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「父の日」と、ディマシュの祖父の葬儀と、文化的混乱と。


【ディマシュの感情の「周波数」】

《明け方の大波》

 6月15日、ディマシュの祖父の葬儀式典が行われた。
 その日の朝、私はバイト先に出勤するための支度をしていた。
 8時過ぎに朝食を食べ終えて、さて着替えをしようと思っていたら、胸の中にまた、あの「さざ波」が小さく寄せてきた。
 ああ、これはあの子の波だな、とすぐに思った。
 それは、ディマシュの祖父が亡くなってから断続的に無意識の海の向こうからやってきていた、彼の悲しみのさざ波と同じ「周波数」をしていた。

 だが、現地時間ではまだ明け方の5時過ぎだ。
 葬儀があるにしてもだよ、君、朝起きるにはちょっと早くないかい?とも思っていた。
 するとその波が急に大きくなり、さざ波どころではない、暴風雨の真ん中の海のような巨大な波が連続して怒涛のように押し寄せてきた。

 ヤバい、アイブロウを持つ手が震えて眉毛が描けない。
 自動車で通勤中にも、その波が気になって運転に集中できない。

 だが、通勤路の最後の信号を待っている時、その波が唐突に消えた。
 波が発生してから消えるまで、およそ20分から30分。
 おそらく彼は明け方にふと目を覚まし、祖父の葬儀について考えていたのだろう。
 だが、途中から祖父との思い出が浮かび、突然、号泣し始めてしまったのだろうと思う。
 そして、泣きながら再び眠ってしまったのだろう。

《個人を特定する「周波数」》

 他人の「周波数」を識別するのは、それほど不思議な能力ではない。
 まだスマホもガラケーもなかった時代、お互いにあまり詳しくない場所を待ち合わせにしてしまった知人友人を探すため、私は気合で彼らの周波数を特定し、迷っていた彼らを探し当てたことが2回ほどある。また、広い駐車場でどこに駐車したか忘れた自家用車を、周波数で探すこともある。
 これは迷子になった犬や猫が、自宅を探して帰り着くのと同じ能力だと思う。人間はそれを使う機会があまりないので、それができるとは思っていないだけだ。
 人類の感情の海の中からディマシュの感情の「周波数」を特定することは、(あちら様のご勝手な無意識によって私のセンサーが彼と紐づけられていることもあり、逆もまた真なりであって)、彼が非常に大きな感情パワーの持ち主でもあるため、割合に簡単なのだ。
 
 

【文化の違いによるdearsの混乱】

《現地でTV放映された葬儀式典》

 さて、その日の10時に葬儀が始まり、イスラム教の教義に則って、カザフスタンの首都アスタナの式典用広場で「ジャナーザの祈り」を捧げる群衆と、その最前列に並ぶディマシュと彼の父と彼の弟の様子が、カザフスタンのTVニュース(らしい)で紹介されていた。
 ディマシュは、ちょっとボーっとした表情だったが、平静な様子で僧侶?の祈りの言葉を聞き、祖父の棺を霊柩車に運ぶために親族でそれを担ぐ時には、彼が親族の中で一番背が高いため、棺の重さがほとんど彼の肩にのしかかてしまい、「お、重い…」とでも思っているようなしかめっ面をしていたのがちょっとかわいくて、ひと安心した。
 

《パブリックな式典と、有名人のプライバシー》

 実は、彼の祖父が亡くなってから葬儀の日まで、dearsの間でちょっとした「悶着」が起きていた。
「もし誰かが彼の祖父の葬儀の場面をSNSに投稿しても、それをシェアしないように」という意見を表明する投稿が相次ぎ、それに賛同するコメントも多かったのだ。
 実際に攻撃的なコメントをもらってしまったdearもいたようだ。
 
 私は個人的には、ディマシュがdearsを家族だと公言し、dearsも彼を自分の家族だと感じているのなら、彼の祖父もまたdearsの家族であり、その家族の葬儀に参加したいと思ったり、それが出来ないのならせめてその映像だけでも見たいと思うのは、ごく自然な感情ではないかと思っていた。
 自分が祖父母も父母もすでに見送っている経験から鑑みて、葬儀というものは、家族との死別のショックが長引くことを防止し、その家族を死者として受け入れ、死者となった家族との新しい関係を築くためのゴーサインとなる儀式だからだ。
 第一、彼の祖父は事件や事故で亡くなったようではない。
 被害者の人権のための秘匿と、有名人のプライバシーと、葬儀の式典とを混同しているのではないかと思った。
 もっと言えば、シェアの禁止を呼びかける投稿がほぼヨーロッパからだったため、これはもしかしたら非常に古くからある「ヨーロッパ」対「中東」の、宗教的な風習や習慣による考え方の違いから起こる「衝突」のプロトタイプではないか、とも感じていた。
 

《イスラム教徒による葬儀の解説》

 すると、カザフスタンと同じくイスラム教徒が大多数を占めるインドネシアのファンクラブが「ジャナーザ(Janaza)の祈りの時間を共有することについて、dearsが不快だと感じる可能性がある」として、葬儀の日にイスラム教の葬儀についての解説を投稿した。
 イスラム教徒には亡くなった人に対するいくつかの「義務」があり、モスクや解放された広場での「ジャナーザの儀式」に、できるだけ多くの人が参加して祈ることがその義務のひとつで、それは故人の名誉でもある、と。
 TVが放映した葬儀の場面はパブリックな「式典」であって、その映像をシェアすることに何ら不都合はない、という内容だった。
 また、このインドネシアの投稿をYouTubeでシェアしたいくつかの情報チャンネルでは、葬儀の様子を放映するTV局や、その映像を投稿する人物に対して攻撃的なコメントを送らないようにと、dearsに釘を刺してもいた。
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 ディマシュ本人には「キリスト教文化」と「イスラム教文化」が違和感なく共存しているのだが、一般的にはまだまだそこまではいかないものだなと思った。
 特に今回は、個人個人、社会集団、人類という種族にとって「死」という大きな「謎」に関わる出来事なので、こういった思い込みによる混乱は必然なのかもしれなかった。
 
 
 

【父の日と、シンクロニシティ】

《祖父に当てたディマシュの手紙》

 葬儀も終わって2日が過ぎ、今日は「父の日」だ。
 6月の第三日曜日を「父の日」としているのは、アメリカ、中国、日本など世界で30か国ほどあるが、カザフスタンにはこの記念日はないようだ。
 だが、現地時間でこの日の午前0時過ぎだったか(日本時間で午前3時過ぎ)、ディマシュは祖父を、きっと彼が子供の頃にそう呼んでいたと同じように「パパ」と呼び、自分を「あなたの末っ子」と呼ぶ、祖父への感動的な「別れの手紙」を、祖父との写真とともにインスタグラムに投稿した。

 今日が世界のあちこちで「父の日」だと、ディマシュが知っていたかどうかは分からない。
 だが、彼が頻繁にそういった類の「シンクロニシティ」を起こすタイプの人間だということは、彼の周辺の人々やdearsにとっては周知の事実のようで、私自身にも驚くような経験がいくつもある。
  今回も、そのひとつかもしれない。
 私は前の日の仕事の業務で疲れ過ぎていて、なおかつ寝る前に妹とディープな話を電話で長いお喋りをし、しかもその話も「祖父と孫息子」に関する話題だったのだが、3時過ぎまで目が冴えて眠れずにいたため、彼の投稿をすぐに読むことが出来た。
 そして飛び起き、安堵した。
 これで、dearsも安心して元の陽気な状態に戻れるのではないか、と。
 

《「異なる者」同士の理解の難しさ》

 だが、彼の祖父の「死」によって、dearsもディマシュも、今までのような「牧歌的な、まだ人生の不幸のなんたるかを知らない上での関係性」から、目が覚めてしまったかもしれない。
 ほんの20日前にディマシュがリリースした新曲『OMIR』と合わせて、dearsにとってはダブルパンチだ。
(今となっては、もしかしたらディマシュは祖父の死を知らずに予感して、あの歌詞を書いたのかもしれないという気もちょっとする。)

 風習や宗教的習慣を異とするdearsがお互いを理解し合い、赦し合うことは、dearsがディマシュの歌を理解するよりもずっと難しいことを、dearsは今回、お互いに知ってしまった。
 この一連の出来事で、dears同士、またdearsとディマシュは、この先新しい関係を築く必要があると思った。
 だが、これほどのシンクロニシティを、意図せずか意図してかはともかく起こしてしまうような、「聖なる何か」によって守られた「童児」のディマシュのことだ。何とかなるだろうという気もする。
 そして、現在私が投稿しようとしているディマシュの歌に関する文章が、今から1年も前に書いた内容なのに、まさに今回の出来事とシンクロしてしまっていて、驚くというよりも、もはや苦笑いするしかない事態だ。
 

【「風のエレメント」時代と、知ること、知らないこと】

《「風のエレメント」と「水のエレメント」》

 2020年の年末から、世界はこれから200年続く「風のエレメント」の時代に入った。
「風のエレメント」が暗示するのは「知識、情報、拡散的調和」だ。
 その代償として、この時代に適応が難しいのは「風」に対して真逆の性質を持つ「水のエレメント」であり、水が暗示する「情動、感情、閉鎖的一体感」だ。

 ディマシュは誕生星座こそ「風」だが、80%もの惑星と感受点が「水」の星座に位置しているという、非常に偏った、ユニークな生まれを持っている。これも彼が持つある種の宿命のような気配がする。

 我々はこれから「知らない」ことで感情を揺さぶられ、一体感という居心地のいい排他性を阻害されて傷つき、情動の暴走による出来事を引き起こすことが多くなるだろう。
 だからこそ、傷つく前に「知らないことを知る」ことがとても大きな意味を持つだろうと思う。

《世界の狭さと、距離の隔たり》

 インターネットとSNSの登場によって、世界はものすごく狭くなったと感じるかもしれないが、それによって今まで知らずにいた「他人」と相対することが多くなった。
 しかも、狭くなったことによってむしろ、人間ひとりひとりの距離が以前よりも格段に遠く離れてしまったように感じることがある。
 今まで知らずにいたお互いの差異を、具体的に知ることになってしまうからだ。

 我々はこれから、自分があまりよく知らない世界、そしてよく知らない遠くにいる相手に対して、自分に習慣づけられた感情に飲み込まれるという自動的反応をいったん脇に置き、まずはこの膨大なこのインターネットの情報網から「相手の世界の意味」について検索して学習するという行動パターンを身につけた方がいいのかもしれない。
 我々は、何のために第2の脳とも言えるスマホをこの手に持たされているのだろうか、と。
 

《祖父の名は「神の贈り物」》

「知ること」
「情動だけではなく、前頭葉も動かすこと」
 そのようなことが、21世紀の新しい「風のエレメント」の時代に向けての最初の一歩であることを願うばかりだ。
 
 ディマシュの祖父、クダイベルゲン氏は、日本にいる限り知りようがないかもしれなかった、とても広くて大きな視野を私に見せてくれた。
 カザフスタン語で「神の贈り物」という、まさに彼の祖父の名が、そしてディマシュのファミリーネームにもなった、その言葉が示す「意味」のとおりに。

(終了)

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