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”こう”なることがわかっていたので「ルックバック」を観るまでに一ヶ月かかった

こんばんは。

映画を観てきた。

タイトル回収。


6/28に上映が開始されたのだけれども、普段行っている映画館で上映がされないという手厳しい仕打ちを受けていた。
と言っても、徒歩20分くらいには上映をしている映画館があるのでそこに行けば良かったのだけれども、何分初めて行く場所だったので勝手にハードルを高くしてしまっていた。
上映開始の時期が忙しかったりもした。

と、理由をあげればキリがないのだが、一番の理由は内容を忘れてから観に行こうと決めていたからである。
そもそも短編(中編?)作品なので話を忘れるも何も、展開までしっかりと覚えてしまっているくらいなのだが、基本的に小説・漫画などの原作を知っているうえで映像作品を観ることができないたちなのだ。逆もまた然り。
そうです、私は新鮮味でしか作品を楽しむことができない哀れな人。


ただし、映画にも上映期間というものがあるので当然上映している間に観ないといけないのも確か。
わかる人にはわかる事項というか、もしかしたら調べればわかるのかもしれないが、上映している映画館も多くないし、一ヶ月くらい経つと一日の上映本数も減ってきてしまうのかなと思い始めたのでもう観てしまうことにした。
つらつらと書いてしまったけれども普通に忙しかったのがひと段落して余裕が生まれただけかもしれない


ネタバレしか書かないので注意。

原作既読なので展開は大まかにはわかっている。

主人公は学校の新聞で四コマ漫画の連載を任されている小学4年生の藤野という女の子。
クラスメイトからは絵が上手いことを絶賛されており、絵に関しては自信を持っていたのだが、ある時、京本という不登校の人物に4コマの枠を分けて欲しいという打診を先生から受け、しぶしぶ了承をする。
次の月の新聞ではその京本の4コマ漫画が掲載されるわけだが、画力の高さに衝撃を受け、極めつけには隣の男子に「こう見ると藤野の絵って普通だな」という心無さすぎる一言を浴びることになる。

その出来事や京本に敵わない自分を鑑みて、藤野は小学6年生のある時期に漫画を描くことをやめてしまう。


絵を描くことから離れていた藤野だが、卒業証書を京本に渡しに行くという出来事を経て、二人は出会い、それからは二人で協力をして漫画を描いていくことになる。
ストーリーやキャラデザは藤野、背景は京本のタッグだ。
バクマン味のある共同作業だね。
才能迸るタッグは中学生の内から雑誌への持ち込みで佳作の賞をもらい、17歳の時点で七本の読み切りを載せるまでに至る。化け物だね。

あらすじはこんなところだろう。
感想を書く上であらすじは必要ないかもしれないけれども、自分の中で話の整理のために必要不可欠だ。



当時は京アニの事件と重ねながら読んでいた部分が強く、それは印象として今でも忘れることはない状態で映画を観たわけだが、観てから思ったことがあったので書き留めておく。

さて、まずは何かひとつを極めるというか突き詰めることへの勇気づけを貰った次第である。

ANN0の佐久間さんも言っていたけれども、何か努力をしてきた人に刺さるというのは間違いないだろう。

前述した通り、藤野という主人公は京本の圧倒的画力に驚愕するのだが、すぐに絵を描くことをやめてしまうわけではない。

小学4年生にも関わらず、絵に関わる技術の本を購入したりしてひたむきに努力をし続けるのだ。藤野自身としては画力の点で京本に追いつけないことを悟り、筆をおくのだが、京本にとってはストーリーの面などで憧れだったのだろう。
卒業式の際に藤野が初めて京本と出会った時には京本から「先生」呼ばわりをされ、サインを求められるほどの出来事に繋がっていく。
隣の芝生は青いみたいなことなのだろうか。

藤野としては嫉妬していた京本に尊敬されていたことを知り、舞い上がっていた。
雨の中を駆け抜けるシーンは印象的だ。
でも、それくらいというか、尊敬していた人物に褒められると駆けだしたくなる気持ちは十分にわかる。
あれは良い場面だった。


また、「ルックバック」において、挫折は重要であろう。
主人公が京本の絵に驚愕して絵をあきらめたように、私自身を振り返ってみても重なるというか、思い当たる節が多々ある。

現在、自分はサラリーマンとして働いているわけであって、当然何者でもない。
子供の頃はサッカーをしていたが、サッカー選手になっているわけでもないし、今までに色々な趣味に手を出してみたが、あまり続いていない。
もとより長続きしないタイプなのである。

学生の時には自分より上手な選手なんて山ほどいた。高校ではサッカーから逃げてしまった節もある。

もとより、アニメ・漫画が好きだったので絵に手を出したこともある。
主人公のように本を買って、iPadを買って、外堀を固めて、そして、長続きはしなかった。
絵が上手い人だってネットにはごろごろいるわけで、それと比較して自分がちっぽけな気がしてやる気が失せてしまった。





それでも、未だに自分の中で「何者かになりたい」という意思がある。
いや、誰しも持っているのではないだろうか。

先ほど努力の話をしたが、自分の場合は登場人物ほどに熱中はできておらず、そう考えると挫折といえるほど努力できていることなどほとんどない。居酒屋で「俺、ビッグになりたいんですよ!」と夢を語っているのと同等である。だから自分はMOROHAが好きなんだろうな。

何かを成し遂げるためには色々なものを犠牲にしてまでも努力をしていく必要があるわけで、自分は全くそんなことはできていない。

社会人として働く中で「このままで良いのだろうか」と思っている中で、やっぱり、再度行動してみたくなる気持ちにさせられた。


こうやって、熱い気持ちにさせられるのはわかりきっていたんだよな。


自分はエンタメに関わる仕事で働きたい。
アニメ・漫画・ラジオを消費することで人生において豊かさを得ているわけだけれども、やはり、自分自身としてはそこに携わりたいという気持ちにさせられてしまった。

何かを始めるには遅いかもしれないけれども、それでもこの作品のように何かに没頭するくらい取り組まないといけない。

影響されやすいので、この手の作品を観るたびに感化されては、それでも今日を生きていくたびに平凡な日々を送っている。
でも、一度きりの人生だからこそやりたいことを突き詰めた方が良いのではないかと思うんだ。
だから自分はMOROHAが好きなんだろうな(重複)



最後に、この作品の中で不条理な死という重要な結末がある。

京本は若くして殺されてしまうのだ。


殺された後にifシーンとして、京本が殺されない世界線が流れるのだが、漫画を読んでいる時に、「このまま助かって欲しい。何なら次のページでは生き返ったりしていないかな」なんて思った記憶がある。

しかし、作品上でも京本はやはり死んでいるのだ。
死んだ人が生き返らないのは当たり前である。

私はまだ本当に近い人を亡くした経験がない。
両親や小学校の頃からの友達が亡くなるというのはまた違った悲しみがあるのだろう。

そのようなことは今後当然起こり得るわけだが、それでも作品中の主人公である藤野と同様に生きていかなけねばならない。

作品としても自分に重ね合わせても切なくなってしまうテーマであった。



映画館から歩きながら帰っている時にはもっと簡潔な一つの感情があったはずなのに、文章に書き起こそうとした結果、2時間PCに向き合い、しかも内容がまとまらずに書きなぐりのようになってしまった。
今度は帰る前に公園とかで書こうかな。


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