『エロスとオカルト』6/15:社会について

目次

・「都市の無名性を生きる」

・「東京の豊穣さ」

・「都会の生活/都市生活者たちの報われない生」

・「貧者の陳述」

・「山手線の機能と自由」

・「交通・死・日常」

・「良貨は悪貨を駆逐する」


都市の無名性を生きる

 単に東京生まれ、東京育ちだから都会に目を向けているわけではない。東京人は得てして自分の郷土的感覚を全日本的感覚にスライドさせやすい。東京=日本という図式をすぐに持ち込んでしまう。そういった誤解ではなく、都市というものの動きや機能、性質といったものに興味がある。

 東京には戦後、高度経済成長を経て人口は爆発的に増えている。このことは少なからず人間の生活様式に影響を与えている。相対的に人間の価値は減じているのであり、仕事が専門家・分化されるに従って、個人の偉大さは減っていく。三島由紀夫が望んだような全的人間などという理想像は実現されるべくもない。東京は今、千万人を超える人口を擁している。

 人口が増えたところで、文化の多様性が増すわけではない。多様性はむしろ、移民が増加する場合に保護されるのであって、人々が定着し始めると多様性を保護しようという動きはなくなっていく。今、東京はそのような文化的な停滞期にある。マス・メディアですら以前のように強権を振るうことができなくなって来ている。生活している実感としては、人々はわざわざ外に出て何かを消費したり情報を摂取したりすることはなくなり、自分の生活圏(これは自宅から学校や職場、スーパーなどのあまり広くない距離である)から出なくなってきているように思う。

 いつだったか、仕事に行くためにスーツを着て山の手線に乗っていた時のことである。仕事に行くのが嫌で、顔を見られることに対してストレスを感じていた時(そういった経験はあると思う)、電車に乗っている自分がすごく身軽な、心地よさを感じていたのである。無表情。スーツ。その無名性が自分にとって非常に心地よく、自分のことを知る人が誰もいない公共空間の中に居ることが自分の居場所を作っているように思えたのだ。

 僕は何も喋らない。誰とも目を合わせない。ただ、どこにでもいそうな格好をして、無害そうな表情をして電車に乗っている。ここでのポイントは、何もしていないわけではないということだ。電車に乗っている限り、それはこれからの生産性に向かっている(ように見える)のであって、都市の機能の中に埋没し、それに反抗する姿勢を一切見せていないということだ。

 東京の山の手線という、世界でも類を見ないほどに緊密化され、機能化されたアウトバーンに乗って、都市の一機能として働いている感覚。名前を必要とせず、ただ機能だけを遂行する存在。そうした存在者に自分が成れていることに安心し、自分は何者からも咎められることがないであろうという自立した感覚。たとえ目の前で事故が起こったとしても、見て見ぬ振りができる状況。潜在的な加害者である我々が、加害者として咎められることのない唯一の空間。「生産をしなければならない」という負債を抱えた都市生活者が、負債をゼロに出来る条件。それが山の手線に乗っているということなのだ。

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