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「ママは良い人生なの?」Vol.25

「こんにちは。今、会計をしているところです。11時前には帰宅します。」とナースさんに連絡をする。
「承知しました。支度しておきますね!目標を11時にしておいて、帰宅し疲労感などあれば、連絡ください。」
「どうやら、あまり寝ていないみたいです。」
「 自分は30分ほどで帰りますとお伝えください。やはり 今日の床屋はキャンセルしてよかったですね。」
など、夫が会計に行っている間にナースさんとLINEで短いやり取りを交わす。

「ただいまぁ。あぁ帰った。やっと帰れた。」と言いながら自宅玄関を開ける。「おかえりなさい。退院おめでとう。」と次女が玄関まで来て拍手してくれた。嬉しそうにリビングに入り炬燵に入る。「あぁ、入院する前はまだコートも要らないくらいの季節(秋)だったのにね。」と言いながらドサッと座る。

「ほっとしたでしょ。」と言うと「そうだね。ほっとしたね。」とオウム返しで応える。紅茶を入れて飲んでいる頃に、玄関のベルが鳴ってナースさんが来られた。

「はじめまして。」「はじめまして。」ナースさんと夫は初対面。こちらもオウム返し挨拶。「お疲れでしょうから、今日はサッとチェックして帰りますね。」と言いつつすぐに本題に入る。ナースさんは血液データや本人の様子も診ながら、今日病棟看護師や栄養士に言われたことを確認している。夫には今の身体の感覚や食欲、睡眠のことなど自覚症状の問診を行う。
「床屋に行きたいとお聞きしていますが、今日は止めたのですよね?」
「ハイ。明日にしました。」
「そうですか。今日はゆっくりされた方が良いと思いますよ。血液のデータを見たのですが、ご自分では自覚がないかもしれませんが、極度の貧血状態です。」
「え…」
「大きな手術をして、食欲もあまりなかったなどの状況も聞くと、この値は致し方ないと思います。ご自宅で美味しいご飯を食べると徐々に回復すると思いますが。」
「そうですね。」
会話内容はかなり割愛しているが、彼はこのやり取りで今の体の状態を理解したかな、と思った。

傷口を診て、お風呂はまだやめておいてシャワーだけ。しかし、腰湯ができたら下半身だけでも温めたらよいのでは、など家でのQOLを上げる方法を具体的に教えてもらう。
そして、1冊の大学ノートを渡された。
「このノートはバイタルチェックや食事内容など記入してください。それから、治療とは全く関係ない生活のことなども書いておくと良いと思います。ご家族の方も書きたいときに書いておくとよいと思います。」

日々の生活は流動的で人の記憶は曖昧になりがちだ。何か大変なことが起きた時に起こりがちな、夫婦間での言った言わないの不毛な争いもこのノートがあれば減りそうな気がする。元々几帳面でまじめな彼の性格にもピッタリ。

終始和やかな雰囲気の中、次回の診察日にはナースさんも同行してもらえることがわかり一安心。それまでに何かあればすぐに話を聞いてもらうことになった。

次女はこのやり取りをしている間、リビングの端っこでヘッドフォン型のイヤホンをつけてYouTubeを見ていた。

ナースさんが帰ると、ようやくお昼ごはん。食べやすい味が良いかと思いうどんを食べる。3人で食べていると違和感が全くなくて、3か月間2人で過ごしていたのが嘘だったような不思議な感覚になる。家族とはこういうものなのかもしれない。病院では食欲が無かったと聞いていたがうどんは完食。よかった。

食後は親戚や知り合いなど心配をかけた方々に連絡をし、声を聞かせたりビデオ通話で顔を見せて安心してもらった。

穏やかな午後を過ごし、夕食。
食べながら明日の床屋について尋ねる。「明日の床屋はどうする?」
「行きは歩いていこうかな。散歩がてら。帰りはバスにするよ。」
「え・・・」 な、なにも伝わっていない。極度の貧血と言ったの聞いたよね?歩いて行ったら今の足なら20分くらい続けて歩くことになるんだけど。それもかなり寒い冬空の中を。
「25度設定の病院内のリハビリと冬の街中を歩くのはずいぶん違うよ。それは止めた方がいいんじゃない?」「じゃ、往復バスで行こうかな。」
どうしても髪の毛を切りたい。というか外に出たいのだ。
なんだかバカバカしくなってしまい(もういいや、どうぞご勝手に)という気分になって「じゃ、行ってみたら。」と言う。

「ところで仕事はどうするの?」
「あ!そのことなんだけど、明日職場に持って行く買い物についてきてほしい。」
「月曜日に職場に行くんだね。」
「行くよ。その日は挨拶だけになるかな♪」
浮かれている。今日ナースさんが行ってくれたことがすっかり流れ落ちている。どこ行ったんだ? この調子だと公共交通機関利用での通勤を言い出すに違いない。

夕食を終え次女がお風呂に入った頃、どうしても我慢が出来ず夫に話す。話すというか散弾銃の様にズバズバと言葉が出る出る。

「職場復帰して、みんなに手術が成功して退院した姿を見せたい気持ちはわかる。でもそんなヨレヨレの土色の顔の人がいきなり職場に来て復活しました、とか言われても相手に気を遣わせるだけよ。入院中、会社の人は社交辞令で『早く帰ってきてください』とは言うけれど、それは働ける状態になってね、と言うことであって、いつ倒れるかわからない人が職場をウロウロされたら迷惑なだけ。ましてや職場で倒れられたりしたら大迷惑。通勤の途中で倒れたり、駅のホームでフラッと倒れて周りに迷惑をかけたり、ホームから転落して電車に轢かれたとかニュースであるでしょ。そうなったら何のためにこの3か月残された家族は頑張ってきたか訳がわからない。今までの努力が馬鹿みたい。」
退院初日に大爆発。夫は絶句。しかし、私の口はまだ止まらない。
「そんなに病院の言う『動いた方が良い』の解釈が仕事に行くことにつながるなら、『輸血の一歩手前の極度の貧血の数値です』と言ってくれたナースさんの言葉は軽んじて受け止めているわけね。わかった。今日もわざわざ家まで足を運んでくれたのに、申し訳ない。もうナースさんには来ていただくつもりはないから。」
「もっと生きて欲しいと思う私の期待がそもそもおかしいのかもしれない。重い気持ちなのでしょう。わかりました、今後は最低限のことだけします。それから、働くのであればすぐに職場の近くのマンションを借りて徒歩範囲で行けるようにしてお仕事頑張ってください。よろしく。」
元々口が達者な私。一回も噛むこともなくスラスラと言葉が出てくる。

リビングがシーンとなっていると、お風呂から上がってドライヤーをかけ終えた次女が「次の人どーぞ―」といつもの調子で洗面所から出てきた。変わらない彼女に救われる。「わかった。次入るね。」と言いつつも腰が上がらない2人。重い空気を感じて次女は「どうしたの?」と私に聞く。
「パパ、お仕事に行くって言うんだよね。ナースさんからはまだ難しいんじゃないの?って言われたのに。」と話す。
すると、彼女は昼間に夫が離れて住む長女や義母に電話したことを覚えていて、
「さっき、お姉ちゃんに電話した時、お仕事に行くって言わなかったね。おばあちゃんにも言わなかったね。もう行くの止めたかと思った。パパ。月曜日、お仕事行くの?大丈夫なの?」

スピーカーで電話をしたので全て聞いていたのだ。

電話をした人は皆、「ひとまずゆっくり休んで徐々に体を慣らしてね。無理しちゃだめだよ。」と言ってくれる。夫は「ありがとう。わかったよ。」と応えていた。次女はその返事を聞いて仕事は休むと思っていたらしい。次女ナイス!パパも後ろめたい気持ちがあるから言えなかったのかもしれない。

「・・・たしかに、後ろめたい気持ちが無かったとは言えない・・・。」とボソッと応える。娘の力って絶大。散弾銃が無くてもすぐに伝わる。特に次女の直球ストレートは受け止めやすいのだ。

夫はようやく自分を客観視できていなかったことに気が付いた。
「でも、職場の挨拶はやはり行きたい。」この気持ちは変わらない。同じ立場を考えればわかる気もする。前日まで普通に働いていたのに、翌日から突然3か月の入院をしてしまった。引継ぎも何もせぬまま現場をほったらかしで来てしまったことへの謝罪はしたいだろう。
ようやく話し合いの場ができた。
話し合いの結果、私の勤務時間に合わせて私の車で行き、帰りは早めに終わるとのことなので、電車の空いている時間帯に必ず座って帰ることを決めた。

私からナースさんに個別に報告する。
「いい話です。 連絡ありがとうございます。早め早めに気持ちを伝え合うのが大事ですし結局倒れたら、更にYOKOさんの対応が大変になります。 すごく良い提案とお互いの妥協点の擦り合わせができていると思います。まず1週間はとくに慎重すぎるくらいでいいと思いますよ。」
この言葉に涙が出る。

彼にとっても家のお風呂に入り、「おやすみなさい」と言うと「おやすみー」と返事がある幸せを感じた退院初日の夜だったと思う。

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