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私が山に登る理由

生まれ育った東京から長野県の伊那に移住し、1年が経ちました。

私がいま一番心と時間を注いでいることは、登山

きっかけは、山岳会に入り登山を本格的に始めた方が身近にいたこと。その方から日々登山の魅力を聞いていたことや、仕事柄体力がついてきたこともあって、全身で自然のなかで遊んでみたいと思うように。移住して半年後の昨年の夏、興味本位で山岳会に入会しました。

もともと登山に興味はなく、長年都会暮らしだった私には山を眺めるだけでも十分だったのですが、いまでは多くて月に4回ほどのペースで登りに行くほど。

すっかり魅力にとりつかれています。


私が思う魅力のひとつは、自然の在りのままを体感できるということ。

例えば、南アルプスでひときわ大きな存在感を放つ3000m級の巨峰、仙丈ヶ岳。10月に初めて登ってきました。天気に恵まれ、雲一つない快晴、無風。紅葉シーズンも終わりを迎える時期でしたが、カールはまだまだ美しく、雷鳥も拝めました。

画面越しでしか見たことのなかったカール
息をのみました・・・


当たり前だけれど、天気が良いこともカールが美しいことも、雷鳥が現れてくれたことも、願ってそうなったわけではなく、ただただ在るままでした。



例えば、夏に登った八ヶ岳の蓼科山。この日は天気が荒れていて、山頂は特に暴風が吹き荒れ、八ヶ岳ブルーどころか眺望は一切なし。

山頂にて
ガスのなかで力強く咲く高山植物たち



この天気も、もちろん願っていませんでした。笑



自然界にとって、人間の感情なんて知ったこっちゃない。雨が降る時は降るし、強風や雪崩だって起こる。動物だって出る。人間はそれでも思いを馳せ、挑戦し、時に心打たれ、厳しい環境に晒され、達成感を得たり、はたまた悔しい思いをしたりして下山していく。

登山が好きになる前は、どうしてそこまでの思いをして登るのだろうと、登る人の気が知れませんでした。


でも、在るままの自然界に惹かれ心のままに飛び込み続けていたら、なんとなくわかる気がしました。


在りのままの自分でいい、と思えたことです。

山にいると、「登りたい」という自分の意志だけではどうにもならないことだらけ。天候や体力、技術、様々な要因で、計画通りのルートを目指せない、とか。つい最近だと、つぼ足(アイゼン等の装備をつけずに登山靴のまま雪上を歩く、登山における基礎歩行)の練習で八ヶ岳の北横岳を登ったときに、つぼ足に慣れず悪戦苦闘してしまったこととか。

北八ヶ岳の北横岳にてつぼ足練習



どうにもならない状況になったとき私は、自分の心と対峙する。対峙する瞬間、「あぁ、まさにいま、自分自身も在りのままなんだな」と、シンプルにそう感じる。

不思議なことに、それがうれしい。苦しさや悔しさも、到底太刀打ちできない自然相手だと、「これでいいんだ」っていくらか自分を受け入れやすくなり、心が軽くなる。

受け入れるほどに自分らしさが現れていく気がして、だから何度も登りたくなるのだと思います。

中央アルプス木曽駒ケ岳
中岳から乗越までの、スリル満点の巻き道はお気に入り



人間には感情が、想像力が、意志がある。そして、それらを自由にはたらかせることができる。

感情があるがゆえに、自分のちっぽけさを感じるし、次の瞬間に山々に目を移すと、その雄大さに無性に心惹かれている自分がいる。次にはどんな景色が、どんな自分が待っているのだろうと、希望を持ってまた一歩進もうと思える。

この感情の動きと、意志が生まれ(もしかしたら生まれる前から)身体が動く瞬間が、登山をしていると何度も何度も訪れる。抗えない自然のなかで、自分の意志で立ち、心と身体を結び付けていく感じ、本能的で、なんか良い。
心だけでも頭だけでもなく、全身で体感していることが、なんだか自然と一体となっている感じがする。生きている実感がある。

2023年初登りの霧訪山
しばらく動物の足跡でにぎわっていたが、山頂手前でぴたっと絶えた





自然と心を通わせたい、と思うことがあった。

でもこうして、自然を介して自分の内側と出会っている。

通わせたかったのは自分自身と、ということだったのかもしれない。


とある本で、印象的な表現に出会った。

「人はいつも無意識のうちに、自分の心を通して風景を見る。オーロラの不思議な光が語りかけてくるものは、それを見つめる者の、内なる心の風景の中にあるのだろう」

星野道夫 『長い旅の途上』より



いまの私は、登山をすることで、自分という自然と心を通わせようとしているようです。


八ヶ岳最高峰の赤岳
山頂から見た八ヶ岳連峰




私が移住した伊那谷は中央アルプスと南アルプスに囲まれた環境。日々山々を目にします。そういえば移住当時、どこにいても山が見えることに驚きました。
そして、連なる山の名は、不思議なことに登れば登るほど頭に入り、見え方も変わっていっています。最初は説明されてもさっぱりだったのにな。




見え方が変わったと感じたのは、例えばこんな時。

登山した日、帰宅して登った山を眺め、さっきまであそこにいたんだ、という実感と、余韻に浸る時。

山一つひとつを見るたびに、山行を思い出す時。

日が昇る前、霞む前の輪郭がくっきりした南アルプスを眺めて、今日も頑張ろうって思える時。


下界での日常でも、勝手に心の距離を近づけています。


家から車で3分で、空が一気に広くなる
南アルプスのパノラマ風景は何度も季節を感じさせてくれた



私はフィンランドがだいすきで、3か月間滞在したことがありました。その中で印象的だったのは、フィンランドの人々にとって、太陽、森、湖、様々な自然が常に身近にあるように感じたこと。物理的にもそうだけど、どちらかというと精神的な距離。

伊那に住んでなんとなく感じていた心地よさは、フィンランドに通ずるものがあったからなのかもしれません。

白夜のフィンランドの、森と湖


山岳会に入り、登山を始めて半年ほど経ちました。

会には、登山が好きという共通の思いをもった、経験もバックグラウンドも多様な方々が集まっています。知識や技術を学んだり、経験を共有してもらったりと、安全に自分なりの山の楽しみ方を模索していける場。入会してよかったです。

今年は、アルプスに八ヶ岳に、登ってみたい山がたくさんあります。
「自然」と心を通わせながら、登山の世界を深めていきたいです。



余談ですが、何度も出てきた「自然」ということば。自分にとって自然とはいったい何なのだろうと、多用するほどにわからなくなる。笑 でもいまはそんな曖昧な感じで良いです。

分かるようになったら、また筆をとりたいと思います。
これからも、心のままに。

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