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母はしばらく帰りません 7

 それは光太郎と、ガールフレンドのリオちゃんとばったり出くわした後のことだ。
 その頃輝子は仕事を辞めて、次の仕事を始める前にぽっかり空いた休みを使って、長めの一時帰国の真っ最中だった。
 ああ、そろそろ荷造りしないとなあ、などと思いながらも、まあ、今日は暑いのでアイスでも食べて、夜少し涼しくなったらやろう、と決めたのに、母の作ってくれた夕飯をお腹いっぱい食べて眠くなってしまったり、地元の友達に飲みに誘われて、ホイホイ出かけてしまったりで、結局スーツケースを開いてもいなかった。
「ただいまー!」
 冷凍庫の引き出しに、頭を突っ込むようにして涼を取りながら、ラムネ味のアイスキャンディーを探していると、弟の光太郎が元気良く帰って来た。
「あー、テルちゃん、また一人でいいもの食べてるね!」
「お前はなんでいつも、人が何か食べようとしているタイミングでやって来るんだよ?」
と、ブツクサ言いながら、輝子は涼しげな色のアイスキャンディーを二つに割って、片方を差し出してやった。
「えへへ、ありがとう。でもさ、半分こって美味しいよね。だからこれも、二つに割れるように出来ているんでしょ?」
 光太郎は嬉しそうにキャンディーを頬張った。
 幾つになっても可愛いこと言うよな、と輝子は思う。十歳も歳が離れている姉弟なので、オヤツを分け合って食べたような子供時代の思い出はない。けれど、冷凍庫にはキャンディーはまだたくさんあっても、わざわざ一個を分け合う。
「母さんは?」
と、光太郎が尋ねた。
「あー、多分買い物」
「そうか。俺、夕飯いらないって言っといて」
「えー、自分でいいなよ。そういうの、母さん凄い機嫌悪くするんだ。あんたが言えば、別に文句も言わないんだからさ」
「それもそうだね。分かった」
 あっさりと頷く。「可愛い末っ子ちゃん」である自分の地位をよく理解している。そんなところが小憎らしくもあった。
「出かけるの? あの子、リオちゃんとデート?」
「いいや」
と、光太郎は、食べ終えたアイスキャンディーの棒を、高い位置からゴミ箱に落とした。
「別れた。って言うか、フラれたんだ」
「えー? どうした?」
と、輝子は驚いて見せたが、実はちっとも意外ではなかった。
 コタローちゃん好き、好き、大好き、と、いかにもラテン系の子らしいリオちゃんの熱量に対して、光太郎の方が全く応えていなかった。多分、彼女もそんなところに気づいてしまったのだろう、と輝子は想像した。
「あのさー、俺」
と、光太郎は、何か言いかけて口を噤み、考え込んでいるのを隠すように、冷凍庫を開けて、中を物色し始めた。
 輝子は黙ってじっと待った。
 光太郎はラムネ味のアイスキャンディーを見つけ出すと、封を切り、二つに割った一方を姉に差し出した。
「俺さー、やっぱり、女の子とはセックス出来ないんだよね」
 輝子は口に含んだアイスキャンディーを、吹き出しそうになった。
「……小さな弟の口から、セックスとかいう単語が出て来るのは、きっついな」
 それはひどく正直な感想だった。
 輝子は決して潔癖というわけではない。けれど身内や友人など、近しい人達と性的な匂いや生々しさを繋げて考えたくない。だから下ネタや性的なジョークは苦手、むしろ大嫌いだった。
 しかし、弟は今、冗談を言っているわけでも、ふざけているわけでもないのは、よく分かっていた。
「女の子とはダメって言ったね? じゃあ男は大丈夫ってこと?」
「うん。女の子は、恋愛対象にならない」
と、光太郎はきっぱりと言った。
「でも、女の子が嫌いってことじゃないんだよ。むしろ好きだし、リオとも別れたけど、友達でいることはやめないって約束したし」
「え、リオちゃんに言ったの? 女の子は好きになれない。男が好きって」
「いやー、そこまでは、まだ、無理。そのうち打ち明けるとは思うけど」
「そっか。じゃあ聞くけど、今、彼氏はいる? 付き合っている男の子は」
と、聞きながら、輝子はハッと気づいた。
 ちょっと待て。この子「女の子とは出来ない」って言ったよな?  
 それは男とは出来るってこと? もうやっているってことか?
 相手が男であれ女であれ、小さい弟がもうすでにそういう行為をしているかもしれない、というのがショックだった。
 十歳も離れていれば、幾つになっても「小さい弟」なのだ。可愛い、可愛い、甘えん坊の末っ子ちゃんなわけだ。
「付き合ってはいないけど、好きな人がいる。もうずっと前から好きなんだけど、言っていないけど、向こうも俺のこと好きだと思うよ」
 なんだ、それは。輝子は呆れた。何なのだ、この余裕は。
 生まれたときからずっと、愛されることが当然だった人間にしかない、無邪気な傲慢さだ、と思ったが、
「俺のこと、気持ち悪いって思う?」
と、大きな瞳を悲しげに曇らせて詰め寄られると、胸の真ん中がキュッと締め付けられる。
「いや、全然」
と、言ったが、それは正直な気持ちだった。可愛い弟だからではない。
「セクシュアリティーは、個人的なことだよ。あんたが誰を好きになっても、私は口出ししないし、あんたのことを嫌いになったりしないから」
 そう言ってから、少し輝子は考えて、言い直した。
「いや、ちょっと待って。やっぱりさ、よっぽど変人とか嫌な奴とかだったら、口出しするかも。ごめん」
 光太郎は声を立てて笑った。明らかにホッとした顔をしていた。
 いつも自信満々で、森でスキップしながらお花を摘んでいるように生きている、少なくともそんなふうに見えるこの子でも、不安になったりするのかと思うと、急に不憫に思えた。
「あー、良かった。テルちゃんが理解ある人でさ。やっぱり、ロンドンだとゲイも多いからかな?」
「と、言うか、わざわざ隠していない人が多いだけじゃないかね?」
「ふうん。いいね、隠さなくてもいいってさ」
「あんたもさ、高校卒業したら、ロンドンに来れば?」
 ふとした思いつきだったが、口にしてみると、これは凄くいい考えだと思った。
 イギリス全土がそうではないだろうが、少なくとも首都のロンドンでは、マイノリティーが割と生きやすい、と一外国人として暮らしている輝子は思うのだった。
 大体、同性愛者も外国人も、もうマイノリティーとは言い切れないほどの人数が住んでいる、そしてその中に、凄く素敵な人も、嫌らしい奴も、北から来た陽気な男も、南から来た真面目な女もいる。
 だけど、ロンドンには差別がないと言うわけではない。教養がなく、極端に視野の狭い人間は、どの国のどんな街にも居る。
 ただ輝子は、可愛い弟に、自由に生きて欲しい。その為には、少しでも息がしやすいところにいて欲しいだけだ。
「何なら、私のところに住んでもいいしさ」
「ありがとう、テルちゃん」
と、光太郎はとても嬉しそうだった。
「もしかしたら、そう言うこともあるかもしれないけど。今は行けないや。今は、好きな人の側から離れたくないから」
「あ、ああ、そう」
「俺が居ない間に、誰かに盗られちゃったら嫌だからさ」
と、言って、急に照れ臭そうに目を逸らした。急に表情が幼くなったようだ。輝子は、光太郎がもっと小さい頃、小学校に上がったばかりの頃だ。とんでもない悪ガキだったけれど、顔だけ見れば大聖堂に描かれたケルビムのようだった時を思い出した。
 しかし、この子がそれほどまで想っていて、しかも向こうも密かにこの子を好いている相手って、一体誰なんだ? 輝子は内心首を捻った。
 もう長いこと好きでいると言うことだから……。
 学校の先生とか? 
 あ! 中学の部活の先生とか!
 この後、輝子は光太郎には内緒で、こっそり卒業アルバムを覗いたり、数年後に告白されるまで、まさか探している当の本人だと思いも寄らずに幼馴染のタマールに、当時の担任の先生について探りを入れたり、すっかり方向違いの捜索ばかりをするのだった。

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