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#2 井本勝幸さんがミャンマーで与えられた「天命」とは?(日本占領時代の東南アジアの傷跡を巡るスタディツアー)

前回#1からの続きです。今月9月5日に実施した、日本旅行アジア・サンライズツアーズ主催「東南アジアの傷跡を辿るスタディツアー」のスペシャルゲスト井本勝幸さんにお話を伺いました。

そもそもなぜミャンマー各地に太平洋戦争の跡があるのか

#1でご紹介しましたが 、井本勝幸さんが思いがけず現地の方々から受けた提案により「これは僕の天命なのかもしれない」と始められた旧日本兵の遺骨収集の活動により現在1万6千柱(はしら)のご遺骨がこれまでに見つかりました。

そもそも、なぜミャンマーの各地にそんなに多くの日本兵が今も眠ったままなのでしょうか。

太平洋戦争中、ビルマとインドの国境近くにあった連合軍の拠点(インパール)を目指し日本軍は進軍しましたが、兵站(へいたん:武器弾薬や食料などの物資の供給)の計画の杜撰(ずさん)さや、マラヤで日本軍に歴史的敗北を喫した英国軍と連合国軍のプライドを賭けた攻防により、ビルマにおいて日本は大敗。戦況が悪くなる一方の中、兵士たちは物資の届かないジャングルの中で見捨てられ、マラリヤや赤痢などの病気や餓死などで尊い命を落としました。その数は4万6千と言われています。(ちなみに私が住むマレーシアの在留邦人の数は約3万と言われていますので、その夥しい数に戦慄すら覚えます)。

インパール作戦の背景、そして今もミャンマーの国内紛争の犠牲となって苦しんでいる難民の問題についても、こちらに併せて詳しく書きました。

白骨街道の別名

ビルマで無惨にも敗れてしまった日本軍は、散り散りバラバラとなり敗走しました。白骨を辿っていけば食料の補給があると信じ多くの衰弱した兵士たちが歩いたことから「白骨街道」と呼ばれるようになったそうです。

井本さんによれば、生き残った兵士たちの間では「靖国街道」という別名で知られていたそうです。「靖国で会おう」と仲間たちに約束し、日本への帰国を夢見ながら無念の中亡くなって行った兵士たち、そして倒れていく仲間たちを救ってやれなかったと自責の念に苛まれながら戦後を生き延びた生存者たち、それぞれの想いがこの名前に込められていると感じます。

「もしそれが自分だったら帰りたかっただろう。その思いだけで8年活動を続けています。僕も人間なんで、挫折を感じる時はもちろんあります。ただ、亡くなったご英霊の気持ちを第一に考え、不平不満を僕個人の目線で言うのではなく、探し続けることだけは何があっても続けよう。そういう大目標があるから続けられるんです。結局悩んだって苦しんだって、前を向いてやって行くしかないですから。」

政情不安定なミャンマー北部”死の渓谷”に、まだ発掘されていないご遺骨が残っている

スタディツアーの中で、幾度もご紹介しましたが、太平洋戦争の開戦となったマレー半島のコタバルに上陸した第18師団は、福岡県久留米市に本拠地があり、天皇陛下の菊の紋章を与えられた「菊兵団」と呼ばれ、陸軍最強と言われていました。本籍が福岡、佐賀、長崎など九州出身の兵士たちが集められたそうです。炭鉱労働者や貧しい農家の出身の若者が多く、不平不満を言わず辛抱強く中国や南方(東南アジア)などの難しい戦地で戦い続けたそうです。

マレー半島を驚くべき速さで制圧し、シンガポールをたった2ヶ月で陥落させた後は、まるで将棋の駒のようにビルマ北部の非常に難しい戦地カチン州フーコン地区へ送られてしまいました。インパール作戦を後方から支える役割でした。

ビルマでの奥深いジャングルで現地の人も入りたがらないような険しい場所であるフーコン渓谷は、地元の人から別名「死の渓谷」と呼ばれ恐れられているとのこと。

ほぼミャンマー全域において12チームによる遺骨収集活動が続けられ、現在も回収は続いていますが、この地域だけはまだ全くの手付かず状態なので、井本さんは今後遺骨収集の作業の時だけでも停戦して欲しい、と少数民族武装勢力のリーダーたちや国軍関係者へ働きかけ、必ず近い将来全ての遺骨を発掘するという覚悟でいらっしゃるのだそうです。

菊兵団の生存者で、NHKの取材に答えている元兵士、故 坂口睦さん(この証言ののちに残念ながら他界されました)の映像がこちらからご覧いただけます。坂口さんがビルマの地で亡くなった仲間と現地の人たちのために寄贈した涅槃像はカチン州のミッチーナにあります。詳しい記事は、ジャーナリストの野嶋剛さん(わたしは面識はありません)が詳しく書かれています。また、同じ特集記事の中に野嶋剛さんが井本勝幸さんにインタビューされたものもありましたので、そちらもシェアさせていただきます。


「ここには必ず日本人が帰ってくるから、その時には丁寧に扱えよ」 亡くなったお祖父様の遺言を告げられて


これまで井本さんが関わってきた現地の人々の多くは、快く調査に協力をしてくださっていて、生存者から集めた情報を頼りに遺骨の場所を特定しているそうです。その中で、特に印象に残っている言葉を井本さんがご紹介くださいました。

「ここには必ず日本人が戻ってくるから、その時には丁寧に扱えよ。わたしの祖父の遺言です。」

それを耳にした井本さんは、「心から行ってよかったな!」と思ったそうです。紛争が続き危険なため外国人が立ち入り禁止となっている場所にも関わらず、助けが必要な人たちがいるからと勇気と覚悟を持って入り、そこで出会った人々と大切に友情を育み、一つ一つの逆境を乗り越えてきた、井本さんがミャンマーで過ごした年月の重さと深さが伝わってくるエピソードです。まさに天命ですね。

スタディツアーの中でご紹介したこのドキュメンタリー映画「白骨街道」
この予告動画に出てくる、十字架の前で祈りを捧げるチン州のゾミ族のキリスト教徒の牧師さんは、井本さんのご友人パール・パウさんだそうです。わたしは全く知らずにご紹介していたわけですが、本番中にこの映像をご覧になった井本さんは、目を細めて喜んでおられました。このような現地の方々のご尽力によって、今も作業は続けられています。


【質問】厚生労働省が実施するDNA鑑定の方法を教えてください。

2016年に遺骨収集事業の推進法が成立し、「国の責務」で遺族の元に遺骨を戻すと明確に位置付けられましたが、収容も特定もハードルが非常に高いです。

遺族が検体を提供する必要があり、微量の頬の皮膚があれば鑑定が可能とのことです。現地で見つかったご遺骨は、焼骨をするのが一般的だが、DNA鑑定をするためには焼かずに日本に戻す必要があります。

厚生労働省により、ミャンマーからは全日空さんの協力で帰国したご遺骨もありますが、その数は非常に少なく、その後まもなくコロナのパンデミックや国軍のクーデターが勃発してしまったため、大半のご遺骨がまだ現地に残されたままとなっています。

【質問】泰緬鉄道は現在どうなっていますか?

鉄道部分のほとんどが内戦によって壊されてしまい、使える部品は泥棒されてほぼなにも残っていません。最寄りの村などに立ち寄ると、泰緬鉄道の枕木が建築材料に使われていたりします。その地域では、連合軍の捕虜やミャンマー人や東南アジア各地から来た労務者たちのご遺骨も見つかっているので、各国政府と連携して帰還させる方法を模索しています。

井本勝幸さんを応援する方法


現在は有事のため、タイにお住いの井本さん、遠隔で現地の協力者の皆さんと共に、ミャンマー国軍が起こしたクーデター後に大量発生した避難民の緊急支援活動を最優先で実施されています。日本から集められたご寄付は、避難民の命をつなぐための物資として直接現地に運ばれています。平時には、少数民族武装勢力の荒廃した土地に農地を開拓し、地元の人々によって農作物の生産が出来るようになるまで指導もされておられます。停戦になれば、未回収の遺骨収集作業も再開できます。皆様のあたたかいご協力をよろしくお願いいたします。

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#3に続きます

最終回の#3では、井本さんに伺った『平和のためにわたしたちが出来ること』とスタディツアーにご参加いただいた方からのご感想をご紹介します。

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