【ピリカ文庫】花と雪舞う中で
ほのかに梅の甘い香り漂う並木道を歩く。風が花びらを舞い上げる。雲一つない青空に花びらが映えて綺麗だ。花吹雪の下、僕は三年前の吹雪の夜を思い出していた。
***
取引先から帰っているところだった。やけに冷えると思っていたら、はらはらと雪が落ちてきた。まずいな、このあたりはタクシーも通らないし、コンビニもない。腕時計を見ると、最寄りの最終バスの時刻はとうに過ぎている。大通りまでは早歩きでも一時間以上かかる。折り畳み傘を差しながら、重たい息を吐いた。吐く息が白い。
三十分ほど歩いたところで、雪は勢いを増し、風も出てきた。ゴーゴーと音を立てながら吹きつける風が肌を刺す。建物を出た時にまだ藍色だった空は、すっかり暗くなっていた。月も星も雲に覆われた闇の中、人気もない道をとぼとぼと歩く。取引先で怒鳴られ、バスに間に合わず、吹雪にまで見舞われるなんて。ぐっしょり湿ったコートが重さを増し、肩にのしかかる。
何度目かのため息を吐いたとき、目の前が突然ぱっと明るくなる。左手にある古民家の玄関の電灯が点いたようだ。すると、そこから暖簾を持った女性が出てきた。
「まあ、こんばんは。お仕事帰りですか?」
「こんばんは。ええ」
「寒かったでしょう。ごはんは食べました?」
「まだです」
「うち、小料理屋なんです。よかったら寄って行ってください。それとも仕事先へ戻らないといけないかしら?」
「いや、直帰の許可もらってるんで、お言葉に甘えさせていただきます」
思わぬ救いの手を取らない選択肢はなかった。カウンター席に腰を下ろす。
「今夜はこの吹雪でお客さんも来ないかなあと思って、開けるか迷っていたんです。でも開けてよかった」
「はい。助かりました」
「こちらのほうが、昨日仕入れたばっかりの食材を持て余すところだったから助かります。とりあえず、あったかいお茶でも飲んでくださいね」
出された温かいお茶が胃の腑に沁み渡る。悴んだ指先も湯呑みを持つうちに温まってきた。
それから出された料理は、どれをとっても素晴らしかった。繊細で彩り豊かな見た目、だしの香り、少し甘めの味つけ、切ったり焼いたり煮込んだり揚げたりするトントン、ジュー、グツグツ、ジュワーという音、湯気が立ち上るほどの温かさ。一つ一つ手が込んでいて、具だくさんで健康的な料理に舌鼓を打った。
「こんなにおいしい料理を食べたのは初めてです」
「あら、うれしいこと言ってくれますね」
柔らかい物腰で相槌を打つ女将さんの気遣いもありがたかった。時折挟まれる女将さんのエピソードがお茶目で、雰囲気そのままの人だなあと思う。あっという間に夜が更けていった。
「遅くまでお邪魔しました。お愛想お願いします」
「いいえ~。こちらのほうが楽しくなっちゃって、お引き留めしてごめんなさいね。明日もお仕事ですか?」
「いえ、休みです」
「よかった。よければ、最後にお味噌汁とおにぎり、お茶をどうぞ」
「いいんですか」
「食材はいっぱいありますから、来てもらったサービスです。これ、常連さんに人気のシメなの」
そう言って出されたあおさのお味噌汁と鯖のおにぎりも絶品だった。人気なのも頷ける。
会計を済ませ玄関の引戸を引くと、タクシーが一台止まっていた。驚いて振り向くと、女将さんがウインクする。
「また来ます」
「ふふ、待ってますね」
吹雪の中、彼女は見えなくなるまで見送ってくれた。
その後も彼女の小料理屋に足繁く通った。週末恒例となったあの店でのひとときが、仕事の疲れを癒してくれた。遠さも気にならないほどに、自分の居場所になっていた。
***
「ホー、ホケッ」
梅の枝に止まったうぐいすが鳴いている。まだ練習の最中なのか、ややぎこちないのも愛らしい。もう一羽やってきて羽をバタつかせたかと思うと、二羽一緒に飛び立った。
あの店の前に差し掛かる。玄関扉には「しばらく休業します」という貼り紙がされてある。先へ進もうとすると、その扉がガラガラと音を立てる。
「勇貴くん、久しぶり!」
そこには、いるはずのない彼女がいた。
「由実さん! え? なんでここに」
「驚いたでしょう」
「まだ予定の時間まであるよね」
「サプラ~イズ」
「危ないから迎えに行くって言ったのに」
「お店も気になってたし、ここまでお父さんに送ってもらったの。そろそろ通るかなって窓から見てたんだ。それよりほら、面と向かって会うのははじめまして、由貴ちゃんだよ~」
出産のため入院していた女将さん改め妻と再会し、立ち会いも面会も叶わなかった娘とは念願の初対面だ。写真で見るよりずっとかわいい。
「はじめまして。お父さんだよ」
「あーうー」
「ふふ、喜んでる。ずっと会いたかったんだよね」
「僕も、ずっとふたりに会いたかった」
「うん。私も」
やっと家族三人が揃ったのを祝福してくれているかのように、紅白の花吹雪が舞い踊っていた。
❄️
名だたるクリエイターさんたちの素晴らしい作品が連なる「ピリカ文庫」に所収していただけることになり、とても光栄な反面、非常に緊張しながら筆を執りました。
「ピリカ文庫」の作品、ご存じの方が多いと思いますが、初めてという方がいらしたらぜひお読みになってみてくださいね。傑作揃いです。
そして、そんな素晴らしい作品の朗読や、クリエイターさんたちの声が聴ける音声配信「すまいるスパイス」(すまスパ)もお聴きになってみてはいかがでしょうか。
ピリカさん、この度はお声がけいただき誠にありがとうございました!
サポートしてくださる方、ありがとうございます! いただいたサポートは大切に使わせていただき、私の糧といたします。