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勝手にチャレンジ1000 110 雨漏り。そして思うこと。

 夜中、ベッドの頭上近くの天井からタン、タン、と規則的な音がしていて目が覚めた。昨日からの雨はいよいよ激しくなり梅雨末期の豪雨と言った様相を帯びてきた。
 タン、タンという音はそのうち何ヵ所からも響き始め、これはマズいと飛び起きた。雨漏りである。

 時代劇の貧乏長屋、欠けた茶碗を並べる笠張り浪人の妻。戦争の傷跡の残る町で雨風をしのぐだけのバラックのなか、拾ってきた空き缶を置く子供。ホームドラマのお茶の間、あらもう、やだー、っとバタバタと雑巾雑巾!なんて騒ぐ昭和の中年姉妹達。テレビや映画で見ることはあっても、今時雨漏りなんてする家に住んでる人はいるのだろうか?

 もう二十年も前、娘二人が使っていた子供部屋で雨漏りがした。家屋の外をツタが覆っていたのを見て、母に植物を這わすと屋根が傷むよ、と、言われたのだが、なんの知識もない私たちはうちが厚くツタに覆われていくのも風情だな、と思ってそのままにしていた。が、確かに子細に見ると屋根まで達した先端は更なる地平を求めて瓦の隙間に潜り込んでいくように思えたので根本を切って、枯らして取り除いたことがある。しかし、ツタのせいか他の理由かわからないが雨漏りが始まり、どうしよう、と思ってるうちに漏らなくなった。本当に、雨漏りというものを初めて体験して、驚いてるうちにもう一度か二度ほど、場所を移してぽたぽた漏った後に漏らなくなったのだ。天井裏のことはよくわからないが、積もったほこり等で水の通り道が塞がったのかもしれない。
 喉元過ぎれば、で、気にしつつも根本的な措置をせずに放置してしまっての今日である。
家の維持には
・自らがマメに手をいれる。
・マメに手をいれてくれる人材を知っている。
・手をいれてくれる人材を雇う財力がある。
ということだろうが、親の時代には大掛かりなリフォームとなる以前の、ちょっとした修繕とかの手間仕事を請け負ってくれる懇意な大工さんや近くの工務店と言う存在があったが、時は過ぎ、今ではそれもなく、仮にあっても頼むお金もない私たちである。マリアは贅沢貧乏だが私はただの貧乏である。

 本当に、庭も家もなかなかお金がかかるのうー、と思ってる間にこの雨漏り。満州帰りの大工さんが父のデザインをもとに工夫を凝らしてしっかりと建てた、というこの家の天井裏はどうなっているのか?先日のブドウ棚も、植木屋さんと相談しているうちに折れてしまった。そのとき、棚の上に乗って作業すると、庇が落ちるかも、といわれ、どうするか、と思案しているうちの出来事だった。問題箇所をあげれば、実は地下にもある。数年前、お湯を使う度に給湯器の辺りが水浸しになるので、ガス会社の人に見てもらうと、この下のどこかで管が破損してますね、と。コンクリート剥がして配管を修繕せねばならない。なんだか怖くなって、見積もりも頼まずお湯の止水栓を止めた。浴室乾燥は諦め、自動の湯張りはできなくなっても、お水をためてお風呂を沸かすことはできるので、うちのお風呂は昭和のガス風呂に戻った。台所では、お湯を沸かしてお皿を湯通しするという懐かしい作業が復活した。昔々の琺瑯のピッチャーが押し入れから出てきて、お湯を運ぶ仕事に復帰した。慣れればこれはこれでなかなか趣があるというか、お皿を洗ってお湯を通す度になんだかかしみじみとした何かが胸のうちに広がる。何だろう?もちろん、三人の子供を育てるときにこんな悠長なことは思っていられなかったろうから、今だからこその感慨であろうけど。

 地下の配管、地上のブドウ棚、天井の雨漏り。気づけばなかなかのラインナップで波状攻撃を受けていたのね、と今更ながら思う今日この頃。さて、どうしたものか。

 人生に目覚めるというか、なんか、ここまできて、ようやく覚醒してきたような気がする。




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