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剣の神と鹿と正道古流の復興

はじめに

今、日本人は、本来の心と歴史を思い出すべき時だと感じている。
過去150年ほど否定されてきた武士の時代を正統に評価し直し、古代から続く自国の長い伝統を誇るべきだ。
そのための一つの鍵が「武道」であり、「剣」であると思う。

日本人は、剣とその心をずっと大切にしてきた。
剣は武器であっても、ただの武器ではなかった。
それはとても神聖なものであり、通常の刀の意味を超えた役割を有していた。

日本の剣の神は、かなり独特である。
力自慢の武神を倒し、最強の神といわれるが、その戦い方は常人がイメージするようなものとは全く違う。
この剣の神について考え、理解しようと試みることは非常に大事だ。

剣の神について知れば、日本の歴史を千年単位でとらえ、過去と現在を結びつけ直すことができる。
そして、明治維新や昭和の敗戦などで断絶、変容した日本人の心が癒され、新たな活力が生まれるのではと考えている。


「平和の剣」柳生新陰流は、長い歴史の産物

徳川家康は、戦乱をおさめて泰平の世を作り上げた英傑だ。
しかし、家康も長い長い日本の歴史の中では、一武士であった。と、同時に一剣士であり、家康は剣の神を信仰していた。
大昔の武甕槌(タケミカヅチ)という剣の神である。

家康が、徳川将軍家の御家流と定めたのは、「平和の剣」といわれる柳生新陰流。
この柳生新陰流は、実は、古くから続く日本の歴史が生んだものであり、戦国時代、柳生一族によってにわかに発明された兵法ではない。

確かに、実技として「人を切らず、命をとらず」に戦いを制する業を編み出し、完成させたのは柳生石舟斎宗厳だ。あるいは、石舟斎の師である新陰流の流祖、上泉伊勢守信綱の力が大きいだろう。
しかし、新陰流というのは、古い日本の剣術流派から様々な技や要素を集めて創ったものだ。当時すでに存在した「陰流」に、他流の良いところを加えた「新」陰流なのである。
新陰流は、いわば、過去の日本の剣術の集大成といえる。

日本の剣の歴史は、気が遠くなるほど長い。『古事記』や『日本書紀』に、剣の神、武甕槌(タケミカヅチ)が登場し、この神は常陸国(茨城県)の鹿島神宮に主神として祀られている。
奈良時代には、西の都の春日大社にも勧請された。

武甕槌とは一体、どのような武神であったのか。

昔々、多くの神を産んだとされる女神イザナミ。しかし、イザナミは、火の神カグツチを産んだとき、母体に大火傷を負ってしまう。これがもとで亡くなってしまった。
イザナミの夫、イザナギは、妻を死なせた火の神カグツチに対して剣を抜き、首を切り落とす。この時、カグツチの血から新しい神々が誕生し、その中の一柱が武甕槌(タケミカヅチ)だという。

武甕槌が生まれ、剣の神となった後───。
高天原の天照(アマテラス)大御神は、天から地上を見て、騒がしく荒々しい現状を憂慮した。そして、葦原中国あしはらのなかつくにを平定しようと試みる。
天照大御神は地上に神々を遣わしたが、諦めたり、懐柔されたりして、なかなかうまくいかない。そこで、この大役を任されたのが武甕槌であった。

武甕槌は、海辺に降り立ち、大国主(オオクニヌシ)に国を譲るよう交渉を行なった。
その際、波に剣を突き立て、その切っ先の上にあぐらをかいて見せる。
大国主は武甕槌を畏れ、戦うのをやめた。
ただ、国譲りについては息子たちに尋ねてくれという。

息子の一人は武甕槌に逆らわなかったが、もう一人の息子タケミナカタは抵抗する。
タケミナカタは地上の軍神で、大きな岩を軽々と持ち上げるほどの怪力をもっていたのだ。

武甕槌とタケミナカタは力比べをすることになった。
これが相撲の起源ともいわれる。
相撲が始まり、タケミナカタが武甕槌の手をつかもうとすると、その手が氷柱や剣と化した。タケミナカタが驚き、怯んだ隙に、武甕槌は軽々と投げ飛ばしたという。

タケミナカタは逃げ去り、葦原中国は無事、平定された。
武甕槌は、地上の人々から剣の神として崇拝され、鹿島神宮の主神となった。

この物語で注目すべきは、大国主やその子タケミナカタが、敗れても生き続けたことである。
剣の神、武甕槌が刀を振るえば、この二神を斬り伏せることもできたはず。しかし、そうはしなかった。

武甕槌は、剣の切っ先にあぐらをかいた。つまり、剣尖を自分のほうへ向けたのである。
これにより、自らの神としての業を示し、交渉を行なった。
タケミナカタに対しても、相手が得意とする力比べに応じ、相撲で決着をつけた。
こうした形で、武甕槌は国譲りという大事を、誰の血も流さずに成し遂げたのだ。

日本の剣の神は、昔から相手を「切らなかった」ことが分かる。
剣は、猛々しい相手を心服させ、国を平定するための道具であって、神々や人を斬るための凶器ではない。

武甕槌は、刀によって切られた火の神の血から生まれた武神だ。切られて、命を奪われた者の苦しみや悲しみを背負って誕生している。だから、相手を切りたくないのだ。 
また、火の神の神話を違った面からとらえることもできる。火の神の誕生は、人が火を扱う技術を向上させ、刀などの鉄器を作り始めた、という技術革新を象徴した話かもしれない。
そう考えると、この技術革新によって強い武器ができたが、代わりに、偉大な女の神が死んでしまったということになる。この大惨事に、夫のイザナギは涙を流し、悲しみに耐えられず、我が子を斬ってしまう。火の力で造ったであろう立派な長い剣で、火の神を殺してしまったのである。

剣の神、武甕槌は、刀という武器をただ喜んで使うことはできなかった。女神イザナミは多くの神々にとって母であり、母なる存在であった。武甕槌自身にとっても母同然といえる。その神を失った苦しみは計り知れない。
生まれた時から母もなく、周りには嘆き悲しむ神々ばかり。武甕槌はそんな運命と巡り合わせの中にいた。だから、刀の使い方には誰よりもこだわり、極力、誰も傷つけないよう工夫したのだろう。

天照大御神は、力による争いが多かった国を静かに平定するため、武甕槌に期待した。それは、この剣の神が武器の力や流血を非常に嫌い、不幸な惨事を避けるための深い知恵をもっていたからに違いない。

武甕槌は、気が遠くなるほど長い間、剣の功罪について考え、この矛盾を超えて剣を活用する、という難題に取り組んだ。人々に知恵と技を与え続け、神聖な心と感性を授けて、「平和の剣」を生み出すよう促した。これが日本の剣の歴史ではないだろうか。

神の使いとされる鹿

剣の神武甕槌は、東国の鹿島神宮に祀られた。鹿島というのは文字どおり「鹿」に縁のある地だ。

鹿島の武甕槌は、奈良の春日大社に勧請されることになった。その際、白い鹿に乗って西へ旅立ったという。
鹿は神の使いであり、特に剣の神、武甕槌を支えた神聖な生き物とされた。

鹿は鋭い角をもっている。戦うときは、この角で戦う。相手に噛みついたり、爪で引っかき回したり、取っ組み合いの争いをしたりはしない。
これは、武士が剣で戦う様にとても似ている。ある種の優雅さや美しさ、気品などが感じられるのだ。

そんな鹿が、剣の神の使いとされたのは必然であり、自然なことと感じられる。
奈良では、今や鹿が町全体を象徴するほどの存在となった。

「奈良」と「剣」といえば、柳生である。
平安時代、関白の藤原頼道は、柳生の地を藤原氏の氏神である春日大社に寄進した。以来、柳生は春日大社の社領となった。
柳生一族は、この社領を預かる武士だったのである。

戦国時代、剣術をめぐって不思議なことが起きる。
関東に、上泉伊勢守信綱という剣の天才が生まれ、諸流を学んで新陰流を創始した。
伊勢守は剣聖と讃えられたが、戦さに敗れ、一剣士として旅に出る。
そして、奈良で柳生宗厳(後の石舟斎)に出会うのだ。

柳生宗厳も剣士として名を馳せていたが、伊勢守には全く敵わず、弟子となる。
伊勢守は宗厳と意気投合、柳生の地によく逗留した。そして宗厳に、刀を使わず敵を制する「無刀取り」という業を形にするようにと言った。
宗厳は、剣聖上泉伊勢守の期待に応えて剣の新境地を開いた。これが「無刀取り」を極意とする柳生新陰流だ。

関東武士であった上泉伊勢守の奈良行きは、まるで武甕槌の春日大社への旅のようである。

柳生一族と天神、雷、武甕槌

柳生一族は、春日大社にゆかりがあるだけでなく、他にも武甕槌との縁を示す歴史をもつ。
それは天神だ。
天神といえば知恵の神、菅原道真であり、怒れば雷を落とす雷神として畏れられているが、柳生一族は、実はもともと菅原氏なのだ。

そして、武甕槌(タケミカヅチ)は、「建御雷」と表記されることもある。
こちらも雷神であった。雷は「イカヅチ」で、これに御をつけると「ミカヅチ」となる。
雷は地上に閃き、様々なものを一瞬で切り裂く。この様が剣の神の業と思えたのかもしれない。

武甕槌(建御雷)は、高天原の神であり、天高くに存在するというところも天神に通じる。
柳生一族が、天神の子孫として、深い知恵を発揮し、柳生新陰流という平和の剣を編み出したのも、偶然ではないだろう。

「建御雷」をタケミカヅチと読むのは分かる。では、「武甕槌」という字はどのような意味をもつのか。
「武」は武神の武、武力や武士の武だ。
「甕」というのは水を入れるカメのことである。水の「ミ」と甕(かめ)の「カ」で「ミカ」となる。
そして、「槌」は金槌や木槌などの「ツチ」である。

刀は、火で熱くした鉄を水につけて焼入れし、槌で打ち叩いて造るものである。
火の神から生まれた武甕槌は、水と槌によって完成するということだ。
これが一つの、いわば「物理的な剣」の意味だろう。

他にも、水には地上に雨を降らせるといった意味がある。
雷が鳴れば雨が降る。武甕槌は、どちらかというと、火を煽る武神ではなく、水をかけて鎮める神ということだ。

西洋占星術では、「みずがめ座」という星座がある。「みずがめ」は「水瓶」であり、まさに「みか」と同じ意味だ。

みずがめ座の性格は、革新的でクリエイティブ、固定的なルールにとらわれない博愛主義者だといわれる。そして、占星術のみずがめ座も、熱くなっている人々に「水をかける」という性質がある。
愛情豊かではあっても、あまり情には流されず、冷静な面があるのだ。

「みずがめ」(=甕)というのは、「柔軟さ」や「冷静さ」の象徴である水を容れ、蓄えておくことができる。そして、重要な場面で使うということだ。
水は、「清らかさ」や「純粋さ」も表す。また、生命にとって欠かせない「大事なもの」という意味もある。

つまり、武甕槌は、純粋なものや大事なものを甕に蓄え、それを様々な形で柔軟に用いて、世を落ち着かせ、平定する神なのだ。
熱くなり過ぎた者たちの心を「水」で冷まし、悪い者がいれば「槌」で叩く。
何とか「人を切らず」に世を治めようとする。これが、剣の神の心といえるだろう。

武甕槌は、実に柔軟で発想豊かな神だった。
波の上に剣を突き立て、その切っ先にあぐらをかいて見せる。これはかなり奇抜な姿である。
常識では考えられない。が、この姿を見せることで、大国主とうまく交渉ができると考えたのだ。

神の業は、ただ奇抜なだけではない。
とても的を射ており、大事な意味がこめられている。

切っ先の上に座るというのは、公平性やバランス感覚を表わしている。
国を譲り受けたら、必ず公平にうまく国を治める。その業を自分たちはもっている、ということを示したのだと思う。

それまでの葦原中国は、力で争う傾向があり、乱暴な神々や人々が勝者として君臨していた、と考えられる。
しかし、敵を打ち負かして圧するより、公平性やバランス感覚で国を治めるほうが大事なのではないか。
武甕槌はそう問いかけたのだろう。

日本の諸流派では、「剣の極意は中心をとること」といわれるが、この理とも通じている。

海辺で、波の上に剣を打ち立てた武甕槌。
これは、いくら波風が立ち、世が混乱しても、惑わず、穢れもしない神の姿を表現している。
武甕槌は、素晴らしい発想と創造力、表現力、交渉力で、相手を切らずに勝ったのだ。

西洋占星術では、みずがめ座は「風の星座」といわれる。が、この風というのはドライな風のイメージではなく、台風などの風雨を意味する。
地上が渇いていたり、何かに凝り固まっているときに変化を起こすのが、みずがめ座だ。
風が吹くと、皆は驚き、混乱する。しかし、みずがめ座は冷静で、揺るがない性質をもつ、とされるのだ。

徳川家康はみずがめ座!?

徳川家康が、剣の神である武甕槌を信仰していたことはすでに述べた。
その家康は、占星術も用いていた。占いによって諸将の性格を洞察し、うまく国を治めたというのだ。

家康の用いた当時の占星術について、筆者は詳細を知らない。
しかし、家康は西洋占星術でみると「みずがめ座」であるらしい。これはとても興味深いことだ。

柳生新陰流は、家康と出会い、徳川の御家流となったことで、世に広まり、平和な国づくりに活かされた。
つまり、日本の剣の歴史において、徳川家康はキーマンだったといえる。この家康がみずがめ座であった。

家康は、人の首を取るのが手柄といわれた戦国時代に、戦さは嫌いだと言った。
そして、いつか日本国中を平和にできるのではないかと考えた。
これは、当時の武将としては、かなり常識外れなことであり、実現すると信じた者は少なかっただろう。しかし、家康は自分の信念を曲げず、嵐のような乱世に揺るぎなく立ち続けた。

徳川家康という人物は、みずがめ座らしい「革新的な考えと信念をもった、冷静で、変わり者の博愛主義者」であった、といえるだろう。

変わっているし、多くの者が驚くような発想だが、やがては皆を納得させ、心服させてしまう。これが、武甕槌と家康の共通点だ。

無類の剣術好きであった家康は、もちろん鹿島神宮に詣で、寺社としても大切に保護した。
東国で生まれた新陰流は、西の奈良、柳生へ行き、豊臣時代の末期に上方で徳川家康と出会った。その後、家康によってまた、関東へ帰され、江戸時代の平和を生んだのである。
柳生石舟斎宗厳の子、柳生宗矩は徳川家に仕え、将軍家の剣術師範となって、江戸柳生と呼ばれた。

剣の神は西へ東へ、乱れた世を安寧へ導くために移動し続けたようだ。

家康は、過去と未来を結び付ける才能をもっていた。
戦国時代、武器や築城などで新しい技術が次々に用いられる中、その最先端を走り続けた家康。それと同時に、日本の古い感覚や、伝統的な武士の価値観などを、多くの人に思い出させたのも家康だった。

戦国時代には、鉄砲が伝来し、瞬く間に国産化された。次々に増産され、日本の武器の代表格となった。大砲まで使われ、剣術などは廃れる運命にあると思われていた。
しかし、家康は古い心を忘れなかった。

出世争いに敗れ、時代遅れの剣術に人生を捧げ、自らを沈んだ「石の舟」と称した隠居老人、柳生石舟斎。家康は、この石舟斎の兵法を絶賛し、徳川の教育の核にすえたのである。
人の命を奪う競争のため、増産され続けていた鉄砲。この大きな波に呑まれることなく、剣の神と日本の武士の精神、そして美学をめざめさせたのだ。

江戸時代には、日本の全国各地にこの柳生新陰流が広まり、平和な世が保たれた。
剣の神、武甕槌も満足したのではないだろうか。
                                                                                      以下の【2】に、つづく


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