営業と仕事道具
今の会社に勤めていなかったら、おそらく一生触ることのなかっただろう道具。それが、このハンドリフトだ。
私は、今の会社以外では営業職を受けなかった。もともと、営業職と兼任する仕事に就きたくて、営業は年に1ヶ月くらいだからと聞いて、1ヶ月ならまぁいっか、という軽い気持ちで承諾した。
営業をされている方ならお分かりいただける
と思うが、当然、1ヶ月で済むはずがない。学生の私の考えの甘さを痛感した。今は退いているが、4年間本当に大変だった。
メインの冬営業は2ヶ月間ほぼ出ずっぱりで、春夏秋も営業はもちろん、関係性構築やリサーチもあわせて行う。それと兼務で内勤も行う。内勤だけの人には言葉を尽くしても兼務の大変さがわかってもらえず、営業日報を提出した後の深夜に内勤の仕事も進めて翌日早朝に出発という日も少なくなく、心身ともに辛かった。
もちろん、学びも多く、営業職を引き受けたことを後悔はしていない。ただ、コミュニケーション能力が低く、人と目を合わせるのが苦手な人間にとって、営業というのは気が重い仕事であり、何より体力が年々追いつかなくなった。最初の1、2年はやりがいと根性で乗りきったが、続けるのは無理だと思うようになった。15kgくらいの段ボールをエレベーターを使わずに往復することが求められる私の会社の営業職は、筋力も体力もない非力な私にはなかなかの重労働だった。限られた時間内で取引先を回りきるのも大変で、朝早くから夜遅くまでサンプルの事前準備を行い、取引先への最短ルートを編みだしながら、雨の日も雪の日も毎日50kmくらい運転し、営業していた。
前置きが長くなったが、表題の話に移りたい。先ほど述べたように、私の会社の商品サンプルは重いので、倉庫で営業準備をする際にハンドリフトを使う。倉庫で発送担当専業の方は、フォークリフトを自由自在に華麗に操られるが、普通自動車免許(AT限定)しか持たない私は、ハンドリフトでサンプルの詰まった段ボールの積載されたパレット(木やプラスチックでできた荷物を置く板)を動かす。パレットを所定の位置に置いたら、段ボールをこんな感じの台車で運ぶ。
サンプル、チラシなどの資料を詰めた営業用にカスタマイズした段ボールを、後部座席を倒したADバンの営業車に余白なく並べ、積載量のぎりぎりより少し少ないくらいまで積む。この状態で走るときは少しの揺れが命取りなので、停止する際は早めにデクレッシェンドをかけていく。こんな感じで営業準備を行う。
このときに用いるハンドリフトが1、2年くらいずっとうまく使えず、一生懸命進路を定めているのに、なぜかとんちんかんな方向へと進みだす。先輩方から手取り足取り教えてもらっても、先輩方のように台車を扱うくらいスムーズな運び方はなかなかできなかった。私には無理だと諦めかけたこともあった。
しかし、3年目の冬営業前の全体準備の際、ついにうまく扱えた。先輩に「やるやん」とニヤッとした笑顔で褒められて、顔がふにゃっとしながら「ありがとうございます」と応えたように思う。
もう1つ、仕事道具というのかわからないが、この会社に入らなければ扱うことのなかっただろうものがある。クラウンだ。王冠ではない。トヨタの誇る高級車である。
クラウンは、社長がお客様の送迎に使われたり、社長の長距離運転に使われる社用車である。これは、社内でも限られた人だけが運転を許される。このクラウンを、過去に一度だけ気まぐれに運転させていただいたことがある。
社会人3年目以降、社長と2人での出張が増えた。東京など遠方であれば飛行機や新幹線になるが、九州内であれば鹿児島や宮崎でも車だ。高速道路を使っても片道四時間かかる。その際、一応「代わりましょうか」とお声がけするが、専ら「大丈夫」と断られる。私の車内での仕事といえば、営業車でも実家の車でも味わえない心地のよい助手席で、睡魔と抗うことだった。
社会人3年目のある日、福岡県久留米市の取引先まで行った帰りのことだ。その日は早朝に出発し、午前中で打合せが終わった。近場のうどん屋でお昼をご馳走になった後、社長が言った。
「運転する?」
「え?」
一応、免許証はもちろん、替えの運転用の靴も持ってはいた。だが、初の、いや最初で最後かもしれないクラウンで、いきなり高速道路を走る気概を持ち合わせてはいなかった。しかも、よりによって、自転車でこけて足を軽く傷めた翌日のことだ。しかし、あれよあれよと話が進み、運転せざるを得ない状況に陥った。覚悟を決めるしかない。ええい、ままよ。
「途中で代わってもいいから」と言われたが、結局会社まで運転した。ただ、鬼門の太宰府インターや都市高を下りる勇気はなく、筑紫野インターから下りて下道で帰った。筑紫野インターあたりまでがちょうど営業担当地区だったので、ナビを見ずとも道は覚えていた。
「うまくなったね」と言われて驚いた。社内でも修理代のかかる営業担当者だった。未だに苦手な駐車がより下手で、駐車場で2週連続でドアを擦り、細道で離合に失敗しまたドアを擦り、バックライトを倉庫の壁にぶつけ、道路に落ちた角材を避けきれずタイヤをパンクさせるという失敗をしてきた。呆れられ、諦められていた。そんな私がクラウンの運転を気まぐれだが許され、運転で褒められる日が来るとは思わなかった。その後も、クラウンではないがお客様の送迎も何度か務めた。
営業の仕事をしていて一番感慨深かったのは、2年連続で営業目標を達成したときだった。
私は、営業担当者の中で最も取引先数の少ない地区を宛がっていただいていた。それでもひいひい言いながら営業し、もう1人の女性の営業の先輩にいつも泣き言を言っていた。その先輩がいなかったら、もっと早くに音を上げていた。その先輩がいつも私のがんばりを認め、助言をくださり、どんなに少なくても採用をいただけるたびにおめでとうと声をかけ続けてくれた。準備が間に合わず2人で休日準備をしたことも、2人で洗車をしたこともある。尊敬してやまない先輩だ。その先輩は、私と同様に内勤の仕事との兼務をしながら、私より地区数も多く、営業目標を達成し続けるスーパーウーマンだった。憧れていたが、コミュニケーション能力も体力も私とは雲泥の差で、先輩になろうとするのは無理だからと割りきっていた。
それでも給料泥棒にならないよう、自分なりに工夫して努力を怠らなかった。取引先数が少ない分、何度も足を運び、できるだけ多くの方にヒアリングと営業をしようとした。最初は冷たくあしらわれるばかりだったが、徐々に顔を覚えてもらえ、2年間口をきいてくれなかった方が初めて話を聴いて採用をくださったときは、涙が出るほどうれしかった。
そうした採用をこつこつ重ね、2年目で初めて目標を達成し、まぐれにならないようよりサンプルへの工夫や効率化に努め、3年目にも目標を達成した。
社会人になって初めて表彰状と報償金をいただいたときの感動は、今でも忘れられない。誰より一緒に目標達成したスーパーウーマン先輩が、自分のことより私の達成を喜んでくれて、がんばってよかったと思った。少しでも先輩に報いることができたと。社内で気難しい先輩も褒めてくださった。
社会人3年目にして、仕事道具に慣れ、営業目標を達成し、自分の携わった内勤の仕事でもわずかながら成果を上げ、やっと一人前になれた気がした。
今は営業職を退き、その経験を内勤業務に生かしている。あの4年間をやり直せと言われたらしんどくて嫌なのが正直なところだ。しかし、営業の仕事をすることで営業職のみなさんとの交流も深まり、何よりお客様の顔を見て声が聞けた。自分の手がけた商品が使われているのを目の当たりにし、どう感じられ役立っており、どう不便なのかを直接聞いて感じられる。今の仕事にも、今後の考え方にも生きるし、精神的にも鍛えられた。営業の実態を知っているから、内勤専業の方との橋渡しもできる。
そして、ハンドリフトとクラウンを扱えますよ、と言えるのはちょっと誇りに思ってもいいかもしれない。
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