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深い悲しみを知る人は、ちいさな喜びに気がつける人になる

こんにちは、あさひですヾ(@⌒ー⌒@)ノ

昨日、今まさに「絶望悲しみどん底にいて、もう二度と喜びを感じる事はない」と思っている人に、ぜひ知ってほしいと思える言葉に出会ったのでご紹介します。

”悲しみと喜びはいつも共にあります。

例えば、子どもに愛を注ぐことは至福の喜びですが、そこには深い悲しみが織りなされているのです。幸せはその中に悲しみを内包しています。

だから、この深い悲しみを知ることなしに、その至福の喜びを知る事は出来ないのです。”

映画 『地球交響曲 Gaia Symphony 第三番』

この記事を読んでくれている人のなかには、今まさに、心が深い悲しみに呑まれていて、未来に喜びを見出せない人がいるかもしれません。

かつてのわたしもそうでした。出口の見えない真っ暗なトンネルの中を一人で泣きながらさまよっている時がありました。何も考えられない。もはや悲しいのかもよくわからないけど、涙が止まらない時がありました。


でも、安心してください。悲しみと喜びはいつも一緒にいます。今はまだ気づけないだけ。でも、もう少し先の未来、もっと悲しみつくした時には、これまで当たり前すぎて見過ごしていた小さな喜びがよく見えるようになります。悲しみのトンネルの出口は必ずあります。


深い悲しみの先に見える世界はすばらしいのです。

今日はわたしが出口を見つけた時のお話をしたいと思います。

加害者になって訪れた絶望

これまで犯罪とは関係なく、ふつうに生きてきたわたしは、5年前のある日、運転の判断ミスにより突然、加害者、もっと言うと人殺しになりました。決して弁償できない「命」を奪ってしまったという事実を突きつけられ、わたしは幸せな未来を思い描けなくなりました。

絶望

まさにこの2文字がピッタリでした。

喜びを感じる事の後ろめたさ


みなさん、ちょっとブルーな気分の時どうしますか?おいしい物を食べたり、温泉に浸かったり、友達に話して発散したり……。いいですね!逆に何もせずひたすら寝るのもいいですね!手段はどうあれ、気分転換をしてブルーな状態から抜け出そうとしますよね。

ですが、加害者になったわたしの心はそれを許しませんでした。「他人の幸せを奪っておいて、自分だけ幸せになるなんて許されるはずがない」と幸せになる事に対して後ろめたさ罪悪感を持っていたからです。

一生かけて謝ってもお金を払っても取り返しのつかない「命」を奪ったわたしは、一生幸せになってはいけないのだと思っていました。悲しんで生きる事が償いなのではないかと思っていました。

「ずっと悲しみながら生きていかなければならないのだ。加害者なんだから、そうあるべきなんだ。」

と言い聞かせて、自分を罰せようとしていたのだと思います。

刑務所で誠実でも善良でもない醜い自分と向き合い絶望

やがて、裁判が終わり、そんな絶望的な気持ちを持ったまま、刑務所での生活が始まりました。

社会から隔離され、すべてが監視・管理された自由のない生活。もちろんそんな生活は辛かったです。でも逆に、外からの声が一切聞こえず、その日にすることも、着るものも、食べるものも、全部決まっているので余計なことを考えなくて済み、自分の問題に集中できました。

事故を起こしてから服役している今に至るまでの自分の言動をじっくりと振り返ると、まぁ酷いこと、醜いこと。

私はこれまで「誠実」「善良」であることを理想として生きてきたはずなのに、事故を起こしてからはどうでしょう。

人の命を奪ったという責任を背負うのが怖くて、刑務所に行くのが怖くて、自分を守ろうと自分にも周りにも言い聞かせるような言動をしてきました。思い返せば思い返すほど、自分という人間の本性を思い知り、真っ黒な泥水が心の中を満たしました。なんて醜く恥ずかしい人間なのだろうかと絶望しました。こんな人間が他人を蹴落としてまで生き残る必要があるのだろうか、死んだ方が世のためなのではないかと本気で思いました。

どうしたらこの泥水は排除できるのだろう。どうしたら心の中をきれいな水だけで満たせるのだろうと必死に考えました。でも頭でどんなに理想を思い浮かべたって、心がそう簡単に変えられるわけないんですよ。黒い感情に飲まれたまま、ボーっと電源の入っていないテレビを見つめる日々が続きました。

当たり前すぎて気づけなかった喜びに気づいた

そんなある日、ふと、本当に突然のこと。これまで当たり前のように受け取っていた他人の親切がとても貴重で有り難いものに思えたのです。本当に些細なことなんです。

「大丈夫?」と心配してくれる刑務官の言葉や「辛かったらわたしが代わるから言ってね」と気遣ってくれる同じ工場の受刑者、わたしが少しでもくすっと笑えるような手紙を送ってくれる塀の外の友人、面会に来てくれる夫や両親……。

いままでも、もちろん感謝はしていましたが、どこか当たり前のように受け取っていました。なぜなら、わたしも逆の立場になったら、そんな優しさを他人に向けることが当たり前にできる人間だと勘違いしていたから。

でもこの時は、おそろしく黒く醜い自分の本性を知っていたのです。だからこそ、見返りを求めない純粋な優しさをわたし向けてくれるなんてなんてキレイな心を持っているんだろうと、その美しさに感動したのです。そして、そんな貴重な親切心を向けられるわたしはなんて幸せなのかと自然と喜びで満ち溢れました。

その喜びは頭で考えた後ろめたさや罪悪感なんかで抑えられるものではなく、ただただその時は心が喜びで満たされていたのです

わたしの思う平静な心のあり方

真っ黒な泥の心を知ったからこそ、ふだん何気なく触れていた水の美しさ、貴重さに気が付けたのでしょう。その時には、もう心の中の醜い泥を邪魔者にはしていませんでした。むしろ人間臭くていいじゃないかと受け入れられるようになりました。

心の中に醜い泥ときれいな水の両方が存在している状態が正常なのです。それを自覚して受け入れるためには、深い絶望の経験が必要なのかもしれません。

いま自分に絶望している方へ

あらためて、

悲しみと喜びはいつも共にあります

幸せはその中に悲しみを内包しています

という言葉に戻ります。

今は悲しみしか見えなくとも、喜びを感じてはいけないと考えていたとしても、あなたの周りには喜びで満ち溢れているはずです。すべてを失ったと絶望しても、ある時、ふとまだ自分に残されている幸せがあることに気がつける時がきます。その時まで、どうか投げやりにならずに、自分と向き合い、清濁併せもつありのままの自分を受け止めてあげてください。

さいごに


自分の本性を知って絶望する経験をした人は、他人のささいな優しさや気遣いを敏感に感じ取れる人になります。どんな小さな光も見逃さず、拾い上げ、喜び、感謝できる人になれます。

どうか、未来に希望を持ってください。



最後までお読みいただきありがとうございましたm(__)m



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