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社会人になって便所飯デビューしたわけ

上京して初めて務めた職場では、便所飯をしていた。

職場からすぐのショッピングモール3F、女子トイレ、奥から2番目の洋便器で、卵とわかめのおにぎりを食べる。

ワンルームマンションの一室を出たらそこが唯一ひとりになれる場所だった。

座ればずっと音姫のごろごろ唸り続ける便所は胃を悪くしてこもる時にはうっとおしかったが、今はおにぎりを包むラップのがさがさ鳴る音が紛れて有難い。
きつい芳香剤もアンモニア臭いよりずっといいし、売り場から繰り返し聞こえてくるtake on meもなかなか愉快だった。
クラスに居場所のない陰気なオタクが冬の部室棟階段下で震えながら身を寄せあって弁当を貪った高校時代の方が、よっぽど惨めな心地がしたものだ。

理由は簡単。
見られることを、見ることを、「だりぃな」と思うようになったから。


便所で昼飯を食べるようになったのは年が明けて間もなくのこと。
それまでの昼休みはデスクで、家から持ってきたスープとおにぎりを飲むように平らげてからぼんやりして過ごしていた。
そのもっと前は、前夜の余り物をタッパーに詰めていた。隣の席の社員が毎日、「昨日よりはイロドリがいいね」とか、「今日は野菜が少なすぎない?」とか、言ってきた。

スリープモードの真っ黒な画面越しに、味の薄いスープを魔法瓶のジャーからかきこむ自分としばしば目が合う。片方だけどうしてこんなにほうれい線が濃くなってしまったのだろう。
スプーンとジャーはどんなに気をつけてもカチャカチャ鳴って、静かなオフィスによく響いた。

「嫌だな」という一言が頭のど真ん中にじわっとにじみ広がってくる。こうなるとろくでもない思考が止まらなくなる。

毎日こうして粗末な昼飯を持参しても、大して食費は浮かない。手取り17万から家賃と食費と光熱費を引いて、なけなしの貯金をすれば何にも買えやしない。この仕事は給料は多分上がらないし、業務内容は入社した時に聞いたのと全然違う。それなのに通勤時間はやたら長くて帰ったらスマホをいじる気力さえ残らない。それから、それから───……

「いつもデスクで食べてるよね、ひとりで。」

ある日名前も知らない男にエレベーターで話しかけられた。
すっかり忘れていたが、半月前の飲み会でたまたま帰りの電車が一緒で、たまたま最寄り駅が同じで、たまたま誘われてそのまま二人で飲みに行った男性社員だった。
「念の為言っておくけど俺彼女いるから大丈夫だよ」と言われ、「はあ」と応えたのはかろうじて覚えている。

私はお酒をのむと、普段の余計な羞恥心と山ほどのしかかる過去の屈辱を忘れてよく喋る。
自分で言うのも何だが、酔っている私の話は少しだけ面白い。
普段思いついても上手く人に伝えられない物事が、酔うと無駄な熟考を介さずつるつるつると口から滑り出てくるからだ。私は酩酊している時の私の方を日常の私よりよっぽど愛している。
大学の編入試験も転職の最終面接も憧れのミュージシャンの握手会も、大事な日はいつもお酒を飲んで臨んだ。

それで、件の正社員は、酔った私の羞恥を忘れた話しぶりが気に入ったらしかった。
知らぬ間に昼食を一緒にとる約束をしていたようで、とある水曜呼び出された。私は相変わらず名前の思い出せない男と、それから一度も見たことのない女性と一緒に、あまり好きではないスパゲティを啜っていた。
「いつもひとりの嫁島さんに女友達を紹介してあげよう」ということらしい。

女性は私より年上だったがパステルカラーのリボンにまみれたニットを着て黒々した髪をポニーテールに結わえた、言ってしまえば年甲斐のない見た目をしていた。
私だって人を言えたファッションセンスではないし、容姿や年齢を理由に人の格好をとやかく言うことは本当に嫌なことだと思っている。良くないことだ。
世にいう可愛い顔をした女性だったと思う。「キャッキャッ」という効果音のつきそうな、明るくて愛嬌のある雰囲気を醸していたと思う。
「ええ」「はあ」「まあ」以外の言葉を何とか絞り出そうとしてどんどん勝手に疲れていく私にしきりと「気が合う〜!」などと言うくらいの、世にいう親切な、おそらく素敵な人だったのだと思う。

「嫁島さんって私と似てるかも〜。なんて言うか、社交性の無い私って感じ?」

昼休みの終わり、別れ際に女が私に言った。無邪気っぽい黒い目で、まっすぐ私を見据えるふりして、頭からつま先まで盗み見ながら。

意味を理解するのに、うかつにもちょっと時間がかかってしまった。
3秒その言葉を噛み砕いてから、青空に雲ひとつくらいの何気なさで「この女消えねえかな」という言葉が浮かんだ。
男が「いやいや社交性無いってことないよ嫁島さん面白いんだから!」と慌てたふうに言うもんだから、「こいつも消えてくんねえかな」と思った。


以降、四方を人に囲まれたデスクで昼食をとるのはやめにして、便所で飯を食べることにした。


音姫の向こうから聴こえるtake on meはわりと愉快で、きつい芳香剤もアンモニア臭いよりずっといい。

だけどあの便所で食べた卵とわかめのおにぎりの味は、あんまり覚えていない。

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