ボクはやっと認知症のことがわかった 自らも認知症になった専門医が、日本人に伝えたい遺言

認知症の専門医が、大きな贈物を残してくれた。
認知症であるかを試験する「長谷川スケール」というものがあるそうだ。もし知らなくても、「100から7を引いていく」という試験はどこかで聞いたことがあるかもしれない。

それを編み出したのが、筆者の長谷川さんだ。若いころ、認知症の患者に出会い、治療法がないことに忸怩たる思いを抱き、研究に没頭した。

当時は「痴呆症」と呼ばれていたが、差別的な名前の代わりに、「認知症」という名前を発案したのも長谷川さんだった。

専門医中の専門医も、年齢には勝てなかった。物忘れが激しくなり、転倒して歯を折ってしまうこともあった。思い切って試験を受けてみると、認知症の初期だと分かったという。

これだけ名声のある人なら、世間に隠そうとおもっただろう。「なんだ、専門医のくせに自分がなったのか」と言われるだろうから。

それでも長谷川さんは認知症になったことをカミングアウトした。これだけでも偉い。というより、大切な貢献をしてくれたという印象だ。多くの高齢者が、徐々に社会生活ができなくなっていきながらも、人生を楽しもうという姿勢に共感し、救われただろう。

ボクは二〇二〇年二月で九十一歳になります。だんだん神様のところへ向かう日が近づいているのを感じます。これまでずっと仕事中心の生活をしてきましたが、幸い、家族や地域の温かい絆に囲まれて、いまは、たまに映画を観たり、教会に行ったり、お気に入りの喫茶店や理容室に出かけたりする生活を続けています。ときに転んで顔を打って青あざをつくったり、テレビショッピングで要らない商品を注文して家族を慌てさせたりということもありますが、できるだけ普段どおりの生活を楽しむようにしています。認知症といってもいろいろです。そこもわかってほしいと思います。


認知症の人も心があり、急に子供扱いされたり、厳しく諭されたりすると傷付くということも書かれている。

しかし人間にとって認知症は、神からの恩寵なのかもしれない。長谷川さんもそう書いている。


語弊があるかもしれませんが、認知症は死への恐怖を和らげるために、神様がボクに用意してくれたものかもしれないとも思います。だって死はやはり怖い。死んだら終わり、それは真っ暗な間ですから。

そう考えると、楽しくもなる。

しかし認知症の人が、こんなに理路整然と記憶をたどり、本を書けるものなのかという疑問も沸く。

その点を共著者の読売新聞の記者があとがきで説明していた。認知症の人は、何もできない人だと考えることこそが偏見であり、人によって記憶が残っていたり、話がしっかりしている人もいる。さまざまだという。
印象深い言葉を発する長谷川さんも、取材を続けていると、突然、話が脈絡のない方向へ飛んでいってしまったり、理解できない言葉をいわれたりすることがある。しかし、それは認知症でない人でも起こりうることだ。また「話がどこかに飛んでいってしまった」と感じても、最後まで聞き続けていると、遠回りながら最終的に話が戻ってきてつながることもある。ああそぅか、ご本人はこういうことを伝えたかったのだな、と思う。
そうやって粘り強く話を聞き、まとめたのが本書ということだ。

認知症の歴史、世界の動向も分かる。入門書としても内容が充実している。

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