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剣の神と鹿と正道古流の復興【4】時代劇と個人主義、中央集権、腐敗した国家像


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昭和の時代劇の構造

戦後、敗戦国の日本では、剣術がほとんど過去のものとして葬られ、武士のイメージも大きく歪められた。
そんな時代に、何とか武士の「カッコよさ」を表現しようとしたのは、時代劇だろう。
江戸時代も多く取り上げられ、剣術もチャンバラという形で描かれた。

筆者が侍や剣に興味をもったのも、時代劇がきっかけである。
時代劇のヒーローは、自分のできないようなことを何でも実現してくれる。
非力な私たちの代わりに暴れ回り、大活躍してくれる。
筆者は本当に、時代劇が好きだった。

ところが───。
いつからか、時代劇を観ていて違和感を感じることが多くなった。
先述のような「武士の歴史」や「本当の侍の姿」などを踏まえると、どうもドラマの内容に納得がいかない。

主人公や登場人物に感情移入しづらいときもある。
一個人の人情としては分かる、という場合でも、社会の構造などを考えると、このようなドラマが果たして成立するのか、と、疑問を感じてしまう。

時代劇などは、ほとんどフィクションではないか。真面目に考え過ぎだ。そう言う人もいるだろう。
確かに、おっしゃる通りだ。
筆者も作家として、有りもしない物語をいろいろと作って、書いてきた覚えはある。

しかし、どうもおかしい。
いろいろな「作り話」をドラマにし、自然に任せて、様々な観点を時代劇として表現するならば分かる。が、実は、内容やものの見方に大きな偏りがあることに気づいてしまったのだ。

ひとつは、「個人主義」ということである。
戦後、日本人が団結して、何かをすることは許されなかった。
日本人が一丸となると、他国を脅かすほどの凄い力を発揮してしまうからだ。
そのため、個人主義が奨励され、各人が自分の利益や感情などを重視すべきだ、という考え方が広まった。

戦後の時代劇のヒーローは、だいたい個人で問題を解決する。
例えば、すごく知恵のある岡っ引きが登場して、難事件の謎を解いたりする。このヒーローは、頭が良いだけでなく、腕っぷしもめっぽう強く、敵が束になってかかってきても、やっつけてしまう。
上司も彼にはとても敵わない。
町奉行所は、実質、機能しておらず、このヒーローがすべての仕事をしてしまう。

もし、ヒーローが現われなければ、どうなってしまうのか。
女、子どもはいじめられ、貧乏で、不幸のどん底のような日々になってしまう。自分たちの力では、何もできない。

幕府の役人や金持ちの商人などは、皆、悪人であり、ろくに仕事もせず、庶民を食いものにしている。欲と色にまみれ、腐り切っている。
そんな悪人どもに戦いを挑み、成敗するのがヒーローだ。

水戸黄門と印籠

ドラマによっては、幕府方、徳川の人間がヒーローになることもある。
例えば、水戸黄門だ。
黄門様は、強い家臣二人と忍びの者などを連れた正義の味方である。

だが、ここでも、「ヒーローが来なければ、皆、不幸で何もできない」という構図は同じだ。
日本各地の地方の民は、悪代官などにいじめられている。
やはり、一般の役人(=武士)は悪者なのだ。
庶民は無知、無能で可哀想な被害者である。

黄門様がいなければ、社会は成り立っておらず、いわば無法地帯だ。
この大問題を、黄門様は独りで解決して回っている。少数の家臣や手先はいるが、この「御一行」以外に、庶民がすがれる相手は誰もいないという感じだ。

水戸黄門は、国の「中央集権化」を促すためのドラマであった。
そんな説がある。
地方の人々は無力であり、放っておけば社会が成り立たない。だから、強い権限をもった中央政府が助けるのだ。中央政府の象徴が、黄門様であった。

黄門様が、徳川家の家紋である「葵の印籠を出す」というのは象徴的だ。
これは絶大な権威、権力を表わすものである。
印籠を出した瞬間、皆は平れ伏してしまう。

だが、実際の徳川幕府は、中央集権的な政治を行なってはいない。
天領などを除き、地方の政はかなりの部分、諸国の大名家に任せていたのである。
そもそも、幕府のある江戸以外に、京の都があり、経済の中心地である大坂という立派な町も存在した。東京一極集中といわれる現代とは、国の形が全く違っていたのだ。

諸大名が地方分権的に各地を治め、幕府はその大名たちを監察する。
これが江戸時代の社会構造だった。

地方分権のリスクの一つは、大名同士が勝手に勢力争いを始めて国を乱すことだ。これは、ひどくなれば日本国中を内乱状態に陥れる。
室町時代はこうした内戦が続き、無法な戦国時代に突入した。
そのため江戸時代は、幕府がある程度、強い力を持ち、全国を一つにまとめる形をとった。

とはいえ、基本的には多極的で、地方分権的であった。
これを水戸黄門では、あたかも中央集権国家であったかのように描いた。
しかも、徳川の「印籠」には「謎のパワー」がある。

黄門様は、慈悲深い老人で、民の苦しみに耳を傾ける。
だが、最後は問題を「印籠」で解決する。
印籠は無敵であり、万能なのだ。
 
理屈ではない。
皆は、なぜ、この葵の御紋の入った印籠が、それほどのパワーを持つのか、といったことは考えない。徳川の天下だから、誰もがそのご威光に従う他はない。そんな印象だ。

だが、冷静に考えてみて欲しい。
地方でそこそこの力をもつ代官などの武士ならば、黄門様のご一行くらいは倒せるはずである。
なぜ、彼ら悪人は、それほどまでに葵の御紋を恐れるのか。

それは、徳川がどの大名よりも強いと思えるほどの「大軍」を抱えているからだ。
徳川の大軍は非常に統制がとれており、合戦となれば公儀のために命を捨てて戦う。だから、地方の大名や武士たちは、徳川を畏怖したのである。

「徳川のご威光」というものは、徳川家康や徳川御三家などに、何か珍しいカリスマ性があった、とか、個人的な魅力があった、など特殊な形で生まれた「ブランド力」ではない。
これは「公儀の証」であり、非常に多くの武士たちの「総力」を表わしたものなのだ。

江戸時代、地方の武士たちは、この徳川幕府の「総力」、「大軍」を恐れていた。
民を苦しめるような政をしたり、私欲や私怨のために争いを起こしたりすれば、徳川に怒られる。徳川に怒られれば、大名家は潰され、城から出ていけと言われる。その命令に逆らえば、幕府の大軍が攻めてくる。

幕府の大軍というのは、徳川軍だけを意味しない。徳川将軍に率いられた、全国の大名たちが、莫大な数で討伐にやってくる。
一大名には、とても勝ち目はなかった。
だから、どれほど強い武士でも、おとなしく法と秩序を守ったのである。

江戸時代の武士は、そう簡単に悪いことはできなかった。
少し悪いことをしたり、私腹を肥やすようなことがあっても、おおむね社会は安定させておかねばならない。
ある程度、民を満足させておかなければ、武士として失格と見なされたのだ。

ところが、時代劇にはほとんど「失格な役人」しか出てこない。
徳川の公儀は腐り切っており、地方の武士も悪人が多く、武士の世が終わるのは必然であった。そう言わんばかりである。

官民の協力は、すべて悪なのか

この世界観は、戦後の歴史教育と酷似している。
一見、娯楽のための自由な創作と思われる時代劇も、思想の統制や誘導の手段になっていた、と、考えざるをえない。
事実を曲げたり、実際とは異なった日本のイメージを作り出し、皆の心に刻みつけた。

徳川の公儀は、本当に腐り切っていたのか。
これを考えていくためには、少し柔軟なものの見方が必要になるだろう。

例えば、現代では、政治家や公の職にある人が、民間企業などと親密な関係をつくり、連携するのは良くない、というイメージがある。特に日本では、そういう常識が定着しているように感じられる。
ところが、歴史的にみると、官民が力を合わせることはよくあった。特定の人が暴利をむさぼったりしない限り、それは国を富ませる重要な手段といえた。

今でも、世界を見渡せば、政府が経済を主導している国がある。官民の区別、境界が曖昧で、それにより、国が潤っているケースも少なくない。
最近まで、このような国は、自由競争という世界経済のルールに反している、などと批判されてきた。が、次第に、政府が公然と経済に介入することが増え、世の常識は変わってきた。

民間主導の自由経済と称していた国でも、実は長年、保護貿易などが行なわれていた、という事実が明らかになっている。
自国産業の保護だけならばまだしも、国が他国へ政治的な圧力をかけたり、世界情勢をコントロールしたり、誘導したりして、自国の企業などに利を与えていた、という場合もある。

政治家の中には、公職に就いたり、民間の企業人となったり、官民を行き来しながら莫大な富を得ていた人もいた。
これは完全な悪徳だが、それくらい世界では官民の境界が曖昧なのだ。

政治と経済は本質的に深い関係がある。
公の人は商売に手を染めてはいけない。これは極端な考え方だろう。

日本の武士も、様々な経済活動に関わっていた。
ただただ、農民から一方的に年貢を取り立てるだけでは、創造性や発展の余地がない。
商人などと連携し、その力を活用するのは大事なことであった。

経済においては、お金をうまく回すことが重要だ。
豪商が有り余るほどの財を持っているならば、それを上納させて武士が預かり、公共事業などに使う手もある。
逆に、資金のない商人が、社会のためになり、利も生むような素晴らしい商売を思いついた場合、そこに大名などの武士が投資をするのも有効である。

臨機応変に、融通をきかせることが、国の発展につながるのだ。
しかし、時代劇の中では、役人と商人は悪い相談ばかりをしている。

江戸の町民と武士

江戸時代の役人は、庶民に「袖の下」(=金品)を要求するというイメージもあるが、これも現代人の感覚と当時の人々の感覚は、かなり違ったと考えられる。
多くの武士は、貧乏であり、金に困っていたのだ。
そんな武士に、町民などが何かを頼む場合、ただで働けというのは酷である。

武士の面目を潰さない形で金を払うには、「袖の下」しかなかった。
侍たちより裕福だという自覚のあった町民は、進んで袖の下を渡したことだろう。
これは人間として、自然なことだ。

中には、自分より貧乏な者から金を巻き上げようとした武士も、いたかもしれない。
しかし、そのようなことをすれば、町中で噂になり、誰もその役人を相手にしなくなって、人づき合いに問題が生じる。
小さな利を求めたせいで、逆に孤立し、もっと貧乏になるのだ。
そんな愚行に走るより、日頃から町のために尽くし、皆に慕われて、自然と「袖の下」が集まるようにしたほうがいい。

武士が、ある程度、豊かで、身だしなみを整えたり、しっかり奉公人などを養えたりすることは、国を保つために大事だった。
民も、そのほうが嬉しかったはずだ。特に、江戸の町民は、徳川将軍のいる武士の町を誇りに思っていたから、武士の貧乏な姿など見たくはなかっただろう。清貧という美学もあったが、それにも限度がある。
武士は、逞しい肉体をもち、武芸などに励み、何かあれば庶民を守らねばならない。その武士が、食うや食わずでは困るのだ。

江戸時代の武士(特に役人)は民に嫌われ、迷惑がられていた、というイメージは、非常に極端で、人為的に作られたものと考えられる。
実際には、皆に尊敬され、慕われていた武士もいた。場合によっては、庶民が、堅苦しい規律に支配された武士に同情していたくらいである。

江戸の侍たちは、おおむね善良に、あるいは、少なくともまともに生きていた。そう考えてもよいのではないか。

もちろん、官民が悪い意味で癒着し、不正を行なうのはよくない。
汚職の蔓延は国を亡ぼすもとである。
しかし、ガチガチのルールで縛り、融通が利かず、良い経済活動や発展すらできない、という事態は避けるべきであった。

下克上のところでも述べた通り、本当に正しい道、行ないとは何なのか。これを見極めるには、深い洞察力とシンプルな感覚が必要だ。
汚職に関しても同様である。清いものと汚れたものの区別は、表面的な事象だけではつけ難い。

清い川にも大雨が降れば泥が流れてくる。そのときに来る土砂や石などの動きによって、川底が洗われ、清く透明な水が保たれるのだ。
むしろ、綺麗に洗ったつもりの水槽や容器に水を入れ、外との流れを絶ったほうが、水は腐って汚れてしまう。

現代人の中には、野菜に土が付いているだけでも、完璧に洗い落とさなければ、と考える人がいる。
だが、土が野菜を育てている、という大事な理を忘れてはいけない。
自然の理を解さず、その場の印象や、自分の狭い思い込みによって、これは綺麗でこれは汚い、などと判断するのは問題だ。

真の道徳観、ものの良し悪しを判断する基準というものは、自然の法則や、長い長い伝統によって培われてきたものである。
シンプルでありながら、浅くはなく、しっかりとしたものでありながら、柔軟である。

現代の日本人の中には、お上を信用できなくなった人がいる。何かある度に「汚職ではないか」「談合ではないか」と、すぐに疑ってしまう。
自分自身が何かを目撃したりした場合は、疑ったり、訴え出るのもよいだろう。しかし、よく知りもしないことに対して、騒いだり、怒り出したりする人も多い。
「役人は悪い」というドラマを作り続け、観続けてきた影響は計り知れない。

日本は常に技術大国であった

武士は、人としてまともであっただけでなく、本当は、役人として非常に優れていた。
明治以降、日本が即、新しい時代に適応し、近代化したのも、実はすでに江戸幕府が高度な政府機能や実務能力を有していたからだ。
江戸が東京に変わり、新政府の人々が急に入ってきても、日本の首都がうまく機能したのは、江戸時代の役人たちがいたからである。

外国人との付き合いも、すでに江戸時代からあった。
戦国時代に、西洋人がかなり自由に入ってきて、武士はその頃から世界とつながっていたのだ。
江戸はかなり閉鎖的な時代ではあったが、幕府の人間は異国についてよく知っていた。
一部の商人も、異国人と渡り合っていた。

明治維新というと、まるで日本人が皆、別人に変わったかのように思うが、どこからか「新しい日本人」が大量に入ってきて、「古い日本人」を追い出したというわけではない。
江戸時代の日本人が、ただ、そのままいて、チョンマゲを切り落としたり、袴をズボンに履き替えたりしただけだ。

日本は昔から技術大国である。
戦国時代、鉄砲が伝来したときも、あっという間に国産化してしまった。
江戸の職人たちも、非常に緻密な技をもっていた。例えば、大工などは優れた腕を誇っており、主に木で造っていた建物がレンガなどに変わったとしても、すぐに適応したのである。

何層もの天守や、高い石垣をもつ立派な城が築けた日本の武士と職人たち。彼らにとって、近代化はさして難しいことではなかっただろう。
もちろん、西洋から新しい技術や発想が入ってきたが、それをすぐに自分たちのものにするための「ベース」があったのだ。

このあたりの認識も、しっかりと実態に近づけていかなければならない。
海の外から新しい技術や学問などを取り入れるのは、自分の国が遅れているから、とは限らないのだ。
自ら積極的に学びに行った可能性もある。異国人がやって来た場合も、ただ拒絶したり、占領されて植民地化されたり、という二択ではない。
外国人を活かしつつ、何を取り入れ、何を危険視して排するか、それを熟慮、判断するのが国のリーダーの重要な役割である。

それはいつの時代も同じだ。
古代から、日本は海の外と適度に交流してきた。
聖徳太子は仏教を取り入れたが、それまでの日本人が宗教を持たなかったとか、不信心だった、というわけではない。日本には自然と結びついた神々がいたのである。神々への信仰心を表現するための文化も、すでに存在した。
しかし、他にも何かよい知恵があるかもしれない。

日本人は、何か一つの考えに凝り固まることを好まない。常に、変化するきっかけや、新しい風を求めている。
これは、遅れているからでも、未開だからでもなく、謙虚で、若々しい精神をもっているからだ。新しいものを受け入れる度量がある、ともいえる。

自分がダイヤモンドのように固くなり、光り輝くことを求めるのか。あるいは、様々なものを容れて融合させる器となるのか。
日本人には、後者の生き方を好む人が多いように感じる。


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