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木を見るか、森を見るか

先日、仕事で茨城に訪れることがありました。
ふと思い立って、早朝の日立駅に赴きました。

知っている人もいるかも知れませんが、日立駅は「海の見える駅」として紹介されたスポットです。

駅の通路のつき当たりには、ガラス張りの展望スペース。
水平線の先、朝日が登る様子を見ることができるので人気なんだとか。

かく言う私も、その様子をひと目見たくなってしまった一人でした。

時節柄、そして私の性格上人が多いと嫌だなぁなんて思いながらまだ暗いメインストリートを歩きます。

駅について早々、長い通路の先にいくつかの人影が見えました。
あぁやっぱりかと思いつつ、引き返すのもなんだか癪なので海のほうへと歩きます。

ガラスまで近づくと、やはり何人かがガラスに張り付き、遠くをじっと見つめています。

なんだかその中に混ざる気にはなれなくて、少し手前から、ガラスと藍色の海と、人だかりを見ていました。

数分後、太陽はあっさりと昇ります。

ちょっとした歓声が上がり、少し遅れてシャッター音が響きました。

私も太平洋越しの光を見て、あぁたしかにきれいだと思ったのですが、あることに気が付きます。
誰もがガラスに張り付き、遠くに見える日の光をなんとかストレージに残そうと必死だったのです。

なんでもない水曜日の太陽。
写真を撮るとみんな満足そうに去っていきます。

なんだか違和感。

でもよく考えて見れば1月1日の朝日も、1月2日の朝日もそう大して変わらないはずです。

反対に、4月某日の朝日に価値がないだなんて決めつけるのは浅はかでしょう。

少しだけ、自分を恥じました。

でも、誰も駅と海と朝日のコントラストを見ようとしない。
ちょっと不思議です。

海の見える駅に、本当に海だけを見にくる人がいるのでしょうか。

多くの人々にとって、海は非日常な場所です。

そんな海のそばに、駅という日常の象徴が佇む。

いわば日常と非日常の同居。
これこそが海の見える駅の「よさ」なのではないのでしょうか。

ここまで考え、きらめく海に視線が行き着いたとき、私は気付きます。

いや、これは絵だ。

簡単なことです。
この景色は美しい額に縁取られた一枚の絵なのです。

それを目の前にして「よさ」を語ることほど無粋なことはありません。

額縁から絵であるとみなして少し距離をとって楽しむのも、近くに寄って絵の中の光景に惹かれるのも、どちらも鑑賞のあり方なのです。

「木を見て森を見ず」とは言いますが、美しいものを愛でる際にはどこを見たっていいのです。

枝を見るのも、なんなら何も見ないのだって。

また少し、自分を恥じました。

人だかりを眺める私もまた、ひとつの絵の中にいるのかもしれない。

そう考えると目の前に広がる光景と、人だかりが途端に意味ありげに見えてきました。

そんな午前5時10分でした。

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