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「大樹の心」 第一章 将軍への道

           一

古今東西、兵法者はしばしば夢想する。
山深い地や剣にゆかりの神社など、静かな場所で夢想し、尋常の技を超えた妙術を得た。中には術にとどまらず、攻防の理を広く悟り、新しい剣の流儀を打ち立てる者もいた。
徳川家康も、夢想する兵法者である。
ただし、思い浮かぶのは狭義の剣技というより、政道や軍略に関すること。つまり「大なる兵法」の妙案であった。
夢想せずして、人が大きく飛躍することは難しい。
眠って夢をみること。ぼんやりと心の中で自由な光景を思い描くこと。また、ふとした瞬間、頭の中が「虚」になり、何かを想ったり、感じたりすること……。
人は、もし同じ場所にいて、同じものを見ても、何を感じるかはそれぞれ違う。例えば、山中で道に迷ったとき、美しい鹿を見かけたとしよう。これをただの獣と思うのか、あるいは、鹿は神の使いゆえ、付いて行ってみようと思うのか。
昔から日本には、道に迷った者が、人以外の生き物に案内され、助けられたという伝説がある。そういう不思議な話を信じる純粋な気持ちや心の余裕が、人を今とは違った世界へ連れていく。
家康はそう思っていた。
「夢想」は「妄想」と紙一重という人もいる。確かにそうかもしれない。しかし、家康にとって、その違いはかなり明白だ。
「妄想」は、己独りの閉ざされた世界のものであり、抱けば抱くほど、心は狭く、小さく、不自由になる。現実の世界を好転させることはできず、自らの心身も消耗し、弱っていく。
一方、夢想は広い世界や大地、天の動きとつながるものだ。周囲の人には笑われたとしても、必ずどこからか助けが来て、事態を打開することができる。
兵法者がしばしば山奥へ入ったり、神社に籠って修行をするのは、俗人達に笑われたり、邪魔をされたりせずに飛躍を遂げるためだ。
一時的に人を避けるが、別に人を嫌っているわけではない。目的は、人の世を良い方向へ、大きく動かすことである。良き夢想は、思いやりに満ちている。そのため、いくら神がかった兵法者でも孤立することはない。聖域で得た技や知恵を、温かい心で人々に伝え、喜ばれる。
この思いやりと、人を導く地道な取り組みによって、初めて夢が現実となるのだ。
妄想には、地道さがない。無論、思いやりもなく、広い世に受け入れられることはない。たまたま同じような妄想を、多くの人が同時に抱くことも、あるにはある。が、そのようなことは長くは続かないと、家康は信じていた。

後に関ヶ原合戦の年として記憶される慶長五年(一六〇〇年)──。
家康は、六月のぬるい靄(もや)がかかった早朝の道を東へ向かって進んでいた。京の伏見を出て東の会津へ向かう。家康の前後には大軍が連なっていた。そこには徳川の軍勢のみならず、豊臣家の大名や家臣達も従っている。
家康は豊臣政権で最高位の内大臣に昇り詰め、五大老の筆頭となった。今は主に大坂城に居て、豊臣秀吉の遺児、秀頼を抱えつつ、政務全般を取り仕切っていた。
ところが、五大老の一人、上杉景勝が領国の会津で上方に反する動きを起こした。豊臣秀頼への謀反とは言い切れない。が、反徳川の意を示し、今の政権を揺るがそうとしていることは確かであった。
そこで家康は、豊臣秀頼とその母、淀殿の許しを得て上杉討伐を決め、自ら総大将となった。
馬上の家康は、遠い目で街道の景色を眺め、半ば夢想していた。
近頃はよく昔のことを思い出す。
幼い頃の特異な境遇から、家康はうつつを離れ、自由に夢想する業を身につけた。その力は人一倍だと自負している。空想の世界に入り込むのも得意だが、そこから現実に戻る早さも並外れていた。
この術を覚えたのは、まだ六、七歳の頃だ。
しばしば、乱世は一瞬たりとも気が抜けない世界といわれる。しかし、この地獄のような世を生きるためにこそ、むしろ夢想は必要であった。
あれは五十数年前──。
家康はまだ松平竹千代と名乗っていた。
竹千代の人生における初めての戦いは、敵に囲まれた薄暗い場所で、ひたすら動かずに耐えることから始まった。長年、思い出すだけで、ひどい息苦しさを覚えたほど辛い日々であった。
側に家臣はいたものの、敵に比べれば、わずかな数。多勢に無勢でなすすべもない。部屋に閉じ込められた竹千代は、息を詰めて過ごしていた。いつ殺されるかも分からない。部屋の外の廊下や庭には、怖い男達がいて、昼夜を問わず己を見張っていた。

           二

六歳の竹千代は、海道で覇権を握る今川家の人質となるため駿府へ向かった。が、その途中、船を都合した戸田氏に裏切られ、敵国の尾張へ送られたのである。
尾張はその頃、織田信長の父、信秀の領国だった。織田家と今川家は長く敵対していた。信秀は竹千代の身柄を奪うことで、松平家の動きを封じ、あわよくば織田家に従わせようと考えたらしい。
だが、竹千代の父、松平広忠は今川義元に義理があり、織田方へ寝返ることはできなかった。
結果、竹千代は二年もの間、尾張で囚われの身となったのである。
信秀は、竹千代の居場所を松平家に知られないため、幼い子をほとんど外に出さず隠し続けた。公には、寺に住まわせていると称したが、幾つかの場所を転々とさせられ、常にどこかに押し込められていた。
松平家は忍びの者をよく用いる。もし、竹千代がここにいる、などという噂が立てば、すぐに確かめ、いかなる手立てを用いても救い出すだろう。そのため、織田方の見張りは厳重を極めた。
尾張の諸将や民の目も気になったに違いない。今川へ行くはずだった幼い証人を、卑怯な形で奪った信秀。その無慈悲な悪行が世に知れ渡っては困る。
そのため信秀は、竹千代を隠し、この一件を曖昧にした。都合が悪くなれば、幼な子を無法にさらったのは海賊の類であろう、などと言って、とぼける腹であったと考えられる。
戸田氏が、何者かに竹千代を売り飛ばし、金を得たのだ。織田家が企てたことではない。賊に売られた竹千代が、尾張の某所に閉じ込められていたため、己が助けてやり、身柄を預かった。そんな風を装うこともできる。
戸田家は織田方に竹千代を渡す際、軍事についての約束は交わしていない。ただ、金だけを受け取って竹千代を売った。このやり方は、首謀者を隠すのに都合がよかった。
実際、竹千代自身も、初めのうちは誰に売り渡されたのか、はっきりとは理解できなかった。身代金目当ての賊という可能性も感じていた。海路、尾張へ送られた直後は、武家かどうかも定かでない屋敷へ押し込められ、ひどい扱いを受けた。それもあって、相手が織田家のまともな侍とは思えなかった。
竹千代の供をしていた松平家の家臣達は、この扱いを不当と訴え、敵を説得。しばらくすると、賊のような行ないは改められた。
しかし、尾張での不自由な暮らしは続いた。時折、庭で身体を動かし、家臣を相手に木刀を振ることなどは許されたが、のびのびと外で遊んだりはできなかった。竹千代はすでに手習いをし、字もかなり読めたため、家臣達は本を貸して欲しいと頼んだが、与えられるものは限られていた。
その当時、竹千代の母、於大(おだい)は訳あって織田方の領内にいた。竹千代の誕生後、実家の水野家が反松平に方針を変えたため、広忠に離縁されていたのだ。
於大は聡明かつ慈悲深い人で、広忠にも松平家の家臣達にも愛されていた。竹千代を産んだのが、寅の年、寅の日、寅の刻であったため、縁起の良い男子の生母として賞賛されていた。それが、実家と松平家の都合で、我が子と生き別れる運命となった。竹千代が三歳の時の出来事である。
織田領内にとらわれた竹千代は、幼いながらも、於大がそう遠くない場所にいることを知っていた。このため、母が助けに来てくれると、ひたすら信じ、それを心の支えとした。家臣達は、水野家が織田家に逆らえないと分かっていたのだろう。が、あえて、そうはっきりとは言わず、幼い若君に希望をもたせた。
ある時、於大から温かい着物が届けられ、竹千代は感激した。その衣に包まれ、夜は袖を握り締めて、泣きながら眠った。
於大は様々な手を尽くしてくれたようだ。しかし、結局、信秀が於大を竹千代へ近づけることはなかった。後に分かったことだが、於大は我が子に文も書いていた。竹千代はそれを受け取ってはおらず、信秀が取り上げていたらしい。
まだ六つ、七つであった竹千代は、時々、気がおかしくなりかけた。いつまでこのような毎日が続くのか。無理にでも脱出を試みて、討ち死にしたほうが、まだましではないのか。
家臣達は、父広忠が必ず助けに来ると言った。だが、来ない。
織田家の侍は、広忠はお前を見捨てたと言う。我が子の命より、今川への忠義を選んだというのだ。
物心ついた頃から、忠義の大切さは教えられていた。しかし、父のことを思うと涙が止まらない。
本当に、竹千代はいつ殺されるかも分からない立場であった。家臣達は、そのようなことはないと言いつつも、常に緊張、警戒し、織田家の者達の顔色をうかがっていた。
次第に竹千代は、家臣達が嘘をついているのではと考えるようになった。
そんな中、思い出されたのは、岡崎の城で父や重臣達が語ってくれた先祖の話だ。

            三

松平家の祖といわれる松平親氏(ちかうじ)は、没落流浪していたものの、元は源氏の武士である。平安時代の末期、上野国の新田を本拠として名を馳せた源義重の子孫だ。義重は清和源氏で、新田氏の祖として知られる。この義重の四男が、新田郡得川郷を領して得川義季(とくがわよしすえ)と名乗った。
時を経て室町時代、得川一族は鎌倉公方と呼ばれた足利満兼(みつかね)に本領を安堵されていたが、この子、足利持氏(もちうじ)と関東管領の上杉氏が対立、永享の乱が起きる。得川氏は鎌倉公方に忠誠を尽くした。
合戦では、当時の室町将軍、足利義教(よしのり)が鎌倉公方の討伐を決め、持氏は敗北する。得川氏は落ち武者となった。松平親氏の父、得川有親は出家し逃亡、隠遁する。親氏も時宗の遊芸僧となり徳阿弥と称した。
敗戦の将が生き残るのはとても難しい。名を変え、山中などに潜む。そして、氏素性も分からぬ怪しい者と言われつつ耐えるのだ。足利将軍から乱の罪を問われ、追われる身だと発覚するよりは、無名のほうがまだましであった。
厚い信仰で心を清め、ひたすら己を磨いて、流れ者であっても人を魅了するほどの人物になる。そういう志で一から出直すしかなかった。
武士の名を捨てた徳阿弥は諸州を流れ、伊賀国に行きついたのではないか。家康は、伊賀の人々と深く関わるうちに、そう思うようになった。特に、忍びの頭目であった初代服部半蔵保長(やすなが)の話は、家康の目を開かせ、心をつかむものが多かった。保長は、松平家と徳川家に長く仕えた家康の家臣である。
伊賀は、昔から落ち武者の隠れ家として、知る人ぞ知る秘蔵の国だ。平家の多く住む国であり、京や奈良の都とも近く、貴人に好まれた地であった。伊賀は歌や能楽など芸事が盛んな国でもある。没落した貴人が何らかの芸を身につけ、再起を図るには絶好の土地柄なのだ。
服部半蔵も落ち武者の末裔である。平家長(たいらのいえなが)の子孫といわれ、「半蔵」という名は「平家の蔵人」を意味する。「半」は同じ字画で変化させた「平」の隠し文字。つまり「半蔵」とは、密かに自らが平氏であることを誇った名であった。
伊賀の服部一族は、能の役者を多く輩出してきた。能の大家、観阿弥も伊賀の生まれと言い伝えられている。
「観阿弥」というのは時宗の法名だ。松平親氏が遊芸僧であった頃の法名も「徳阿弥」。時宗の僧達は阿弥陀仏の信仰が深く、踊り念仏で歓喜踊躍(かんぎゆやく)する。
仏の光を感受した者は、僧であれ俗人であれ、悪心強欲が消え、心身が大らかに、柔らかくなる。良い心や幸せな気持ちが溢れ出し、自然と踊ったり、跳ねたりする。
日頃の枠や、とらわれの心を捨て、我を忘れるこの境地は至福だ。観阿弥は、こうした時宗の世界から芸道の妙を得たとも考えられる。観阿弥は様々な舞いや音曲を取り入れて能を創造し、その子、世阿弥は「夢幻能」の大家として知られる。
能は現実とは違った夢や幻の世界を描くことが少なくない。踊り念仏も、この世にいながらにして、浄土の光を感受する行ないだ。
家康も能を好んでいた。
武家の作法やしきたりも大事だが、それが厳しい武士こそ、時には舞い踊りたいのである。徳川家の家中では、酒井忠次などが踊りの名手であった。忠次は、完成された能の演目を舞うというよりは、素朴な踊りや動きを好み、しばしば場を盛り上げた。
服部半蔵保長の舞いは、残念ながら観たことはない。が、役者も唸るほどの身のこなしであったという。能などの芸は忍びの者の嗜みの一つなのだ。
ある時、保長が家康の前に控えていると、庭から蜂が飛んできた。その蜂が家康のほうへ向かうのを見て、保長が扇を取り出し、すっと開いて進路を絶った。蜂を追い払うのでも、叩くのでもなく、ただ、そこに壁があるかのようにして、奥へ進むのを防いだ様は見事であった。
この時の保長の目の配りや体の動き、手の差し出し具合は、今でも思い出すほど強い印象を家康に与えた。特に扇さばきは驚くべきものであり、一瞬にして、宙に花が開いたかのような美しさと不思議さがあった。
あれを武芸と呼ぶべきなのか、芸能者の片鱗と見るべきなのかは分からない。すべての道は高いところでつながっている。
徳阿弥こと松平親氏も、あのような体さばきと心遣いをもった遊芸僧であり、武人であったのではないか。
徳阿弥と伊賀を結びつけるものは、他にもいろいろとあった。
伊賀の人々は独立心が強く、大名などの統治を嫌う。が、そうした中でも支配を試みたのが、守護の仁木氏だ。仁木氏の祖といわれる人物は源義清。義清は鎌倉時代の武将で、足利義康の庶子である。足利家の嫡流ではない義清は、伯父の猶子となったが、この伯父が同じ源氏の新田氏であった。
つまり、仁木氏は新田氏に起源をもつ源氏で、得川氏とは同族なのだ。これを徳阿弥が知っていれば、仁木氏が守護を務める伊賀国で隠棲する理由となる。もし正体が発覚したときも、同族の誼で助けられる見込みがあった。
徳阿弥の謎として、なぜ三河へ流れてきたのか、ということもあるが、これも仁木氏が関わっていると、家康は考えた。
仁木氏は三河発祥の氏族だからだ。源義清の一族は、足利氏が三河の守護になると、これを支えるために三河に来た。義清の孫、源実国は三河の額田郡(ぬかたぐん)仁木郷に住み、仁木太郎と称した。仁木郷は岡崎に近く、松平郷からも遠くはない。
仁木氏は鎌倉時代に三河国で生まれ、足利家が将軍となった室町時代には上方などへ勢力を広げた。そして、伊賀国の守護に任じられたのだ。このため室町時代には、三河と伊賀は格別な関係にあったといえる。
足利時代、三河国はただの地方の一つではなかった。仁木氏も三河の氏族だが、幕府の管領などを務めて権勢を誇った細川氏も、実は三河発祥の源氏である。細川氏は足利家の支流で、額田郡細川郷を本拠とした。
徳阿弥が仁木氏の影響で三河へ行った可能性はある。
三河の人々の側にも、徳阿弥を受け入れる素地はあった。徳阿弥は、初めは遊芸僧として松平郷に現れたが、次第に土地の人々と馴染んだはずである。そうした中で、仁木氏の話などをすれば、仲を深めることができる。
公に新田系得川氏とは名乗れなくとも、一部の者は、源氏の武士という素性を知っていたかもしれない。仁木氏と同族といえば、三河の人は親しみを感じたであろうし、敬意を払ったとも考えられる。
子細は謎のままだが、とにかく三河の松平家は、徳阿弥という人物を見込み、婿として迎え入れた。

          四
 
松平家は、もとは学問の家柄として伝統を誇る在原氏だ。徳阿弥は貧しい遊芸僧であったが、和歌などの才に恵まれ、武勇にも秀で、尋常の人物とは思われなかった。そこで婿として家の将来を託した、というのが公の伝承である。
徳阿弥は松平親氏と名を改め、見事に再起を果たした。
親氏以降、松平氏は三河の名家といわれ、代々、その誇りを受け継いだ。
松平家の子孫は、三河の岡崎に伊賀八幡宮を建立し、氏神と称している。これは、松平家と伊賀のつながりを強く示すものである。まるで松平氏が、伊賀の出だとでもいわんばかりの信仰ぶりだ。
徳阿弥は得川氏ではなく伊賀者だったのではないか。そんな説もささやかれてきた。
だが、家康は、先祖が伊賀に救われたため、守護神として伊賀八幡宮を深く崇拝したものと考えている。
松平親氏は徳が高く、三河の人々に慕われたという。そう聞かされて育った家康は、「徳」とは何であろうかと、常に思い、自らにも問いかけてきた。
家康は、時宗の遊芸僧として踊る徳阿弥の姿を思い浮かべた。念仏を唱えながら、戦さのことも、自らの氏素性のことも忘れ、足を踏んだり、身を揺らしたり、手を自由に動かしたりする。
踊り念仏では、僧侶と民衆が一緒になって躍動する。あらゆる見栄や欲得を捨て、踊り狂った仲間は、仏の子として親密になり、苦楽を分かち合ったことだろう。ともに旅をし、話をした人々もいただろう。
親氏は合戦で敗れ、世を捨てたことで民と一緒になった。源氏の血筋を誇ったとしても、常に高い地位にあった貴族武士やその一族とは違う。知恵や学識があったとしても、屋敷内や寺の中で書物をめくり、あれこれ論じているだけの者とは違う。
明日をも知れぬ人生を、自ら生き、同じような境遇の流れ者や、困窮した人々と心を通わせた。難しい論を説くより、ともに念仏を唱えて踊ろう。そして、共に救われよう。
粗末な身形の遊芸僧は、貴人や武士に会えば、獣のようにあしらわれることもある。それでも、徳阿弥は仏の光を見続け、のびのびと踊った。
己にそれができるかと、家康は考える。
「徳」というのは、その人の身にそなわったものである。つまり、たとえ無一文で世を彷徨ったとしても、隠し切れないもの。これがあれば、自然に人が集まってきたり、頼られたりする。
そういう人は、やがて、いつかは親氏のように高徳の人と言われ、どこかの家に迎えられるのである。
徳があれば、恐れがなくなるのではないかと、家康は思うようになった。没落しても、家を失っても、金がなくなり困窮しても、己には何かある。誰にも奪えず、しかも、誰もが感じ取ることができる、確固としたものがある。
ただ念仏を唱えて踊るだけでも、人の心をつかみ、揺さぶることができるのならば、怖いものなど何もない。その徳を核として、他の芸や学識で人を助ければ、必ず人々はついてくるだろう。
親氏は「栄徳興仁」を願い、兵や武器などはいずれ無用になる、という理想と信念をもっていた。
松平家は三河の民を導き、子孫も大いに繁栄していく。
伊賀八幡宮を建てたのは、親氏から数えて四代目の松平親忠である。この頃にはもう得川氏を落ち武者として狙う者もいなかった。過去を明らかにしても差し支えがなかったと考えられる。
松平家の本拠、岡崎には伊賀八幡宮に加えて伊賀町や伊賀川など、伊賀と名づけられた場所が多い。岡崎、仁木氏、伊賀のつながりの濃さがうかがえる。
親氏から七代目となる清康の時、松平家は武辺の色を強めて勢力を伸ばした。三河国の広域を制圧し、国全体の支配も見えてきた。そこで松平清康は、自らが源氏の血筋であることを公言した。武家として家格を上げるためだ。
この清康は家康の祖父にあたる。
ところが、松平清康は二十五歳という若さで命を落とした。跡を継いだ広忠は幼君であり、松平家は力を落とすこととなった。それでも、武辺を誇る名門として、三河国の内外に知られる家ではあり続けた。
竹千代は、先祖の様々な話を聞いて育った。庶流、女系とはいえ、源氏の武士として強い自覚をもつよう教えられていたのだ。
そんな竹千代が、最も憧れていた武士は、源氏の長として鎌倉幕府を開いた征夷大将軍、源頼朝であった。
己も同じ清和源氏。特に新田氏は頼朝と同じ河内源氏の流れである。この誇りを忘れず、武士として立派に生きよう。五歳で袴をはいた日から、竹千代は心に誓っていた。
幽閉されていた尾張では、何を信じてよいか分からず、混乱していたが、どのような目に遭っても、武士として恥ずかしい行ないはしないよう努めていた。
厳しい現実に耐え抜くため、竹千代はよく空想にふけった。恐ろしさや悔しさ、悲しさを忘れるためである。
遊ぶ時はしばしば征夷大将軍、源頼朝の真似をした。合戦で指揮をとり、大軍を動かす様を想像したりする。家臣達を兵のように従えて、いろいろと命令を下す時もあった。
空想には限界がない。
誰にでもなれ、どこにでも行けた。
ある時は強い剣豪となり、荒々しい武者を相手に戦い、見事に打ち勝つ。また、ある時は子どものまま、春の花咲く野山を自由に駆け回る。本気になると、薄暗い部屋や囲われた庭が、実際の戦場に見えたり、緑豊かな森に感じられたりした。
不安な夜の床の中が、母於大と過ごす安らぎの場となる時もあった。
於大とは数えの三歳で生き別れており、顔もよく覚えていなかった。しかし、勝手に創り上げた母はいつも美しく、優しかった。
自由な世界に住み始めた竹千代が、最も没頭したのは、やはり源頼朝に成り切ることだ。頼朝になると、何も怖くなくなり、誇らしい気持ちで心が満たされる。囚人のような今の己を、頭と心から消し去ることができた。
源頼朝は、諸国の武士の頂きに君臨した征夷大将軍である。
ただ、頼朝も若い頃には苦労をした。父の源義朝が平氏に敗れたため、十四歳で伊豆に流されたのだ。長い不遇の年月を経て挙兵、多くの武士を味方につけて源氏の世を作り上げた。
己もいつか頼朝のように奮起し、国を治める大武将になる。
非力な少年は、そんな夢想を繰り返していた。

         五

竹千代が尾張で幽閉されている間に、三河の岡崎では父の広忠が亡くなった。享年二十四。
その後、今川、松平の連合軍が織田方を攻め、信秀の子、信広を捕らえる。この信広との人質交換という形で、ようやく竹千代は岡崎へ帰ることができた。
我が城へ戻ると、父はもういなかった。母にも無論、会えるわけではない。敵から解き放たれ、松平家の重臣達と再会し、ほっとしたのは確かだが、嬉しいという気持ちまでは感じなかった。
竹千代は、父の死を受け止め、悲しむ暇もなく、すぐにまた駿府へ旅立った。以降、今川家の人質として長い年月を送ることとなる。
駿府でも、他家に気を遣う日々が続いた。毎日、禅寺に通って学問をしたが、竹千代のために設けられた手習いの間は四畳半という狭さ。しかも二階にあり、一階には禅と学問の師、太原雪斎の部屋があった。怠けることも、勝手に外へ出ることも許されない。そんな中、竹千代は机に向かい続けた。
幸いであったのは、雪斎が禅の高僧であり、軍事にも明るい名将だったことだ。雪斎は厳しかったが、決して無道、無慈悲の悪人ではなかった。織田との戦いでも、雪斎は自ら今川軍を率いて三河へ出兵し、奮闘していた。常に竹千代の味方であり、幼い子をひどい目に遭わせた織田信秀を非難していた。
竹千代は、六歳からの飢えを満たすように、手習いや読書に励んだ。
もう一つ、竹千代には救いがあった。母の於大と時折、文などを交わせるようになったのだ。於大は、商人に扮した使いの者を、密かに駿府へ送ってきた。
竹千代が八歳で奪還された年、織田信秀は病に倒れており、以降、若い跡取りの信長が織田家の執務を任され始めていた。織田信広との人質交換で、竹千代を松平家へ帰したのも、信長である。
尾張、三河の国境付近の武将達の中には、織田家の支配が緩む情勢を見て、今川家とも交信する者が増えていた。織田信秀の力が強く、松平家が四面楚歌のようだった頃とは、少し情勢が異なる。そうした流れもあり、於大は駿府の竹千代に文や贈り物などを届けたのである。
母は、竹千代が思い描いた通りの温かい人物であった。
於大は我が子にこう伝えた。あなたが生まれた夜、私は菅原の天神様から瑠璃の美しい玉を授かる夢をみました。そして、あなたが生まれた後、父の広忠は天神様から発句を授けられ、その脇句をつけるという吉夢をみました。ですから、あなたは格別、知恵の深い人物となるに違いない。今は苦しくとも、学問に励み、立派な将となりなさい。母は楽しみにしています。
竹千代は母の文を何度も何度も読んだ。
この世は、何を信じればよいのか分からない、恐ろしい場所だ。父は己を助けに来ないまま死んだ。父広忠は、本当に今川義元へ忠誠を誓い、我が子を殺されても織田には寝返らないと決めていたのだ。
織田家の者が言った通りであった。
尾張でともに暮らした家臣達は、間違ったことを言っていた。広忠が助けにくると嘘をつき、竹千代をずっと騙していたのだ。しかし、それを認めて詫びる者は誰もいない。むしろ、主君広忠はやはり今川家への忠義を貫かれたか。立派な武士であったな、と言い合う。
皆が、嘘ばかり言っているように思えた。
しかし、於大だけは違う。
於大はいつも我が子を慈しみ、助けようとしたが、甘いことばかりを言うわけではない。子どもと侮り、いい加減なことを言ったりしはない。常に、我が子の力や才を信じ、自ら努力するよう促した。そんな母は、心から信じられる人だと思った。
今川家では、ひどい目に遭うことも少なくなかったが、母の教えを頼みとし、今は何事にも耐えようと思った。
ただ、そんな竹千代にも受け入れ難いことがあった。今川家の家臣に「三河の小倅」などと呼ばれて侮辱され、いじめられたことだ。
これは本当に辛かった。
父や母がいないという寂しさや悲しさには耐えられた。人前で、甘えて泣くなどということはなかった。しかし、悔し涙だけは、どうしても堪えることができない。涙など見せれば相手の思う壺で、弱虫などと罵られることは分かっている。それでも、どうしても泣が滲んでしまうのだ。
家臣達も、主君に泣かれれば面目を失う。他のことはともかく、泣くのだけはやめて欲しいという顔だった。しかし、己は弱虫だから泣いているのではない。誇りや気概があるから涙が出るのだ。強くなりたい、このような侮辱は決して甘受できないと、心から思っているから泣くのだ。
なぜ誰も分かってくれないのか。そう思えば思うほど、悔しさは増し、また涙が出る。
悔しくて悔しくて堪らない時、竹千代は源頼朝のことを想った。
親を失い、遠い東国へ流された頼朝。それでも源氏の嫡男という誇りを失わず、文武の道に励んだ頼朝……。
竹千代は弓を引き、剣を振り、馬術の稽古に励んだ。弓の修行すら今川の家臣に妨げられたこともあるが、それでも矢を射続けた。いつの日か、頼朝のような立派な弓取りになるために──。
師の太原雪斎からは軍学を深く学んだ。自ら矢を射るだけでなく、大軍を自在に動かす知将名将となるためだ。
征夷大将軍、源頼朝になるためには、妥協は許されない。余人を遥かに上回る武芸と学問を身につけたいと思った。
己は「三河の小倅」ではないのだ。
今川氏は、足利将軍家にも近い源氏の名門であり、三河の一国人に落ちぶれた松平家を見下していた。しかし、竹千代は負けないと思った。今川など、ただの分家ではないか。駿府、遠江、三河を制する大大名というが、たかが三ヵ国だ。
頼朝は天下を平らげた征夷大将軍である。
そう思うことで、苦しい腹を癒し、自らの心を高めていた。
しかも己は、天神様と格別な縁がある。天神は空に遍く広がっている強大な神だ。天神様が、遠い国に別れた母と己をつなぎ、守ってくれている。
また、竹千代は寅年、寅の日、寅の刻に生まれた子でもあった。
これは聖徳太子の伝説に関わる話だ。千年近く前の大昔、聖徳太子は戦勝祈願のため大和国のある山を訪れた。すると武神が現われ、戦勝の秘法を授けたという。これが寅の年、寅の日、寅の刻であった。この有難い山は信貴山と名づけられた。
聖徳太子は、若い頃には世が乱れ、争いが多かったが、「和を以て尊しとなす」という大方針を打ち立てて、見事に国を治めた。この寅の吉日に生まれた者は、ただ寅のように強い男子という意味を超え、もっと崇高な役割を負っているのだ。
誰も、この竹千代の身や心、そして魂を汚(けが)すことはできない。
己は人を馬鹿にしたり、つまらないことで喧嘩をしたりはしない。まして、人質として弱い立場で暮らしている子をいじめたりは絶対にしない。
竹千代は、同じように駿府に人質として来ていた北条氏規(うじのり)と屋敷が隣同士であった。氏規は三つ年下で、竹千代は氏規にできる限り慈悲をかけた。
二人は、豊臣政権下で敵味方に分かれることもあったが、氏規は常に家康の話に耳を傾け、上方と北条氏の和を模索した。
家康は、どれほど辛く、腹の中で不満や怒りが渦巻いていても、他人に害を与えないよう己を律してきた。なぜかといえば、それが武士であり、凡夫でない証だからだ。
その自負は、幼い竹千代の時代からあった。
己は、意地の悪い今川の家臣など、全く及ばない高い格の武士なのだ。
いつか、天神のように賢明で、聖徳太子のように尊い人物となってみせる。
貴人や偉人に自らを重ね合わせ、自由な夢想にふける。その一方で、竹千代は現実も直視していた。大胆豪放な心の内は表さず、胸に秘めておく。
隠す術には至極、長けていた。
六つや七つの頃でも、夢とうつつの区別は明確につけていた。部屋の中など、閉ざされた場所では将軍、源頼朝に成り切っていても、織田家の侍が来れば、すぐにおとなしい松平家の倅に戻る。この変わり身の早さには自信があった。
己は我慢強いとよく言われる。主君や力のある人物を立て、いつも礼儀正しいと評される。だが、もし夢想の世界がなければ、とてもこれほどの自制はきかなかったと思う。
織田家の侍に幽閉され、今川の家臣にいじめられ、何も思い通りにならない己……そんな惨めな者として、ずっと過ごしていたならば、発狂し、暴れ出していたに違いない。
別の人間になり、別の場所に自由に行ける。想い次第では、鳥のように空を飛んだり、馬のように風を切って走ることもできる。そういう時があったからこそ、松平竹千代という人物は崩壊せずに済んだのである。
表では徹底して我慢し、心を隠し、裏では無限の世界に遊ぶ。この使い分けが肝心だ。
己には、何も考えず、気ままに過ごした記憶がほとんどない。幸か不幸か、「逆らえば死あるのみ」という状況があり、我を通すという選択肢はなかった。
駿府へ移ってからも、今川に反抗すれば、松平家や家臣達がどうなるか分からない、という重荷は絶えず負っていた。
今の家康から思えば、よくも幼い子にあのような日々を過ごさせたものだと、怒りを感じ、呆れた気持ちにもなる。しかし、赤子や幼い子というのは実に不思議なもので、初めに置かれた境遇が普通だと思い込んでしまう。
熱い国に育てばそういうものだと考え、寒い国に生まれればそういうものだと感じる。
それだけに、幼い頃、自由に我がままに暮らせば、これを当たり前だと思ってしまい、後に、些細なことで怒り出す暴君となる。
家康はいまだに過去を思い出すと、息苦しくなることがある。悪夢をみたり、訳もなく涙が出そうになることもあった。しかし、辛い過去が蘇る度、暴君になるよりはよかった、と思うようにしている。
ままならぬ状況が当たり前。そんな家康にとって、我慢するというのは特段、大きなことではなく、ただの日常なのだ。

          六

伊賀の忍びの頭目、服部半蔵保長は昔、若い家康にこう言った。
「殿はわざわざ修行をされずとも、自然と忍術を身につけられたようでございます」
保長は家康の祖父、松平清康の時に三河へ来て、以降、三代にわたり松平家に仕えていた。表向きは低い身分の家臣に過ぎなかったが、重臣達は皆、その力を頼みとし、畏れていた。
当時、家康は駿府に暮らし、服部家は三河の岡崎に屋敷を持っていた。遠く離れているように見えた主従。ところが、保長はふと、家康のもとに現れることがあった。
夜、近侍の者達と「そろそろ寝よう」などと話していると、突然、何の物音も気配もなく暗い庭に出てきたりして度肝を抜かれた。曲者かと思うが、保長は現れると必ず青い火を灯すため、それと分かった。日中であれば、鳥の声などの合図で己だと知らせる。
忍びといえば、この保長の術が頭にあった家康は、言い返した。
「余は忍術など使えぬ。暗闇で猫よりも静かに動くことなどできはせん」
すると、保長はほほえんだ。
「己の姿を消すだけが忍術にはあらず。自らの本心や真の志を隠し、相手に全く悟らせないのが忍びです」
「本心を隠す、か……」
保長は、若い主君がいつも我慢し、己を殺していることを知っていた。良き理解者というよりは、むしろ、何もかも見抜かれているのだと感じた。
家康は心を開いて話した。
「余は今川の家臣達に不満がある。しかし、それを表には出せぬ。お主の申す通り、忍びのごとき者やもしれん。しかし、武士には義理というものがある。余は今川義元公へ忠義を尽くさねばならん」
「はい」
その頃、今川義元は、文武に秀でた家康に期待し、将来、今川家の重臣にしようと考えているようだった。
「余は義元公に心から忠誠を誓いたい。じゃが、お主は余のことを裏のある忍術者と申すのか。余は自らの本心ではなく、己を偽って今川家に仕えておると申すのか」
家康は、義元から褒められたり、将来の話をされたりする度、何となく心に薄暗い引っかかりがあり、悩んでいた。
すると、保長は声を立てて笑った。
「はははっ。殿は、日頃から半蔵は凄い、忍びは松平家にとって欠かせぬものじゃ、と仰せになる。しかし、御腹の内では我らのことを、闇に暗躍する盗っ人の類か、あるいは、人を騙す悪党のように思うておられたのですな」
家康は否と首を横に振った。
しかし、保長の落胆ぶりは止まらない。
「武士は、表裏なく忠義心をもつ立派な人。忍びは裏のある疑わしき者。そういうことでございましょう」
「違う」
「ああ、半蔵はもう虚しゅうなりました。我らは松平家に賭け、熱き心で忠義を尽くして参った武士であるのに……」
「半蔵、お主は立派な武士じゃ。松平家の大事な譜代の家臣じゃ。余は忍びのことを悪く言うつもりなどない。伊賀の忍びは当家に尽くし、合戦でも勇猛に働き、松平家のために命を落とした者も少のうない。余はその恩を忘れたりはせぬ」
すると、保長はにわかに声を低くして言った。
「ならば殿も、表と裏をもちなされ」
「…………」
「武士は心が綺麗で、忍びは汚いなどという考えはお捨てなされよ」
そう言い放った時の保長の眼は、本当に怖かった。
怒っているわけではない。忍びの立場をただ強調しているようにも見えなかった。しかし、何かこちらの根本を変えられてしまうような心地がした。
保長は更に続けた。
「この世で最もつまらぬ者は、表で善人のふりをし、裏で悪事を働く者でございます。これは人の世の害悪となりまする。次に、無策の善人という者がおります。表も裏もなく、腹の中には特段、何もない。これは善人なれど、悪人に負けて食いものにされまする。次に、悪い行ないや悪性が表に出る悪人。これはすぐに正体が知られ、捕らわれたり、罰せられたり致します。害悪はあれど、長く人を苦しめることはございません」
「うむ」
「善人面の悪人が最も害が大きく、悪人面の悪人がその次。そして、善人面の善人は、まあ良しと致しましょう。最後に、最も立派な人がおります。それは……」
家康は保長の話に割り込み、強い語気で言った。
「裏で良き行ないをする者じゃ」
保長は黙ってうなずいた。
裏でこっそり良いことをする──それが、最上という考えはなかった。隠れて何かをするのは、悪いことだと思っていたのだ。
そうか──。
今川義元が正しい方針を打ち出した時には、忠義を尽くし、心から従えばよい。しかし、意地悪な者が多い今川家は、誤った命令を下すことも有り得る。その折りには、無理に従わなくてもよいのだ。表では従うような顔をして、何か別の策を練ってもよい、ということだ。
家康は心身が軽くなり、重苦しい暗雲が晴れた気がした。
「陰徳か……」
若き家康はつぶやいた。
保長のような忍びは、その功を大きく賞賛されることもなく、世に広く名を知られることもなく、満足な身分や禄を与えられることもなく、時には夜盗のごとく白い眼で見られつつ、ずっと陰で松平家のために働いてきた。
「余もそちのように働くぞ」
家康は保長の手を取り、強く握った。

         七

その後、家康には驚くべき人生が待っていた。
心の内、つまり、人から隠れた「裏」でのみ抱いていた夢が、少しずつ現実となっていったのだ。
源頼朝のような武将になるという、誇大な夢想までも──。
十九歳のとき、桶狭間の戦いで、今川義元が織田信長にあっけなく討たれた。以後、今川家は崩壊の一途を辿る。次第に、松平家が今川氏に取って代わった。
家康は、自らが実権を握った暁には領国をこうしたい、ああしたいと考えていたが、それらを形にする機会がやってきた。
夢想は夢に過ぎず、現実は違う。本物の世は厳しい。そう感じ続けてきたが、この二つの領域は、決して交わらない別世界というわけではなかった。
想いは現実への始まりかもしれない。夢想していれば、実際の世界も変わる。
逆に、現実の日々が夢想の世界に影響することもあった。現実の世で良い働きをしようと思えば思うほど、夢想の世界でも良い案が浮かぶのだ。
虚が実となり、実が虚となる。厳しい現実も、夢想したことを少しずつ落とし込むという気持ちで取り組めば、自然と打開できた。
そんな家康を、夢想の頼朝像へと劇的に近づける出来事は、また起きた。
本能寺の変である。
若き日に、大大名、今川義元を目の覚めるような奇襲で討ち取った魔王、織田信長。彼は足利幕府すら倒し、天下人となった。家康は信長を恐れ、織田家に従ったが、その信長が、京の本能寺であっけなく命を落とす。
これにより、家康は新たに甲斐国と信濃国を治めることとなった。四十過ぎの出来事だ。今川家の家臣にも逆らえなかった「三河の小倅」が、三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の五ヵ国を制するなど、普通では考えられない。
やはり、己には天神や聖徳太子や源氏の武の神がついているのではないか、と思った。
ただ、そのまま四十の家康が、威勢よく天下人にまで昇り詰める、ということはなかった。
豊臣秀吉の時代、徳川家はその家臣として従わねばならなかった。また我慢の日々が来たのである。
全国統一を目指す秀吉は、長く関東を治めてきた北条氏を滅ぼすと、そこへ徳川家を移封すると言い出した。
家康はこの時、五十になろうとしていた。
関東移封という命令は、容易に受け入れられるものではなかった。松平一族が先祖代々、根を下ろしてきた三河国や、新しい城を建てたばかりの駿府を手放すことは耐え難い。
秀吉は、この無理を家康が呑むかどうか、試していたと考えられる。否といえば、命令に背いたとして減封や改易に処すのだ。その罠は見抜いていた。
だか、辛い。
家康は五ヵ国を領有した頃から、政に自信をもち始めていた。独自の検地なども行ない、ほとんどすべての土地を安定させることに成功していたのだ。
同じ頃、上方など豊臣系の国々では太閤検地が断行されていた。太閤検地は諸国で統一された方式を用い、石高を明確にし、常に一定の税収が見込める優れた検地法だといわれている。だが、かなり強引で、豊臣家からの押し付けが厳しいやり方であった。
一方、徳川の検地はとても柔軟である。大小問わず、田畑を持つ百姓の名を把握し、収穫高に合わせて年貢をとる。豊作であれば多くとり、不作ならば税を減じた。
戦さなどがあり、百姓を人足として駆り出した場合は、給与を払う。馬を出した場合も同様だった。それぞれ給与の額も定めた。給与を払わない場合は、年貢から差し引き、民の負担を軽減する。
検地には徳川の直臣が赴くが、在地の武士も同行し、双方が協力する形で仕事を進めた。徳川の一方的な命令で税を課すことはしない。
土地や天候や人をよく見ること。そして、強引なやり方や悪徳を防ぐこと。これを重視した。
各地の領主や代官などが勝手に税を取り立てたり、賦役を課したりすることも、家康は禁じている。乱世では、百姓を不当に駆り出し、使役する武士が多かった。しかし、徳川はそのような領主がいれば訴え出るようにといった。
そもそも、百姓を無報酬で兵や人足として用いた武士が増えたことから、世の合戦は泥沼化した。給与のない兵達は、敵地で略奪を行なう。諸国はひどく乱れた。だが、勝ち負けという意味では、無償で兵が使え、敵に痛手も与えられるため、この作戦を用いる武士は、しばしば勝利を得た。まともな合戦を試みる武将は負けるのだ。
世には無法な武士がはびこり、盗っ人まがいの民も増えた。
普通、武家が雇える兵の数は限られるが、無償となればいくらでも集められる。戦さに参じる百姓は増え続けた。
盗みをしたい者、暴れたい者、功をあげて武士に成り上がりたい者……欲深い者達が戦場に集まり、大軍による戦さが当たり前になった。
どこかで、この流れを止めねばならない。兵の数を減らし、百姓を各々の土地に根付かせたい。そのためには、民を戦さに駆り出しにくくすることが大事だ。
兵農分離ということは、かなり前から言われてきた。信長、秀吉もこの試みは行なった。
特に信長は略奪を嫌っていた。そこで織田家は多くの兵を日頃から抱え、養っておくという方式をとった。平素から武芸や鉄砲の使い方を教えておくことで、にわか参戦の敵兵達を打ち負かす。こうして織田軍は無類の強さを発揮したのだ。信長は、軍に投じる財を惜しまなかった。
更に金を使ったのが秀吉である。豊臣家には莫大な財があった。そこで秀吉は、敵方にいる微禄の武士や、ただ同然で駆り出された兵などに金を与え、味方に引き入れた。
略奪とは全く逆の発想である。敵地に金をまくことで攻略するという、信じ難い戦法をとった。この頃から、戦さは金のある将の勝ちという流れができ始めた。
家康は、民に対して濫りに金をまくのはよくないことだと思っている。無償でこき使うのも、分不相応な高い報酬を与えるのも、どちらも皆の暮らしを乱す。
働きに合った給与を払い、濫りに駆り出さない。そして、本来の生業に力を注げるようにすることが肝心だ。
そのため、給与を一定にした。
徳川が領する五ヵ国の諸将は、上方を支配した信長や秀吉ほど金がない。つまり、兵や人足は集めにくくなった。人手が不足気味になれば、武士は戦さをするのが難しくなる。
これも家康の狙いであった。
皆、戦さを始めるのは、己に利があると考えるからだ。しかし、戦さをすると出費ばかりがかさみ、税収も減るのだと思えば、わざわざ他国を攻めようという気も失せる。
徳川の検地は、百姓の苦境を救うとともに、戦さも減らし、世の乱れや略奪も防ぐという効果を発揮した。
ようやく民が安心して暮らし始めた。土地土地のことを細かく把握し、領主として、この国々を治めているという実感が得られた。その矢先に、五ヵ国すべてを取り上げられ、関東へ移れと命令されたのである。
家康にとっても、家臣達にとっても、耐え難いことであった。
しかし、秀吉に逆らえば、国替えでは済まず、改易にされるかもしれない。
ここで家康の心を救ったのは、またしても頼朝であった。
関東といえば、鎌倉ではないか──。
鎌倉が己を呼んでいる。

        八

心に宿る頼朝は、家康に言った。
三河、遠江、駿河など一部の国にこだわるな。お前は今、海道一の弓取りと称され、得意になっておるが、まことにそれで満足なのか。
三河にいた頃、お前が頼みにしていた松平家の菩提寺の名は何といった。「大樹寺」であろう。「大樹」とは何じゃ。広い天下を治める「将軍」のことではないのか。
お前は、征夷大将軍となるために生まれてきた。関東へ拠を移し、北の諸国をすべて平定するという意気込みをもて。
天下を取れば、三河の岡崎も、遠江の浜松も、駿府の城も、皆、徳川の傘下へ戻る。そんな理も解さず、文句をいうなど愚かしい。五ヵ国くらい、一度、秀吉にくれてやれ。
もし、今有する五ヵ国の政が優れておるならば、その知恵や心を関東へも広げよ。ここで労を惜しむな。全ての国を安定させ、日本中の民を助けよ。
家康は深く納得し、怒りや虚しさといった心の乱れを、何とか鎮めることができた。
そして、時を十代遡り、松平家以前の先祖に思いを馳せた。新田氏は関東を本拠としていたのだ。上野国の新田群得川郷を治めていた先祖。その先祖の武名にあやかり、家康は「徳川氏」を称することとした。この心を忘れてはならない。
かつて得川氏が関東管領の上杉氏に敗れ、落ち武者となった恥辱を今こそ晴らそう。家康は、関東が決して無縁の地ではなく、むしろ自らの本拠であるという考えに切り替えた。
秀吉は、この心の内を知るまい。
徳川は嫌々関東へ下り、上方から遠のく。そして、また一から新しい領国に馴染み、統治せねばならない。しめしめ、これで当分、豊臣に刃向かう力も気持ちも湧くまい。
だが、家康の志はむしろ高まり、意思は定まった。
己は関東を治めて将軍になる。遠い先祖達もきっと喜んでくれるはずだ。
家康は、関東には古えの剣の神がおわすことも知っていた。香取、鹿島の神々に詣で、いつもそばで守ってもらおう。良き兵法の知恵を授けていただこう。
江戸へ赴いてからの十年間、家康は征夷大将軍となるために動いてきた。
五十にもなって、子どものような夢をみるのは馬鹿げているのではないか。そんな風にも考えてみた。しかし、大きな力が己をその方向へ強く後押ししている以上、わざわざ流れに逆らうことはない。
大人の夢想は、もはや楽しいばかりの夢想ではなかった。目の前には次々と、数え切れないほどの難題が現れる。これを一つ一つ、忍耐強く乗り越えてゆかねばならなかった。
上方では、己の大望など全く面(おもて)に表わさず、豊臣家の家臣として、家康は着実に力をつけてきた。そしてついに、多くの政務を取り仕切る大老となり、豊臣家一の権力者となったのだ。
そして──。
豊臣秀吉は没した。
上杉攻めでは、諸州の名立たる大名達が家康に従い、東国へ向かう。
徳川家康は、この遠征軍の総大将だ。
まるで征夷大将軍ではないか。
「征夷」とは、都から離れた東国や北の国で賊が暴れるなどして、世が乱れた折り、それを鎮定するという意味だ。
家康は昔から、ずっと思い続けてきた。
己が力を持った暁には、皆が喜んで従うような立派な将になろう。臣下の才や気性、兵力などを見極め、皆が納得するような戦いをしよう。
己がもし、多くの者の上に立ったなら、下の者には慈悲をかけよう。弱い者や子どもを脅して、息苦しい思いをさせたりはしない。
もし、己が大きな采配権を得たなら、選りすぐりの領主を諸国へ配し、民が安んじて暮らせるよう目を光らせたい。
六歳の頃から積もりに積もり、力を増してきた夢が、今、目の前にある。
夢とうつつを無情に分けていた、大きく厳然とした壁が、五十年余りの間に少しずつ薄くなり……もはや、夢を隠すことなく、人と分かち合えるようになった。志を同じゅうする武士達とともに、心に描いた未来へ向かって、突き進むことができる。
見ておれ、乱世の悪将悪賊ども──。
二度と、非力な民や子どもを苦しめることは許さん。余が、この国の津々浦々まで、すべて平穏にしてみせるぞ。
今、敵が上杉ということにも何か先祖の因縁を感じている。しかし、上杉氏はもう昔の上杉氏ではない。関東を離れて久しく、まるで別の大名となってしまった。齢六十になろうかという今では、古い怨恨などにこだわる気はない。
家康は、心の中の頼朝に語りかけた。
私は私利私欲を捨て、真に公の武士として天下を預かりたいと存じます。ここまでの御導きに厚くお礼を申し上げます。どうか、この徳川家康を立派な将軍にして下さりませ。
その瞬間──。
朝曇りが晴れ、淡く白い光を放っていた日輪が円い姿を現し、東の空が煌々と輝き出した。
眠そうに歩いていた馬が、機嫌よく顔を上げ、蹄の音が軽やかになる。
鎌倉の頼朝が応えてくれた。早く参れと呼んでいる。
そう感じた。
気のせいかもしれぬが……まあ、何でもよいわい。
家康は、ほほえんで馬の首筋を撫でた。
お前も嬉しいか。頼朝公の後押しがあるゆえ、安心して参れ。
声には出さずにそう言って、家康は愛馬とともに東へ進んだ。


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