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博多祇園山笠2024(2)飾り山笠巡り

博多祇園山笠の中でも、市内13か所で公開される今年(2024年)の飾り山笠やまをどどーんと紹介します。(八番山笠・上川端通については舁き山笠編にて紹介済みです)
説明文はすべて、博多祇園山笠公式サイトからの引用です。

◎ すべての飾山笠の写真を公開しています。



二番山笠 東流

表・見送り共に) 御伽話おとぎばなしかぐや姫

東流 表
東流 見送り

現存する日本最古の物語といわれる「竹取物語」は今もなお大変親しまれている昔話です。雅な天上界の女性への憧れと畏れを描いた物語を豪華絢爛に表現しました。光り輝くかぐや姫の姿は、世の中を明るく照らす標として輝き続け、後世に受け継がれていきます。東流の伝統も後世に繋いでいけるよう、一致団結し、無事に山笠を奉納して参ります。

(人形師:白水英章)

三番山笠 中洲流

表) 奇襲桶狭間きしゅうおけはざま

中洲流 表

永禄三年五月十九日(一五六〇年六月十二日)織田信長軍と今川義元軍との合戦東海の覇者今川義元が上洛の足がかりとして尾張の織田領内に侵攻今川軍(二万五千)は順調に数々の戦い勝利し大いに悦び桶狭間で休息をとっていた。昼すぎ視界を妨げる程の豪雨が降り織田軍(一千)はこれに乗じて手薄な義元軍に奇襲をかけた。油断していた今川軍は混乱し逃走。今川義元は自ら太刀を抜いて応戦したが、毛利新介に討ち取られた。大将を失った今川軍は敗走し不利といわれた戦を征し天下に織田信長の名が轟いた合戦であった。

(人形師:溝口堂央)

見送り) 能登等伯天賦才のとのとうはくてんぶのさい

中洲流 見送り

戦乱の世に生まれ、幾多の困難に見舞われながらも自らの手によって天下一の絵師へと登り詰めた長谷川等伯(一五三九~一六一〇)。現在の石川県七尾市に生まれた長谷川等伯は、はじめは春信(はるのぶ)と名乗り、主に仏画を描いて活躍しました。やがて三十代で京に上ると仏画、肖像画、山水花鳥画などさまざまな題材に取り組み、時に繊細に時に大胆に筆を走らせ時の関白豊臣秀吉、千利休らに重用されて時代の龍児となりました。
また同時代に安土城や大阪城の障壁画を描いた稀代の天才、狩野永徳というライバルの存在も等伯の人生に大きな影響を与えました。
その後、水墨画の最高峰と称えられる国宝「松林図屏風」を描き、七十二歳で没するまでに描き続けた長谷川等伯の人生は現代に生きる私たちにも勇気と希望を与えてくれます。
今年の一月一日に起きた能登半島地震による被災地の復興はまだ叶っていませんが、能登の生んだ天才に焦点を当て遠く博多の地から被災地に対し微力ながらエールを送る思いも込めて飾り山笠を制作、奉納させていただく所存です。

(人形師:中村弘峰)

八番山笠 上川端通

▶▶▶ 舁き山笠編にて紹介

九番山笠 渡辺通一丁目

表) 真田十勇士さなだじゅうゆうし

渡辺通一丁目 表

大坂の役において、徳川家康を覆いに悩ませた西軍の武将真田幸村、そしてこの勇将を支えた伝説の十人の家臣たちのの物語。

(人形師:中野親一)

見送り) 愛と勇気のアンパンマン

渡辺通一丁目 見送り

(人形師:中野浩)

十番山笠 福岡ドーム

表)美破鷹之誉びばたかのほまれ

福岡ドーム 表

美とは、目標に挑み続ける情熱。
美とは、真摯に努力する姿勢。
美とは、期待を背負う覚悟。
輝くピースが一つに集まり、勝利の光へ突き進む。
どんな高い壁も打ち破っていこう!

(人形師:中野浩)

見送り) 武魁神剣誉ぶのさきがけしんけんのほまれ

福岡ドーム 見送り

天照大神の弟・須佐之男命は天岩戸の一件で多くの神々の相談で高天原を永久追放となり、出雲国・斐伊川上流の鳥髪へ降った。人家を求め上流へ上っていくと若い女を挟んで老父母が泣いていた。訳を聞くと三人は夫婦の足名椎・手名椎と娘の櫛名田姫で、八つの頭と八つの尾を持つ山よりも巨大な八俣大蛇と云う怪物が毎年やってきて苦しめられていると涙ながらに語った。須佐之男は大蛇を退治して三人を助け、姫を嫁に貰うことにした。まず八つの甕に強い酒を用意をさせ、大蛇にそれを飲ませ酔わせてから十握の剣と云う長大な剣で八つの頭や尾をバラバラに切り裂いた。その時、内側の尾を切りつけた時に剣の刃が欠けた。あやしんで切り開いてみると中には都牟刈之大刀があった。この太刀を天照大神に献上し、三種の神器の一つ草薙剣と云う。

(人形師:川﨑修一)

十一番山笠 博多駅商店連合会

表)商都博多偉人伝しょうとはかたいじんでん

博多駅商店連合会 表

商都博多の基礎を築いた中世博多の三大商人、「博多三傑」(島井宗室、神屋宗湛、大賀宗九)を取り上げます。近年の博多商圏の発展に照らして、「まちづくり」の先達としてその功績を改めて振り返るとともに、今年の干支の「辰」を配し、益々の商都の発展・隆盛を祈願して奉納します。

(人形師:田中勇)

見送り) ワンピース

博多駅商店連合会 見送り

大人気の国民的アニメ「ワンピース」。時は大海賊時代。麦わら帽子をトレードマークに海賊王を目指す少年モンキー・D・ルフィは、戦闘員のロロノア・ゾロ、航海士のナミ、狙撃手のウソップ、コックのサンジら麦わらの一味と共に「ひとつなぎの大秘宝(ワンピース)」を求めて、様々な冒険を繰り広げます。今後の福博の子供たちの豊かな冒険心の創出・発展を祈願して奉納します。

(人形師:西川直樹)

十二番山笠 キャナルシティ博多

表)刀伊入寇隆家勲といにゅうこうたかいえのいさおし

キャナルシティ博多 表

約千年前の平安時代一○一九年、大陸で刀伊と呼ばれた女真族が海賊となって九州・博多に攻め寄せた。藤原道長によって大宰権帥に左遷されていた甥の藤原隆家は、公卿では珍しい「さがな者」と呼ばれた武闘派で、隆家自ら九州武士団を率いて熾烈な戦いを繰り広げ刀伊を撃退した。隆家と九州武士、刀伊の一団、危機感の薄い京の藤原道長を表現します。

(人形師:川﨑修一)

見送り)光源氏胡蝶舞宴ひかるげんじこちょうまいのうたげ

キャナルシティ博多 見送り

源氏物語二十四帖に登場する「胡蝶」の巻をテーマに制作しています。光源氏三十六歳太政大臣の時に催した春の宴に登場する唐風龍頭鶏首船と童胡蝶の舞姿や雅楽の楽人を配し、紫式部と光源氏が見守る中、平安時代の優雅な世界を表現します。

(人形師:室井聖太郎)

十三番山笠 川端中央街

表)八俣遠呂智やまたのおろち

川端中央街 表

高天原を追放された素戔嗚尊は出雲の国で一人の娘と父、母が泣いているのを見つけました。泣いている理由を尋ねると「8つの頭と8本の尾を持つ八俣遠呂智という怪物が毎年一人ずつ娘を食べに来るのです。今年は最後の娘である櫛名田比売も食べられてしまう」と言うではありませんか。それを聞いた素戔嗚尊は八俣遠呂智退治を決意します。 お酒が大好きな八俣遠呂智にがぶがぶお酒を飲ませ、酔いつぶれて眠ったところを素戔嗚尊は切り刻んで退治しました。その後素戔嗚尊と櫛名田比売は出雲で幸せに暮らしました。

(人形師:中野親一)

見送り)つくろう、ユニークな未来。

川端中央街 見送り

 福岡の地でKBC九州朝日放送が創業して70年。放送局として初めて、博多祇園山笠「追い山笠」をテレビ放送したことをはじめ、数々の地域文化を福岡の皆さまとつくってまいりました。創業以来、KBCグループのあゆみは常に、地域の文化や人々の熱気とともにありました。伝統を守りながらも、日々新しいムーブメントが生まれる、誇りと活気にあふれるこの街。私たちが愛する、福岡という熱量の高いこの地域のユニークさを、さらに伸ばしていきたいという思いから生まれたのが、KBCグループのブランドコンセプト「つくろう、ユニークな未来。」です。
地域のあしたを、豊かに、元気に。KBCグループはこれからも、放送の枠にとどまることなく、人と地域をもっと元気にする「ユニークな未来」をとどけていきます。

(人形師:中野浩)

十四番山笠 ソラリア

表) 黒田鍋島天神大普請くろだなべしまてんじんびっぐばん

ソラリア 表

慶長年間、黒田長政ながまさが福岡城を普請(工事)した際、関ケ原で西軍についた鍋島家を黒田長政が徳川家康に執り成して東軍につかせたことに感謝し、肥前佐賀藩の藩祖である鍋島直茂とその子で初代藩主の勝茂が、感謝の意として今の天神地区から福岡城に向かって堀を普請しました。それは「肥前堀」の名で知られ、今の福岡市役所の西側からソラリアプラザ一帯の場所にありました。那珂川から福岡城、その先の大濠に至る東西の濠の完成により都市の開発軸ができ、城下町福岡の発展の礎となりました。
その「肥前堀」は1910(明治43)年におこなわれた大博覧会「九州沖縄八県連合共進会」の会場設営の為に埋め戻され、それに合わせて開通した路面電車とともに街を大きく発展させるきっかけとなり、日本有数の近代都市福岡の始まりとなりました。
「肥前堀」の大普請は、今の天神地区の繁栄の大元である大事業として位置付けられる歴史事象です。

(人形師:置鮎正弘)

見送り) 菅公西下創造多故事かんこうのさいかおおくのこじをうむ

ソラリア 見送り

菅原道真公は宇多天皇に重用され、次の醍醐天皇の元では右大臣にまで上り詰めましたが、時の左大臣であった藤原時平の讒言により、延喜元(901)年1月に大宰府へ大宰権の帥として左遷させんされることとなり、味酒の安行など少人数の伴連れのみで冬の瀬戸路を西下して博多の港に辿り着きます。道真公の西下は各地にたくさんの伝承を遺し、その故事にちなんだ各地の天満宮が今でも各地で信仰を集めています。
かつてソラリアプラザにほど近い薬院新川(旧四十川)の畔の中央区今泉(旧庄村)には、道真公が川面に己の姿を眺めた故事による容見天満宮(又は四十川天神)がありました。慶長17(1612)年に福岡藩初代藩主・黒田長政が城下を造営する際に、現在の中央区天神一丁目に社を移し「水鏡天満宮」としました。福岡の中心地「天神」の地名は、この天満宮に由来します。

(人形師:西山陽一)


十五番山笠 新天町

表) 武門之棟梁清盛ぶもんのとうりょうきよもり

新天町 表

平清盛は、平安後期に最初の武家政権を築いた英傑である「保元の乱」で戦功を挙げ、大宰府政庁長官級の官位を得て、博多を掌中のものとする。清盛は博多商人を通じた日宋貿易を押し進め、財力。や権威は飛躍的に高まった。京での騒乱は続き、「平治の乱」(1159年)が起こる。武家の最高実力者である清盛は、隙を突かれるが、反転攻勢に出る。二条天皇は清盛の屋敷がある六波羅へ避難。藤原信頼、源義朝方が攻め寄せたものの清盛は全く動じない。黒糸威鎧を着込み、黒馬にまたがった堂々たる姿で味方の動揺を鎮めた。一方、清盛の嫡男・重盛(博多松囃子は重盛への報恩が起源)が活躍。馬を矢で射られ落馬しながらも、堀川の材木の上に降り立ち奮戦した。 今年2月、国は旧冷泉小学校跡で見つかった石積遺構(博多遺跡)を国史跡に指定。日宋貿易の港湾拠点であり、清盛の業績の大きさを伝える遺構だ。本年は節目の年に博多の隆盛を支えた恩人への感謝を込めた標題である。

(人形師:小副川太郎)

見送り) サザエさん

新天町 見送り

長谷川町子先生原作「サザエさん」。温かさと楽しさ、そして平和な家族の代表のように誰からも愛され親しまれております。

(人形師:小副川太郎)

十六番山笠 博多リバレイン

表) 日本振袖始にほんふりそではじめ

博多リバレイン 表

「日本振袖始」は、古事記・日本書紀に記された出雲の八岐大蛇伝説をもとに近松門左衛門が書き上げた演目です。
出雲国の山奥に八つの頭をもつ大蛇・八岐大蛇が住みついていた。村人はその祟りを恐れ、生贄として毎年一人ずつの美しい娘を差し出していた。大蛇は岩長姫の姿をとり、この年の生贄である稲田姫を襲おうとする。しかしふと酒の香りに気付くと、先に八つの甕に入っていた酒を飲み干し、最後は稲田姫も飲み込んだ。そこに稲田姫の恋人である素戔嗚尊が駆けつける。素戔嗚尊は過去に、大蛇に十握の宝剣を奪われていた。大蛇を退治するため、素戔嗚尊は前もって八つの甕の酒に毒を仕込んでいた。毒酒に酔った岩長姫は大蛇の本性を表すと、素戔嗚尊と激しい戦いを繰り広げる。

(人形師:生野四郎)

見送り)呑取日本号のみとりにっぽんごう

博多リバレイン 見送り

ある年の年頭のこと、主君 黒田長政の名代として母里太兵衛が福島正則のもとを訪問し、新年を祝賀する口上を述べました。福島邸では新年を祝う酒宴の真っ最中。福島正則はすでに酩酊状態でした。盛んに酒をすすめられますが、母里太兵衛は「失礼があっては」と固辞。すると不意に福島正則が、黒田長政の悪口を言いはじめたのです。
人一倍忠義に厚い母里太兵衛は、黙っていられません。福島正則に酒呑み勝負を挑みました。すると、福島正則は巨大な盃に大量の酒を注ぎはじめ、「これを飲み干せば好きな物を取らせる」と宣言。母里太兵衛はそれを聞き、「飲み干したら日本号を所望したい」と申し出たのです。そして、母里太兵衛は大杯になみなみと注がれた酒を一気に飲み干し、涼しい顔で日本号の槍を手にして、意気揚々と引き上げていったのです。
翌日、素面に返った福島正則は狼狽しました。なぜなら日本号は、豊臣秀吉から下賜された家宝とも言える槍だったのです。何度も使者を送り「返して頂きたい」と申し入れてきましたが、母里太兵衛は一蹴。最後まで日本号を返すことはありませんでした。この逸話から、日本号は別名「呑取」と呼ばれるようになったのです。

(人形師:生野四郎)

十七番山笠 天神一丁目

表)大江山酒呑童子おおえやまのしゅてんどうじ

天神一丁目 表

時は平安。丹波国大江山に酒呑童子という鬼が住んでいました。あちこちに出没し、京の都から金銀財宝や美しい貴族の姫君をさらっていました。帝に討伐を命じられた源頼光は、四天王と呼ばれた渡辺綱、坂田金時らを従えて大江山へ。鬼の館に山伏として潜入し、鬼の首を取りました。頼光たちは姫君を助けだし、都は平穏を取り戻しました。

(人形師:中村信喬)

見送り) 嗚呼壮烈岩屋城ああそうれついわやじょう

天神一丁目 見送り

戦国時代末期の1586年、大友宗麟の家臣、高橋鎮種(紹運)が守る岩屋城へ島津忠長、伊集院忠棟ら島津勢が5万ともいわれる大軍を率いて攻め込みます。岩屋城の戦いです。対して岩屋城に籠城したのはわずか763人。紹運は島津側からの再三にわたる降伏勧告を拒否。秀吉の援軍を待ちながら半月にわたり徹底抗戦し、自害しました。主君への忠義を貫いた壮烈な最期でした。

(人形師:白水英章)

番外 櫛田神社

表)鏑矢一箭抜日輪かぶらやいっせんにちりんをぬく

櫛田神社 表

元暦二年(一一八五年)二月、源義経は、四国屋島に陣をしいていた平家を背後から攻めたて、慌てた平家は船で海上に逃がれ、陸の源氏と対陣することになります。
夕暮れになった頃両軍が兵を引きかけている時、沖から立派に飾った一艘いっそうの小舟が近づいてきました。見ると、優美な女性が日の丸を描いた扇を竿の先端にはさんで船べりに立って、陸に向って手招きしています。「この扇射落としてみよ。」という挑発です。
これを見た義経は、弓の名手那須与一を呼び寄せ、「あの扇を射て」と命じます。
与一は何度も辞退を申し入れましたが、聞き入れられず、意を決して馬を海に乗り入れました。扇の的までは四十間(約七十メートル)もあり、折から北風が激しく吹き荒れ、岸を打つ波も高く、船は揺り上げられ、揺り戻されているので、扇は少しも竿に止まらず動いています。沖には平家が一面に船を並べ、陸では源氏が馬を並べて見守っています。
与一は、目を閉じて「南無八幡大菩薩、とりわけ我が国の神々、日光権現、宇都宮の明神、那須の湯泉大明神、どうかあの扇の真ん中を射させてくれ給え。これを射損じるくらいならば、弓切り折り自害して、人に二度と顔を向けられず。無事大願を成し遂げこの私を下野の国くにへ帰そうと思いならば、この矢外させ給うな。」と心に念じて目を見開いてみると、風は幾弱まり扇の的も射やすくなっています。
与一が渾身の力で鏑矢を放つと、矢はうなりを立てて飛び放たれ、正確に扇の要から一寸(約三センチ)ほど離れたところを射切りました。鏑矢はそのまま飛んで海に落ちましたが、扇は空に舞い上がったのち、春風に一もみ、二もみもまれて海へさっと散り落ちたのです。紅色の扇は、夕日のように輝いて白波の上に漂い、浮き沈みしています。
源平両軍は、どっと歓声を上げて与一を褒め讃えたのでした。
この飾り山笠は「源平合戦 屋島の戦い」の名場面です。

(人形師:小島慎二)

見送り)鎮大鯰要石おおなまずしずめるかなめいし

櫛田神社 見送り

近年わが国では、将来巨大地震が起こるといわれ、地震への関心が高まりをみせる中、震度六程度の地震が頻発しています。地震は人類の歴史において、再三猛威を振るってきました。地震から命と暮くらしを衛ることは人類の切実な願いでした。一方で人類はそのような地震に対して様々な想像をめぐらせてきました。例えば、神々や悪魔の仕業としたり、気の流れの変化で起こるとしたり様々です。とりわけ、わが国においては、【大鯰が暴れると地震が起こる】という民間信仰が流行しました。 この民間信仰が一般的になったのは、安政二年十月二日に起こった【安政の大地震】以後に盛んに描かれた【鯰絵】の普及と、鹿島神宮と香取神宮に祀まつられた【要石】の信仰によるものとされています。【要石】については、次の通りです。鹿島神宮の【要石】は大鯰の頭を封じ、香取神宮の【要石】は大鯰の尻尾を封じて地震が起こらないようにしているといわれます。また江戸時代に流行した【鯰絵】には、次のような内容の説明が添えられています。 
 「神無月の月の名前が示すように、十月には日本各地の神様たちは、出雲へ集まって出雲以外の各地は神様が不在となります。その際、鹿島神宮の御祭神ご【武甕槌の神】と香取神宮の御祭神【経津主の神】は、恵比寿神【事代主の神】に留守中の【要石】を託たくして出雲に旅立ちました。その後、留守を預かる恵比寿神は、自身で釣った鯛を肴に、酒を飲み過ぎて酔っぱらってしまい、【要石】の抑えがきかなくなり、大地震が起こり、出雲から戻ってきた【武甕槌の神】と【経津主の神】に泣きながら許しを請いました。」
 この【鯰絵】に添えられた説明から、この【鯰絵】には、長い歴史の中で、日本人が培かってきた神話や、地震に対する民間信仰などの特有とくゆうの文化が随所に反映され、絵師は、当時の世相を、大地震という出来事できごとを通して、風刺を込こめて描こうとしていることがわかります。
 この飾り山笠は、江戸時代に流行した【鯰絵】の名場面です。

(人形師:人形司武平)


今年は、ガンダム、アンパンマン、ワンピース、サザエさんと子供から大人まで楽しめるアニメが題材になった飾り山笠が登場し、例年以上の盛り上がりを見せそうです。特に上川端通の飾り山笠は追い山ならしと追い山で実際に動きますので、仕掛けが楽しみです。

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