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生きる と 死ぬ の境界線。

保育園の帰り道、
長男が空に向かって大声で叫ぶ。

「じぃじー!ひぃばぁばー!
風を吹かせてーー!!!」

タイミング良く風が吹く時は

「ありがとうー!
じぃじー!ひぃばぁばー!」

と、もう一度
空に向かって叫ぶ。

風が吹かないと

「どこかにおでかけしてるのかなぁ?」

と、首を傾げて呟く。

植木鉢の花を買った翌日に
雨が降った時なんて

「じぃじとひぃばぁばが
ぼくの花に水をあげてくれてる!」

と嬉しそうにしていた。

「じぃじー!ひぃばぁばー!
お水あげてくれてありがとうー!!!」

近所の人に聞こえるようなでっかい声で
家の前で空に向かって叫ぶ。

そんな長男につられて、
いつも次男が横で
「じぃじー!ばぁばー!ありがとー!」
と、真似っこする。

2人して空に向かって
大声で「ありがとうー!」と叫ぶ姿が
かわいくって
面白くって
ちょっとだけ泣ける。

今年に入って、
身内の不幸が続いた。

5歳の息子の心の中に
生きてた頃と、
お葬式の時と、
納骨式の時の姿を焼き付けて、
大切な人たちが旅立っていった。

死ぬと、体が無くなってしまって
一緒に話すことも遊ぶことも出来ない。

そんな寂しさと

だけど、体が無いから
きっと近くにいてくれる。
空気に溶けて、
きっとどこかにいてくれる。

そんな希望を

私は長男から感じ取っている。




先日、祖母の納骨式があった。

私は無宗教だけど、
こういう場に来ると
色んな宗教があって
色んな考え方があるんだなぁと
当たり前なんだけど改めて感じる。

だからお葬式や納骨式で話を聞く場面では、
色々と考えさせられる。

祖母の納骨式では、
牧師先生が言っていた(祖母はキリスト教だった)
〝境界線は自分を苦しめる〟という言葉が
本当にその通りだなぁと心に残った。

自分が勝手に作った
〝こうあるべき〟という境界線は
自分を不自由にし、苦しめる時がある。

例えば、
私はこうあるべきとか、
旦那さんはこうあるべきとか、
お母さんはこうあるべきとか、
家族はこうあるべきとか、
先生はこうあるべきとか。

自分が勝手に作った境界線を
大切にしてしまうのが人間で。

知らず知らずのうちに
境界線は太く深く濃くなってしまう。

そのせいで喧嘩になったり
嫌な気持ちになったりすることって
確かに多い。

いや、でもフィギュアをコソコソ買って
1番くじをアホほどひいて
押し入れに隠してる旦那さんは
やっぱりいかがなもんかと思う。
そこに関しては
喧嘩上等っ!
やったるわ!
みたいに立ち向かっちゃうけど。


4月から旦那も私も職場が変わり
日々バタバタ過ごしている。

私も経験が増えてきたからか
自分で作った境界線にがんじがらめになって
勝手にストレスを感じてることが多かった。

今までの職場と違うことに
少しずつ小さなストレスが積み重なって
心に余裕が無くて
イライラすることが山程あった。

境界線は必要なものではあるけど、
それだけに固執すると
本質を見失うことがあるなぁと
その話を聞いていて思った。

自分の中の境界線は大切にしたい。
でも、本質は見誤りたくないなぁと思った。
難しいけど。

ここ最近悩んでいたことが
解決したわけではないんだけれど
少しだけ晴れたような
スッキリしたような気がした。

このタイミングで
この話を聞かせてくれたのは
間違いなくおばあちゃんのお陰だな、と
こっそり心の中で感謝する。

死ぬと、体が無くなってしまって
一緒に話すことも出来ない。

そんな寂しさと

だけど、体が無いから
きっと近くにいてくれて、
何か良いことが起きた時に
もう会えない誰かのお陰だと
これから先も思うんだろう。

そんな希望を

私は勝手に感じている。




最近、
布団に横になった暗闇の中で
長男がよく呟く。

「ママはずっと生きてるよね?」

長男が感じる思いは、
言葉に出来ないほど複雑で。
でも私は、
その思いが分かる気がする。

なぜなら、自分も大切な人との別れを通して
色んなことを感じたから。

「大丈夫。長男を1人にしないよ」

私はそう言って
いつも息子を抱きしめる。

息子も私にギュッとしがみつく。

嘘をついてるわけでも
誤魔化しているわけでもなくて、
私は多分生きてる。

死んだとしても生きてる。

それは、
お義父さんも
おばあちゃんも
愛犬のリンも
相変わらず近くにいる気がするから。

希望的観測かもしれないけど、
本当にそんな気がしている。

数十年後の自分が
どう思ってるか分からないけど、
今はそんな風に思う。

誰かの死は
生きることを見つめるきっかけになる。

5歳の息子も
36歳の私も
自分の中の境界線を
作ったり壊したりしながら
一生懸命に今日を生きている。

そしていつかは
雨や
空や
虫や
花に溶けて
境界線なんて、ぜーんぶ無くして
こっそり誰かの心に宿りながら
生きれたらいい。


〝生きる〟と〝死ぬ〟の境界線て
太くて深くて濃いようだけれど
思っているよりも
もしかしたら
曖昧なのかもしれない。

これもまた
残された者の
希望的観測に過ぎないのだけれど。

そんなことを考えながら
長男の隣で布団に横になり
私は暗闇で目を瞑る。

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