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子羊の死と贈与論

その日の朝、羊小屋を覗くと、子羊が2頭生まれていた。

早い子は去年末から生まれているから、すでに大きさの異なる子羊が4頭、母羊たちの間をチョロチョロしているのだけれど、誕生した子を見るのは何頭目であっても、にっこりしてしまう。うきうきしながら小屋の中に入り、飲み水を足すために蛇口のところまで来ると、ふと、水槽の後ろに隠れている子羊が、もう1頭いるのを見つけた。

最初の2頭は母羊の傍にいて、ひと目で親子だと分かるのだけれど、もう1頭の母羊が見当たらない。大きさから見て、みんな同じくらいだから、同じ母羊から3頭生まれたのかもしれない。通常、雌羊は1~2頭の子を産むのだけれど、稀に3頭産むこともあるのだ。

よって、2頭が傍にいる母羊の方へ、はぐれた1頭を押し出してみたけれど、母羊も子羊も匂いを嗅ぐだけでそれ以上近づかない。そのまま、その子羊はひょこひょこ歩きながら独り離れ、干し草ロールの下にできた穴の中に隠れてしまった。

家畜の子は生まれると、初めにひとりで立ち上がること、そしてとにかくお乳を飲むことが、生存するための最重要課題となる。だから私たちは、子が生まれると母乳に吸い付いているかどうかをまず確認する。でも、立ち上がれない子、母乳を探し当てられない子、母乳に吸い付かない子がたまにいる。そして、初産だと子の面倒を見ない母親もいるのだ。

穴の中に隠れてしまった子羊を引っ張り出すわけにもいかず、一旦家に戻り、午後に再度羊小屋を訪れる。はぐれ子羊は穴から外に出ていたものの、相変わらず傍に母羊の姿はない。我が家には14頭の雌羊がいるのだから、子羊を1頭しか生んでいない他の母羊が代わりにお乳をあげればいいものを、いくら群れで暮らしているからといって、自然はそううまくはいかない。それどころか、寄って来たはぐれ子羊を頭付いて追い払う雌羊もいるのだ。

とにかく、お乳を飲ませなくては! とは言ってもその日、私は独りだったため、すべてを一人でやらなくてはいけない。母羊1頭で子羊3頭を産んだと仮定して、初めの2頭の母羊を捕まえることにした。冬だから小屋の中にいるけれど、通常は牧草地で自由に放し飼いにされている羊は、呼んだところで犬猫のようにやって来てはくれないし、近寄ると逃げられるのがオチ。しかも周りには雄羊1頭と雌羊たち、そしてその子羊たちがわらわらしていて、1頭が走り出すと全員が小屋中を走り回ることになる。

そこで、先の元気な子羊2頭とはぐれ子羊1頭を、小屋の片隅に集めて母羊をおびき出す。細長いエサ入れを移動させて、そこを三角形に囲い込み、逃げようとする母羊に躍りかかって毛をむんずと捕まえ、壁に押し付ける。その状態を保ったまま、すでに元気のないはぐれ子羊を片手で手繰り寄せ、母羊の乳首のところに頭をあてがう。ぐったりしている子羊は口も開けてくれない。

隙あらば逃げようとする母羊を壁に押し付けつつ、母羊の前に片膝を立ててブロック。ほとんど横になった姿勢で空いた両手を使って、子羊の口を開け、母羊の乳首を中に入れる。

時々、ググッと喉を鳴らすような音を出すけれど、まったく乳首に吸い付かない子羊。60kgはありそうな巨体を持つ母羊を片足で押さえて何の反応もない子羊を抱え、乳房を押してミルクを出そうとするのは、まさに格闘技である。地面には干し草が敷いてあるからいいものの、底冷えのする小屋の中でじんわり汗をかき始めた。

子羊がぐったりし始めると、正直に言って望みはないのだけれど、まだ息をしている子羊をそのままあきらめるわけにはいかない。母羊に逃げられ、再度捕まえ、子羊を乳首にあてがうのを、時間をおいて繰り返すこと3回。最後には子羊は横たわったまま腹部を上下させるだけで、ほとんど動かなくなった。

真相は分からないけれど、もしこの子羊が3頭生まれたうちの1頭だったならば、母羊は他の2頭を生かすために一番小さい子を犠牲にしたのだろうか。羊の乳首は2つのため、基本的に2頭までしか母羊は育てられない。現に、自然にまかせて繁殖をさせている我が家では、いままで子羊3頭を独りで育てあげた母羊を見たことがない。でも、私たちたちが知らない間に、3頭産んだうちの1頭を育児放棄している母羊がいるのかもしれない。そうでなくとも、生まれたばかりの子羊が死ぬことは、よくあることなのだ。

となると、生後1日も経たずに死んでいくこの子羊は、兄弟2頭のために自分を犠牲にしているとも言える。もちろん、子羊自身の意思によってではないけれど、結果的に他者を生かすために自分の命を贈与したとも言えるのではないか。


去年末、近内悠太氏の著書、「世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学」(NewsPicksパブリッシング刊)を読んでから、「贈与」について考えている。

著者の提示する、資本主義のすきまを埋めるために贈与が必要だという意見に、私も全面的に賛成だ。私自身はずいぶん前に、マルセル・モースの「贈与論」を読み始めたのだけれど、前半あたりで挫折して今に至る、贈与論についてほぼ何も知らない状態。そんな贈与についてよく知らない私みたいな読者にも、噛み砕いて分かりやすく説明してくれ、いろいろと学ぶこともできたけれど、読後にどこか釈然としない気持ちが残った。

私が一番腑に落ちなかったのが、映画「ペイ・フォワード」を例に出した部分である。家庭環境に恵まれない12歳の少年、トレバーが世界を変えるために、誰かから善い行いを受けたら、他の3人に善い行いをしてパスを渡すという「ペイ・フォワード運動」を始めるという物語。この運動は町中に広がって大成功するのだけれど、最終的に主人公のトレバーが死んでしまう結末で終わる。

この話を著者は「贈与の失敗」の例とし、最後に主人公が死ぬ意味を以下のように説明する。

  トレバーは、柔らかな毛布に包まれるような愛を知らずに育ちました。彼は、少なくとも本人の主観的には、贈与を受け取ったという実感を持つことができていません。
 ここがこの物語の結末の謎を解くポイントです。
 なぜトレバーは殺されなくてはならなかったのか。
 それは、彼が贈与を受け取ることなく贈与を開始してしまったからです。
 つまり、贈与を受け取ってしまったという負い目に駆動されることなく、自らがすべての起点となって贈与を始めてしまったからなのです。


ここで私は、12歳の少年が生まれてから愛(贈与)を受けたことがないと言いきれるのは、どんな家庭環境で育ったからなのかと疑問に思ったのだ。そこで、この映画が見たくなり、手っ取り早くネットで検索したところ、前半の1時間と、テレビの撮影で記者がトレバーをインタビューする場面だけを、フランス語で鑑賞できた。



DVを振るう父親が出てくる場面は見られなかったけれど、母親はアルコール依存症とはいえ、女一人で子供を育てるために2つの職を掛け持ちする働き者である。忙しいから息子と話す時間はあまりないけれど、ちょっと息子が変だと思うと学校まで出向いてしまう、ごく普通の子供思いの母親に私には見えた。

そんな母親に対して息子のトレバーも、普通の親子のように口喧嘩はするけれど、シモネット先生との仲を取り持つなど、母親に幸せになって欲しいと思っていることが分かる。そして、記者のインタビューに答えて、疎遠だった祖母と仲直りした母親は勇気があると言い、「ペイ・フォワード運動が広まったのは母親のおかげ」とまで話している。母親からの愛という贈与をしっかり受け取っている息子だと思うのは私だけだろうか。

重箱の隅をつつきたくてこんな話をしているわけではない。現実には、トレバーよりももっと、親の愛や家庭環境に恵まれない子供たちがたくさんいる。仮にその子供たちが善い行いをしたとしたら、それは受け取ることなく始めてしまった贈与となるのだろうか。そして結末はやはり死で終わるしかないのだろうか。

著者の説は哲学的には正しいのかもしれないけれど、贈与を広めようとする上で、私にはずいぶん希望を得られない話に聞こえる。贈与の起点となってはならないのならば、一体クレバーはどうすればよかったのだろう。


本書後半の第4章で著者は言う。

今 から 改めて 考え て み たい のは、 受取人 の 視点 です。   なぜなら、 差出人 が そもそも 存在 し ない 贈与 という もの が 存在 する から です。   贈与 は、 受取人 が この 世界 に 出現 し た とき に、 初めて 贈与 と なる ─ ─。   思想家 の 内田 樹 は、「 贈与 は『 私 は 贈与 し た』 という 人 では なく、『 私 は 贈与 を 受け た』 と 思っ た 人 の 出現 によって 生成 する」 と 述べ て い ます(『 困難 な 成熟』、 207 頁)。

受け取ったと思う人が現れることで贈与が生成するというのは、とても納得ができる部分だ。贈与を存在させるために必要なのが受取人の想像力ということならば、私はこの世に生きているすべての者が、「生という贈与」を受け取ったからこそ生まれて来ると想像したい。

それは人間に限らず、動植物はもちろんのこと、この世界に存在するすべての生物に当てはまる。この世の生物たちは皆、自然からの恩恵(贈与)なくして生きられないからだ。そして贈与を受け取るだけでなく、差し出すことで世界は成り立っているのだから。

生という贈与を受け取ってしまった負い目があるからこそ、「意味」も「理由」もなく、誰もが生きなくてはいけない。このロジックならば、次なる贈与のパスを渡すことは、生まれたばかりの赤ちゃんから、いつでも誰にでもできるということになる。どんなに恵まれない家庭環境で育つ子供にも資格はあるし、トレバーが「ペイ・フォワード運動」を始めたことも、何も問題ではない。

では、なぜ彼は死ななくてはいけなかったのか。

私は、現在目の前で死にかけている子羊と同じことだと思う。どんなに心優しい子供にも、どんなに偉大な大人にも、どんなに罪のない子羊にも、無情に死は訪れる。その不条理な世界を映画は見せたかったのではないか。


さっきまで白いまつげを少しあげて、澄んだ瞳で私の方を見ていた子羊の目は、今は完全に閉じている。上下させていた腹部もほとんど動いていないようだ。それでもお腹に手を当てると、トク、トク、トク、と消え入りそうな鼓動がかすかに感じられる。トレバーが死んだ後には、大勢の人が集まって来て家の周りを囲んだけれども、この1日足らずで死んでしまう子羊を見送るものは誰もいない。せめて生きた証を感じてあげようと、手をのせたまま小さくなっていく鼓動に耳を澄ます。

ふと気が付くと横たわった子羊の頭の傍には、兄弟のうちの1頭がちょこんと座っていた。前脚を折り曲げて正座のように姿勢を正しているのだけれど、頭は少し傾き、目を瞬かせて何だか眠そうだ。そして、そのまま私と一緒にじっとしている。そうか、ちゃんと受け取ってくれたのかもしれない、と私は思った。この死にゆく子羊が残していくものを。


世界は贈与で満ちている。

それには、私たちが想像力をちょっと働かせればいい。


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