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夜逃げの家

 赤かったであろう屋根のペンキは剥げてほとんど色を残しておらず、壁は排気ガスで汚れて染みだらけ、固く閉ざされた雨戸は泥が堆積し住民不在の年月の長さを感じさせる。借金で一家離散したというウワサの空き家があった。

 その空き家と隣の家との間に、人一人がぎりぎり入れるくらいのせまい暗がりがあり、越してきたばかりの私は、駅に割と違いその場所を目ざとく見つけ、とがめる人が誰もいないことをいいことに通勤に使う原付を駐車していた。

 ある夜更けのことだ。残業ですっかり遅くなり、新人につきものの無力感と疲労感にうなだれつつ、最終電車を降りた。無人の駅を出ると、ただでさえ静かな場末の町はすっかり寝静まって物音ひとつない。私は原付をとめている暗がりに向かった。違法駐車をしている後ろめたさとあたりの不気味なほどの静けさに、落ち着かない気持ちで愛車を探した。

 暗闇の中に見慣れたシルエットを見つけてほっとしたのもつかの間、ふいに感じた違和感。そこにあるべきではないはずの物が配置されていた。原付の黒い樹脂製の座席シートの上に引かれた一本の白いライン。はっとして見回すと、空き家の雨戸のごくわずかな隙間から、か細い光が投射されていた。

 無人のはずの廃屋から明かりが漏れていることに私は緊張して身をすくめた。違法駐車している立場で言うのも何だが、物取り泥棒の類だと思ったのだ。明かりの先を凝視する。家の中には古さびれたコタツや木製の食器棚が見え、確かに人の動く気配があった。

 複数の人の密んで話す声が聞こえてきた。声の主は女性達のようで、話の具体的な内容までは分からないが「懐かしい」「お父さん」「来て良かった」という言葉が聞き取れ、時折り笑い声も混ざっていた。その家のかつての住民と思われた。

 物取り泥棒の類ではなかったので私はほっとして、速やかにその場を去ろうとした。足をかけ原付のブレーキを解除した時、車体が地面に触れ、ガタン、という音を立てるや否や、一瞬のうちに明かりが消えて話し声がぷっつりと止み、あたりに重く張り付めた沈黙と暗闇が立ち込めた。

 私は慌てて原付を起動して走り去った。無作法にも家族団らんの邪魔をしてしまったことを、心の底から詫びながら。その夜は、社員寮の固くて狭いベットの中で、私と彼らが出会った天文学的に低い確率について思いを巡らし、寝ようにも寝付けなかった。

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