noteを1年間続けてみて
気がついたら、6月でnoteを始めて1年が経つ。
noteを始めて1年。
「あ、そうだ、書いてみよう。」
と思いつきではじめたnote。
いつか、
自分が体験したことを
エッセイという形にして伝えてみたい。
じゃあ、どこをプラットフォームにしたら、
自分の表現したいものが書けるか?
考えた。
それが1年前に出した答えがnoteだったんだ。
ところで、
わたしと同じような
似た体験をしている人たちが、
いろんな場所で、いろんな形で
発信していることに気づいた。
今はSNSが年齢関係なく普及してるから、
余計、発信しやすくなったんだよね。
その数が、想像以上に多くて
最初は驚いた。
そのいろんな人たちの発信をみていくと、
だいたい大きく2つのパターンに
分かれているように感じた。
1つは、
時には自虐的なものを交えながら、
時には面白おかしく、テンション高めで
ハッピーエンドというか、
めちゃくちゃポジティブにまとめてあるもの。
もう1つは、
裏垢みたいな感じで、
ドロドロした恨み辛みを
ひたすら吐いたようなもの。
どんな人も、
きっとその人にしか分からない
痛みを抱えてきたんだなと
共感するものは大きい。
でも同時になんとなく違和感も感じていた。
前者に対しては、
不自然な前向きさを感じたし、
後者に対しては、
辛くても悲しくても、
明るくポジティブに言わないと
関心を持ってもらえない、見てもらえない、
だから、
本当は言いたい本音の思いは
ネガティブで受け入れられないから、
日陰のような日の当たらない場所でしか
吐き出せないということ。
(そんな会って話したこともないくせに、
文章読んだだけでその人のこと分かるか!
決めつけでしょと思うかもしれんけど、
あくまでわたしが感じたことです。批判をするとかではないので誤解なく。)
別にその人が何か悪いことをした
わけでもないのに、
むしろただ、傷つく体験をして
痛みを抱えているだけなのに。
なぜ、ありのまま、
「ふつう」のこととして話せないのだろうか?
このことは、
SNSの発信を見るようになって
単に思い込みだけではなく、
わたしが実際に体験したことでもあるからだ。
理解される、されない、は置いといても、
話しずらい雰囲気は確かにある。
とくに、
家族の問題は、
「他人が踏み入るべき領域ではない」
という空気が暗黙了解的にながれているので
オープンにしずらい。
心の問題、葛藤、病気も、
人間なら誰もが抱える可能性はあるのに、
社会の闇の領域のようにタブーのような、
触れにくいような。
だから自分の問題を話さない
というか、話せないんだ。
逆に、
そういう問題をオープンにできたとしても、
「壮絶な過去」
「かわいそうな人」
のような言葉で飾られたり、
変に気を使われて距離を置かれたり、
コイツは扱いにくいやつみたいに
腫れもの扱いされるのはつらい。
体だって、怪我することはある、
障害を負うこともある。
それと同じ。
でも、
その人はその人。
わたしはわたし。
だからわたしは、
自分の言葉で、
なるべく難しくなくわかりやすい言葉で
ありのままでリアルな声を書こうと思った。
そんな想いでnoteを書いてきた。
ぶっちゃけ、書く前は、
こんなの書いて読んでくれる人おるんかな?
まして共感してくれる人おるのか?
不安でこわかった。
だけど、記事を書くたびに、
反応してくれる人がいること、
コメントという場で
言葉をかけてくれる人がいること、
うれしかった。
思った以上に、
共感してくれる人がいたこと、
note という場所で、
同じような葛藤を抱く人の思いを知れたり
交流できたのは
わたしにとっては、新しい世界を知れたようで
大きなことだった。
なんだかあんありまとまりない感じだけど、
noteを始めて1年を振り返って書いてみました。
最後まで読んでくれた人ありがとうございます。
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