いた体が冷えていく。俺がこいつを壊した。壊して誤作動しかしなくなったおもちゃを、俺が最後にばらした。

 凪の身が、腕の中で不意に揺れる。その顔が俺の耳元に近づき、か細くもはっきりと最期の言葉を漏らした。

「  」

 それが耳に流れ込んだ途端、心臓を握り潰されるような心地がした。目の前が水面のように揺れて、意識さえ失いそうになる。全身にのしかかる冷たい体そのものが、俺を蝕む呪いのように思える。
 部屋の隅で震える嗚咽にサイレンの音が混ざるまで、俺は指先ひとつすら動かせなかった。



 こんなの本当に笑っちゃうけど、お兄さんは人魚姫と同じだ。酸素に憧れるお姫様。
 でもこの世界に魔女はいない。だから、そんなの望んだって意味ないよ。

 小学生の頃、俺は周りと少し違うのだとわかった。

 昨日のあれ、見た? 何の本読んでるの? 俺としては、そういう他愛もない話しかしたことがない。つもりだ。なのに俺と会話するみんなはいつも、よく分からないところで言葉を失う。俺のなんでもない一言に固まって、化け物でも見るように、睨むような、恐れるような目を向ける。

 給食で机を向かい合わせたとき、いつも俺の机だけがみんなとちょっと離されていた。切り取られた向かいの机の形が、なんかテトリスのあんまり使えないブロックみたいだなと思った。
 変わり者。あの子、ちょっとおかしいんじゃない。授業参観の時、知らない親が俺の背中にそんな言葉を投げた気がする。

 どうやら周りのみんなは、「言うべきじゃないこと」、「言いたいとは思えないこと」、「そもそも言おうと思いつかないこと」、みたいなのを俺より多く持っているらしい。大変だなぁ。
 合わないものに馴染もうとするのもなんだか変な話だから、早々に俺は、「みんなは俺と違う生き物なんだ」と割り切ることにした。
 それ以来俺はそんな他人を、ずっとずっと、可哀想に思っていた。

 みんな「まとも」でい続けることに必死でしょうがない。彼らは水に怯える人間だ。水の中じゃ息ができないから、川に落ちないよう必死で木にしがみついている。優雅に泳ぐ魚を溺れていると勘違いして、そこにいるのは苦しいだろう、と笑い、蔑み、怯えている。
 彼らはこっちの世界を知らずにしがみついたまま死んでいく。本当に可哀想な生き物だ。
 でも、それを見るのはそこまで嫌いじゃない。胴を切られても必死で這いずるミミズみたいで、なんだか愛おしい。

 でも、ミミズは親友になれない。分かち合って話ができない。分かち合える人はいないだろうか。この川の底の美しさを、一緒に味わってくれる人はいないだろうか。

 どうも「共感し合える対象を得たい」と感じるのは、群れで生きる生物の性らしい。
 でもどうしよう、俺はこれまで同じような生き物に出会ったことがない。でも心には、群れを作りたい本能がある。

 じゃあ、変わり者が本能を満たすためにはどこに行けばいいんだろう? 

 いろんな変わり者を探した。アニメに出てくる妖怪や宇宙人はほんとに面白い。彼らは、彼らの常識で生きている。妖怪は妖怪同士、宇宙人は宇宙人同士、変わり者とされる生き物たちが、それぞれの狂気を受け入れて生活している。理想郷だ。でも現実じゃない。

 まともなふりをすれば、多分友達は作れる。でも、やっぱりそれじゃだめなんだ。
 犬用のおやつ、食べたことある? あれ、味がしないだけで意外と不味くはないんだよ。
 まともなふりをして馴染むっていうのは、空いたお腹に、あのおやつを際限なく詰め込む気分。いつかは無理に満たしてしまえるのかもしれないけど、やっぱり口に合うご飯が欲しい。

 あの日もそんなことを思いながら、玄関の鍵を回した。一回じゃ開かなくて、なぜか二度回したら開いた。戸を引いた途端、喉をこじ開けられるような鉄の匂いがした。

 ただいま、に返事はない。玄関を上がった廊下に、土のかけらがいくつも落ちている。
 リビングの入り口に足を踏み入れたら、母さんが血を被ったまま倒れていた。

 あぁ、死んじゃったのかな。母さんもまともだったけど、でも母さんだけは、俺が何しても嫌ったり馬鹿にしたりはしなかったのに。母さんと好きなドラマの話とかするの、好きだったのに。もうあのドラマのこと、誰とも話せないじゃん。今日の夕飯ハヤシライスって言ってたっけ。ハヤシライス好きなのにな、食べられなくなっちゃったな。

 後ろで空気の揺れる感覚がした。は、とわずかに息の漏れた口が大きな手に塞がれて、視界の下に血の掠れた包丁が現れる。
 背中を封じる体の感触を受けた途端、身の毛がよだつような興奮に眩暈さえした。

 あぁ、やっと見つけた、変わり者!

 変わり者ってのはつまり、同じような人があんまりいない者ってことだ。そして俺は偶然にも、今まで人を殺した人を見たことがない。つまり、この人は変わり者。これだ、絶対この人だ!
 俺はお兄さんの家に着くまで、高鳴る気持ちを抑えられなかった。

 ……でもお兄さんは、思ったほどの変わり者ではなかった。母さんのことをいつまでもうじうじと引きずってるし、人並みかむしろそれ以上の罪悪感みたいなのも持ってたし、はっきり言って期待外れだ。
 ほんとなら蚊だって殺せない。自殺なんてもってのほか。あと、たぶん動物が死ぬ映画とか見られないタイプ。
 この人は「まともになりたい」なんて言葉を鳴き声のように何度もぼやいてたけど、あんたは誰よりまともだ。結局この人も、その他大勢と同じ「人間」なんだ。

 だから俺は、お兄さんを「変わり者」にしてあげることにした。
 お兄さんは人間なんだけど、でも、少しだけこちらに片足の先を浸しかけている。水に引きずり込めば、あとは俺と同じ生き物だ。朱に交われば赤くなる。きっと俺を大切にすればするほど、お兄さんはここが本当の居場所だって気付くだろう。

 ◇

『どうしようもないなんて言うな。なぁ、もうやめよう。今日のも全部、俺がやったことにする。だから早く離れろ。まだお前は戻れる、だから……』

 戻れるって、どこに? 

 戻るも何も、俺はずっと“ここ”にいたよ。戻れないのはお兄さんの方。お兄さんはもう、どこにも行けないからね。

 不良がおばあさんに席を譲ったら、善い人になれると思う? なれないよ。彼がしたことの罪は消えないから。ねぇお兄さん、あんたはもう戻れないよ。まともになんかなれない。まともになんかなるなよ。

 お兄さんは川から上がろうともがく魚みたいだ。酸素を吸って生きる人間を見て、「あれが普通なんだ、自分はおかしいんだ」と水を拒む馬鹿な魚。そこにいるのは苦しいでしょ? 早くこっちにおいでよ。お兄さんの居場所はここだよ。

 俺を水辺に上げたって、お兄さんは善い人にはなれない。お兄さん自身も、水辺には上がれない。
 あんたは肺呼吸なんかもうできない。俺が足をちぎった日から、お兄さんは俺と同じ魚なんだよ。

 ◇

 そう思ってたもんだから、背中の熱を感じたとき、俺はおかしくてしょうがなかった。
 何もかもうまくいかない。笑いが止まらない。あぁ、おかしい。やっぱりこの世界は狂ってる。

 あんたは人魚姫と違って、俺を刺せた。だから元の世界に戻れるね。あんたにとっての「戻る場所」は、人間の世界なんだろ。せっかく魚にしてあげたのに。ようやく、水の底に連れていける人ができたと思ったのに。

 痛いより熱いが先に来て、意識が遠くなっていく。川の水面を離れて、暗い水の奥に沈んでいく。ここは本当に広くて、自由で、何もない。
 水辺に立つ男が、こちらを見ている。お兄さんは結局人間だった。本当は魚だなんて、魚にできたなんて、全部俺の思い違いだった。

 あぁ、本当に残念だ。お兄さんの足をちぎってあげられるのは、俺だけだったのに。
 この誰もいない広大な水の底を、見せてあげたかった。一緒に見てほしかった。

 何も掴まない手の甲が、ずっと目の奥に映っている。

 つまらない幻覚も消えて、辺りが暗くなっていく。目の前が真っ黒になる、っていうのとは、ちょっと違う。視界を象る臓器が機能しなくなるみたいだ。色なんかなく、ただただ、なにも見えなくなっていく。肌よりぬるい液体が、頬を流れた気がした。
 首をもたげて、震える耳に顔を寄せる。

「お兄さん、大好きだよ。俺のこと、ずっと忘れないでね」

 見飽きた物語みたいな台詞を囁いた。これは告白じゃない、呪いだ。お兄さんは弱いから、きっと俺の呪いを引きずって生きていく。
 “戻るべき場所”とやらに戻せなかった空っぽの罪悪感を抱いて苦しめ。なんの気配もなくなった静かな川を、いつまでもいつまでも、じっと見ていなよ。
 それでいつか命が尽きた時は、この川に落ちてきたらいい。その肉が溶けて、骨も溶けて、いつか川を流れる微生物の一部になればいい。

 その日が来るまで、俺はずっと待ってるよ。

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