見出し画像

「やめる」


今日、2年半続けてきたことをやめる。

人生の中で、何度もこの『やめる』という行為を繰り返してきた。

習慣や、関係や、環境。
いろんなことへ「やめよう」と意思決定をして、その決定を貫く。
それが「やめる」ということ。


一度、大学を辞めようと思ったことがあった。
理由は、学業ではなく就業というものへの興味がつよかったこと。
特別学びたいことがない分時間を浪費するよりも仕事をして多くを学びたいと思っていた。

意を決して、父に伝えてみるも結果は反対。

「やめることは簡単だから、続けなさい。
一度始めたこと。期間が決まっていることなんだから、その期間は始めた責任を全うしなさい。」


学費を払ってもらっていることも加担して、そこへ反抗しようとも思わず、学生生活はアルバイトを掛け持ちすることで就業意欲をなんとか満たしていた。

実際、あんなに自由な時間ってこの先あるのかなと考えるくらい、とても充実していたと今では思う。
すごく多感で、未熟で不安定な時間だった。


そんな経験もあって、「やめる」ということは簡単にできることで、最終手段という認識が芽生えた気がする。
むしろ、悪いことにすら思っていたこともある。


子どもの頃の習い事もそう。
やめたいと思ったとしても、辛抱して継続して、真っ当なやめるべき理由ができてようやくやめる決意を固めることができた。
(中学生に入って部活が忙しい、とか)

やめるという選択肢に対して、辛抱というカードしかぶつけてこなかった私は、やめるという行為がすごく苦手だ。

やめるのは逃げること。
やめるのはいけないこと。
そんな風に自分を追い詰めてしまった時期もあった。


それでもやめるという行為を何度か繰り返した時に思ったことは、やめることってすごく力がいるということ。
始めてから継続した時間分、やめるという行為にも力が必要になってくる。


例えば、タバコ。
吸い始めたときばかりは、すぐやめられると思っていても、吸う年数が長くなるほどに依存性以外にもやめにくくなる。
タバコのためにとっていた小休憩、飲み会での手持ち無沙汰のときの1本。
タバコがないと物足りなくなってしまう。

例えば、習い事。
忙しくなって休むことが増えたとしても、仕事にもプライベートにもメリハリがついたり、リフレッシュにもなる。
やめたとしても、仕事にも影響しない趣味の範疇なのにここまで続けたからには…なんとなくもったいない気持ちになる。

例えば、恋人関係。
もうお互いに熱が冷めているのに、何度も乗り越えてきたことを思い出したり、離れても日常が続くことも想像つくのに離れがたい。
このまま関係を続けてどうなるんだろう、と思いながらも、離れる必要があるのかもわからない。


そうやって、やめることに使う力を考えると億劫になってしまって、気付いたら時間が経っていた…ということもよくある。

やめると決めた後も、気持ちが揺らいでしまったり、アルバイトや仕事に関しては、やめると伝えた後の空気が耐えられないという理由から「辞職代行サービス」も誕生したくらい。


実はやめるということは、そこまで簡単なことではないのだ。


そんなにやめるのが億劫なら続けたらいい、というのはそもそも論点が異なってくる。
また、そんなに大変だからやめることができる人がすごい、という訳でもない。

ただ、やめるか悩んだ時に「辛抱」以外の手持ち札が増えたことはわたしにとってはすごく大きな意味がある。

わたしの手持ち札は…
・続けるなら楽しみ方を探す
・無理しない範囲での続け方を探す
・やめるならポジティブ変換

辛抱の札しかないときは、続けるのは苦痛。
やめるのも、悪いことと八方塞がりだった。

いまは、どっちに進んでもポジティブな理由になるように変換する癖付けをしている。


今回のやめる選択も、やめることを考えるのもはじめてではなかったけれど、ポジティブ変換できていなかったので踏み出さなかった。

それがようやく、ポジティブ変換できたので踏み出します。



サポートありがとうございます! とても励みになります( ¨̮ ) いただいたサポートは、今後のnoteに生かすための経験や他のクリエイターさんへのサポートに回していきます。 note内でやさしい循環を築きたい。