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#85 魂の居場所

自分の魂はどこにあるのか??

抜け殻のようにスマホをスクロールしている時
夢の中で笑って目が覚めた時

「やりたい!こんなふうになりたい!!」
そう思ってもなかなかそうは向かえない時
魂はどこにある?
「あんなふうにはなりたくないな〜。あの人苦手」
そう思ってるのに
ふと自分にそんな部分が見えた時
思ったのは魂の思いなのか?
どこかから飛んできた概念がそうさせたのか?

自分の魂と意思はいつも身体の中で
拮抗したり抱き締めあったりしているんだろうと思う

自分の魂と身体の動きが別々を見ていると居心地が悪いように

目の前の人の魂と身体の動きがチグハグだと
存在感が妙になかったり
逆に恐ろしいほどの押し付けがましさを感じたり


例えば「ごめん」を連発されてもその言葉に重みを感じない時
「ごめん」の一言の向こう側に絶望の海や茫洋とした空が見える時

耳に届いた「ごめん」には大した意味はなくて
その「ごめん」という一言に
あぁ、認めて欲しいだけなんだなと押し付けがましく嫌悪感を感じたり
その肩に手を当て抱きしめたくなったり


例えば、道端で立ちすくんで号泣している我が子に
「いつまで泣いてんのよ、うるさい!」
と放つ言葉に本当は泣きたいのに泣けない切なさを感じたり
「そうなのね、、あれが欲しかったのね、、」
と寄り添いつつも『私いい母親でしょ?』という、聴衆に「誰か認めて〜褒めて〜」という傲慢にでもならないとやってられない程の切なさを感じたり
泣いてる子供を見ていても
一致していてあっぱれだ!っと拍手を送りたくなる時と
傲慢さが透けて見えて怖さを感じる時と

他者で見えると分かりやすく感じやすいのに
自分の心と身体を一致させるのは覚悟がいる。

不完全さを諦めるか挑むか?
そんなことを突きつけられるからだろう。

物事や出会いは出会うべくして出会ったかどうかは分からない
自分でそう感じたらその時なんだろう。



あの時。。
あの人。。
抱え込んで、一人でなんとか克服しようとしてみたり
諦めて、開き直って、相手に責任を押し付けてみたり
そんなふうに時間が流れていたのは覚悟がなかったから。


やり残した事をどんどん挑戦しよう意欲が湧いている時も
今はただ流れに身を任せていたい時も
良いとか悪いとかではなくて
素敵な人とかダメな人とかでもなくて
今はそう存在しているということ

そしてその存在感が一致していると居心地が良く感じて
何か刺激を受けたり、
感銘したり

冷たい風がほほを撫でたり
自分の内側で蠢く何かを見つけたり

そうやって生きるを知る

自分の居心地の良さを探っている
正しいとか間違えではなくて。

そしてその居心地や座り心地は日々刻々と変化する


気がつけば頬を撫でる風を感じなくなっているのかもしれない
内側で感じるものに手を当てようと思うと
手や身体が見えなかったりするのかもしれない

生きているとは、生きるを分からないなりに
表現していること

手を動かしたり
手をあなたの肩に添えてみたり
手で何かを作ってみたり
手で火をおこしてみたり

その手がその命に突き動かされている

今日はこの手に何をのせようか?
この手で感じる感触はどんなだろうか??

この手に宿す私の魂の息遣いを感じてみようか。

言葉の概念やイメージなんかに囚われず
今ある姿形や声、気配、、
そんなものを都合よく使って、自分の魂を感じてみようか。

さて連休。
自分を一致させて生きているのか少し蓋を開けてみよう。



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