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フェルー通りに行けばわかる


最近、パリの中でも小さいもの、普通わざわざ行かないところにスポットライトを当ててじっくり見ることに興味を持つようになった。

歩き廻ることに億劫になったのか?

いや、そういうわけでもない。

人の多すぎるところがイヤになったのか?

全くそういうわけでもない。

ただ、今まであまりこういうところをじっくりと立ち止まって改めて眺め回すこともなかったなあと思って。
そうすることによってパリの魅力を再発見する事もできるかも知れない。

私のこの記事によって旅行者の皆さんが益々この街を好きになってくれたら…、いやそこまであつかましいことは思っていないけれど忙しい旅行スケジュールの合間をぬって訪れてくれるようになったらとガイドとして思うだけ。

今回の主役の通り(ストリート)だってランボーの有名な詩、
<酔いどれ船>が無くて、もうクローズしてしまったけれどちょいとお気に入りのアイスクリーム屋が無ければわざわざ通ることも無かったかも知れない(しかしながらも、リュクサンブール公園からサン・シュルピス教会まで移動するのには誰もが通る道である)、ほんの長さ120m程の小さな、また舗道はボコボコで歩き難い道である。

歩き難い石畳


しかしながらよく見ると、また所々立ち止まると、こんなに魅力の詰まった空間もあったのだなあとつくづく思い直す。

とあるお宅の壁の色の塗り分け方が取り分けユニークだったり、ところどころの壁にある傷みが放ったらかしになっているところがまた妙に気になる。

通りの名前はフェルー(Férou)通り、あまり言いやすい名前ではないし、覚えやすい名前でもない。
実はここの元々の地主の名前(エティエンヌ・フェルー)から来たらしい。
だからたいして感激する要素でもない。
要するに、ここはアルチュール・ランボー作の<酔いどれ船>の為に注目されているのだ。

アルチュール・ランボー(1854-1891)の
<酔いどれ船>の詩全体が税務署の囲い壁にみっちりと描かれている。

初めてこれを発見した人は写真を撮るか、内容を理解しようかとじっくり読み始める。そして不思議なことに気がつく。
そのとおり、この詩は右から始まって左で終わっている。

普通逆ではないか?

壁にも説明があるが、何でもランボーがこの詩を読んだ時の会場となったレストランの位置によって生じた風向きのためにこうなったとか。
ところがよく見ると<私達の想像するところでは>と付け加えられているので確信があるわけではない(だったらそんなこと書かないほうが良いのでは?と私だったら思うが、其処まで考え込んだというプロセスを伝えようとすることは大切なことなのだ)。
それにしても詩の内容も私の単純な頭にとっては細かい点が複雑でついて行ききれない。これを17歳のランボーが皆の前で読み上げて、またヴェルレーヌが書き記したというのだからすごい話と心から思う。

あまりにも次元が違いすぎておばさん恥ずかしい。

いずれにしても、このフェルー通りの
一番の、目に見える魅力は紛れもなくこれだな。

しかしながら目に見えない、いや、それでも予備知識があれば楽しめることが他にもたくさんここにはある。

酔いどれ船の壁はフェルー通り2番地にある。
4番地には詩人のジャック・プレヴォが幼いときに両親と共に最上階に住んでいたという。

そして凄いのは6番地。
もともとリュジー邸という17世紀に建てられた屋敷にはジャーナリストから作家、建築家等が住んだ事があるというが、中でもアメリカの作家であり小説家でもあるアーネスト・ヘミングウェイの名が出てくるとはおそらく簡単に想像もつかないことであろう。

6番地、リュジー邸


ヘミングウェイはパリに到着後、最初はカルディナル・ルモワンヌに住み、やがてデカルト通りにアトリエを構えたと聞いているが、1929年にあの<武器よさらば>を書き始めた時にはこのアパルトマンにいたという事である。


更にフェルー通りにはギョーム・アポリネールも亡くなるまで住んだらしく(しかしながら正確な住所は調べがつかなかった)、アレクサンドル・デュマの小説
<三銃士>の中の登場人物アトスがストーリーの中でこのフェルー通りに住んでいたという話も聞いた。


もうパリの中でこの通りを一番文学的と呼ぶのに反対する人はいないだろう。

あれ?誰か忘れていない???

と、おっしゃるあなたはツーである。

何のツーかというと、その答えは2bisにある。

2ビスというのは2の2と言う事になる。
先程2番地があったので、ここはその建物の付属の様な感じになる。

実はここには写真家、画家として著名であるマン・レイ(1890-1976)が1952年から亡くなるまでアトリエ兼住居としていたそうなのだ。
私は特に写真で崇拝している作品がたくさんあるが、その中で一つ選びなさいと言われたら大いに迷った挙げ句、目を閉じて以下の写真の前に立って手を挙げる。

マン・レイ
<白と黒>
1926年

何が好きかって、この感性が好き、構成テクニックが好き、モデルの指が好き、彼女の表情が無い様でたっぷりと何かを語っているところが好き、そしてタイトルが好き。
 
まさに<スキ好きすき>なのだ。

そんなマン・レイのアトリエがあったなんて…。
アトリエの状態はアーティストが亡くなった際にはほぼ無傷だったそうで、現在は建築家のセルジュ・ルメリフ氏のアトリエとなっているそうだ。

因みに、マン・レイの前には彫刻家のノエル・ティナイルのアトリエであったそうだ。


とまあ、よくこれだけの文学家達が、そして芸術家達がこんな小さな通りに集まったものだ。
歴史的建造物に登録されたリュジー邸は確かに一際目立ってはいるし美しいと認めるものの、他の地区に比べてここには建築的に絶対見た方がというものはあまり無い様な気がする。
こんな人が住んでいたと言っても建物の外観だけでは何もわからない。
番地でみつけたり、写真で確認するしかない。

もしも情報が全く無かったら通り過ぎるのみ。


そこでランボーの<酔いどれ船>のフェルー通りでの重要性が、また存在価値が光り輝くのだ。

これは芸術か?文化か?それとも落書きか?
単なる落書きではないと確信する。

何故ならば、これが存在する事によってこの通りを初めて歩く人は必ず立ち止まるが、ハッキリ言ってもし通行人がこれを単なる落書きとみなすのなら、落書きにそんな興味はないと思ってさっさとその場を立ち去るであろう。

そもそもこれは勝手に誰かが描いたのではなくてオランダ人のカリグラファーが依頼されて制作したのである。

また、もしこれが落書きだとしたらそれはそれで最高に素敵ではないかと思うけれど。
と、こっそり呟いて「クスリ。」と笑う私がいた。

 



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