注文のない料理店 小早川潤子

お立ち寄りいただいきありがとうございました。 何もございませんが、しばしお付き合いい…

注文のない料理店 小早川潤子

お立ち寄りいただいきありがとうございました。 何もございませんが、しばしお付き合いいただければと思います。

最近の記事

宇野千代の料理本 

 我が家は豚肉党で岐阜の某所から産直の豚肉を月一で取り寄せている。ロース肉の切り身の脂身を幾分か削って送ってくるので、「あのね、脂身が好きなんでそのまま送ってくれないかしら」と言ってみると、相変わらず切り身の脂身は削ってくるが、別添えで脂身の破片だけをおまけに付けてくれるようになった。そこでとんかつを揚げるときに、ついでにこの脂身オンリーも衣を付けて揚げ、美味しく食べていた。そして、こんなことをしているのはわたしたち夫婦くらいのものだろうと考え、誰にも言わないでいた。  と

    • ピッコロモンド 高峰秀子の思い出

       高峰秀子は松山善三と結婚後、女優の仕事を半分に減らし、ようやくのこと本来の自分を実現し始める。その際の二本の柱は、文筆、そして十代のころから集めていた骨董品であった。  高峰秀子は、子役として五歳から仕事漬けで学校へ行っていない。簡単な計算が生涯できなかったし、結婚当初、この世には辞書というものがあり、分からないことは「辞書を引く」のだということを知らなかった。しかし、文才は隠しようもなく花開いた。出会った偉人達、谷崎潤一郎、梅原龍三郎は言うに及ばず、土門拳、黒澤明、自分が

          正木ひろしの思い出

           誰でも名高い人物と、その程度はどうであれクロスする経験が人生でひとつやふたつ、あるいはそれ以上あるだろうが、私の場合を言えば、正木ひろしもそのひとりである。正木ひろしは八海事件・チャタレイ裁判などで有名な反権力派の弁護士だった。そのひとが、こどもの頃のわたしの家の目と鼻の先に住んでいた。母が「有名な弁護士さんがつき当たりの家にいる」と教えた。  今でもふつふつとその正木家と正木氏の様子がよみがえる。その家はいつも入り口のガラス戸が開けっ放しで廊下から家の中が丸見えだった

          亀岡の夜

           十月の末、園部から旧山陰道を走り、天引き峠の手前の集落で古民家に泊まるという秋のサイクリング計画を夫が立てた。日も短くなっているし、朝ゆっくり目に発って、まず亀岡で一泊。老年夫婦むきのゆるゆるスケジュールだ。  亀岡は何度か来ているが、旧市街には足を運んでいなかった。駅からちょっと離れたところに古い町並みがわずかに残っている。この駅と独立しているというのが肝心で、兵庫の龍野などもまったく駅と無縁にされたことで雰囲気が残った。古い町並みが好きでよく訪ねる。しかし、たとえば 

          武蔵小金井のかつみゆきおさん

             かつみゆきおさんから夫に電話があった。今年最後の展示会が武蔵小金井の市民ホールであるという。喜多見駅まで輪行して、野川沿いにサイクリングで二時間の距離。このところ天気も安定して体を動かすのは無条件に気持ちがいい。ふたりで出かけることにした。  もっとも木工作家かつみさんのテーブルや椅子を、今から我が家に置くスペースは無い。買うことはできない。つもりもない。それなのに今年は三回もかつみさんに会いに行った。どうしてだろう。それはかつみさんという人物を「確かめる」ためだ。

          武蔵小金井のかつみゆきおさん

          今日のしつらえ 寒露

          三木卓「K」、あるいは妻の呼び方

           自分の配偶者をどう呼ぶかは、多様でまた時代によりめざましく変化する。この頃は夫から妻を呼ぶときは「嫁」反対に妻が夫を呼ぶときは「旦那」が流行っている。これはすばらしい速さと広さで使われるようになった。ヨメというのはかつては舅や姑が自分の息子の妻を呼ぶときに用いた。「ウチの嫁は云々」と。これは元来は威張った言い方であり、自分の一族の所有物であることを世間に宣言している風がある。ところが、ヨメと言う呼称を、今頃はしばしば収入の安定しない若者が使っている。  それに呼応するよう

          三木卓「K」、あるいは妻の呼び方

          「美談の男」を読んで、脇道にそれて考えた。

           袴田事件と死刑制度  「美談の男」( 尾形誠規・鉄人社 )を読んだ。これは袴田事件を裁いた元主任裁判官の転落と再生についての興味深いノンフィンションであるが、ここではこの本の本来の主題にはひとまず立ち入らない。  わたしはひとつの箇所が示している事実に強く注目した。1980年11月19日、最高裁は上告を棄却。死刑が確定する。その翌年81年5月、袴田さんは獄中から姉の秀子さんに宛、手紙を書く。  「死刑囚にデッチ上げられてから間もなく、十三年目に入ろうとしている。

          「美談の男」を読んで、脇道にそれて考えた。

          「長江」という駅

           西武線は池袋に向かう登り線路の脇、江古田と東長崎の間に昭和三十年代小さなプラットホームがあった。わたしは朝夕の通学時に電車に揺られながらただぼんやりとそのぺんぺん草の生えたプラットホームを眺めていた。あるときぽつりと母が言った。「あれはウチの会社の駅だった」と。  昨今の鉄道ブームのせいか、その「長江駅」についてはグーグルでもかなりの記事がヒットする。何を隠そう「長江」(長崎と江古田から二字をとって並べただけのなんとしょうもない名前!)は西武線がかつて「西武黄金鉄道」として