進化論対インテリジェント・デザイン論の哲学的見地からの検討
はじめに
前回の記事で検討された問題のひとつである「生命の目的は種の繁栄か?」に引き続き、今回のnoteも生物に関する問題を扱うが、前回に比べ哲学色が強くなる。ただし、検討するのは進化論対ID論。生物学における殴っても殴っても死なない相手との戦いについてである。ID論については知らない人も多いだろうからきちんと解説する、今はわからなくても読み飛ばしてかまわない。
なお、本論を理解する上で前回の記事を読む必要は全くないので安心してほしい。
「進化は無目的か」
参考書紹介
進化生物学関係の一般向け概説書を何でも良いので通読すれば自然淘汰にも生物にも「目的などない」ことが了解されるだろう(と多くの進化論者は期待しているだろうし、筆者も実際読んで了解したが、この「了解」を期待するのは楽観的すぎると筆者は考える。筆者は進化論者であるにも関わらずだ)。
読むのは専門書でなく一般向けがよい。なぜなら「生命や進化に目的がある」という誤解は専門生より門外漢に多く、この問題についての詳述は特に啓蒙を目的とした一般向け概説書によってなされるからだ。専門生にとっては当たり前すぎてこの部分の解説に多くの紙幅が割かれることはない。
しかしながら「初学者向け入門書といったって何を読めばいいかわからない」という人は多いと思う。既に古典的であり、現代の研究成果により情報更新されている箇所も見られるものたちだが、やはりこのあたりが推奨されるだろう。
あまりに恣意的で何らかの色が見える参考書についての自己弁護
ある種の分野に詳しい人からするとこの筆者ディチキンスかよ……とちょっとうんざりしてしまう人もあるかもしれない。ドーキンスら新無神論者による宗教への激烈な非難と無神論者への激励と啓蒙的態度について、筆者も距離を置いているところだ。筆者は政治に近づきたくないので政治的賛否はここでは黙秘させてほしい。いずれにせよ、あの昏く燃える憎悪の炎は本論にはないので安心してほしい。
まだ疑っているかもしれないから自己弁護させてほしい。上の入門書の羅列は確かに何か意図を感じると思われても仕方ないと私も思う!!! だからドーキンスらを激しく非難しディチキンスという呼び方を広めたテリー・イーグルトンについて、筆者はとてもお世話になって感謝していることを述べたい。
筆者は今でこそ分析哲学の徒だが、大学入学当時は日文を志す文学徒で、特にモラリストやアフォリズムに興味を持ち、比較文学を行っていた。ラ・ロシュフコー「箴言集」、ラ・ブリュイエール「カラクテール」、モンテーニュ「エセー」、ヴォルテール「哲学書簡」、ニーチェ「人間的、あまりに人間的」芥川龍之介「侏儒の言葉」、萩原朔太郎――挙げればきりがないほどのモラリスティックな批判、アフォリズムを読破し比較検討してきた。
しかしその上でどのように文学を検討すればよいのか? という文学理論が筆者には備わっていなかった。そこでお世話になった名著中の名著が以下だ。
いつか文学徒向けの、現代一歩手前までの文学理論紹介を行いたいと思っているので詳細はそこで語るがこの本にはとてもお世話になった。文学理論詳論における名著中の名著だ。テリー・イーグルトンは筆者の知的営為の恩人である。
閑話休題。本論ではドーキンス的な立場に対する一部批判も末尾で行うのでそのような人は安心して欲しい。また、ドーキンスを愛する人はそう言われてちょっとむっとするかもしれないが筆者は「物理主義者」であり「進化論者」であり「無神論者」である。概ねドーキンスに好意的などころか、今の筆者があるのはドーキンスのおかげだとすら思っている。安心してほしい。
ダーウィンの「種の起源」が挙げられないのはまあわかるが、少なくとも、せめて。たとえばせめてグールドあたりは挙げるべきでは? とか。仰ることはよくわかる。とてもわかる。本当はもっと広範に学んでほしい。
更に言えば筆者は生物学ではなく分析哲学の伝統に属する人間であるから、「進化は無目的である」ことを示すための生物学徒の論証に若干不満足なところがある。本noteも故に作成された。
筆者も前回のnote「生命の目的は種の繁栄か?/生物学的に考えて子を産むべきか?」で行ったのだが、生物学徒がよくやるのが過去あるいは現在を生きる生物たちの観察可能な様々な事例や「何が淘汰圧をかけているか」等を提示して「ね? 目的なんてないでしょ」と説得する流れだ。
はっきり言ってメチャクチャ面白いし、知識が増えるし、センスオブワンダーという言葉はこういったきら星のような一般向けの進化論関係の概説書には満ち満ちていると思う。
だが、哲学徒としては不満だ。それでは本論に入ろう。
哲学徒によるID論検討
哲学徒の動き出し
本論では生物学者があまり採らない方法、哲学徒による方法によってID論を検討したい。ID論とはそもそも何かということについては少し後に詳述されるから今は理解しなくてもよい。「生命は何らかの知的デザイナーに作られた」という考え方だと簡単に理解しておけばよい。
たとえば哲学徒は以下のような方法をとって考察を行う。
目的論的推論
日常言語のレベルでの「なにかがなにかのためにある」という語の用い方の適否は以下が了解されるだろう。
なお、上のような考え方は7~8歳児には当てはまらない。具体的には以下のような問答が見られる傾向にある。
この傾向は小学四年生~小学五年生頃あたりには科学的に適切な説明に置き換えられていく傾向にあるが、大人であっても適切な学校教育を受けていなければこの例のような受け答えがなされること、さらには適切な学校教育を受けていてもアルツハイマー病により脳機能が損なわれると上の例のような考え方をしてしまうこと実証調査で示されている。
これはヒトに備わった生得的な特性で「目的論的推論」という。重要な概念になるので覚えておいてほしい。
以下のnoteの余話「なぜ生物学的に考えて子を産むべきだと思ってしまうのか」でも触れているが、本論では以下noteの知識を全く前提にしないので読まなくてもよい。
なお、典拠は以下である。
「なにかがなにかのためにある」ということを迷わず適切に説明できるだろうか。様々な「ために」の用例を眺めていくと「ために」という語が学術的に十分なレベルで一義的でないことにも気づかされる。こういった問題を整理し「なにかがなにかのためにあるとはどういうことか」を明晰化する作業を哲学徒は行う。しかし本論ではそこまでこの明晰化は必要とされないので於く。ではなぜ言及したのかというと、「なにかがなにかのためにある」という考え方の持つ強い偏見的機能(目的論的推論)について印象づけるためである。断っておくがこの印象づけは哲学的な営為ではない。理解の助けになればというただの補助線である。
物理主義について
次に物理主義を哲学的に擁護する。
物理主義とは簡単には以下のように解説される。
少し哲学を囓った人なら物理主義への反駁としてすぐに「クオリア」を思いつくだろう。それへの応答を含めた物理主義の擁護については筆者が別に2種noteを用意しているので参考にされたい。本noteでは前提の知識としないが、どうしても物理主義が納得いかない場合は一読いただきたい。
「なにかがなにかのためにある」の意味を整理し、物理主義を擁護した上で、更に一般に語られる「進化」の過程に複数あることを概観し、いずせにせよその探究・説明には物理主義が用いられることを確認する。
以上をもって、生物に目的はない。進化にも目的はないと言いたい。
なぜ生命に目的はないと言いたいのか
「なんのために無目的だと言いたいのか」と思うだろう。生物学者も哲学者も何をそんなに躍起になっているのかと。有害な論敵がいるからである。それは「インテリジェント・デザイン論」あるいは単に「ID論」と呼ばれる。
インテリジェント・デザイン論は簡単には以下のように述べられる。
ID論を主に支えるものの一つは「時計職人のアナロジー」だ。
(これは古典的な論拠だ。別のものも検討するので安心して欲しい)
神学者ウィリアム・ペイリーが「自然神学」において述べたもので(恥ずかしながら未読である。筆者は結構神学書を読むのも好きなのだが……)、その考えは以下のように簡単にまとめることができる。
この主張の何が自然科学者をそんなに苛立たせる敵なのだろうか。その理由のひとつがID論が「科学」を主張するためである。「科学の領域」に神のような「知的デザイナー(神と表現することで宗教的匂いを脱臭するためにこのような呼び方をする戦略がなされている)」を導入し、自然界にある様々な事物が「何か目的を持ってつくられた」かのように主張する。
インテリジェントデザイナーに言わせれば「アメンボ」が存在するのも「イトミミズ」が存在するのも「ケラ」が存在するのも目的がある。「ヒト」が存在するのだって目的がある。進化論者はこれらが何らかの目的によって存在することを全て否定する。哲学徒もそうだ。
ある種の生物学関係者は怒りというか最早憎悪をもってこれらと戦闘している。
またドーキンスかと言われるかもしれないがこの類に関して親でも殺されたのか? と訊きたくなるような憎悪をもって戦闘しているのは誰かと問われればやはりドーキンスなので例示として許してほしい(実際人が死んでんだよ、とドーキンスは言うだろう)。彼らはほとんど「科学的良心に基づく道徳的怒り」とでもいうべき感情を抱えてID論と戦っている。
残念ながら筆者にそこまでの熱意はないので、教育的悪影響だのなんだのの社会的影響に関しては議論しない。純粋に哲学上の問題として「インテリジェント・デザイン論」は科学的仮説として許容しうるかを検討するに過ぎない。
ただ参考までに。日本にいるとドーキンス等の憎悪についてまあまあ何もそこまで……と思うかもしれない。だがアメリカにおいてID論が公教育に取り入れられそうになった――それも進化論の異論として併記する形で。と聞くと「うわ……」となってちょっと気持ちがわかる人も、もしかしたらいるかもしれない。
哲学的検討の開始
ドーキンス等が行っているのは時計より複雑に見える、たとえば生物のシステムが、どのようにして「無目的に」達成されたのかの「とにかく大量の実例を挙げての説明」である。ドーキンスは「利己的な遺伝子」に代表されるように比喩が大好きなので「時計のアナロジー」に対しても「盲目の時計職人」と挑発的な表現を行っている。
何度、いつまでやるんだと言いたくなる熱心さでドーキンスらはこれを行っている。これはドーキンスがラディカルな無神論者、いわゆる新無神論者であるからでもある。
だが――哲学徒からしてみればこのドーキンスの必死の努力はピンとこない。具体的には「とにかく大量の実例を挙げての説明」にさほど説得的な意味があるとは思えない。これはドーキンス擁護だが、この大量の説明、私は大好きである。生物や環境や淘汰圧のかかりかたなどについてワクワクするようなセンスオブワンダーに溢れている。単純に読んでいて楽しい。大好きだ。だが論敵と戦うための武器として役に立つとはそんなに思えない。
哲学徒の戦い方は先述した。以下のとおりだ。
哲学徒の理解はこうだ。「時計は時間を確認するためにある」は正しい。「人が時間を確認する目的を持って時計を作ったこと」――この物理的に観察可能な事実が物理的な現象として確認できるからだ。
では「チョウセンメクラチビゴミムシ属のツシマメクラチビゴミムシ」というヤバい名前の生物が存在する(旧メクラウナギは今ヌタウナギと呼ばれているが、メクラチビゴミムシはそのままである。このあたりの伝統や考え方も面白いので調べてみよう!)ことに何か目的があるかと問われると、哲学徒はあっさり「ない」と答える。理路に大量の実例は用いない。いかなる論理の過程を辿るだろうか。
時計のアナロジーの破壊
哲学徒が認めないこと
「時計のアナロジー」を引用しながら確認してみよう。
「自然界を注意深く観察すれば時計より複雑なものが幾らでも発見できる」――本っ当にねちっこいタイプの哲学徒なら「複雑」の定義が蒙昧とかなんとか言い出すかもしれないが、とにかくこれは仮に正しいと認めよう。
「人体は時計より複雑である」これも仮に正しいと認めよう。
「時計は知性を持つ者により目的を持って作られた」これは仮にではなく「なにかはなにかのために作られた」という言葉の使い方に照らして正しい。
さて、今三つが仮にを含めて正しいことが確認された。列記しよう。
「時計のアナロジー」では以上3つを正しいと認めることで以下を導く。
哲学徒はこれを認めない。さあ、武器を次々に取り出していこう。
小学生の自由研究
「何かがあることが確からしいというためには、どんな条件が必要なのか」
小学生でも思いつく何かが確からしいと言うための方法には枚挙による帰納法が挙げられる(反証主義バージョンなども作ってよいが結局ID論は退けられるので於く)。以下のようなものだ。
ドーキンスはメチャクチャ嫌がるだろうが、この小学生は生き物を発見したとき、その機構が時計より複雑であると判断し知的デザイナーの存在を直観するとしよう。ちなみに、ここでは「全ての生物の機構は時計より複雑である」とインテリジェント・デザイン論に有利に仮定する。小学生でも思いつく手法はどのような結論を導くだろうか。
おわかりいただけただろうか。この方法で確からしいことが導かれたのは「僕は全ての生物について知的デザイナーがそれをデザインしたと直観する」である。
論点を過つことがないように更に強い仮定を行う。
「全人類は全生物について知的デザイナーがそれをデザインしたと直観した」
このおそるべき考えを哲学徒は正しいと仮定した。はっはっは、いくら「時計のアナロジー」を考案した神学者ウィリアム・ペイリーですら現実はこうではないと思っていたことだろう! 生命の複雑な機構を不勉強で理解できず、神の存在を直観できない不信心者は結構いっぱいいると思っていたことだろう!
だが筆者の仮定は違う。全人類はカタツムリが通常捕食者を避けて日陰を好むことを知っている。また、全人類はロイコクロディリウムに寄生されたカタツムリが通常の生態に反して日向に出てくることも、そのときのカタツムリの触覚内の色鮮やかなブルードサックが脈動しあたかもイモムシのように見えるような動きをすることも知っている。これによって鳥はカタツムリを啄み、ロイコクロディリウムは見事最終宿主に寄生することに成功すると知っているのだ! このとてつもなく複雑な機構を、全人類が知っている! そして、この事実から全人類が知的デザイナーの存在を直観するのだ!!!!
ウィリアム・ペイリーよりウィリアム・ペイリーに有利な仮定にしてやったぞ!! 喜ぶがいいIDer!
直観と事実
まず安心してほしいが本項では「全人類が知的デザイナーを直観しなくなる」ための啓蒙的方法を論述するのではない。「全人類が知的デザイナーを直観しているにもかかわらず知的デザイナーの存在が確からしくないこと」を導出するのである。まずは以下の思考実験を確認されたい。
以上の思考実験からは、全人類の直観にも関わらず地球の公転を認めるべきことが了解されるべきだ。IDerは即座に反論できるだろう。たとえばこのように。
さて、どのように検討すべきか。
そもそも論
哲学徒ならばそろそろ言いたいだろう。
身も蓋もない言い方である。もちろん次のようなことはあるかもしれない。
じゅうぶんにあり得ることだ。しかし上記④を支えるのは①ではなく③である。「知的デザイナー」の直観は①であり③ではない。よって④に寄与しない。
立証責任
そもそも論を言うなら「知的デザイナーがいない」ということを進化論者は証明してほしい。そうIDerは主張するかもしれない。だが残念ながらID論が科学を標榜する以上その要求はできない。
JSPS科研費17H01984、17K18673、21H00923などによる支援を受けて運営されているGijika.comに極めて簡潔かつ明晰な記載があるので、冒頭を引用するが是非全文を確認されたい。
進化論者に「知的デザイナーが存在しないこと」を証明する責任はない。逆にIDerは「知的デザイナーの存在を証明する適切な根拠」を提出しなければならない。それが科学である限り。
先に引用したとおりホモ・サピエンスには「目的論的推論」機能がある。この機能は実証研究により確からしさが確認されている。
「目的論的推論」はどのようにして「立証責任」を果たしたのか。「ヒトが目的論的推論機能を持つこと」が確からしいことを示すための実験を行い、説明を受けたものたちが確認を行い、当面は確からしいと合意がなされたのだ。
「目的論的推論」機能、覚えているだろうか。「山があるのは動物が登るためだ」と幼児が考えてしまうあれのことだ。
進化論者は「イシダイは知的デザイナーによってデザインされた」などと言われるたびにこの機能を思い浮かべながら、証拠をだせ証拠を、と思っているわけである。
アナロジーの幻想
以上により「時計のアナロジー」はそれ単体では何の力も持たないことが確認された。これで話は終わりだろうか。いやまだ終わらないのである。もう少しだけID論に寄り添ってみよう。
「標準的なダーウィニズム」が誤っているとしたら?
二者択一
生物学徒のよくある戦い方はこうだ。進化論の正当性を主張しながらID論を殴る。IDerも自身の正当性を主張しながら進化論を殴る。当然といえば当然だ。
だが、このように考えることもできる。
「仮に「標準的なダーウィニズム」が誤っているとき、ID論は正しいのか?」
検討してみよう。「標準的なダーウィニズム」が何を指しているのか非常に気になるだろうが気にしなくてよろしい。なぜ気にしなくていいかはすぐにわかる。
アナロジーによらないID論?
一例を日本語版の「GotQuestions」を参照して検討してみよう。本検討は以下を参照している。
「標準的なダーウィニズム」はここに登場したのだった。彼らが何を指してそう言っているのか気になるだろうか。たとえば「ネオダーウィニズム」のことだろうか。気にする必要はない。何を指していても本論の進行にさして影響がないからだ。
上記によればID論は3つの特徴を持つ。以下のとおりだ。
(1)においては
以上のような説明がされている。「眼球!? マジで眼球を根拠にするの!?」と進化論者はびっくりするかもしれない。勢いよく説明を開始しようとするかもしれない。諦めてほしい。本項では「標準的なダーウィニズム」は仮に誤っているとして進行する。
「うるせえ! 俺の唱える進化論は「標準的なダーウィニズム」とかいうやつじゃねえ! ってことにすればいいだろ!!」
やけっぱちの文句に聞こえるかもしれない。実はこれ。非常に重要な一言である。後に効いてくる。
文句を引っ込めてもらうかわりといっては何だが「眼球」や「視覚能力」と「意識」――特に「カルテジアン劇場(あるいはデカルト劇場)」の関わりを論じた著作を紹介する。
余談。「カルテジアン劇場」(脳において統合的な位置にいる「私」)といい、ちょっと可哀想になるくらいデカルトは分析哲学者に殴られがちな印象がある。私も物理主義者なのでデカルトを殴ったことは一度や二度ではなく、これからも議論の必要に応じて殴っていくのだろうが本当に気の毒だ。デカルトはその時代の水準からして見事な知的営為を果たした偉人賢人であることに分析哲学者も異論はないだろうが、本当に殴られやすい位置に居るのでぶん殴られる。何なら科学者からも殴られる。
デカルトの二元論、それからルソーが唱えた原始人はたいへん殴られがちだ。進化生物学者、ルソーとホッブズを両方殴るがルソーを殴る方に若干より力が入ってる印象ある。かわいそ……でも我々は敬意を持って殴っているのでどうか許してほしい。ルソーもホッブズも両方ホモ・サピエンスの本性を適切に捉えていないことは事実だが、まあどっちが感情的に好ましく思うかとなると私もホッブズだ。「人間不平等起源論」を読みながら失笑していたのを覚えている。それ以来私はルソーを軽視していたが「孤独な散歩者の夢想」の描写がなかなかに美麗だったので今はその点敬愛している。翻訳がよかったのかもしれないが。それはそれとして。ハイデガーを殴りまくっているときの分析哲学者に敬意はあるか――ノーコメント。 無が無化してきた……
閑話休題。「標準的なダーウィニズム」が誤っていた場合のID論の話だ。巻いていこう。(2)(3)は詳細に記載しない。(2)は「特定の事実を「標準的なダーウィニズム」」は説明できない」、(3)も「特定の事実を「標準的なダーウィニズム」」は説明できない」で総括できる。生物学者ならば具体的な中身を見て戦い出すだろうが、哲学徒にはこれで十分だ。任せて欲しい。具体的事物でなく形式と論理で殴ることには慣れている。(1)~(3)、全部殴るために必要な形式が同じなので上記のページに記載されたID論を哲学的にぶん殴るのに必要な情報を以下のようにまとめよう。
文字数カウントしたところGotQuestionsによるID論の正当性の説明は1800字程度のようだが、哲学的に破壊するのに必要となる情報は上記①②のとおり精々45文字で十分である。
誤った二分法
IDerも進化論者と殴り合い続けて好い加減疲れすぎているのかもしれない。「標準的なダーウィニズム」さえ打倒すればID論の正当性が確立されるのだと闘争に疲れ果てた体に鞭打つために何とか己を鼓舞しているのかもしれない。そこに陰険極まりないな哲学徒が殴りかかる。
IDerは疲れているのだ……きっと……。あまりにも長きにわたる進化論者との殴り合いで頭が疲れているのだ。あるいは進化論者がIDerの頭を殴りすぎたのか? でなければ①から②を導出して終わりの稚拙な論述をするはずがない。
小学六年生くらいならこの論証がいかにバカげているかわかるのではないか。バカにするなと痛罵されたら謝罪する。筆者は小学五年生以下の知性を侮りすぎているかもしれない。実験哲学徒ならばともかくたいていの哲学徒が最も詳しい事物に関する知識は自分が座っている椅子と向かっている机に関してであり、小学生の知性についての実証調査にあまり強くないのだ……許してほしい。
稚拙すぎて筆者が何か述べるまでもないかもしれないが述べる。
もう上だけで十分だと思うのだが、そして細かく述べれば述べるほど悲しくなってくるが、他にも具体例を挙げて確認しよう。以下の主張は上の「論理必然的には導出しない」という適切な主張の一例だ。そう、一例なのだ。IDerの主張がメチャクチャすぎて一例どころかいくらでも出せるのでどの方面から何発殴ればいいのかわからない。
とにかく以下が論理的に可能だ。この叫びを覚えているだろうか。
「うるせえ! 俺の唱える進化論は「標準的なダーウィニズム」とかいうやつじゃねえ! ってことにすればいいだろ!!」
これを形式化するとこうなる。
「標準的なダーウィニズム」が何を指すかは知らないが、進化論者にも様々な立場がある。その一つの立場である「標準的なダーウィニズム」が撃破されたと仮定してもそれ以外の進化論的立場はまだ生きている。
「標準的なダーウィニズム」が撃破されたから即「ID論」が成り立ったと考えるのは尚早に過ぎる。IDer、進化論者と殴り合って疲れたことだろう……だが全ての進化論を倒してもいないのに終わったと考えるのは思い上がりもいいところである。
……以上の一例は進化論者の側に立った一例だ。先述のとおり哲学徒が言いたいのは下記に尽きるのだ。ここからいくらでも話が汲み出せる。ほんとにこれをなんとかして欲しい。
進化論者には本当に悪いが、哲学徒による殴打の意味をより正確に理解してもらうため進化論には仮に全員死んで貰う。
進化論を全部ぶっ倒すとID論が成り立つか。成り立たないのだ。
言い方を変えよう。
まだわかりにくい。次だ。
「生物についての二分法仮説」は正当化されていない。よって「標準的なダーウィニズム」ではなく「進化論に属するあらゆる説明」を否定するという形で論述を行っていたとしても、GotQuestionsの論証は誤っているのである。
このような誤謬を「誤った二分法」と呼ぶ。
ちなみに、誤っていない二分法による考え方は次のようなものである。
筆者を妙な箱に閉じ込めて生と死の重なり合わせ状態にしようとするやべーやつを除外できるよう書いたつもりだが大丈夫だろうか。疲れすぎてシュレディンガーの猫という言葉が浮かんで来ず、「猫 放射性」でググった筆者の疲労を察して欲しい。
時計のアナロジーによらないID論の課題
以上の論述から確認されたが、ID論者は進化論者を殴ることのみに腐心してはならない。ID論自体の確からしさを確証せねばならない。なお、進化論にかかわらず現在「デザイン的な意図」をもって物理領域に影響を与えている知的デザイナーの存在は通説として擁護されていない。
現在の自然科学の手続きは物理領域が因果的に閉じていることを当面の前提としている。ID論者は自説の確からしさの証拠を集めつつ、自然科学の前提を破壊し自然科学者全員と戦争する覚悟を持って欲しい。自然科学者は頑迷な迷信に縛られてはいないので、適切な証拠と理論があれば喜んでID論に対して開かれるであろう。
補遺「隙間の神」と「新奇な予言」
誤った二分法を避けて議論することもできる。次だ。
①を擁護には先に出てきた方法が用いられるであろう。
これは極めて強い主張である。この主張が物理主義を粉砕するためには、次が要請される。
ID論は科学であるからIDerはこの立証責任を負う。少なくともIDerにはこの用意がない。だからIDerはこう言うだろう。
除外して、以下の状況を想定してみよう。
①のとき、②と③いずれを採るべきだろうか。
さて、この場合まだ哲学徒に言えることがある。ある。この状況に対しては簡潔にこう言い切ることができる。それは「隙間の神」だ。
③がやっていることは「未知という空間に知的デザイナーを押し込んでいる」に過ぎない。「まだわかってないですね」は「知的デザイナーがやりましたね」と言っていることが変わらないのである。それが嫌なら「未だ構築されていない未知の理論を含めて」物理主義を破綻させればいい。
方法はもうひとつある。ID論を用いて「新奇な予言」を立てて次々的中させてみせることだ。誰もが知っている「元素周期表」を作成したメンデレーエフは周期性に着目して「当時発見されていなかった数々の元素の存在を予言し、実際に彼の予言は的中した」(例:彼が周期表に基づいて予言した「エケカイ素」は「ゲルマニウム」として発見された)。
よって、やってみせればいい。ID論を用いた「新奇な予言」を。そして次々的中させればいい。ID論の確からしさはそれにより飛躍的に向上するだろう。だが、ID論は「あれは説明できないから知的デザイナーが要る」「これも説明できないから知的デザイナーが要る」に終始し、現状「隙間」以上の何の意味も持たない。
自然法則と共存する知的存在
自然法則を作って以後物理領域に影響を与えない神であるとか、自然法則そのものである神であるとかを考えることができる。もちろんこれはインテリジェント・デザイン論とは敵対する立場だ。このような神について物理主義者、無神論者がいかに棄却しているかについては既に以下noteにおける「物理領域に影響をおよぼさない神を信ずべきか?」で検討したので興味があれば確認されたい。
ここまで来るとドーキンス寄りの方などはグールドの唱えた「NOMA(重複することなき教導権)」への検討も要求されるかもしれないが、筆者は「自然科学がどうあるべきか」については興味があるものの「宗教はどうあるべきか」についてはあまり興味がなく、許されたい。筆者は無神論者ではあるが、新無神論者ではないのである。新無神論者の方々は、子供など実際に苦しんでいる人を挙げながら立ち上がるべきだと述べるかもしれないが、筆者は心身虚弱で政治的営為に積極参加する体力も気力もないので許されたい。追補するならば、筆者は正義や倫理や徳や法の議論に強く興味を惹かれるが、それは知的興味に限った話であり筆者個人は全く有徳な人間ではない。ぼんやりと世界が幸福でみなの選好が満たされればよいなとは思っているが、そのために積極的努力をするつもりは毛頭ない。
カモノハシは創造論者の悪夢か?/ミッシングリンクで進化論者が黙るか?
カモノハシが「創造論者の悪夢」などと俗に言われることがあるが、カモノハシを見て悪夢に魘される創造論者など相当にレアであろう。逆に「ミッシングリンク」と言われて恥じ入って黙り込む進化論者がいるだろうか。もううんざりするほど実例を挙げまくりながら論争をしているだけである。筆者が哲学的・形式的議論に終始したのはそのためである。
生物はとても複雑だ。博物館でそれを見た進化論者が「ああ! これを見ればIDerは進化論者に転向するだろうに!」と言いIDerが「ああ! これを無視しなければ進化論者はID論の正しさを認めるだろうに」と嘆く。進化についての議論だって非常に込み入っているし、進化論者内部ですら議論が紛糾する。そんなフィールドで殴り合ってもメチャクチャなことになるだけだ。
一方で哲学的・形式的な議論に要する情報・知識の量は偉大な生物と地球の流れに比べれば芥子粒のようなものだ。誤解や混乱の生ずる余地がたいへん改善されることが期待される。以上の動機から、筆者は本論を作成することとした。
なお、この動機にもかかわらず、筆者はこのような検討が進化論とID論の戦いについてほぼ何らの寄与もしないだろうことを予見している。
ただ、ドーキンスらの著作を読んで筆者は楽しかったし考えを整理することもできた。筆者は世界をよくしようと全く努力できていないからそこから派生する成果はないだろうが、それでも筆者がセンスオブワンダーを楽しめたという事実は存在し、これらの著作に感謝している。つまり、本論が世界に何ら影響を与えられなくても、ひとりかふたり。思考の整理の道具として本論が何かの役に立てば筆者はそれでしあわせである。
おわりに、虹の解体
最後に。知的見地における筆者とドーキンスの相違を明確にしておきたい。
詩人ジョン・キーツは「ニュートンのプリズムによるスペクトル発見が虹の詩情を破壊した」と述べ、ドーキンスはやはり挑発的な著作「虹の解体」で猛烈に反駁を行っている。
ドーキンスは要約すれば科学の発展はセンスオブワンダーを生み、それは詩情の源泉となると反駁している。筆者は哲学徒としてこれに代表されるようなドーキンスの啓蒙的発言に全く与しない。
まず「詩情」の定義が明晰でない。キーツの言う「詩情」とドーキンスの言う「詩情」の意味するものが異なれば、ドーキンスの慰めなどキーツにとって何の意味もない。ドーキンスは自分に都合の良いように「詩情」を定義し、その自分に都合の良い「詩情」の定義で適切な調査もなさずに結論をくだし、キーツを論破した気になっている。こんな雑な議論をしているから創造論者とまともに話にならないのである。
適切な検討法はいくつか考えられる。まず「詩情」の概念に踏み入らないパターン。虹の仕組みを知らない人に対して、知る前と知った後での「詩情」の変化を段階評価による質問紙調査等で定量調査すること。簡単に言ったが、適切な質問文の作成だけでも容易な仕事ではないと思われる。
次に「詩情」について脳内における何らかの処理など物理的に計量可能な定義を行い、測定調査をすることである。もちろん、そもそもどのような定義を「詩情」に対して行うのかというところから極めて難問である。
さらに、これらの調査を経て得られるのは「現代人が主観的に持っている詩情に関する理解」か「アカデミアが定義した詩情の変動傾向」である。キーツが言っている意味での「詩情」について検討しなければ、本人を論駁したことにはならない。
ゆえに、哲学徒としてキーツに適切に反論するならば「検討不能、意味不明な文章である。主張の正当性について説明する責任はキーツにあるが、キーツは死人である。現代科学の方法で死人のキーツのこの記述を適切に明確化する方法はない。よってキーツのこの記述は知的見地からは検討に値せず、仮に文学的価値があったと認めても、検証可能な知的意味を含む文章としては取り扱えない」である。
教育的な母親が息子を指して「我が子は元々虹が好きだったが、ニュートンによる虹の解体を知ってそれ以上に知的興奮を得ているようだった」などと言ったとしよう。そこから得られる知識は「ある母親が、息子についてニュートンを知る前から虹が好きだったと認知しており、かつニュートンによる虹の解体を知って以降それ以上に知的興奮を得ているようだったと認知した」というものだけである。「昨日この町では雨が降りました」レベルの情報でしかない。ホモ・サピエンスの本性的傾向調査のエビデンスとしてはまるで使い物にならない。(もちろん、それが調査研究の動機にはなるかもしれないことまでは筆者は否定しない)。
筆者は総じてドーキンスを敬愛しているが、無神論者や科学の徒を勇気づけ、これから学ぶ人に学びの楽しさを伝え、宗教的な人々と対決しこれを根絶しようと努力するあまりしばしば論証の精細を欠くきらいがある。好意的に見てこれはドーキンスの味方への鼓舞と敵への攻撃のための政治的振る舞いなのであろうが、少なくとも知的に誠実ではない。名著「神は妄想である」にもしばしば見られる傾向だが、ドーキンスのこういったところは知性を愛する人間として尊敬できない。
たぶんドーキンスは今も流れる血を思って同意しないだろうが、私の立場はこうだ。
流れる血や苦しみやその他様々な悲惨の前であっても知的誠実さを欠くべきではない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?