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スピリチュアルも「たまに」なら良い

秋晴れ、突き抜けるような青い空の下、ふと思い立って「素盞雄神社(すさのおじんじゃ)」に行ってきた。南千住にある、素盞雄大神を祀る神社だ。


偶然の重なりに意味を見出す

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素盞雄神社​の本殿

最近、何の因果も無いような事を、紐づけて考えてしまう癖がついた。スピリチュアル的な用語で言う「シンクロニシティ」みたいな。というかソレだな。


かの有名な心理学者ユングも晩年、研究を重ねたという。人間の心理は、科学ではまだ解明されていない事も「ありえる」と本能的に受け入れている。


中には、自分の目で見るまで信じない人や、科学的な根拠が無い事は否定する人も居るが。


そんな科学至上主義の人々の間でも、直感や第六感、はたまた霊感や超能力として、「存在しうるかもしれない」と、一部許容されている節がある。


目に見えないものを否定する心理

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おみくじ引きたくなる​

幼い頃から、今に至るまで。

そもそも、人間が全ての事象を論理づけて確定する方が烏滸がましい事だとすら思っていた。

相対性理論を理解した訳でも、宇宙を構成する全ての物質を把握してるわけでもないのに。

すべて科学で証明できると信じているならば、それは間違ったプログラムでも辛うじて動く、ギリギリのとこでバグを免れている状態に過ぎない。

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おみくじで大吉を引くのは嬉しい​

だから、時々バグかのように世界は説明しがたい事象にみまわれる。我々は、汚いコードに踊らされてるだけなのだろうか。


反面、やはり科学で説明のつく事だけを信じている方が、生きるうえで楽だと理解している。多くの場合は、理性的に処理する事で、怖いと思う事柄が減るのは確かだ。


だけど、本能で感じる怖さや不安を、完全に無視してはいけない。人間に必要なのは、もっと自然に、動物的に生きて幸せを感じる事だと。


合理性や効率を求め、人生に潤いを失くした人が沢山居る。


理性と本能のバランスを保つのは難しいが、ちゃんと、人間である事から逃げずに、幸せの最大公約数を見つける努力をしたい。

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素盞雄神社のイチオシおみくじ「傘みくじ」が可愛い

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直感に頼り過ぎたり、根拠の乏しい話に振り回されるのは、あまりよろしくない。

でも、時々なら、感じるものを大切にしたり、占いやおみくじを心の糧にしたっていい。

ガチガチに固まった「こうであるべき」や「こうであるはず」という概念を、取っ払う。心がほぐれる程度に。


神聖な雰囲気の境内を歩いていると、少し自分が素晴らしいものに触れている感覚を味わえる。

日本の至るところにある神社は、そんな「感じる心」を整えるには最適な場所だと思う。

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松尾芭蕉の旅立ちの句と、素盞雄神社の御朱印

私は、いつかの松尾芭蕉と同じように、早期リタイアの疑似体験をしている。

私は今、居心地のいい住まいのひとつを引き払い、旅に出る準備をしている。

南千住は、松尾芭蕉が奥の細道の、出発点とした地である。

何かに導かれるように、訪れた素盞雄神社。私は、創造をしながら旅をする。そんな人生を望んでいた。

今、それを実現するチャンスを手にした。人生はひらけている。

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