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酒のない居酒屋

 「酒のない居酒屋」がコンセプトだという。看板に惹かれてその店に入ったのは、金曜日の深夜だった。

「いらっしゃいませ」
「一人、なんですけど」
「お好きな席へどうぞ」
 店内をぐるりと見回して、カウンターの一番隅の席に腰を落ち着ける。金曜日なのに、客は私一人。先輩と居酒屋に行くと、深夜でも金曜日は満席ばかり。こんなに静かな居酒屋は初めてだった。
「こちら、おしながきです。ごゆっくりお選びください」
 僕より十歳は若いだろう店主の男性も穏やかで、彼一人で切り盛りしているようだ。居心地が良い。何も頼んでいないのに、すっかり気に入ってしまった。
 とりあえず何か飲み物を、とドリンクのページをめくる。定番の烏龍茶に、ノンアルコールカクテルも種類豊富、緑茶、和紅茶なんかもある。酒に弱く炭酸も苦手な僕は専ら烏龍茶かオレンジジュースにお世話になっていたが、ここではどれを選ぶかなかなか決まらない。
「お通しです」
 頼む前にお通しが出されてしまった。
「すみません、えっと…」
「ごゆっくりどうぞ。こちらは、鶏肉の伊予柑マーマレード煮でございます」
 優しい微笑みに甘え、熟考する。お通しから珍しく、きらきらと輝く橙色の粒、甘酸っぱい匂いが食欲をそそる。堪えきれず、一口。
 んー。おいしい。マーマレードなのに渋みがなくて、爽やかな酸味と、やさしい甘味が口いっぱいに広がる。一口大に切られた鶏肉もほろほろと柔らかい。じっくり煮込まれたのが窺える味の染み込み方だ。
「おいしい…」
「よかった」
 先ほどとは打って変わって弾けるような笑顔に、こちらまで気持ちよくなる。
「すみません、注文いいですか」
「はい」
「この、和紅茶のストレートをホットでお願いします。とりあえず、以上で」
「かしこまりました」
 再び鶏肉の伊予柑マーマレード煮に箸をつける。昔給食で鶏肉のマーマレード煮があったなぁと思い出す。あのときはもっと、子どもの舌に合うよう、砂糖としょうゆの味がしっかりしていた。あれもおいしかったが、この上品なマーマレード煮もいい。伊予柑というのがポイントなのだろう。
「お待たせしました。ホットの和紅茶ストレートでございます」
「どうも」
 萩焼だろうか。光沢のある淡い桃色の湯呑みに、オレンジがかった和紅茶が注がれている。口をつけると、まろやかな口当たりで、後味がすっきりしている。これはごはんにもおかずにも合う。紅茶と和食というのが不思議だったが、こんなにも和食に合う紅茶があるのだと、驚いた。
 そうだ。ゆっくり味わっていたら、まだ飲み物以外何も頼んでいないことに気づいた。慌てておしながきを手に取る。どれも気になるが、あまり見たことのないおかずを注文してみよう。
「すみません。注文いいですか」
「はい、どうぞ」
「菜の花と胡桃のピリ辛和え、春野菜のおたから煮、鱚とアスパラの青衣天をお願いします」
「かしこまりました」
 まず、菜の花と胡桃のピリ辛和えが運ばれてきた。きんぴらのような甘辛い味つけが菜の花の渋みをほどよく抑え、胡桃の食感が楽しい。唐辛子のピリッとした辛味がアクセントになり、適度な渋みが春を感じさせる一品だ。
 続いて運ばれてきたのは、春野菜のおたから煮。二つ並んでいる、お揚げの中身はいったいなんだろう。豪快にそのままかぶりつく。
 一つ目は、おそらく春キャベツ、筍、新ごぼう、人参、鶏ミンチ、豆腐だ。シャキシャキとした歯ごたえを残し、食べごたえ抜群だ。素材それぞれの旨味がじゅわーっと溶けだし、口の中に溢れだす。
 もう一つは一つ目と膨らみが違う。箸で割ってみると、半熟卵がとろけておつゆに溶け出した。こちらもパクリ。お汁とからんで、染みたお揚げとの相性抜群。それぞれ、まさにおたからだ。ここで和紅茶のおかわりをもらう。
 揚げている音がするなと思っていたら、お次は鱚とアスパラの青衣天。ふっくらした淡白な身が口の中でほどけて、青海苔の風味が豊かで、軽い衣がサクサクと鱚を邪魔せずおいしい。ジューシーな太めのアスパラ天も食べごたえがある。粗い大根おろしの天つゆがさっぱりして合い、梅塩につけてみると、素材の甘味がわずかな梅の酸味とマッチして、これもいい。
 あっという間に三品完食してしまった。さて、〆と行こうじゃないか。
「追加いいですか」
「もちろん」
「季節の味噌汁と、桜えびの混ぜ込みごはんをお願いします。後、もう一杯、和紅茶をいただけますか」
「かしこまりました。和紅茶、お口に合ったようで何よりです」
「紅茶が料理と合うなんて驚きました」
「日本で作られた紅茶なので、和食に合うのかもしれません」
 ほどなくして、三つとも運ばれてきた。季節の味噌汁の具は、新じゃが、新玉ねぎ、スナップエンドウ、豆腐、わかめ、しめじと具だくさん。一口飲むと、新玉ねぎとスナップエンドウの甘味が染みだしている。新玉ねぎと皮つきの小ぶりの新じゃがもとろとろになっていて、スナップエンドウがぷちっと口の中で弾け、旨い。
 桜えびの混ぜ込みご飯には、桜えびの他に大葉、刻み生姜も混ぜ込まれ、それぞれの香りが立っていた。大葉の爽やかな香り、桜えびの香ばしさと食感、生姜が効いていて、体の芯から温まり、何杯でも食べたくなる飽きのこないおいしさだ。

「お愛想お願いします」
「かしこまりました。席までお持ちしますね。緑茶をお飲みになってお待ちください」
 いただいた緑茶は甘味があって、胃に沁みわたる。
「また来ます」
「ありがとうございました! 実は、お客さまが第一号なんです。内心ドキドキしておりました」
「そうだったんですか」
「はい。今日開いたばかりで」
「大丈夫です。僕が保証します。どれも絶品でした。でも、この雰囲気が好きだから、知られて混むと困るなぁ」
「まだまだこれからですけど、この雰囲気は守りたいと思います。もともと、私がお酒もにぎやかなところも話も苦手で。だから今のところ他に店員も募集していなくて。それで居酒屋の店主をやっているのもどうかと思いますよね」
「いえ。このおいしい創作料理の数々を生み出され、この雰囲気を作られ、応対もとても心地よかったです。僕が言うのも失礼ですが、向いていらっしゃいますよ」
「そんな風にお客さまに言ってもらえると、自信が湧いてきます。またのお越しをお待ちしております。では、お帰りどうぞお気をつけて」
 そう言ってはにかむ様子がなんとも初々しくて、好感が持てる。次に来る日を楽しみにしながら、余韻に浸りつつ家路を歩く。朧月が雲間から覗き、なんとも風情のある夜だった。

🍵

ずっと気になっていた「書き出し小説」からの小説に初挑戦。
Sheafさんのこちらのお題から一つ、拝借しました。

また食べ物の話かい、という声が聞こえてくるようです…すみません💦

当初は仕事が落ち着くこの連休に行く予定だった三つの展覧会の感想記事と、その展覧会を受けて、何か美術にまつわるものを書けたらいいなと思っていたんです。どれもとっても楽しみにしていて、それをモチベーションの一つとしてがんばっていたのですが…会期の初めの頃ならまだ行けたと思うのですが気力がなく、さすがに今は…と泣く泣く断念。ゴッホ展、フィンレイソン展、川瀬巴水展、行きたかったなぁ…
ということで、後ろ髪引かれつつ、noteや溜まった録画、録音を楽しむことに決めました。久しぶりにテレビをリアルタイムで観たんですが、その番組がまた素晴らしかったんです。贔屓目なしに良質な音楽番組で、今回はJ・ディラ特集。穏やかで贅沢な時間でした。後三回あるようなので、毎週金曜夜が「MIU404」放送時ぶりに楽しみになりました。ジョージ・ガーシュウィン特集、楽しみだなぁ。

脱線しましたが、この物語の話を、今回はここに一緒に書いてみます。
私、お酒がまったくだめで、過去二回居酒屋さんでかなり割っていただいたにも関わらず、一杯も飲んでいないのに意識を飛ばしたことがあり、ここ数年はお酒を一滴も飲んでおりません。そして、炭酸もだめ。そうなると、主人公のように烏龍茶かオレンジジュース、アップルジュース、グレープフルーツジュース、カルピスあたりを毎度ランダムで選ぶしかなく。
だから、「酒のない居酒屋」という語句を見つけた瞬間、理想が詰まっていて書きたくなってしまいました。現実にあったらいいのに。居酒屋さんのメニューは大好きなんですよね。でも飲めないから入りづらくて、先輩と行くときだけ堪能します。居酒屋さんのランチも好きです。今はなかなか伺えないけれど、また落ち着いたら必ず。春には少し落ち着いていたらいいな。
完全に同じメニューは食べたことがないけれど、母の作るスナップエンドウといろんな具のお味噌汁、新じゃがと新玉ねぎといろんな具のお味噌汁が大好きで、鱚の天ぷらは出されているお店では必ず頼むほど好きで、おたから煮は具は違うけどよく作っておりました。母のお味噌汁はいつも具だくさんで、毎朝、お味噌汁と卵かけごはんだけでおなかいっぱいになっておりました。
なるべく地域性が出ないよう努めながら、春に食べたい気持ちを込めました。ご当地ゆかりのメニューも各地の居酒屋ならではでおいしいんですけどね、今回はそうしてみました。
自分で書いといてなんですが、こんな時間に書くもんじゃないですね。おなかが空いてきました…

Sheafさん、素敵なお題をありがとうございました!

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