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【古物検証 Vol.4】高等 立憲国民教本(大正6年/1917)

神田神保町で購入した古書。
大正6年(1917年)発行の「高等 立憲国民教本」

大正期の国体の精華および立憲自治の精神を明らかにし、立憲国民としての自覚を説いた教科書として発行されていました。

当時の日本帝国主義的思想が色濃く掲載された内容は、当然ですが今では見られない教え方なのでとても興味深いです。

なにせページを開くとはじめでいきなり「日本の精華・萬邦無比」という比較図が出てきます。

右ページの赤く伸びた棒グラフが継続年数

これは世界中の王室や皇室の中でも、日本が唯一2570年余り(当時)においてただ一系の皇室であり、世界的にも類のない国であることを主張しています。

そして、見開き左ページの日本地図は「大日本国威発展之図」とあります。

これは神武天皇からはじまり、日本武尊、徳川幕府、日露戦争といった、日本の領土がいつの時代に発展拡大したかが色分けされています。

こんな図も、もちろん今の教科書では見られません。

他にもこの本には、大日本帝国憲法や立憲政治、国民の自覚、地方自治や裁判、刑罰、義勇奉公、戦争、など国民の意識を自覚させる内容が細かく、しかしとても分かりやすく書かれています。

その分かりやすさとは、単に事務的な記述だけでなく、内容によっては非常に具体的な実例が掲載されているところにあります。

その中で一番興味を引いたのが「裁判所と訴訟」という章で、乙骨検事という方が立ち会った、ある悲劇的な裁判の実例が紹介されていました。

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タイトル【法廷の悲劇】

被告は埼玉懸北足立郡片柳村農家、荒井太吉の長男、信一といふものなり。

信一は十三歳の時より日本橋米問屋 鈴木安兵衛方に住み込み、忠勤者なりしが、放蕩に味を覚えてから主家の金を費やし、相場で取り返さんとしたけれど、却って千三百円(現在で約1500万以上)の穴を明け、同月末主家を飛出し、踪跡を晦(くらま)したるより、鈴木方にてはその筋に訴へ、一方、父 太吉にその旨を報告したり。

父 太吉は田舎気質の正直者なれば、早速鈴木方に来り、只ひたすらに詫び、なほ血の出るやうな金五百円を方々より工面し、倅 信一の罪を詫びながらも倅の身の上の心配やら、主家に済まざる苦労やらにて、病人の如くなりゐたるが、去る二日、主人への遺言書を遺して、見事に腹一文字に掻き切りて絶命したり

鈴木方にては申請の手紙に接し、驚きて早速人を遣い見れば、既に此の世を去りたる後なれば、非常に気の毒に思ひ、太吉の心情を憐み、横領罪に問はれゐる信一を取下げにせんと、五日の公判日を期し、太吉の遺言状を添えて検事局に差出せり。

乙骨検事は調査の上、太吉の子を思ふ心の切なるに涙を催し、早速裁判長に図り、合議の上公判を開きたるが、裁判長は先に逮捕され拘留されていた被告信一に向ひ

「お前は何時父に逢うたか」を問へば
「ハイ、二三年前に逢ひました」と何事も知らぬでゐたり。

この時、裁判長はかたちをあらため

「被告よ、お前の父はお前の悪事を悲しむ余り、とうとう自殺して死んだのだぞ」

と云ふや、被告は顔面真青になり、アッと云つて卒倒したるより、廷丁は冷水を顔面に注ぎて漸く蘇生せしめたり。

かくて検事は「本職は被告に同情するものにあらず、只子を思ふ一念の遂に死を以って主家に詫びたる父の心に感涙を催せり。依りて其の真情に免じ、執行猶予を乞う」との論告を與へたり。

更に裁判長は被告に向ひ「お前の父の死んだのは、お前の悪事を悲しんでなり。お前は父を殺した不孝者なり、お前は悔いざれば人の子にあらず。裁判所はお前の父の真情を酌み、合議の上即決にてお前を四年の執行猶予とし、釈放す。此の如き恩典は例少きことなり。六日は父の葬式なる由、早速帰郷し父の葬式に加はり、佛前に罪を謝せよ。」と言渡すや、被告は叩頭百拝して、只涙のほかなく、傍聴人も袖をぬらしたり。

なほ主家 鈴木方にては、父 太吉の真情を察し、信一を以前の如く雇人とする筈にて信一を今後も引取り、一旦故郷に帰らせしめたり

以上
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一人の青年の出来心がこのような悲惨な事態を招いたが、父の身を挺した想いに打たれた周りの大人が、その青年を再び受け入れるという人情話的実例。教科書にこんな話が出てきたら、自分勝手なことはなかなか出来ませんね。。

という具合に、この教科書はそのほとんどが当時の帝国主義的な発想を元にしていますが、その中にはこのように「礼節や義を重んじる」「感謝の気持ちを持つ」「人様に迷惑をかけない」など人として普遍的に大切なことも分かりやすい実例で書かれています。

今みるとこのような考え方の根本には、当時の人々はただ純粋に日本を愛し、自分たちが自分たちらしく生き、結果後世の日本を良くする為の術だと信じていたたけなのかなと感じます。

ただし結果として、その想いがどこで間違った方向へ進んでしまったのか、それを冷静に、客観的に自分なりに知るには、こうした古書はとても大切な資料なのです。

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