「美談の男」を読んで、脇道にそれて考えた。


 袴田事件と死刑制度
 
 「美談の男」( 尾形誠規・鉄人社 )を読んだ。これは袴田事件を裁いた元主任裁判官の転落と再生についての興味深いノンフィンションであるが、ここではこの本の本来の主題にはひとまず立ち入らない。
 
 わたしはひとつの箇所が示している事実に強く注目した。1980年11月19日、最高裁は上告を棄却。死刑が確定する。その翌年81年5月、袴田さんは獄中から姉の秀子さんに宛、手紙を書く。
 
 「死刑囚にデッチ上げられてから間もなく、十三年目に入ろうとしている。
(中略)死刑を宣告されてから、私は間もなく東京拘置所に移された。そこには確定囚が二十人程と未決囚が二十数人いた。彼らのほとんどは処刑を待つ苦しみの中で、己を喪失した醜いヒステリックな発作が起こるまえに、いさぎよく自殺したいという願望を持っていた。この願望は、最高裁で死刑が宣告されると益々強度になるようであった。
 死刑囚という言葉がまるで他人事であった昔は、それはたんに死ねる人、という意味でしかなかった。そしてそれは、あたかも不断に巡り来る生と死の普通の法則そのものとして、漠然と理解していたといえる。死刑を殺人と見ず、寿命の概念に無意識にあてはめていたのである。このことは私一人が感じていることではない。市民社会の大部分がこの概念の中にあるはずだ。
 殺人者に対する応報は絞首刑であるという考えは人間として間違っていないだろうか。私はこの死刑囚という特殊な境遇デッチ上げられたことで、初めて死刑の残虐のなんたるかを熟知した。
 確定囚は口をそろえて言う。死刑はとても怖いと。だが、実は死刑そのものが怖いのではなく、怖いと恐怖する心がたまらなくおそろしいのだ。
 わたしを支援、激励してくれる死刑の心配のない人の中にも、この違いが理解できていない人もいる。実際、死刑囚の気持ちを分かってやれというのは無理なのかも知れない。しかし、この文明社会で多くの死刑囚が分かってくれることを願っている。」
 
 この、死の瀬戸際から絞り出された手紙に対して、「見事な文章」という称賛は適切でないかもしれない。しかし、これは死刑という制度の非文明性・残虐性についての見事な一撃ではないだろうか。死刑は「冤罪である可能性のある人間を殺してしまうから廃止すべき」なのではない。冤罪であろうと、極悪人であろうと、死刑、それは「意味の無い、誰にとっても得るもののない行い」である。わたしたち部外者は、単純に「ひとの命をうばったのだから死んで償うのは当然」と考えがちである。ところが、当事者たちは必ずしもそうではない。はじめ極刑を望んでいた遺族たちも、長い年月のあいだにむしろ犯人が処刑されないことをのぞみ、生きて悔悟する姿を知ることの方が救いであると、悟ると言われる。なぜか。
 
 わたしたちは、犯人をあっさりと射殺する外国の例を知ったとき、「何かが足りない」と感じないだろうか。これは「人を殺した人間は、殺されるに値する」と単純に私たちが考えてはいないことの証拠である。「京アニ事件」の犯人が、なぜ医師団の懸命の尽力によって生かされねばならなかったか。もちろん生きて何かを語らせるためであろう。「人を殺したのだから、当人も殺されて当然」という考えを多くの日本人は漠然と採用し、死刑制度は温存されている。しかし、誰でもが胸に手を当て、よく考えてみれば、決してそのような「応報主義」で片付く問題ではない。
 
 今わたしたちはたとえどんな極悪人であてもその人物をさらし首にしたり、火あぶりにしたりすることを許容していない。そのようなことがもし「目の前で」行われれば、目を背ける。それでいてしかし、我が国の「絞首刑」は、多くの国民に支持されている。あるいは支持されている、ということに対してあえて異議を唱えず、わたしたちの社会はこの制度を温存している。その上、何らかの理由で表層的な「国民感情」というものがいつの間にか醸成され、さらなる厳罰主義に向かう傾向すらある。
 その理由は、第一にその具体的な詳細が非公開だからだ。誰の目にもみえない。だからわたしたちはその残虐性に気づかずにいられる。
 ( 例外的に2010年7月28日、当時の千葉景子法務大臣は死刑執行に立ち会い、さらに従来非公開であった東京拘置所の刑場を公開した。当時新聞等でこのことは報じられたが、それによってその後、「死刑の是非」についての議論が深まることは無かったと記憶する。)
 
 さらに死刑囚の「内面」にいたっては、私たちは知るすべもない。しかし、袴田さんの告白によってもうひとつの残虐性が明らかになった。氏は、死刑そのものより「処刑を待つ苦しみ、恐怖」こそが、おそろしいのだ、と述べる。日本の制度では、処刑は前もって知らされることはない。当日の朝である。ために、毎朝、毎朝、夜が明けるたびに死刑囚たちは「今日は自分の番かも知れない」という恐怖のなかで耳を澄ます。看守の足が自分の房の前に立ち止まるのではないかと。( これについては前もって告知されたたった四件の例外がネットでは報告されているが )
 
 前もって処刑を知らせないのは、処刑を知った囚人が錯乱するのを避けるためと説明される。これなどもおざなりな慣例である。本当にそうだろうか。知らせないで長い年月不断に恐怖させることは「緩慢な錯乱」をむしろ生まないのだろうか。だったら、「知らせて覚悟させる」方がよほどまっとうである。この不断の恐怖によって、あの手紙のように「事態を正確に言葉にできていた」袴田さんですら、今日私たちがTVで目にするような状態になってしまった。無駄な苦しみを与えて、誰の得になるのだろうか。それとも死刑にされるような人間には、なんの権利もなく、どんな苦しみを与えても正しいのだろうか。
 
 死刑について、何気なさをよそおって周囲の何人かに聞いてみる。わたしと同年配のある男性はこう言う。「だって、あれだろ。死刑じゃなかったら三食昼寝付きで一生暮らせるんだろ。そりゃ、ないよね。」立ち止まって深く考えないと、こういう感想になる。
 
 袴田巖さんの「拘禁反応」とひとことで説明されるその様子は、痛ましい、あってはならないこと、と誰しもが思うだろう。間違ってはいないが、わたしは自分には、真にその内面を想像し、思いをいたす能力が欠けていると、テレビで見るたびに感じていた。たいていの人がわたしと同様にそれに対する想像力を欠いているはずだ。さらに言えば、「想像力を欠いている」ということを意識にのぼらせることすらなく、袴田さんの「拘禁反応」を眺めてやり過ごしているのではあるまいか。
 
 永山裁判で高裁が死刑判決を破棄し、無期懲役としたとき、事態は大きく動きかけた。しかし最高裁で覆されたのちはかえって強固に、「永山基準」として「四人(以上)殺したら死刑」が確定し、だれも異を唱えなくなった。今回の京アニ事件事件は三十六人が亡くなっている。四の九倍、死刑は当然だと考えている私たちがいる。しかしここでさえもなお「死刑は必要か」を私たちは問い直すべきだと思う。
 
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