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言葉狩り(1)~詩人会議合評会にて

先日(10月20日)行われた詩人会議のリモート読者会(合評会)で、「言葉狩り」について議論がありました。

今月号(2023年12月号)の月刊『詩人会議』の報告記事には記載がありませんでしたので、ここに記しておきます。

議論になったのは、『詩人会議』2023年11月号に掲載の救愛さんの作品「赤ん坊の言葉」に登場する「発達障害児」という言葉です。

結局、今度の子は無事
小学二年生になった。
しかし、発達障害児である。

救愛「赤ん坊の言葉」より一部抜粋

この「発達障害児」という言葉について、参加者Aさんから「子どもが可哀そうでは? 取った(削除した)ほうがよいのでは?」という意見が出ました。「しかし」というネガティブな前置きを伴っていることも含めての意見でした。

この意見に対し、参加者Bさんから「取らない(削除しない)ほうがいい。取った方がより差別主義的、逆差別的だと思う」という反論が出ました。つまりそれは「言葉狩り」のようなものだ、「言葉を取り去って“言葉狩り”をしたところで、現実にそれがなくなるわけではない。それは“見て見ぬふり”を助長するだけだ」といったこともおっしゃいました。

また参加者Cさんからは、「私は障害者だが、“障害”を“障碍”とか“障がい”と書くことに違和感を持っている。健常者が障害者に気を遣っているつもりかもしれないが、障害は障害だ。それをはっきりわかってもらうことで生きやすくなる」という意見も出ました。

…さて、皆さんはどう考えるでしょうか?

私は、Bさん、Cさんの意見に共感しました。私はまず第一に、障害は隠すべきものなのか、という気持ちがあります(私自身、見た目ではわからないタイプの難病患者なので、言うか隠すか、気持ちは複雑ではあります)。また、実際にこの社会に「ある」ものを、言うのを避けることで「ない」もののように装ったら、核心が見えなくなるとも思います。明らかに相手を馬鹿にした呼び名の場合は別ですが…。

この救愛さんの「赤ん坊の言葉」という作品は、この号(2023年11月号)の中で、とても印象に残った作品の一つでした。それは、母親の苦悩を包み隠さずよく表していると思ったからです。

しかし、発達障害児である。

救愛「赤ん坊の言葉」より抜粋

この言葉はたしかに、子ども本人が聞いたらグサッとくるかもしれません。しかし、母親の本音としてはとてもリアルです。私は実際に救愛さんとお話しした時に、息子さんに障害があるために子育てにとても苦労したとお聞きしたので尚更かもしれませんが、この言葉が子どもを傷つける反面、共感して救われる、もしくは何か気付きを得る母親もたくさんいるのではないかと考えます。全体を読めば、冷たく子どもを突き放した詩ではありません。必死に子育てをしている疲労感と苦悩の中に、うまく育ててあげられないことへの罪悪感、自分を責める気持ちを繊細に表現した、すごい詩だと思います。「子どものせいで自分がこんなに苦労している」という被害者意識に満ちた視点では、このような詩は書けないと思います。

ですので、この「発達障害児」という言葉はこの詩の要として、取る必要のない言葉だと思いました。

…ただし、参加者Aさんのおっしゃることもよくわかります。人は、ほんの些細な言葉で傷つきます。発言者にとっては何の悪意もない言葉でも、受け取る側にコンプレックスがあれば傷つきます。ですからどのような言葉であっても、いつでも人を傷つけている可能性があることを忘れてはいけないと思いつつ、私は詩を書いています。

ぜひ皆さんも、全文を読んで考えてみてください。
▼こちらの号に掲載されています。

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