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融通が利かない人たち


先日、私の知人が怪我をした。その知人は眼が悪く、飛んできた植木鉢にまともにぶつかり、その拍子に転倒、運悪く足を骨折してしまった。

具体的に言えば8月9日、そう、台風9号が接近していた日だ。各地で警報が発令され、その知人が住む地域でもやはり、強風警報が出ていた。
先ほども書いた通り、その人は眼が悪いので、危険だということで会社から「無理矢理」帰されたのだという。雨風が酷くならないうちに家に帰りましょう、と。

しかしこれはどう考えてもおかしい。

すでにこの人が帰宅を促された時点で風の勢いは増しており、むしろ「今、外を出歩くのは危険だ」という判断がなされてもおかしくない状況だったのだから。


子供の頃を振り返ってみる。
「警報が発令されたので帰宅しましょう」と授業の途中で学校が終わり、家に帰されたことが何度かあったが、当時からこれはおかしいと思っていた。

「警報が発令されたので、授業がすべて終わっても帰宅せずに学校で待機しましょう」

これではないか。

いや、そもそも「警報が出たら」という時点で判断が遅すぎる。
地震などの場合はどうしようもないが、気象はある程度はわかるのだから「本日は警報が発令されるおそれがあるので休校にします」というのが普通ではないのか。

つまり後手後手を踏んでいるから余計に子供を危険にさらしている、といえなくもない。


「きまり」や「ルール」はもちろん大事である。しかし「それはそれとして」融通を利かせることの方がもっと大切ではないか、といいたいのだ。
もっとそもそもの話ではあるが「きまり」や「ルール」を作るのは簡単なのである。そして「きまり」や「ルール」が多ければ多いほど管理する側が楽なのも、また事実であろう。

フレキシブルなルールは理想かもしれないが、それでは管理する側の自己責任が大きくなりすぎる。だから管理側の負担を少しでも少なくするために、事細かいことまで含めた膨大なルールを作っておく。それは理解できるのだ。

しかしそれはあくまで「管理側の負担を減らすため」であって、管理側が楽をするためにルールでがんじがらめにしてよい、ということではない。

もう一度いうが、ルールを作るのは簡単なのだ。と同時に「情勢に合わせてルールの見直しを常にやる必要がある」ことも忘れてはいけない。

一時期流行ったバカッターなどもそうなのだが、ああいう人間のせいで新たなルールができてしまう。それはやむを得ないことかもしれないが、真っ当に、ちゃんとやってる人間が窮屈に感じるルールになっているのであれば、それはやはり見直しが必要だと思う。

そう、ルールは作るだけではダメなのだ。ルールを作った以上は常に「実態に則してなければどんどん見直す」ということがセットだといってもいい。
本当はみな、ルールを把握した上で、実態に合わせて融通を利かせてくれたら良いのだが、そんなリスクはおいたくない、という人も多いだろうし、そもそも融通など最初から利かせるつもりもない、なんて居丈高な人間も多いのが実情だ。

ならば「管理側は別に融通を利かせてるつもりはない」のに、まるで「利用者側は融通が利いている」と思わせるようなルールを作ればよい。

「作ればよい」などと簡単にいったが、むろん現実にはそうしたルールを作るのは大変だ。

しかしそれがルール作りの基本だと思う。ルールというのは管理側が管理しやすければ良いのではないし、利用者側が我慢すればいいということでもない。

先日の戦争の話と同じで、誰が悪いのかをはっきりさせることは問題ではない。次に同じような問題が起きないようにするにはどうすればよいのか、どういうルールを設ければ利用者側に「がんじがらめ感がなくて融通が利いてる」ように感じて、なおかつ管理側も管理しやすいのか。

ルールだけの話ではなく、どうしても人間、一度作ったらそれで完成、簡単にイジっちゃいけない、と思いがちだが、少なくともルールにかんしてだけは、フレキシブルにやる必要があると思うのだが。



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