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「大樹の心」 第二章 近江の逃亡

         一

伏見を出た家康は、近江国の大津城へ入り、城主、京極高次の歓待を受けた。
京極家は源氏の名門ゆえ、下克上の権化である豊臣家にはなかなか従わず、敵対もした。しかし、高次の妹を秀吉が気に入り側室としたことで、復権を果たす。
また、高次の妻お初は浅井長政の娘、いわゆる浅井三姉妹の次女である。お初の姉は淀殿。淀殿が秀吉の跡取り秀頼を産んだこともあり、京極家の地位は揺るぎないものとなっていた。
家康が大津城に来た、ということで、同じ近江国の水口を拠点とする長束正家も挨拶に参じた。正家は豊臣家の有力奉行の一人である。正家は、ぜひ水口にも立ち寄るよう、徳川主従に勧めた。
この日の夜、徳川軍の本体は石部の宿に泊る予定であった。それを知った正家は、翌日、水口で食事を用意し、もてなしたいと言う。家康はこれを受けることとした。
水口は南近江の要所だ。その北東の琵琶湖畔には、佐和山城という大城がある。この城の主は石田三成。三成といえば、後世、天下分け目の関ヶ原合戦で徳川家康を敵に回した西軍の大将として、大いに名を残す。
石田三成は、若くして豊臣秀吉に見出され、抜群の知力を発揮し、奉行として活躍した。ところが、四十歳となった昨年、にわかに失脚し、豊臣政権の中枢から外れた。今の石田家は、近江佐和山で二十万石ほどの自領を治める一大名となっている。
よもやこの二十万石の大名が、二百五十万石の徳川に戦さを仕かけるなどとは思いもよらない。それが世の多くの人々の見方、感じ方であったと考えられる。
しかし、家康は三成を警戒していた。豊臣秀吉一筋に仕えてきた寵臣であり、明らかに反徳川の意思を示しているからだ。
三成は、自らを失脚させた騒動の黒幕が、家康だと思っている。その洞察は、ある意味、間違っていない。
とにかく家康は、豊臣家の大老や奉行衆の力を弱め、徳川のみに権限が集まるよう知恵を巡らせてきた。秀吉の死後は、その動きを加速させている。諸侯に嫌われたり、憎まれることも恐れなかった。
三成を佐和山に追いやれたのは、徳川にとって大きな成功といえる。が、これは徳川のみの勝利ではない。三成の失脚を喜んだ者が、どれほど多かったか。これを当人が知らないだけだ。
家康は、秀吉が没した後、強権を振るい、かなりのびのびと自らの手腕を発揮した。それでも、三成よりははるかに諸侯から慕われ、広く支持を得ている。これが可能だという確信は、予めあった。
万物には、必ず「中心」がある。人間の身体でいえば臍の辺りだ。腹の底といったり、丹田と呼んだり、あるいは、胸の奥だと感じる人もいるだろう。
この広い世にも真ん中がある。国にも中心が存在する。
豊臣秀吉という人は、この国の中心をとった。だから、天下人と呼ばれたのである。しかし、いつからか……おそらく、実子の秀頼が生まれた頃からであろうが……秀吉は、この勘所を外すことが増えた。何が肝心かを見失い始めた。
その様をよく観て、空いた中心をとりにいったのが、家康である。
中心をとらえるには、様々な方法があるが、家康が大事にしているのは公平性だ。できるだけ多くの人の意見や物の見方を知った上で、全てがちょうど釣り合う真ん中を見出す。そこを、常に落とし所とするよう心がけることで、中心がとれるのだ。
一見、世の中心に見える場所というものがある。地位というものもある。そういう、何か固定された場所を必死でめざし、天下を取りにいく者は多い。だが、それだけでは真の中心はとれないと、家康は考えていた。
まずは己の判断力、洞察力などを高めていき、自ずと中心に座れるような人物になる。これが大事だ。自らの心身や考え方が歪んでいたり、釣り合いが崩れたりしている状態で、世の真ん中に座ろうとしても無理なのだ。
豊臣秀吉という人物は、名もなく、身分もない庶民の子として生まれた。出世がしたい。よりよい暮らしがしたい。そのほかに、特に何か頭にあったとは考えにくい。この「何もなかったこと」が、秀吉を天下人に昇らせたのだろう。
家康はそう感じている。
室町時代、多くの武士達は家名や身分、それに伴う気位の高さなどのために、心が歪んでいた。古い権威や権益にしがみつき、親の代からの因縁などにとらわれ、頭は重苦しい学識に縛られる。到底、自由に動くことはできなかった。
身も心も自由自在で何も恐れず、何も失うものがない秀吉が勝つのは、もっともだ。
世の人々は、秀吉のような人物の出現を心から望んでいた。皆の不満が乗り移ったかのように、秀吉は古い権威を破壊し尽くし、関白へまで伸し上がった。
室町の貴人や大名と、これに対する圧倒的に多くの庶民。このちょうど真ん中にいたのが秀吉だった。
ところが、次の秀頼は全く違う。天下人の子として生まれ、貴人として育てられている。秀吉は秀頼を、何の人望も実績もないまま、無条件で世の最高位に置こうと決めてしまった。これは秀吉が壊してきたはずの不公平な世界の再現であり、豊臣政権を私物化したとしか見えない。まさに豊臣家が偏り、傾いた瞬間であった。
秀吉は何のために天下を取ったのか。すべては、我が子や我が身内によい思いをさせるため──つまり、私利私欲のためだったのではないか。この疑惑が、世のあちこちから湧き上がった。
何ゆえ、そうなってしまったのか。
原因の一つは、秀吉がもともと「公の人」ではなかったからだと、家康は思う。世には「公儀」というものが存在する。「お上」という言い方もあるだろう。
日本には古来、「公の武士」がいた。官軍として、悪賊や反乱軍などを討つ。都や諸国を平穏に保つよう、彼らは武威を示し続けてきた。こうした官軍の上層には貴族武士がいた。
貴族というと、庶民にばかり働かせて、己達は遊んで暮らす人々。そう思われるかもしれない。だが、実際には、自らを律して私利私欲を離れ、世に尽くした立派な貴人もいた。幼い頃から身につけた武芸や学識を、本気で公のために活かそうと奮闘した貴族武士もいたのである。
家康はそう信じ、昔の武士を敬ってきた。自らも源氏の武士として、源頼朝などの立派な貴族武士に近づこうと努めてきた。
室町時代の後期には奢り高ぶり、何が公儀の武士の役目かも忘れ果てていた源氏の侍達。しかし、信長や秀吉に地位を奪われ、土地も奪われ、世を変えられたことで、目を覚ました者もいる。
庶民であった秀吉に、皆で頭を垂れることによって、武士達は悟った。庶民は決して愚かではない。弱い人々でもない。民を侮ってはならないのだ、と。
民が愚かでないのと同様、貴族達もまた、決して愚かではない。一部の貴族は、確実に復権してくると、家康は考えていた。いったん身分を失い、あるいは屈辱を味わった後に、真の誇りを得た貴人は強い。
一方、織田、豊臣時代に庶民から伸し上がった者も、大名などの地位を保つことは可能だ。その鍵は、公の武士としての志をもつこと。貴人としての落ち着きや余裕を身につけること。そして、民の心を忘れず、自らを律することである。
結局、上に立つ者の誇りと、下々の心を慮る謙虚な姿勢──この両方がなければ、世の中心には座れない。真の為政者にはなれないということだ。
ただただ天下を取りたいなどと言って、敵対する大名達を打ち負かしても、本当の戦いに勝てるわけではない。

         二

しかし、世の中ではいまだに権力闘争が絶えなかった。
秀吉が没した後、まず徳川の動きを警戒し、抑えにかかったのは前田利家である。利家は五大老の一人で、秀吉の信任も厚く、諸大名にも慕われていた。
だが、家康は利家の怒りを巧みにかわす。
利家は情にもろい一面があった。豊臣政権にとって徳川が脅威であると、頭では分かっていても、いざ家康と直に会って話をすると、気が和らいでしまう。利家は家康が悪人とは思っていなかった。そのため、攻め切れなかったのである。
家康も利家には敬意を払った。騙してやろうなどという悪心を抱かず、当人の判断を尊重しようという思いで接した。同時に、家康の腹の底には、前田家とは戦っても負けない、という自信があった。いざとなれば、武士同士、正々堂々と戦う覚悟があった。
乱世において、武士は私的な争いを繰り返してきた。しかし、本来、武士というのは悪人を懲らしめ、討ち滅ぼすために存在する。それゆえ、悪党を見ると怒りに火がつく。心が燃えて、勇気と力が湧くのだ。利家は、そんな武士らしい性をもつ大名であった。
家康は利家の心を見抜いていた。徳川に対して、強い義憤は湧かないであろうことを見越していた。
それは他の将についても同じだ。徳川が悪党だと固く信じ、殲滅したいと願う大名を減らす。家康はその努力を重ねてきた。結果、家康の最大の敵であった秀吉でさえ、遂には徳川を信頼してしまった。
武士の価値や善悪を決めるのは、日々の行ないだ。「積年の恨み」という言葉をよく聞くが、その逆で、「積年の厚誼厚恩」がある相手は、いざとなった時に討てない。
結局、前田家と徳川は対立する寸前のところで争いを回避した。
やがて利家は病のために亡くなってしまう。跡取りの前田利長は父ほどの大器ではなかった。しかも、それを自らわきまえている賢明な侯でもあった。家康は利長を領国の加賀へ帰し、上方の豊臣政権から退けた。
これで五大老が実質、四大老となる。残るは徳川家康、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家である。
宇喜多秀家はまだ二十九歳という若さだ。昨年、宇喜多家は御家騒動を起こし、とても大老としての務めを果たせる状態ではなくなった。内紛そのものは何とか収まったが、多くの家臣が秀家のもとを離れ、宇喜多家は弱体化している。
そして今、上杉景勝が、家康の率いる大軍によって攻められるという危機に瀕していた。上杉家と懇意にしている石田三成が、この事態を黙って見ているとは考えにくい。
もともと、豊臣家の大老は前田利家、徳川家康、毛利輝元、小早川隆景、宇喜多秀家の五名であった。そこに上杉景勝を加えるよう秀吉に進言したのは三成ではないか。家康はそう見ている。
三成は上杉家を気に入っている。殊に、家の内外で大きな権力を持つ家老の直江兼続とは歳も近く、親しい間柄であった。石田家にとっても、上杉家にとっても、三成が豊臣政権の中枢にいて、万事を取り仕切るというのが最善の形であった。
ところが、その望みは暗雲に覆われた。主君の秀吉があの世へ逝ってしまったからだ。
三成ら奉行は、有能ではあるものの、大老衆に比べて石高が低く、諸国の人々をすべて従わせ、統べるほどの武威がない。秀吉がいた頃は、主君の命令を伝え、取り次ぐことで絶大な権勢を誇った。が、強い後ろ盾を失い、窮地に立たされる。
全国各地で武辺を誇る大名達が、奉行達への不満を爆発させたのだ。秀吉もいない世で、彼らが奉行達の命令を、ただ黙ってきくという理はない。三成は、秀吉の遺児秀頼の命令だといって権力を保とうとした。だが、秀頼は父を亡くした時、まだ六歳であり、何の説得力ももたなかった。
戦さでさしたる武功もあげていない三成らに、なぜ、勇猛な大名衆が従わねばならないのか。命がけで豊臣家に尽くしてきた諸侯が、何ゆえ、秀吉の側で算盤を弾いたり、戦場を検分しているだけの者に、全権を委ねねばならないのか。この問いに、奉行達は応えるすべを失った。
そして、武功派による反乱が起きる。敵は石田三成だった。三成は、奉行の権限を不当に行使し、大名達を圧している。そう訴えたのだ。荒々しい大名達は、三成に武力で立ち向かうことも辞さないと、動き出した。
三成は秀吉の亡き後、主君の遺命に忠実に従っていると称していた。この遺命だけが、三成のよりどころであった。しかし、大名達は騙されなかった。
秀吉が病没した後、皆は徳川に最も権限が集まることを容認していた。それは、秀吉が今際の際に家康を呼び、秀頼のことをくれぐれも頼むと言ったからである。秀吉は、家康を穏和で律儀な人物と評し、頼りにしていた。戦さをさせても、政務を担わせても、徳川は秀吉の期待に応えた。
そんな徳川と並び立つ候は、前田利家しかいない。家康と利家、この二人に、秀吉は多くを託して息を引き取った。五大老、五奉行といった要人達が、もちろん協力して政を行なうが、この二大老は別格としたのである。
ところが、三成はこの体制を変えようとした。
五大老、五奉行による合議制を求め、多数決で事を決しようと言い出したのだ。五奉行とは前田玄以、石田三成、増田長盛、長束正家、浅野長政である。
これは、家康と前田利家の権限を最上とする秀吉の遺言とは異なる。秀吉は豊臣家の直轄地である蔵入地の算用などについても、家康と利家の検閲を受けるよう、奉行衆に命じていた。何事も、家康と利家の御意を得て行なえと言い残している。
秀吉は、吏僚のみでは全国を治め切れないことを知っていた。強大な武威と、皆が納得する人物が必要であった。
この徳川、前田体制という流れに賛同していた大名達は、三成に怒った。一部の武功派は三成を悪将と断じ、実力に訴えようとした。立ち上がったのは、加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明といった面々である。
名立たる猛将達が反三成の狼煙をあげたことで、三成は追い込まれた。幸い、首を取られるには至らなかったが、大坂から伏見へ逃れた。

        三

この騒動を受け、おもむろに仲裁に乗り出したのが、家康であった。家康は、三成を近江佐和山の自領へ帰し、奉行の座から外した。その代わり、反三成の諸侯もおとなしく引け、といって騒動は収まった。
猛将達を自力で撃退できなかった三成は、家康の裁きに従うしかなかった。反三成の大名達を陰で煽り、訴えを起こさせたのは、家康である。三成はそう考えたようだが、諸侯は本当に怒っていた。
無論、家康も秀吉の遺命に一言一句背かずに従っている、というわけではない。五大老、五奉行の体制を明らかに崩そうとしていた。
徳川流の政道を推し進める家康。一方、五奉行を含めた合議制という名目で、徳川の権限を奪いたい三成。両者が対立する中で、武功派の大名達が、徳川方を支持したということだ。
豊臣家の家臣は五大老、五奉行だけではない。これが三成ら奉行衆の盲点だった。
三成は、政権の中枢にいる十名のみに着目し、その中で戦おうとした。狭い政権内での公平性や権力の分散ばかりを説いていた。前田利長や上杉景勝の力が弱まると、皆が困るはずだ。徳川一強の独裁など、誰も許すまい。
しかし、実際には五大老、五奉行の他にも、優れた人物や知将はいる。家康は彼らの意見をよく聴いた。己は大老であるから黙って従え。そのような態度はとらず、他の多くの大名衆に敬意を払ったのである。
すると、皆は三成ら奉行衆への不満を述べ始めた。当然のことだ。五大老、五奉行の外へ置かれた大名達は、なぜそこで線が引かれたのかが納得できない。奉行衆は、上位十人の平等のみを求め、それ以下の諸将には何の権限も与えようとはしない。
家康は、こうした諸侯の心情を踏まえた上で政を行なった。彼らの不満や不公平感を是正する方向で物事を決める。すると、諸侯はますます家康を支持する。この流れができていた。
過去において、豊臣政権がうまく保たれてきたのは、何かあった際、秀吉が自ら素早く対処したからである。この早さは誰にも真似ができないものだった。
家臣の起用についてもそうだ。何か不都合があれば、人を変え、時には容赦なく罰した。新しく有能な者が現れれば、取り立てて重用する。
そのため、家臣達は常に奮闘した。今は政権の中枢にいても、働きが悪ければ降格するかもしれない。逆に、今は小名であっても、功を重ねれば奉行職や老職へ昇れる。これが豊臣家であった。
ところが、三成など一部の者は、政権の上層を固定しようとした。三成ら奉行衆は、多数決や合議制を唱えたが、実際には己の権力を保ちたかっただけ。そう見られても仕方がなかった。
一方、家康は独断、専横のように見せつつ、陰で皆の意見を聴いていた。五大老、五奉行に限らず、広く諸国諸大名の意向を聞き容れ、配慮し、調整する。これこそが天下の政だと信じ、家康は実行した。
手本としたのは聖徳太子である。聖徳太子は、一度に十人以上の話を聴くことができたという。これは、耳や頭がどうかしていたということではないだろう。皆が同時に声を出し、それを必死に聴き取ったという意味ではあるまい。
聖徳太子は、多くの異なった意見をすべて聴き、誰の意見も排除することなく取り入れることに成功した。全員に敬意を払い、うまく全体のつり合いをとり、皆が納得する判断を下した。こういうことであろう。
政は独りでは行えない。多くの君は重臣などに意見を聴く。が、一部の重臣の考えだけを取り入れれば、反対派が不満をもつ。御家は分裂しかねない。だから、できる限り多くの者の意見を聴くのだ。
聴く時の姿勢も大事である。相手に敬意を払うこと、軽く流さないこと。もし、その意見を今すぐ取り入れることができなくとも、真剣に聴き、必要であれば、採用できない訳や事情を説くことだ。
多くの意見を調整するには、知恵が要る。才も要る。そして、何よりも忍耐力が要る。
いくら人の話や意見を集めても、これをいい加減に扱い、真の中心を見出せなければ、よい判断は下せない。独断になったり、誰か声の大きい者の意見に流されて、偏ったりする。
大老や奉行といった重職にある者は、常に忍耐強く、公平な判断を心がけねばならない。政権の中枢にいながら、世の中全体を見ず、狭い心で闘争する者は、いかがかと思う。為政者という重い任に堪えない人物は、役を解いたほうがよい。
家康は、己自身にも、他の重臣達にも厳しい目を向けていた。
三成は、奉行としての功は数多くあり、有能ではあった。が、武功派大名達を下に見て、配慮に欠ける政を続けてきた。その結果、内紛の火種となった。これは地味に見えるが大罪である。
石田三成事件の仲裁を行なった家康は、豊臣家の内紛を収めた立派な大老といわれ、自らの地位をより確かなものとした。
反三成の大名達は、家康に利用されたのか。これは見方によるだろう。しかし、彼らは何も不利益を被っていない。望み通り三成を排除することができた。しかも、三成と戦さをしたり、多くの犠牲を払ったりすることもなく、事が成し遂げられたのだ。
もし、家康という強大な権力者がいなければ、どうなっていたか。豊臣家は出口の見えない泥沼の内紛に突入していたかもしれない。
まるで室町時代のようだ。畿内は再び荒れ果てていただろう。豊臣政権は古い秩序に則らないため、足利時代よりもっと自由、気ままな内乱が起きていた可能性もある。
家康は、これを絶対に防ぎたいと思っていた。
織田信長は「天下布武」という言葉を掲げ、畿内を平定した。室町幕府は、武威も実質の武力も不足し、大名に援軍を頼んでも断られるような有り様であった。そのため、上方の武士達は、僧兵や一揆勢を使って戦さをすることも少なくなかった。
そんな世を嘆き、「武」を「布く」ことを志したのが信長であった。飾りだけの将軍や武家政権ではなく、本物の武士の力を行き渡らせる。これが「天下静謐」の鍵と考えたのだ。
家康も信長の同盟者として、ともに奮闘した。
三成に恩を着せるつもりはないが……。
石田家にとっても、徳川の仲裁は有難かったはずだ。武功派の大名衆にこれほど憎まれた以上、いずれ三成は命を落とす危険があった。それよりは、一大名として存続するほうがよいだろう。
ただ──。
三成自身は、そのように謙虚な考えをもつ侯ではなさそうだ。

大津城の家康は、城主の京極高次と様々な話をした。
琵琶湖の美しさや、大津という土地がいかに大事な拠点かといったことを語る。高次は、徳川の武勇伝を聴きたがり、家臣達が過去の戦さの話などをした。
昔の松平家は、命がけの戦いを頻繁に行ない、討ち死にする者まで出しながら、あまりその奮闘が世に知れ渡ることはなかった。だが今は、昔話をするだけで他家から敬意を払われ、畏れられる。
家臣達は誇らしげだった。
家康は京極家のもてなしに感謝しつつ、食べ物の話などもした。
何を飲み食いするかは、非常に大切である。贅沢や、格別な美食を求めるのではない。自らの身体に何を摂り入れるか。これはある意味、人の価値や性質を決めるといっても過言ではない。
豊臣家の大名達は派手な宴を繰り返し、酒や菓子や変わった物などを好む傾向にある。これが行き過ぎないよう、家康はそれとなく助言してきた。
まだ三十代の高次には、あまり実感はあるまいと思ったが、若いうちから気をつけるに越したことはない。当主が病になったり、早くに没したりすると、御家は一気に揺らぐ。国の安定のために己が身を大事に養う。この心がけが肝要だ。
家康は医薬の道にも通じている。訪ねた家に、老いた家臣や具合の悪い者などがいれば、対処法を教えた。薬の調合法や、薬草の育て方を指南することさえある。
とはいえ、あまり色々とうるさく言うと興が覚めるので、美味い物は美味いと喜び、楽しむようにはしている。相手によっては、何も指摘せずに黙っていることもあった。
黙っていても、何を食べていそうか、ということは観ている。日頃から身体をどれくらい動かしていそうか、といった点も推察する。
高次とは弓の話をした。京極氏は古くから近江で武威を示してきた一族ゆえ、武の道には通じている。武芸の話を少しして、当人の所作や身体の動きを観れば、大体、どのような武人かは分かった。
大名の中には「どこまでも徳川様に付いて参ります」などと、熱心に言ってくる侯もある。が、身体もろくに動かず、贅沢に緩み切った状態で、腹も据わっていない者が、いくら忠節を誓ってきても、あまり頼りにはならない。

       四

近江国、佐和山城は琵琶湖の東に位置する名城である。その主は稀代の秀才、石田三成だった。
城内の庭では、手練れの侍達が武芸の稽古を行なっている。石田家は吏僚の家として名高いが、精鋭達は恐ろしい形相で槍を振るっていた。額に汗を光らせ、鉢巻きがひどく濡れている。
皆で息を合わせて、勢いよく槍を突いたり、振ったりする。また、各々が別の動きをして、敵を討ち取るような攻撃の形も稽古した。
「よし」
と、隊長が声をかける。
「では、槍をおけ。次は剣じゃ」
精鋭達は、居合の要領で刀を抜き始めた。
「遅いぞっ。抜き打ちの技をもっと練れと申したであろう。その鞘の引き方は何じゃ」
隊長は若い侍をにらむ。
「左手が甘ければ、実戦では働けぬ。鞘が地面やどこかに当たれば、動きがとれず、敵に斬られるぞ」
「はい……」
若侍は汗を拭い、鞘を握る左手を確かめながら、いったん刀を納めた。
稽古の様子を、傍らでじっと見ている齢六十ほどの武者がいる。若い者を叱る隊長より恐ろしい目の色をしており、袖をまくって太い腕を組んでいた。その腕には、刀傷や槍傷のようなものが幾つも見える。
この武者は、三成の右腕であり、「過ぎたる」家臣ともいわれる将だ。
畿内では昔から、知る人ぞ知る剛の者だが、謎の多い武将であった。姓は島、名は清興(きよおき)といい、通称は左近。皆は島左近と呼ぶ。
左近は大和国の生まれで、有力大名の筒井家に仕えていた。武功数多の重臣であったとされるが、若い頃の活躍については詳細不明。そもそも筒井家になぜ仕官したのかも分からない。ただ、主の筒井順慶をよく支えたという。
時を経て、順慶の跡を継いだ甥の筒井定次には疎まれた。定次の寵臣、中坊秀祐と争いを起こし、敗れて筒井家を去っている。
その後、様々な武家に招かれたという。しかし、またも詳しいことは分からない。一つの家に長く留まり、主従の契りを結ぶことはなかった。何ゆえか、島左近の武名だけが世に聞こえ続ける。
石田三成は、勇将、島左近の噂を聞き、召し抱えたいと考えた。三成は文官気質で、税の取り立てや兵糧の調達、運搬などで大功をあげてきたものの、武の道には疎いという風説が絶えなかった。そこを補う重臣を求めていたのである。若い三成は、自ら左近のもとへ挨拶に行き、ぜひ石田家に迎えたいと頼み込んだ。
秀吉の側近として、大名に対しても遠慮なく命令を下すほどの三成が、浪人同然の武辺者に敬意を払い、二万石という破格の高禄で抱えたことは、当時、皆を驚かせた。
左近が来てから、石田家は大いに締まった。家臣達は、学問や算盤を好む傾向にあったが、毎日、武士らしく槍や刀を振り回すようになった。
石田家が武に目覚めてから、十年ほどが経つ。
長い間、岩のように動かず、黙っていた左近が、隊長のもとへ近づいて耳打ちをした。
「もうよかろう。誰を連れて参るかは、決めた」
隊長はうなずき、左近が選んだ者だけを呼び集める。
「他の者は、常の持ち場へ戻れ」
「ははっ」
去ろうとする侍達に、隊長は言った。
「気を抜くなよ。城の番や見廻りは大事。今は、いつ戦さが始まっても不思議のない情勢じゃ。徳川は、殿のお考えを探るため、この城に忍びを放つやもしれん。一人一人の心構えが、石田家の命運を左右すると思え」
「はい」
「心致します」
「夜番の者にもよう申し伝えまする」
家臣達は皆、重々しい声で返事をし、あるいはうなずいて、その場を後にした。
選ばれた者は二十名ほどである。
その精鋭達に左近は告げた。
「今夕刻、わしは兵を率いて水口へ参る」
侍達は身を引き締めた。
南近江の水口は、長束正家が治める地。豊臣家の奉行である正家は、昨年まで三成の同僚だった。石高はわずか五万石だが、秀吉に重用された知恵者であり、天下を牛耳る人物の一人といえる。
長束正家は、上杉攻めに反対していた。これは三成と同じく、五大老、五奉行体制を重視する立場である。
今、弱体化しているのは五大老のみではなかった。五奉行も、石田三成が失脚。また、奉行中、最も石高の高かった浅野長政も政権から追い出されている。長政は前田利家の亡き後、跡取りの利長を立て、徳川に対抗しようとして失敗した。
つまり、今は五奉行ではなく三奉行の体制となっていた。前田玄以、増田長盛、長束正家のみが、秀吉の寵臣の中の生き残りである。
正家は今日、大津へ出向いて家康に会い、明日、水口で饗応するという約束をした。
「此度は秘密裡に兵を動かす。この軍の核となるのは、お主らじゃ」
左近は厳めしい顔で告げた。

        五

主君の石田三成は、左近の嫡男、島信勝を側に呼んでいた。
外とは異なり、青簾(あおすだれ)に守られた部屋は涼しげで、わずかに夏風も入る。
「大谷吉継を迎える準備は整ったか」
「はい」
三成は生来、目が細く鋭い。四十を過ぎ、そこに重みや芯の強さが加わった面構えだ。
島信勝は、かなりの武辺者と見える。ただ、重厚感はあまりなく、父、左近ほどの武威や勇壮さは感じさせない。顔もあまり似てはいなかった。
三成は島左近を頼りにしている。が、畏れてもいた。一方、信勝は同年代のため左近より心安く思っているらしく、細かい仕事などをよく命じた。
「我ら、大谷様のご趣味、お好みからご病状まで、よく知り尽くしてござりますれば、ご安心下さい」
大谷吉継は越前国、敦賀の大名である。豊臣家の五奉行には選ばれなかったが、奉行衆と呼ばれるほどの役目を果たしてきた。
「吉継が参らば、ゆるりと話がしたい」
三成は、親しい友人を待つ顔だ。
「ぜひ、そうなされて下さいませ」
信勝も楽しみな表情で応じる。
「しかし、大谷軍は徳川の上杉攻めに従うことになっております。その軍を止め、まことにこちらへ来られるでしょうか」
「参る」
三成は自信ありげに言った。
「吉継とて、まことは徳川になど従いとうはないのじゃ。上杉景勝公を討ちたいとも思うておらん。上杉公は、亡き太閤殿下が江戸、徳川の押さえとして会津へ移した御大老。太閤殿下のご遺命を守り、増長する家康と命がけで対峙しておられる。その上杉家を討伐するなど以ての外じゃ」
鋭い目に怒りを溜めて、三成は続けた。
「今こそ、吉継と腹を割って話さねばならん。まことにこのままでよいのか。上杉を討ち、わざわざ徳川に天下を渡すような戦さを、皆で始めてよいのか」
「まことに家康は不忠者でございます。それが見え見えであるのに、諸侯が徳川に従うのが不思議でなりません」
「うむ」
「正義は我らにあり」
信勝は断言した。
「されど、徳川は強敵にして難敵。これを敵に回すのは覚悟が要りまする。大谷様も、にわかにご決断なされるかどうか……」
「吉継が、真に徳川の手先と成り果てたなら、余に会いには来ぬはず。軍を整え、真っ直ぐ家康の尻を追えばよいのじゃ。しかし、わざわざ軍を止め、この三成と会うならば、脈のある証」
「はい」
「あの家康が、上方を留守にするのだぞ。我がもの顔で乗っ取った大坂城から出ていき、伏見城にもわずかな守兵を残したのみで、東国へ帰る。これほどの好機はまたとなかろう。今、座して動かぬ者は豊臣家の武士ではない。皆、不忠者じゃ」
「仰せの通りでございます」
信勝は頭を下げる。下げながら、怒りをにじませ、口を開いた。
「家康め……家康さえおらねば、かようなことにはならなんだものを……」
「あの腹黒い狸だけは、何とかせずばなるまい」
三成は低い声でつぶやき、半眼となった。
そこへ、信勝の父、島左近が現れた。
「家康のことは、私にお任せ下さい」
少しかすれた、地に響くような声で言う。
「何じゃと」
「今宵、八百の兵とともに水口へ参る所存でございます」
「水口? よもや……」
左近は迷いのない面でうなずいた。

        六

その夜──。
家康が泊まる石部の宿に、近江の百姓と称する者が現われ、大事な話があると告げた。
宿の警護に当たっていた徳川の旗本、服部半蔵正就(まさつぐ)が話を聴くと言い、百姓と会った。
正就は祖父の代から松平家に仕える、三代目服部半蔵だ。初代半蔵保長は忍びであり、侍としては身分が低かった。しかし、二代目半蔵正成が槍働きで目覚ましい武功をあげ、服部家は八千石という大身の旗本となる。
その跡を継いだのが正就だった。正就は御先手鉄砲頭で、与力七騎を支配し、伊賀の鉄砲隊など二百名の同心を預かっている。
正就は立派な見栄えの武将だ。大きく鋭い目、締まった口元、逞しく張りのある五体……。世を忍ぶことが生業であった服部保長の孫とは思えない、厳めしく武張った侍である。
宿に現れた百姓は太郎と名乗り、薄暗い地に跪いて言った。
「明日、徳川様は長束家のおもてなしをお受けになるとか。それは危のうございますので、ぜひ、おとりやめになされて下さい」
「何」
正就は、夜の屋外でも、太郎の顔をしっかりとにらみ見ている。
「長束家は徳川様を罠にかけて、騙し討ちにされるおつもりだ、という話を聞きました。この恐ろしい考えには、佐和山の石田家も絡んでおるそうでございます。今宵、佐和山から何百という軍勢が舟で琵琶湖と川を使い、水口方面へ向かってきたと申します」
「お前……何者じゃ」
正就は厳しく問う。
「近江の百姓でございます」
太郎は畏れるように、身を縮めながら返答した。
「今の話、まことであれば一大事。そのほうは大手柄である。……が、もし偽りであらば、徳川と長束家の間に大きなひびが入ることとなり……」
すると、そこへ家康の重臣、本多平八郎忠勝が現れた。
「構わん。話は聞き容れよ」
平八郎は五十を過ぎた老将であり、徳川四天王の一人として広くその名を知られている。若い頃から家康に仕え、数々の合戦に参じて大功をあげた。家康の関東移封後は、上総国で十万石を賜る大名となっている。
「長束家には甲賀の忍びがおり、どのような奇策をめぐらしておるやもしれぬ。危うき所には近づくべからず」
「確かに左様でございますな」
正就はうなずいた。
平八郎は続ける。
「お主もよう存じていようが、甲賀には長束家の手先がおる一方、我らに味方する忍びや古士もおる」
近江は極めて複雑な国だ。地形としても琵琶湖があり、平地があり、様々な山、谷などが存在する。交通の要衝であることはもちろんだが、京の都に近く、歴史上、非常に大きな影響や、つながりがあった。
天下争乱が続いた室町時代には、足利将軍が都から逃げてきて、近江に拠点をもつこともあった。近江を制する者は絶大な力をもつ。時にその武威は、京の都をしのぐほどであった。織田信長も近江の安土を拠点に、天下に号令を下した。
ゆえに、都や時の為政者は近江国を恐れた。この国の力を弱めようと、多くの大名小名による分割統治を試みる。豊臣政権もこの方針をとった。
特に南近江は、秀吉ににらまれていた。秀吉は、古い家柄を誇る名士達を、ささいな失態を理由に罰し、武士の身分を剥奪したのである。町民や農民に変えられた彼らは、甲賀古士などと呼ばれる。
秀吉は、甲賀に自らの重臣、中村一氏(かずうじ)を遣わし、水口に拠点を築かせた。続いて五奉行の増田長盛、その後は長束正家が水口に入っている。
しかし、南近江がすべて豊臣一色となったわけではない。徳川も、甲賀に小さな領地を有している。家康は、秀吉に家と名を奪われた甲賀古士を雇い入れ、この地を与えた。
秀吉は、徳川のこうした動きを嫌ったが、結局は容認せざるを得なかった。理由は、己が信長のようになることを恐れたからだ。
信長は東から近江へ進出した際、多くの忍び達を敵に回した。そのせいで、常に身の危険を感じる運命となった。鉄砲の名手、杉谷善住坊に狙われ、危うく命を落としかけた事件などはよく知られている。
家康は、甲賀の名士達を追い詰め過ぎないよう配慮するのが得策だと、豊臣家に説いた。彼らを本気で怒らせれば、善住坊になる。この理には、秀吉も奉行衆も納得した。
甲賀古士の中で、徳川に属した者というと、例えば多羅尾一族がいる。多羅尾氏は、家康から信楽の支配を許されている。
この一族と徳川のつながりは、実に古い。甲賀者は伊賀者と同様、三河の松平家に昔から雇われていたのだ。
家康はまだ若い頃、今川家と断交し、織田信長と同盟を結ぶという大きな決断を下す。その際、妻子はまだ今川方におり、何とか岡崎に取り戻さねばならなかった。困った家康は、三河にあった今川一族の城を攻める。そこで捕らえた城主の子と、人質交換という形で目的を達した。
この城攻めで活躍したのが、伊賀の伴氏と甲賀の多羅尾氏である。多羅尾衆を率いたのは、信楽を本拠とする多羅尾光俊だった。光俊はこの時、すでに五十近い歳であったが、今も八十代の老忍として一族を動かしている。
多羅尾衆は、織田と徳川が越前の朝倉氏と戦った際にも家康に力を貸している。この戦さでは、浅井氏の裏切りで信長が窮地に陥り、敗走。いわゆる「金ヶ崎の退き口」という難しい局面を迎えた。
信長が逃げた後、徳川軍は前線に取り残された。秀吉も殿(しんがり)を願い出たらしく、朝倉軍の追撃を受ける。この頃の秀吉は、まだ織田家の一家臣であり木下姓を名乗っていた。武士としての身分も低く、強力な家臣もおらず、撤退戦では命を落とす寸前であった。
徳川軍は、この秀吉を助け、共に近くの城まで逃げて窮地を脱した。
その後も敗走は続き、近江国で琵琶湖に出た際、多羅尾一族の者が、家康のために舟を手配してくれた。おかげで無事、対岸へ渡ることができたのである。
多羅尾氏の功はこれにとどまらず、家康はそれらの恩を忘れることができなかった。
しかし、秀吉の時代になると、上方の情勢により、多羅尾光俊は豊臣家に仕えた。孫娘のお万が豊臣秀次の側室となり、厚遇された時期もある。秀次は秀吉の跡を継ぐと考えられ、関白にまで昇り詰めた人物だ。
ところが、秀吉に実子の秀頼が生まれると、謀反の嫌疑をかけられ、秀次は切腹させられた。この時、多羅尾氏の娘お万も処刑され、光俊も連座、改易となった。
この窮地で、一族を助けたのが家康である。
徳川は豊臣の隆盛期にも多羅尾氏とつながりを持ち続け、一部を家臣として抱えた。おかげで、秀吉が甲賀武士の身分を取り上げた際も、秀次事件が起きた後も、多羅尾氏が滅びることはなかった。信楽の領地も、またうまく確保できたのである。
多羅尾一族は、もともとは公家で近衛氏の末裔といわれている。その近衛氏が昔、信楽で隠居したのが始まりだった。甲賀も伊賀と同様、貴人が隠遁する地である。この公家には子があり、信楽にいた多羅尾の娘と縁を結び、以来、多羅尾一族は山中にあっても高い誇りをもって生きてきた。
地味な土着の一族に見えて、実は、秘めた心や才を有している。それはかつての三河松平氏と似ていた。徳川と惹かれ合ったのも、偶然とはいえない。
常に、深謀遠慮で家康との関係を重んじてきた多羅尾氏。彼らは、この後、江戸時代に入ると信楽の代官職に任じられる。その職は代々世襲とされ、多羅尾氏は長く安泰となった。

甲賀は伊賀国のすぐ北にあり、伊賀と甲賀の忍びは昔から交流があった。
伊賀にゆかりの服部半蔵正就は、無論、家康と甲賀者の深いつながりを知っている。太郎は近江の百姓と称しているが、徳川に味方する甲賀古士や、その親類縁者である可能性もあった。
正就は平八郎の話にうなずく。
太郎も、当然、徳川の味方だという顔で言った。
「もしお疑いでございましたら、石田家の軍勢が来ているという川のほうまでご案内致します」
「うーむ」
平八郎は一瞬、考えてから応えた。
「疑うわけではないが、見ておきたいのう。石田の軍勢が水口へ向かっておる、ということがはっきり致さば、我らが明日の約束を違えたとて、誰も文句は言えまい」
「仰せの通りです」
正就も同意した。
「しかし、川まで見に行く時がございましょうか」
「暇はないが……何名か、夜の物見に適した者を遣わそう」
「はい。では、私めの配下から伊賀者を選びまする」
正就が申し出ると、平八郎はわずかに首を傾けた。
「そうじゃのう……。しかし、半蔵の組内は鉄砲隊として組織されておる。それより、すぐに動かせる、手軽な者を用いよう」
平八郎は家康に事を告げ、許しを得ると、本多家の家来の中から足の速い者、夜襲に慣れた者などを数名呼んだ。そして、太郎につける。
太郎と彼らは夜の闇へと走り去った。

      七

平八郎は、太郎達を見送ると、服部正就に告げる。
「さて、我らはすぐに逃げるぞ」
人を欺く悪童のように、ぺろりと舌を出した。
「夜道ですが……」
と、正就が小さくつぶやく。
「忍びの一族が、何ゆえ夜道を厭う」
「いえ、私どもは如何なる道も嫌いません。しかし、殿はもう六十になられようという御歳」
「構わん。朝にならば、敵が動き出すゆえ、なお危ない」
「心得ました」
正就は生真面目に頭を下げた。
「我ら服部一族、万一の折りの逃げ路は、常に考えてございます」
その眼には自信と、幾らかの興奮も表れていた。
服部半蔵家は、徳川の「逃がし屋」である。
先代の服部半蔵正成は、徳川軍が武田信玄と激突した三方ヶ原の戦いで、敗戦の際、家康を守って浜松城まで帰還させた。家康、正成ともに三十歳頃の出来事だ。
この折りは、諸々の作戦がうまくいかず、徳川軍は武田信玄の術中にはまり、死者を多数出す大惨事となった。半蔵正成はこの合戦で、異母兄の服部保正を失っている。
それから、およそ十年後──。
四十一歳となった家康、正成の主従は更に大きな逃亡劇を成し遂げる。後に「神君伊賀越え」と呼ばれるものだ。
この時は、京都で本能寺の変が勃発。家康は上方の堺にいて絶体絶命の状況に陥った。そこから、伊賀者、甲賀者の尽力で見事、母国の三河へ帰還したのである。
この年、織田、徳川の連合軍は強敵、武田氏をようやく滅ぼした。家康は信長の勧めで安土へ行き、饗応を受け、その後も遊興の旅をしていた。堺へ出かけた際、家康に同行していた供はわずか三十数名。
本能寺では、織田家の重臣、明智光秀が謀反を起こし、信長が自害に追い込まれた。光秀は、自らが信長に代わって天下人になろうと企てたらしい。
無謀と思われたが、その可能性が皆無というわけでもなかった。光秀は信長を仕留めた。ここでもし、上方に滞在中の家康を同時に討つことができれば、世の情勢は一変する。
そのため、光秀は家康の命を狙うと考えられた。明智軍でなくとも、この光秀の目標は分かる。他家の侍や野武士、山賊などが、落ち武者狩りのように、徳川主従に襲いかかってくることが予想された。
家康は当時、すでに三河、遠江、駿府を領する有力大名であった。これを討てば大功となる。自らの名を一気にあげることができる上、光秀や新たな勢力から、多額の恩賞を得ることも期待できた。
徳川一行は、何とか敵の目を逃れて三河へ帰らねばならなかった。その時、家康が選んだのが「伊賀越え」であった。
供侍は少数とはいえ、酒井忠次、榊原康政、井伊直政、石川数正などの精鋭が揃っていた。そこには、まだ三十代の本多平八郎忠勝もいた。更に大きな鍵となった人物が、服部半蔵正成である。
正成は「鬼半蔵」と呼ばれたほどの槍武将。そして、伊賀の忍びの頭目、服部半蔵保長の子だ。保長は、この頃にはもう隠居しており、浄閑と名乗っていた。とはいえ、その力は健在である。保長は若い頃に三河に来たが、以後も母国の伊賀に拠点を持ち、親類縁者も多くいた。
家康が上方に行くと聞いて、浄閑はまず供の少なさを危惧し、陰供を用意する。その他にも、万一の折りに備えて様々なことを考えていた。忍びの者は、偵察役や伝達役としても大いに役立つ。
「伊賀越え」の発想は、にわかに湧いた話ではなかった。浄閑ら忍びの者が準備し、家康の供を務める表の旗本、服部半蔵正成と連携して成し遂げたことなのだ。
浄閑は、伊賀の親類や友人、知人などの伝で、地侍や土地の名士を味方につけた。彼らは人質を差し出し、忠誠を誓って協力した。
松平家、徳川家は長年にわたって忍びを用い、重視してきた。浄閑の配下には伊賀出身の者が多く、直接の配下以外にも服部半蔵家の斡旋で家康に仕えた者はかなりいた。
こうした経緯、つながりもあって、徳川一行は、その場でも、大勢の伊賀者を雇い入れることができた。幸い、京都から馳せつけた豪商、茶屋四郎次郎が大枚の金をもって来たため、忍び達は喜んで護衛についた。
何とか人数を整え、東を目指したが、やはり山中では賊が現れ、家康を襲ってきた。忍び達は勇猛に奮戦し、徳川の重臣達も皆、必死に戦った。
鬼半蔵正成は、得意の武芸を発揮したが、瀕死の重傷を負ってしまう。先に逃げた家康は、半蔵が来ないため、永の別れも覚悟した。
だが、正成は忍び達に助けられ、何とか再び主君との合流を果たす。
伊賀から伊勢へ出た徳川一行は、船を探すのにも苦労したものの、何とか海を経て三河へ帰った。
この旅は、家康の生涯で第一の艱難(かんなん)ともいわれる、まさに命がけの逃亡であった。
以来、服部半蔵家と忍び達は家康を「逃がすこと」に関して絶大な信頼を得た。

       八

この「伊賀越え」では、甲賀者の活躍も著しかった。家康は伊賀へ至る前に、まず甲賀へ入って身をひそめたのである。
実はこの頃、伊賀国は徳川にとって、かなり危ない場所であった。本能寺の変の前年、織田信長が伊賀国を焼き討ちにしたからだ。その信長と同盟を組んでいる徳川も、伊賀の人々から恨まれている可能性が高かった。松平家の頃からの、伊賀との深い縁がなければ、とても「伊賀越え」などは考えられなかった。
一方、甲賀者は伊賀の忍び達より早く織田家に従っており、堂々と助けを求めることができた。
甲賀へ入った際、家康が頼ったのは、やはり多羅尾光俊だった。他にも多くの甲賀衆が味方をして、伊賀者と同じく奮戦、徳川一行を救った。
この「伊賀越え」は、家康の人生観を変えるほどの旅であった。と、同時に、忍び達の人生や運命にも大きな影響を及ぼした出来事といえる。
忍びの者は、大名などの下で常に様々な極秘の任務を遂行してきた。が、この「伊賀越え」は、そうした忍びの裏仕事が大きく明るみに出た一件なのだ。
徳川家康は、なぜあの時、無勢の状態で堺にいたにもかかわらず、三河へ帰ることができたのか。子細は知らずとも、世の人々は察した。「伊賀越え」で逃げたと聞いて、何かに気づいたのである。
徳川の御家内では、なおさらだ。三河などの領国で家康を迎えた家臣達は、この異様な旅がなぜ成立したのか、考えないわけにはいかなかった。それまでは、忍びの者を使っているとは知りつつも、彼らの功の大きさまでは実感していない者も多かった。しかし、此度は認めざるを得ない。
家康を含め、徳川の主だった重臣達が皆、人目を盗んで、忍び達とともに遁走した。忍びの国で、伊賀者、甲賀者が主役となった決死の旅。この出来事を隠し切ることはできなかった。
以来、徳川はかなり堂々と伊賀者、甲賀者を家臣として雇い、組織するようになった。
その後、徳川の「逃がし屋」服部半蔵家の新しい当主として、三代目半蔵を襲名した服部正就。この旗本は、いよいよ己の真価が試される時を迎えていた。
正就は今宵の逃亡に向け、声を強くする。
「伊賀者に予めこの辺りの絵図を作らせております。それを殿にご覧いただき、逃走の道筋などを、幾つかご提案致しとうございます」
平八郎がうなずくと、正就は服部家の家臣を呼んだ。
「近江の絵図を持って参れ。伊賀の組頭のうち、この辺りの地理に詳しい者を二、三名連れて参れ」
家臣は、すぐには応じず、何か考えるような顔だ。
正就はいらついた声で言った。
「急げ。ゆえあって、これから殿は宿を出られる。敵の耳目を欺かねばならん」
「左様でございますか。鉄砲組はお供を許されるのでございますか」
「それはまだ分からん」
「この辺りの土地をよく知る者といえば、昔、織田家に仕えておりました忍びなどもおりまするが……今は老齢にて……。急な遁走ならば、若い者や、『伊賀越え』でお供した者などがよいとも思われまする」
「とりあえず、組の頭を連れて参れ」
「組頭は江戸暮らしが長いか、上方でも日頃、伏見や大坂におりますゆえ、この石部で殿をご案内できるほどの者はおりません」
正就は汗をにじませた。
「何のための伊賀者じゃ。もうよい。わしが殿にお話申し上げるゆえ、急ぎ絵図だけ用意せい」
「心得ました」
家臣が退くと、正就は早い口調で平八郎に言った。
「申し訳ございません。しかし、ご安心下さい。私めは日夜、殿に万一のことがあった場合に備え、遁走の路を考えてございます」
「うーむ」
顔を曇らせる平八郎に対し、正就は、絵図を待たずに語り出した。
「今のような場合、進退合わせて三つほどの逃れ方が考えられます。まず一つ目は、このまま夜のうちに急いで街道を突き進む。道がよいので、明朝までには水口を超えることが可能と思われます。二つ目は、一度、大津の方へ引き返し、敵の出方を見る。もし、敵が軍勢を率いて襲いかかってきた場合、大津ならば京極家の助けが得られましょう。三つ目は、街道を外れて間道へ入り、敵の目を完全にくらます。この場合、北に逸れるか南に逸れるか、でございますが、野洲川に石田の軍勢が参ったとの話ゆえ、まずは南下すべきと存じます。その後、再び東へ向かいます。間道につきましても、大体のことは絵図に示してございます」
正就は、いかがでしょう、という目で平八郎のほうを真剣に見る。
「うむ、まあ……三つ目じゃろうな」
平八郎はつぶやいた。
その時──。
本多家の家臣が側へ来て、平八郎の耳元で告げた。
「殿、ご重臣の皆様方が殿を探しておられます」
平八郎はうなずき、正就に言った。
「しばし待て」

       九

家康のもとには、井伊直政、榊原康政といった重臣達と、親衛を務める旗本の隊長格が集まっていた。
皆、旅支度を始めている。
部屋には湯漬けが用意されており、家康はそれをかき込んでいた。逃亡の際には、とにかく力をつけておくことが第一だ。
そこへ平八郎が来る。
「何をしておられました」
直政が急(せ)いた様子で尋ねる。
「服部半蔵と話しておったのじゃ」
「三代目ですか」
「うむ」
家康は飯椀を抱えたまま、無言で箸を動かし続けた。
服部半蔵という名を聞くと、「伊賀越え」が思い出される。あの時、必死で山へ分け入り、仮の宿に落ち着いた時には、皆、腹が減って倒れそうであった。用意された飯を手づかみで貪り食った記憶が、苦々しく蘇る。
「三代目半蔵には鉄砲隊を任せると、殿が仰せです」
「しかし、誰ぞ手練れの忍びを案内役として使わねば、苦しかろう」
「ここは近江。甲賀者に案内をさせます」
直政は落ち着いた声で述べ、皆もうなずく。
「実は今日、大津にいた時、殿が甲賀者に水口の偵察を命じておられました」
「まことですか」
平八郎は家康を見て問い返す。
家康は平八郎とちらりと目を合わせたが、すぐにまた下を向いて湯漬けを食い続けた。
平八郎は大きな溜め息をつく。
「殿、何ゆえそれを早う言うて下されませぬ」
家康は口の中を空にして、ようやく話し始めた。
「夜になっても、何の報せもなかったのでのう。しかし、今、戻って参った」
「左様でございましたか」
小声で返事をする平八郎の側で、直政が再び口を開く。
「つい先ほど、甲賀の篠山資家(ささやますけいえ)が水口から戻り、長束家の企てを伝えて参りました」
「企て? では、近江の太郎なる者の言は、やはり正しかった──ということですな」
「はい」
一拍置いて、平八郎は独り言のようにつぶやいた。
「なるほど……篠山資家でございますか」
腹を満たした家康は、ゆっくりと立ち上がる。
若い旗本達に取り巻かれつつ、着替えを行なった。家臣達と変わらぬ地味な衣服に身を包む。
平八郎は湯漬けも食わずに黙って座り込み、また吐息をついた。
その肩を、同い年の榊原康政が叩いて、耳元で言う。
「長束家を疑い、忍びを放つなどと、殿がお主に言えると思うか」
長束正家は奉行衆の一人であり警戒すべき相手だ。三成を好み、吏僚の復権を目指していることも明らかだ。しかし、正家の正室は本多平八郎の妹である。平八郎は義兄として、何とか正家を親徳川の大名にしようと努めてきた。その試みや苦労を家康が無視し、正家を露骨に疑えば、平八郎の面目は丸潰れだ。
家康は、平八郎に配慮したつもりであったが、結局はこのような事態に陥った。
しかし、とにかく今はまず逃げることだ。死傷者などを出さず、うまく切り抜けることができれば、平八郎も幾らか気が楽になるだろう。
甲賀の篠山資家は、元は織田家の家臣で、信長の死後は秀吉の麾下にあった。ところが、信長の次男、織田信雄が秀吉と対立し、小牧、長久手の戦いが起きる。この時、資家は織田信雄と徳川の連合軍に与した。
小牧、長久手の戦いは、主な戦地では徳川方が勝利したものの、上方を中心とした外交工作により、秀吉は織田信雄と和睦。織田、徳川の連合が崩れたため、徳川は秀吉と戦う大義を失った。
その後、秀吉は実質、織田家を自らの支配下に置いてしまった。
篠山資家は、秀吉に身分と領地を没収される。以降、伊勢国の関の辺りに隠れ棲んだ。
だが、家康は資家との関係を保ち続ける。そして、徐々に力をつけた徳川家は上方に進出、資家を家臣として雇い入れた。家康は、伊勢に領地を得た際、その支配を資家に任せている。
資家は今日、家康が近江へ入ったことを知り、大津城まで挨拶に来て、伊勢国の情勢などを報じていた。
篠山家は甲賀五十三家の庶流であり、古い家柄を誇っていた。その家を潰された資家は、反豊臣の意思を腹に秘めつつ、徳川に忠誠を誓っているのだ。
平八郎は、家康のそばに来て言った。
「服部半蔵は、いかが致しましょう。殿の御馬の近くに鉄砲隊を配しまするか」
「うむ。伊賀者と鉄砲は頼りになる。何と申しても、忍びは目と耳がよいからのう」
「案内役の篠山資家にも、何名か鉄砲の撃ち手をつけまするか」
「それがよい。先頭と我らの絡(つな)ぎも、忍びに任せるのが早かろう」
「畏まりました」
平八郎が頭を下げ、家康の御前を離れようとすると、旗本の一人が言った。
「我ら旗本の一部が、この宿に残るという案がございます。徳川本軍が、まだ石部におると見せかけるためです。平八様はいかが思われますか」
「名案じゃ」
平八郎は即答する。
「しかし、よい加減で皆、宿を引き払ったほうがよい。殿が町を離れられたら、宿に報せが来るように致そう」
「はい」
「宿の者にはよくよく謝意を表し、礼金もはずめ。我らの動きが決して外へもれぬよう、万全を期すのじゃ」

       十

平八郎がいなくなると、家康の側では榊原康政が長束家への憤りを口にする。
「長束めっ。平八殿に、さんざん世話になっておきながら、ようもこのような……」
その瞬間、部屋の中の雰囲気が変わった。家康の家臣達は皆、各々腹の内に怒りを抑え込み、自制を利かせていたが、その箍(たが)が外れそうになる。
「こらえよ、康政」
家康は、やや厳しい声で制止した。
「今は無事に逃れることが第一じゃ。始末は後で考える」
「はい……」
康政は奥歯を噛みしめた。
「申し訳ございません」
何度か呼吸を挟んで、康政は言った。
「最も怒りたいのは平八殿のはず。その平八殿が我慢し、静かに仕事をされておる時に、我らが取り乱してはなりませんでした」
家康はうなずいた。
康政は、本当にこらえ切れずに怒りを口にしたのか、あるいは、故意か。
家康はおそらく後者だろうと感じた。
家臣達は、黙っていても皆、怒り心頭という様子だった。そのような時は一度、本音を発したほうがよい。
ただ、怒りが燃え上がり過ぎても困る。
家康は低い声で皆に説いた。
「我ら徳川は、今や隆盛を極め、豊臣の天下を奪ったとも言われておる。豊臣の将がこれを恨み、余に弓を引いても、怒ってはならん」
家臣達はしばらく黙った。
「しかし──」
と、若い旗本の一人が口を開く。
「やり方が卑怯でございます」
「そうだ」
他の旗本も言い出した。
「汚な過ぎる」
その様を冷静に見ていた井伊直政が、立ち上がり、一同へ向けて言い放った。
「敵の正体を知ったは幸い。徳川の武辺を見せてやれ。我らは必ず殿をお守り申す。夜の闇に刺客でも参らば、存分に戦い、皆で斬り伏せようぞ」
「そうです」
「直政殿のおっしゃる通り」
家臣達は、熱くなった気持ちを抑えるのをやめ、素直に表し始めた。
康政も大きくうなずき、その場に新しい力が湧き上がる。
武芸に秀でた直政は、ぎらりと眼を光らせた。
「これは戦さじゃ。皆、その気概で臨め」
「おぉ」
「そうじゃ」
「長束家などに負けてたまるかっ」
家臣達は言い合い、各々の仕事に急いでとりかかった。
家康は、家臣達の賢明さと頼もしさに感心した。
皆は、複雑な準備を見事な連携で進めていく。家康の警護態勢を整えることに加え、大所帯の徳川本軍を移動させるため、荷造りなど何かと面倒なことも多いが、家臣達の動きは速かった。
平八郎と服部半蔵正就も家康のところへ来て、伊賀の鉄砲組の配置などを確認した。
いよいよ家康は部屋を出る。外には馬を用意させた。

       十一

時を遡り、同じ日の日中──。
佐和山では、島左近が、
「家康のことは、私にお任せ下さい」
と、自信を示し、水口へ出兵すると言い出した。
長束家に加勢するためである。
「まことに参る気か」
三成は案じる様子で問いかけた。が、左近に迷いは見えない。
「いかにも」
「水口のことは、長束殿がお考えになるであろう。南近江には甲賀があり、忍びの者も多数おる。裏の働きは、土地の者達に命じたほうがうまく参ると思うが」
「明日、家康は水口へ来て、長束家の方々が接待をされます。家康は、他の大名軍とも離れてくつろぐはず。これは絶好の機会でございます」
「分かっておる。が、事は密かに行なうものゆえ……」
「徳川を侮ってはなりません。もし、長束家が大望を遂げられても、徳川の家臣達の反撃にあわば、被害は甚大となりましょう」
「うーむ」
三成は腕を組んだ。
「徳川も忍びを用います。復讐のために、長束様のご一族が暗殺でもされれば何となさいます」
「それは一大事じゃ」
「私は、徳川本軍の親衛達と戦えるだけの兵を率いて、長束家に加勢致します。殿は、知らぬふりをなされて下さい。私が己の一存で参ります。家康は逃げ足も速き将。もし長束家が仕損じ、逃げられた場合も、我ら援軍が待機しておらば、二の手、三の手が考えられます」
左近は八百の兵を出す計画で、中には剣術に優れた精鋭二十名が含まれていた。
「家康が逃げ、万策が尽きたときには、闇討ちにでも致します。山中などで待ち伏せし、徳川軍の列が伸びたところで一気に懸かり、家康一人に狙いを定めれば、事はなせると存じます」
三成は、しばらく考えてから腕を解いた。
「分かった。気をつけて参れ」

夜の石部では──。
家康が、旗本の親衛達にまぎれて宿を出た。
伊賀の鉄砲隊がこの前後を護る。重い火縄銃を携えていても、忍び達は足音一つ立てず、静かに動いた。長束家の者が徳川一行の様子を見張っている可能性が高いため、忍び達は周囲に怪しい気配がないかも、よく確かめつつ進む。
一行は、街道から逸れて間道を目指した。長束家が罠を張る水口を避けねばならない。
だが、家康は、水口方面へ行く道にも人を配した。石部からの使いの者や伝達の忍びなどが通れないよう、徹底して見張らせる。敵が現れれば捕らえ、そうでなくとも通行人は皆、足止めにする。
細心の注意を払いつつ、石部の町を離れた。
その後は、間道を通って素早く逃げる。石田軍がいるという川を避けるため、やや南下し、再び東へ進むことにした。
家康はほとんどの道を馬で行った。
己は、良い馬をもっていて幸運だと思う。臆病な馬であれば、夜、しかも足場が悪いと、とても進めない。家康は自らの馬術にも自信があり、共にこの窮地に臨むことができた。
武士の馬は、合戦にも怯えないよう鍛え上げられている。槍を持った相手がいようが、鉄砲の音が鳴ろうが、進めと命じれば進む。
しかし元来、馬は敵に突進するより、逃げるのが得意な生き物である。鹿などと同じで、自ら獣を追って狩りをすることはない。むしろ、追われる立場にあるのだ。
駿足の愛馬がいれば、その武将はたとえ敵が後方から迫っても、引き離して逃げ切り、無事を得るといわれる。
今は亡き織田信長も、馬術に長じ、窮地に陥れば愛馬で逃げる、という考えの持ち主であった。そのため、警護が手薄な場所にも平然と出かけることができた。いったん馬に乗れば、己より早く走れる者はほとんどいないと自負していたようだ。
信長の家臣であった明智光秀は、そのことをよく知っていた。このため、本能寺に攻め入る際、まず信長の愛馬がいる馬屋を押さえ、逃亡を阻止したという。
馬が常に頼れるというわけではないのだ。
家康も、愛馬に身を委ねつつ、険し過ぎる山道では、馬から降りざるを得なかった。夜の間道を自らの足で急ぐ。
服部半蔵正就は、六十近い歳の家康を気づかった。しかし、家康は足を止めず、旗本達や伊賀者と並んで歩き続ける。若い頃から鷹狩りが好きで、今も暇さえあれば野山を駆け回っていた。若い家臣が家康に追いつけないこともあるほど、脚が達者なのである。
忍びは夜目が利くため、伊賀者が背中など後ろ側に明かりを灯し、それを頼りに家康がついて行くようにした。馬で行く時も、歩く時も、足元がよく照らされ、何とか前へ進み続けることができた。
三代目半蔵は、配下の鉄砲隊とともに、銃の火縄に火をつけた臨戦の状態で家康を護った。

         十二

長束家の者達は徳川勢を見失った。
石部からは未明に脱出を終えており、翌朝、宿はもぬけの殻であった。街道にも、その付近にも、家康の姿や痕跡は何もない。
家康主従は、石部や水口から離れただけではなかった。その東にある土山の町も過ぎ、夜を徹して鈴鹿峠を越えていた。長束家の勢力圏外まで一気に出る、という難しい業を成し遂げたのである。
そして夜明け頃、伊勢の関へ至った。
供の者達は皆、無事のようである。
やれやれ、と、家康は息をついた。
関に着いた途端、疲れがどっと出た。まさに「伊賀越え」を思い出すような逃亡劇であった。
案内役を務めた篠山資家は、以前、関の近くに隠棲していたため、この辺りは庭も同然。家康も、関には古い友人などがいて、少し気を休めることができた。
険しい道を泥だらけの足で歩いた家康も、逃亡を終えた今は、もう貴人の大大名に戻っている。
伊勢まで逃げ切った後、家臣達は長束正家への怒りを再燃させた。石部の時より、皆、激怒している。苦しい旅を強いられた恨みが噴出したのだ。
長束正家を許すまじ、と怒る家臣達に、家康は、ある程度、熱くなることを許した。
それから、おもむろに逃亡の労をねぎらう。特に功のあった篠山資家には、褒美として刀を与えた。
家康は、家臣達に平常の心を取り戻すよう、徐々に促した。長束正家は確かに、極めて疑わしい。しかし、暗殺の明らかな証拠までつかんだわけではない。ゆえに、あまり騒ぐなと言った。
家康自身は、このひどい旅を必然ととらえていた。天が徳川軍に与えた試練といってもよい。この乱世で、戦さに向かう旅が、常に楽しく心地よいと思うほうが間違いだ。
西近江の大津城では、城主の京極高次に歓待され、皆、上機嫌であった。石部でも徳川様、徳川様と持ち上げられ、悠然と宿に泊まろうとしていた。
続く水口でも、長束家のもてなしを受け、皆でいい思いをしようと考えていたのだ。その当てが外れ、地獄のような夜の峠越えとなった。
家康も疲れ切り、参ったとは思う。が、若い家臣達には良い薬になったであろう。
怒りを我慢するのも、良い修行だ。

佐和山の石田家では、島左近が三成に平伏し、詫びていた。
「面目次第もございません。家康は、石部の宿で長束家の使者と会い、翌日、饗応を受けると申したそうで……よもや、その夜のうちに姿をくらますとは……」
「言い訳はよい」
三成は冷たく吐き捨てた。
「家康は難敵。それゆえ、余は長束家に任せよと申したのじゃ」
三成、左近の主従は、近江で家康を討ち取れば、世をひっくり返し、大逆転することができると考えた。が、その望みは達せられなかった。
左近の軍勢は、深夜に水口付近へ到着。しかし、長束家は、濫りに動かず待機しておくようにと言った。
翌日、長束家から使者が来て、徳川一行が逃げ去ったため、事は中止になったと伝えてきた。左近は家康を追おうと言ったが、反対された。長束家の許しがなければ、家康に追い撃ちをかけたり、山狩りを行なう、などということはできない。
長束正家は家康の腹心、本多平八郎の義弟だ。あからさまに徳川を敵に回すのは、賢明ではないと考えていた。家康を暗殺するにしても、正家の命令とは分からぬ形で事を為さねばならなかった。不慮の事故を装ったり、弱い毒をもって病死させる、など……。
隠密部隊とはいえ、刀を持った侍達に家康を斬らせるという左近の計画は、退けられた。まして、八百の大軍で徳川本軍を襲うなど以ての外である。
左近とその軍勢は、なすすべもなく退却し、佐和山へ戻った。
三成は怒りを隠せない。
左近は、額が床に着くほど頭を下げた。
「まことに申し訳ございません」
ややあって──。
わずかに面を上げた左近は、つぶやいた。
「家康はまこと、恐ろしき将でございます」
「何を今更」
「大谷吉継様を足止めし、反徳川の談義をなされるとのこと。どうか、もう家康に刃向かうのはおやめ下さい」
「徳川に上杉を討たせてはならん。豊臣の天下を、徳川に盗られてはならん」
三成は強く言い返す。
「はい。家康はまぎれもなく大盗でございます。それゆえ、何とか家康を近江で……と、策を練ったのでございます。しかし家康は、領国の江戸へ戻らば無敵です。徳川の家臣団と二百五十万石の大軍に守られ、もはや手出しはできません」
「家康は太閤殿下のご遺命に背き、やりたい放題じゃ。御大老衆を上方から追い出したのみならず、伊達など遠国の有力大名と勝手に婚姻を結び、己が天下と言わんばかり。かような無法を許さば、豊臣家の政道が立ちゆかぬ」
「仰せの通り、返す言葉もございません。されど、家康を敵に回すのは……」
「余は諦めぬ。諸国には、家康の専横を止めたいと考える候も、少のうない。今は徳川を恐れ、声を上げられぬ武将達も、我らが勇気を出して立ち上がれば、必ずついて参る」
左近はうなずかず、黙って主君の目を見た。
「余は、今まで太閤殿下に頼り切りであったと思う。じゃが、これからは己の知恵と判断で戦う。今こそ、亡き太閤殿下の御恩に報いる時じゃ」
冷静な奉行といわれてきた三成が、熱い声で言い放った。
「家康の無法の数々は、すでに細かく吟味し、書きまとめた。これを早速、長束殿にもお見せしよう。此度は策が実らず、悔しい思いをされていようが、長束家の勇気は讃えるべきじゃ。改めて、反徳川の結束を固めよう」
三成は立ち上がり、窓から広い外の景色を見る。
庭には、武家の城らしく松の木が並んでいた。松の枝は、深い緑の真っ直ぐな葉をつけ、右へ左へ、そして上へと伸びていた。
風が吹き、他の庭木が揺れる。しかし、松はほとんど知らぬ顔で、特に古い松はがっちりとして不動であった。
「徳川を倒すためには、何が必要か……。とにかく、莫大な兵数を集めねばならん。諸侯へ文を書くぞ」

       十三

家康は何とか無事、旅を続けた。
海道では、懐かしい三河や遠江の浜松、駿河国などの風景を見て、楽しんだり、戦さの苦い思い出を蘇らせたりする。今はどこも他家の領土となったが、行く先々で領主や留守居役などの歓迎を受けた。
近江の百姓、太郎に付いていった本多平八郎の家来は、石田軍が来たのを確かめている。旗などは立てていない地味な部隊であったが、間違いなく軍勢はおり、これが撤退すると、密かに跡を追った。そして、彼らが佐和山へ帰るのを見届けている。
更に、琵琶湖周辺で聴きこみを行ない、商人や漁師などに、船団を率いた将の名を尋ねたところ、島左近であると判明した。
太郎に付いていったのは、忍びの心得のある者達だった。平八郎も、家に忍術者を抱えている。伊賀者、甲賀者などの忍びを使いこなせなければ、徳川家の老職は務まらなかった。
長束正家と石田三成の企てについては、大坂の豊臣家へ報じている。大坂城には豊臣秀頼がいるが、まだ八歳のため、実質、物事を判断するのは生母の淀殿と側近達だ。
淀殿に、三成の不穏な動きを伝えられたのは大きい。
家康は、己は良き家臣や味方をもったと、つくづく思った。
長束家は、未遂に終わった暗殺計画について、なかったふりをするだろう。しかし、石田軍の無法は明らかであった。三成はもはや豊臣家の奉行ではなく、権限が非常に限られている。自領内を守る目的以外で、兵を動かすことは許されないのだ。
長束家と共謀して暗殺を図った、という証まではない。しかし、あの日、三成が水口へ兵を送る用はないため、家康に害をなそうと企てたことは、ほぼ間違いなかった。
淀殿は徳川主従の無事を喜び、家康の留守中、上方が不穏になることを恐れているといった。
関東へ入ると、家康は鎌倉へ行き、鶴岡八幡宮に参詣した。源頼朝ゆかりの八幡宮だ。源氏と鎌倉武士の守護神として、家康も深く信仰していた。
品川では、家康の三男であり跡取り候補の徳川秀忠が出迎えた。秀忠とともに江戸へ帰り着き、ようやくゆっくりと身体を休めることができた。
とはいえ、長く気を休める暇はない。
諸々、不穏な動きがある中、家康はまず上杉攻めに取りかからねばならなかった。
此度の合戦では、諸侯の大連合軍を組織している。福島正則、黒田長政、藤堂高虎、細川忠興、蜂須賀至鎮(よししげ)など豊臣家の猛将、知将が、総大将の家康に従っていた。
これらの大名達が江戸に集結すると、家康は皆を厚くもてなした。
徳川家はもともと饗応に長けた一族ではなく、地味で硬い家風であった。三河の松平家は、二百年ほどの長きにわたり、武辺、忠義、慈悲を誇ってきた家柄で、家康はその九代目に当たる。
しかし、家康時代の松平家、徳川家は、尾張の織田信長と約二十年も同盟を結んでいた。この間に、乱世に君臨する派手さと、人々の心を盛り上げる華やかさを学んだ。
江戸城にはまだ、高い天守も立派な堀もないが、徳川の家臣達は工夫をこらして、遠征中の諸侯をねぎらった。
家康は、飲めや歌えやで気分を好くした大名達へ向かって、おもむろに語りかける。
「思えば、このように諸国の勇猛なる大名が一堂に会し、和気藹々と過ごせるのは夢のようじゃ」
その声には、六十年近く乱世を生き抜いてきた英将の滋味がある。
「織田信長公、そして太閤殿下の御志の下、皆で苦労を重ねてこの国を一つにした。流された血は数知れず。彼らの死を無駄にしてはならん」
家康の胸には、戦さで命を落としていった者達の顔や姿が蘇ってきた。
おそらく、他の大名達も同じであろう。
「上杉景勝は、会津への国替えの際、無法を働き、騒動を起こした。その件で、上方へ参じるよう申しても聞かず、国で戦さ支度ばかりしておる。この上杉を攻め、東国を平定し、日本国の和を保つのは我ら武士の役目じゃ。ぜひ、各々の力を貸して欲しい」
「おう!」
と、黒田長政が声をあげた。
他の大名衆もうなずく中、家康は続けた。
「北には伊達、最上がおり、我らに味方する。皆で上杉を懲らしめようぞ」
「おお!」
猛将、福島正則が、威勢よく拳を突き上げ、家康に応える。
「上杉め、我らが大挙して関東へ参ったと知らば、蒼ざめるでござろうよ。近頃、傲慢な家老の直江兼続も、じきに降伏し、頭を下げて参るはず」
正則の言を聞き、まだ若い蜂須賀至鎮も、うなずいた。
至鎮は、阿波国の徳島を治める蜂須賀家政の嫡男で、今年、徳川と親戚になった。家康の孫娘の登久姫と、源氏の名門、小笠原秀政の間に生まれた於虎を妻にしたのである。
家康は秀吉の死後、大名間の縁組みをいくつも成立させてきた。こうした徳川の動きには、一部の大名達が猛反発した。前田、毛利などの大老衆にも黙って、奉行達にも諮らず、家康が勝手に婚姻を進めたためだ。
前田利家は生前、家康の独断に異を唱えたが、事前に相談しなかったことを詫びると、それで騒ぎは収まった。利家が黙れば、他の大名もほとんどは黙る。
すでに決めた縁組みは、取り消されることなく容認された。反徳川の大名は、勝手な婚姻を禁じた秀吉の遺命に背いているとして、不満を述べ続けた。が、もはや手遅れで、大勢は決していた。
家康に対しては、次第に、反発する大名より支持する侯が増えてきた。
実は、秀吉の亡き後、大名達は縁談が進まずに悩んでいた。誰かに都合のよい縁組みも、他の大名にとっては警戒すべきものであり、皆の賛同を得られる婚姻などめったにない。
政略結婚は大名間の争いを防ぎ、交流を図る大切な政。これが滞ることは天下の一大事であった。秀吉の遺児、秀頼は幼君であり、縁組みのことなど分かろうはずもない。秀頼の命令など待っていたら、十年かかるだろう。
一方、家康は、天与のものか、長年の苦労の賜物か、婚姻をまとめることに優れた才を有していた。持ち前の発想と調整力、決断力で次々に縁談をまとめ、これを喜んだ侯は多い。
だが、三成派の奉行達は、秀吉の遺命だといって、何事もうるさく監督する。こうした堅苦しさに辟易していた大名は、皆、徳川派となった。

       十四

秀吉の遺命や豊臣の法度をどの程度守るか。これは難しい問題だ。もちろん、極力、守るよう努めはする。が、無理なときもある。そういう折り、政の何たるかが問われていると、家康は感じた。
法度の字面や言葉じりにこだわるのが、まことの正義なのか。
家康は、秀吉の遺命や法度を破る際、必ず確かめることがある。この決断によって、誰かが困ったり、害を被ったりするだろうか。害を受ける者がいるならば、思いとどまり、秀吉の法を守る。しかし、誰も迷惑しないならば、確信をもって破った。
そもそも法度は、世の人々が困らず、うまく調和して生きるために作られたものだ。悪事を働く者を捕えたり、揉め事が起きた際、一方だけが利を得ることなく公平に裁くために必要となる。
だが、よかれと思って作った法度も、実際に使ってみると弊害が出てくる場合もある。また、時代が移り、世の実情に合わなくなることもある。何らかの理由で世の人々を困らせてしまう法度を「悪法」と呼ぶ。これは破棄しなければならない。
人は自ら法を作る、能ある生き物だ。しかし、この世にはもっと揺るぎない「大自然の法」が存在している。それに背いた法度や、多くの人が不自然と感じる政は廃れる。
例えば、ある川が流れていて、その西をある領主が支配し、東側を別の武家が治めていたとしよう。この川が大雨で氾濫し、流れが変わったらどうするのか。川の増水には、川上の地を有する領主なども関わってくる。この時、皆の新しい共存の仕方を決める法度が、予め作られているわけではない。
法度には、厳格さと同時に、時や場面に応じた変化の余地も必要なのだ。
様々なことを考えると、法度を作るのがいかに難しいかが分かる。そして、一時の都合で書き記した墨付きや字面が、いかに非力で脆いものか、ということも分かる。
家康が取り結んだ婚姻では、大名間の和が築かれ、喜ぶ者が多かった。領民がこれによって苦しむこともない。男女が結ばれ、子孫を残したいと思うのは自然なことだ。これを妨げるのは道理に反する。
縁談がなかなか決まらず、話がもつれるほうが、むしろ問題だ。利害が対立し、大名同士が揉め始めれば、世に害を及ぼす。
多少、不満をもつ者がいたり、異論があっても、早く、明確に決断したほうがよい。そういう場面が、政にはしばしばある。大きく広い意味で害がなく、公平ならば、よしとしなければならない。
家康は、武家の知行についても己の判断で決めていた。秀頼が秀吉の跡取りであり、そこに権力があるという建て前は分かる。が、これも話は婚姻と同じだ。秀頼が大きくなるまで皆の領地が固定され、誰も新しい知行を得られないなど、無茶苦茶である。
三成は、上方を拠点とする奉行達で実質の議論を行ない、事を決する体制を目指していたようだ。しかし、知行は土地と軍事に関わる生々しい話であり、机上の論では決められない。
例えば、ある大名に新しい領地を与えたとする。奉行衆がお墨付きを渡し、豊臣政権の意向だと宣言することは容易だ。しかし、その大名が新しい土地に馴染み、うまく治められるのか。ここが実は肝心である。
武威、武力や徳が不足していれば、お墨付きだけを得ても、領内では無法が横行し、乱が起きるかもしれない。
隣国との間でも争いは起こり得る。各地には昔から様々な事情や歴史があり、因縁などもある。隣の領主と揉め事を起こさず、うまく共存できるかは、極めて大事だ。

       十五

家康は、諸将の性格や相性などもよく観て、配置を考えるという方針である。
無論、御家同士はある程度の緊張感をもって対峙すべきだ。意見や家風が異なる家と家が隣合う場合も少なくない。しかし、そうした場合は、ある種の拮抗が生まれ、互いに他領へ攻め込まない、攻め込めない、という形へもっていかねばならない。
この大名をこの土地に配せば、何が起こるのか。家柄、土地柄、人物、過去の経緯などをよく踏まえ、同時に、遠い将来も予測しながら決めるのが知行だ。
土地というものは、何か功があった武将に、その時の気分や勢いで与えるべきものではない。石高や、都からの距離など、数字のみで考えるものでもない。
領地を没収する時も同じだ。その土地に長年、馴染み、領民からも慕われているような武将を改易、減封などに処する際には慎重さが要る。ささいな罪や、政権の私的な都合などで土地を取り上げるのは、災いのもとだ。
武士にとっての領地は、ただ褒美としてもらう金品などとは違うのである。
この知行に関して、全国の事情を広く把握し、公平で正しい決断をすることは非常に難しい。三成にはそれは無理だと、皆が言っている。
三成は合議制をとると主張していたが、形ばかりの合議制や綺麗事による統治は、うまくいかないだろう。合議制は、皆の知恵と力を合わせる素晴らしい体制にも成り得るが、争いや足の引っ張り合いも、しばしば起きる。下手をすれば、内紛の種ともなり得るのだ。
独裁がよくない、というのは分かる。できる限り多くの者の立場を尊重し、皆の望みを聴くべきだ。ただ、様々な意見や利害が混在する中、最後に誰が決定するのか。これははっきりさせておいたほうが、世は安定する。
今の豊臣家に、この最後の決断ができる人物がいるであろうか。
豊臣家は武家として天下統一を成し遂げたが、秀吉が関白の座へ昇り、公家となった。「武家関白」とも呼ばれたが、今は、秀頼に武将としての力がない以上、実際には公家と見るほうが正しい。
武士にとって領地は命も同然。この采配を適切に行なう「武家の長」がいなければ、国は治まらない。
家康は、自らが征夷大将軍となり、徳川の武威で諸国を統治する覚悟だ。
全国の領主達は、できる限りうまく共存できるように配する。しかし、もし万一、不満を持つ大名などが現れた場合、徳川ならば武力で圧し、従わせることができる。世が大きく乱れる前に対処できるのだ。
また、政に真剣に取り組まない侯や、統治に失敗した大名は、改易等にして、権力を剥奪せねばならない。この時にも武威と武力が必要となる。
統治の意欲や才をもたない大名は、ただの戦士であって、領主には値しない。この見極めも、武家の長が行なうべき大切な仕事だ。
家康は、三河の一国人、松平広忠の倅から全国一の大大名になった。この間、いろいろなことを考え、実に様々な状況に身を置いた。
新しい領地を得た際には、その土地の支配に心を砕き、領民がどのように暮らし、過去の領主がどのような政を行なったのかも、徹底して調べた。
徳川の領地は、ただ順調に増えたのみではない。大事な故郷などを奪われたこともある。揺るぎない地盤があって新しい国へ進出するのと、本拠を失って国替えになるのとでは、全く違う。関東へ移封となった際は、気持ちの上でも、実務の都合という意味でも、かなり苦しい状況に追い込まれた。
振り返れば、本当に苦しいことや難しいことが多かった。家臣達の不満もあり、変化に対応するのは容易ではなかった。
領地を得た時、目先の利のみを求めて重税を課したり、領民を好き放題に働かせる大名もいる。そういう者は、国替えを苦とは感じないであろう。
どこかの田で稲を刈り取り、無くなれば、また新しい田へ行って刈る。領民が疲弊しようが、恨まれようが、どうでもよいという考え方だ。
領民が弱り、自らが暴利を得れば、刃向かう者がいても、力の差があり脅威にはならない。旧領が、抜け殻のような不毛の地となれば、国替えを命じられても、何の未練も悔しさもない。そこへ新しく入った大名が弱体化し、むしろ好都合だと思う。
このような、統治とも呼べない収奪の政が、戦国乱世では罷り通っていた。
だが、それはまことの武士の行ないではない。
家康は、苦しみに満ちていたこの人生を振り返り、とてもよいことを学んだと思う。多くの土地について知り、そこに暮らし、民のことを深く考えるようになった。また、様々な地位や立場で統治を試みる武士達の気持ちも、理解できるようになった。これは、一つの町や国で安楽に暮らしていては、決して体得できない心である。
今は、多様な諸国に配された大名達が、家康に苦労を語り、よい知恵はないかと相談を持ちかけてくる。家康がただ自然に、それに応じて話をするだけで、随分、有難がられる。老いた己にとっては当たり前の考えや手法でも、若い大名や、困り事を抱えた武士達にとっては助けになるようだ。
家康は、諸侯の信頼に応え続けたいと思う。
彼らの期待にすべて応えるのは無理だが、とにかく大名達がある程度、満足し、納得するよう助力する。そして、共にこの国の統治を推し進めていきたい。
家康には重い責任があった。
武家の長は、もちろん、知行を与えるのみではなく、合戦の指揮もとらねばならない。
この世はまだまだ乱れている。敵は上杉や、上方の奉行衆だけではなかった。諸国には今なお賊や悪党が大勢おり、異国に対しても油断なく構えねばならない。
秀吉は朝鮮への出兵を命じ、ひどい戦さが行なわれた。秀吉の死後、何とか兵は引き上げたものの、敵地の人々は今も日本に深い恨みをもっているはずだ。彼らがもし攻めてきた場合、秀頼に対応する力はないだろう。
日本を守る将軍が、どうしても要るのだ。
家康は、重責に身が潰れそうになる瞬間もあった。しかし、できるだけ苦しまず、誇りを感じて過ごすよう努めている。
上方に比べればまだまだ地味な江戸で、家康と家臣達は、懸命に諸侯をもてなした。
出陣前の饗応は成功裡に終わり、皆は大いに士気を高めた。

                                                                                                                つづく

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