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断片VI 幻境への旅

 小田原城山の高長寺にある透谷の墓を訪れた後、これもふとした偶然で、 町田市野津田の旧石阪昌孝邸跡に あるぼたん園を訪れることになり、透谷と美那の出会いを記念した「民権の碑」を 見ることができたことから、その後も透谷にゆかりの場所、特に関連する碑が 残っている場所を順次訪れてみようという気持ちになって、まずは五日市の網代鉱泉、 八王子みつい台の「造化の碑」、上川町森下の「幻境の碑」を訪れた。

 訪問にあたっては、1997年刊行の「透谷と多摩」というブックレットを参照し、 PCの地図で場所を確認し、これもPC上で現地までの移動プランを立てるのだが、 現在であれば、Street Viewによってそれらの場所をいわば仮想的に訪問できる 可能性もある。現実には幹線である秋川街道沿いにある上川町森下の「幻境の碑」は 画像上で確認できて、網代鉱泉と八王子みつい台の「造化の碑」は、手前までしか 車が入れないため確認できず、現地を訪れた人の撮影した写真がweb上に幾つか 存在するといった状況であった。実は上川町森下には、上記の秋川街道沿いの 上川町東部会館脇にある有名な「幻境の碑」の他に、その碑の成立までの経緯を 証言する今ひとつの「幻境の碑」があって、それは森下の集落の外れの林の 中にある小さな社への参道の階段の脇にあるのだが、そちらの碑は当然のことながら Street Viewで訪問することはできない。

 その後訪問をした他の箇所についてもStreetViewでのアクセス可否を簡単に まとめておくと、高輪東禅寺、白金瑞聖寺、 国府津前川の長泉寺、小田原城山の高長寺といった寺、町田ぼたん園、百草園と いった庭園は当然のことながら門前、入口の前の道は通れても中を見ることは できない。小田原唐人町の「生誕の碑」は国道一号線沿いにあるため 「幻境の碑」と同様確認できるが、今は小田原文学館の庭の中にある「顕彰碑」は 外の道路からは背面が生垣の向こうにわずかに確認できるだけである。 京橋弥左衛門町7番地にあたる並木通りと晴海通りの交差点は 当然確認できるが、透谷を記念する何かがあるわけではない。 やはり銀座の街中にある泰明小学校の「島崎藤村・北村透谷記念碑」は道路沿いに あるためにStreetViewでの確認が可能であるが、東京タワーの足元である 芝公園20号地4番地はStreet Viewではアクセスできない場所にある。 麻布霞町22番地は、その外周の通りの一部を辿ることができるのみ、 麻布箪笥町4番地は、六本木一丁目駅の出口から道源寺坂をほぼ登りきった、 道源寺の向かいの崖に位置するのだが、そもそも道源寺坂自体が Street Viewではアクセス不能といった具合である。

 今や衛星画像に基づく地図、GPSによる現在位置把握、 ストリートヴューによるヴァーチャル・ツアーによって、 地球は、かつての大地ではなく、惑星の一つとして捉えられるように なったといえるのかも知れない。例えば火星探査の歴史が、オービター からランダーへ、更にはローバーによる移動しての探査と高精度の撮影ができる オービターからの探査の組合せへと移り変わってきた歴史の果てに、 Google Earthでは地球と火星が同じように扱われている現実を考えてみればよいのだ。

 マーラーの「大地の歌」を評したアドルノが、1960年の時点で、そこでのErdeは 「大地」ではなく、宇宙飛行士が外から眺める青い惑星「地球」であると記したのは マーラーの作品に照らして珍説の類に思われるが、それでもErdeが大地から 地球へと変わっていく認識の変化のこちら側でマーラーの音楽から何が聴き取れるか を問う姿勢は、マーラーを世紀末の文化史の中に埋め込み、博物館に飾られる遺物 骨董の類として鑑賞しようとする姿勢とは比較にならないのは明らかだろう。

 マーラーとほぼ同時代の人間である透谷についても、それをまさに現代の認識様態の 変化のこちら側において何を継承することができるのかを問うてもいいのではないか。 透谷は「トラヴェラー」と綽名されたそうだが、例えば透谷の足跡を1世紀後に 辿るにしても、地図と写真によって、しかも書物のような形態でしか流通しない情報のみ によっているという点では半世紀前と基本的には大きく変わらなかった20世紀の後半の それと、携帯端末でも確認できる地図、GPSが利用でき、インターネット上の各種の 訪問記にアクセスできて下調べができ、更にはStreet Viewで現地の様子を事前に 確認できるようになっている2010年代の現在のそれとは大きく異なっている。 実際には現地を訪問している最中には、携帯端末で利用可能な各種の道具は一切 使わずに、地図すら持たずに、事前に調べて頭の中に収めた情報のみによって 訪問をしたのだが、それでもなお、単なる空間認知ではない、地理的・地図的な 場所の把握・土地勘といった側面まで含めての変容の中で、1世紀前の人間を 捉えるということがどういうことか自体を考えることは、透谷の生き方と 思想への応答として決して的外れではなく、寧ろ相応しいことのように思える。

 まず基準となる人間が徒歩で移動するときの展望自体が、個人差に応じて、あるいは 同一の個人でも都度の条件に応じて決して一様なものではないことに注意しよう。 実際には原点となるべき人間の側の条件は多様である。視力や身長は典型的なもので、 同一個人であっても、例えば子供の頃に訪れた場所に30年後に再び訪れた時、 記憶の中の風景とのギャップに驚くということがしばしば起きる。 また行動領域の(暗黙の)境界も存在しうるだろう。例えば所有権や機密保持に 由来する立ち入り禁止区域を思い浮かべればよいが、もっと個人的で心理的な親による 禁忌・禁止、更には自分で設定した結界のようなものも考えられるだろう。

 一方で、徒歩での移動での移動距離や速度は、例えば自動車や列車への移動は勿論、 自転車での移動と比較しても知れたものであることも事実である。

 飛行機やオービターからの航空写真・衛星画像は鳥の視点であり、生物としての人間が 持つことはありえない(もっとも、山頂や尾根、崖の上からの眺望といったかたちで、 限定的ではあるが地形の制約の中で鳥瞰図的な眺望を持つことは可能である)。 徒歩での地上からの展望との違いとしては、樹叢による遮蔽によって地表が見えない、 あるいは地下は見えないといった点が挙げられよう。もっとも衛星写真は可視光線に よる撮影に限定する必要は今やなくなっているから、それらは決して自明なことでは なくなっていることは認識しておくべきだろうが。

 Street Viewではリアルには訪れたことのない場所を確認できるのだが、その特性は 単なるピンポイントの写真ではなく、空間の内部を移動することによる認知をも含んでいる こと、地上からの風景であることに存するだろう。

 車での移動が基本であるから、車が入れないところは存在しない。人間しか歩くことが できない場所からの視点で撮影されることはない。 カメラの高さについても歩くときのそれではない。自動車の上に、路上高さ2.45mのカメラで 撮影したようだが、(後にプライバシーに配慮して40cm低くし、塀の中が見えないとされる 路上高さ2.05mに変更したらしいがいずれの場合でも、)少なくとも私個人については バスにでも乗らなければ経験不可能な高さである。

 奥行についても望遠気味、視野についても広角気味だが、それよりも 360度撮影された画像に対する処理により可能にされる射影の変更の自在さは 人間が歩いているその時には、不可能ではないにせよ、コストの点で回数が 限定されるだろうし、ある時刻に撮影された同一の画像を変換処理することを テクノロジーが可能にする精度で人間が行うのは特殊な能力に属するであろう。

 Street Viewのリアリティは、現実のフラクタルな 自己再帰的構造を浮かび上がらせる。 人間は自己再帰的な構造のあるレベルを自己の環境として その中で生きている。最初はそれは生物学的な諸条件に束縛されていた かもしれないが、道具の発明以来のテクノロジーの発達により可能となった 速度や距離の獲得により、複数の階層を行き来できるようになる。 (ここではマクロへの拡大にフォーカスがあたるが、テクノロジー一般について 言えば、ミクロ側へ階層を降りる方向性も勿論可能である。)

 通時的な変化の方はどうだろうか?ヒトとしての個体の寿命に束縛されるが、 これは生物学的なものなので、今のところは 変化のスピードは相対的に遅い。(特異点の向こう側では その限りではないかも知れない。スケールが変わる可能性がある。) 風景の側の変化はテクノロジーが関与しており、 地質学的・水文学的スケールとは時間の流れるスピードが全く異なる。 こちらはスケールが変わってしまった。 過去の文献・写真等の記録、将来におけるStreetViewアーカイブは その変化の記録となる可能性がある。

 移動速度、移動距離も具体的は「巡礼」に関していえば、空間のみならず 時間が相関する概念だ。 それらの相関を整理して、テクノロジーをその一部として考慮した 「認知的」時空構造を示す必要がある。 現実に到達した場所と到達した時点からなる認知的な水準での 世界の構造、歴史の構造を示す必要がある。 そして、その上で「ヴァーチャルなもの」の方を定義する必要がある。 それはここでの具体的な可能世界間の距離の定義、到達可能性の定義となる。


 そうして実際に現地を訪れて感じるのは、五感の複合による世界の構成という事実であり、 そうした経験が複合的になればなるほど一回的になるということだった。 クオリアという言葉は論者により定義が様々であるが、それを個別性・主観性と関連づける のであれば、単純な単一次元の感覚質を抽象して論じるのは、ホワイトヘッドの言う 「具体性の履き違えの誤謬」に他ならない。もともとある次元の感覚質自体、示差的な 構造を持っており、それを支えるのは感覚質と関連づけられる情動的な価値を始めとする 他の次元との対応づけの構造なのだから、最低限そうした構造の総体をモデル化しなければ 主観性の議論に寄与することはないであろう。

 しかもそれらは文化的・社会的な価値の空間の中にも同時に埋め込まれていて、 そうした複合の中で「個別の経験」が成り立っているのである。知覚の次元のみを 取り出すことがそうであったように、今度は、いわゆる「現実」のみを取り出すことも 「具体性の履き違えの誤謬」だろう。価値を支える構造として、観念の世界もあり、 事後的には反実仮想的となる多世界的な歴史的経路の分岐もあるからだが、そうした 世界の中での展望と照明の違いが「個別の経験」を成立させていることを 再認せずにはいられない経験であった。

 偶然的な天候の差(にわか雨を降らす積乱雲の通過、ほんの15分の間に陽射しが翳り、 雨が降って地面を濡らし、数分後には強い陽射しがそれを乾かしにかかり、湿気と 独特の香りが立ち込める。)、湿度や、時間や方向による陽射しの角度や強さ、向きの違い、 ほんの僅かな立ち位置の違いで、展望の細部は異なる。川のせせらぎの音、 鳥の鳴き声や蛙の鳴き声、水田の水の香り、風の音、田で作業をする老人の姿、 それらは、StreetViewよりも豊かな次元を備えており、その速度も展望も全く異なったものだ。 しかも私はStreetViewでは存在しない周辺の道を多少歩きもした。 (川のせせらぎの音と蛙の鳴き声が、かつて暮らしていた小田原の風景の 基底の響きであったこと、今住んでいるところでは、そのどちらも聴こえず、 周辺を巡っても、川のせせらぎの音はあっても、水田がないせいで蛙の鳴き声を 聴くことはない、そのことが、あの場で水田を見て蛙の鳴き声を聞いたときの 私の心の奥底の反応のあり方を規定しているであろうことに、随分後になって 思い当たった。同時にまた、StreetViewで水田のある風景の中を移動しても、蛙の鳴き声は 決して聴こえてこないことにも。)

 今回はStreetViewで場所を確認してから実際に現地を訪れたので、確かに「見覚えのある」風景を 再認することができた。だが、ちょっとそこから逸脱すると、起伏のある丘陵地の道は 自分の望んだ方向には走っておらず、意図せぬ迂回を強いられることになる。 StreetViewは、バスに載っての移動時に見れる風景に寧ろ近い。 そもそもバスの路線は概ねStreetViewで被覆されているという点でもそうだろう。

 車での移動であれば、カーナヴィゲーションシステムを使い、GPSを用いて常に 現在位置を地図に重ねながら、移動方向を修正することができる。 (勿論、歩行による移動であってもGPSによる位置同定、地図への重ね合わせが不可能な 訳ではないが、精度の問題から、おおまかな位置把握はできても、人間の歩行のスケール での都度の意思決定にはまだ難があるだろう。)

 GPSの利用は、テクノロジーによる人間の生物としての知覚の大幅な拡張と見なすこともできるが、 地図の利用の方は、社会的に蓄積された知識を用いた(別の次元、レイヤへの)知覚の拡張であると 同時に、ある種の抽象化でもある。その抽象化のプロセスは大部分自動化されているので 意識化されることはないが、逆に「ありのままの知覚」というのもまた虚構であって、 人間はそのような抽象化された空間の複数のレイヤの重なり中にしか存在することができないのだ。 勿論、歩くことにしても、歴史的・社会的な産物である道路の上をいわば「なぞって」歩いているのであり、 人跡未踏の道なき道を歩んでいるわけではもともとない。更になぜ歩くかの理由を問えば、 そもそものこの徒歩旅行の目的は、北村透谷という歴史上の人物に関連していて、風景はそもそもの はじめからそうした価値付けを帯びたものなのである。

 直接テクノロジーが関与したGoogle EarthやGoogle Mapsといったメディアまで行かずとも、 例えば1世紀前のある場所が今日の地図上で特定できるということすら自明のことではない。 地名・住所は恒久的なものではなく、現在の地名・住所との対応付け、位置の比定のためには、 まず過去の側に地名や住居表示のシステムがあることが前提で、かつそれの今日までの変遷が辿れる必要がある。 今日であればGPSを使って位置を正確にアイデンティファイできるから、仮に開発等で景観が変わったとしても 場所の同定は可能だが、100年前についてはそれはできないから、墓や記念碑、住居や街区の保存や プレートの設置等、場所を記憶するための努力なしに100年前の個人の足跡を辿ることは不可能に近い試みである。

 ちなみに言えば八王子にある2つの碑のうち、みつい台にある「造化の碑」の周囲の風景は、 近くには困民党の碑(子安神社)や困民党須長漣造の墓があるとはいえ、 透谷自身の足跡との直接の関連は希薄である。「造化の碑」の建立に纏わる紆余曲折は 透谷を語る書物の幾つかで紹介されているが、実際には「造化の碑」は建立後も受難の 歴史を辿った。碑の立ったひよどり山がみつい団地の造成によって姿を変え、現在では 谷野西公園という公園の一角に移されている。私が訪れた折は、梅雨の晴れ間の昼下がりの 時刻で公園には人一人姿無く、公園の繁った樹々の影に忘れ去られたように佇んでいた。 (これを1997年に刊行された「透谷と多摩」というブックレットに所収の写真と比較すると、 当時は今よりも樹木が低くて疎らなのに対して、15年後の今ではすっかり樹叢の下蔭に 隠れてしまった感がある。)

 それに対して上川町東部会館脇の「幻境の碑」の方は、八王子駅からそこに向かうバス 路線自体が透谷が辿ったと考えられる経路と重なっていると思われる。

(…)八王子、横山町は、横街ならぬ繁華塲、角筈の角を廻りては、中に、目に着く遊びやの。 昔の心の思われて、片腹狭き片道を、(…) 八王子八幡宿、を打過ぎて、街道を右に折れ、彼川口村の秋山の、涼しき庭へと、着にける、 《路の狭さに、急の夕立になやめられ、知らぬ或家に飛び入りしは、近頃可笑しき事なりし、》 涼しき心に心なく、二日を此に過しつゝ、懇ころ別れて、朝早く本の旅路に着たりき、小名路駅は(…)

(富士山遊びの記憶)

 バスの路線はJR八王子駅から甲州街道まで北上して左折、横山町、八幡町を通り、 繊維会館の前を通って本郷で右折して秋川街道に入る。甲州街道といい、秋川街道といい、 これは「現在の」車道の名称であって、厳密には往時の道そのものではないけれど、 それは森下の風景も同じこと。ずっと変化の度合いの小さいであろう丘の形や川沿いの 土地の傾斜、かつてもあったかも知れない水田、林といった地形や風景については、 透谷が見たものとさほど大きくは変わらないものを、1世紀ほどの時間の隔たりを もって眺めていることになる。だが例えば川口川は、透谷の訪れたときには もっと水量も多く、流れも直線的ではなくて蛇行していて、現在の川口川の、 コンクリートの護岸工事がされ、舗装された直線的な道路と並走する姿とは かなり異なったものであったようだ。

(このとき、緯度経度で計測される空間的な座標の厳密さはさほど問題ではなくなる。 それでは一体、何が本質的なのだろうか?みつい台の例のように、開発によって土地の 形状が変わってしまったら一体、どこを訪れたらよいのか?あるいはこちらは小田原において 何度か移転の憂き目を見、今は南町の小田原文学館の庭の一角にある透谷顕彰碑についてはどうか? 国府津前川の長泉寺は、東海道線の拡幅のために本堂の場所を山側に移転しており、 透谷が寄寓した時と同じではないということはどう考えるのか?今はすっかり姿を変えてしまい、 辛うじて通りの所在だけが明治時代の姿を留めている、芝公園20号地4番地や麻布霞町22番地、 麻布箪笥町4番地を訪れることに、一体どういう意味があるのか? 更にまた、秋山国三郎の生家は、森下には既になく、秋川街道をかなり下った 上榎木のバス停を折り、少し北に歩いて山王橋で川口川を渡った先に移築されている。 「三日幻境」に描かれた秋山国三郎の旅籠の方は現存しないのだ。)

 だが、ふとした偶然により、透谷が推敲して削除された部分に残る夕立に符合するかのように、 梅雨の合間の不安定な大気のせいで発達し、気流にのってかなりの速度で移動する 積乱雲が一時降らすにわか雨が、桜株あたりから降り始め、森下でバスを降りるまで 降り続き、降りてからバスの来た道を少し戻りつつ、帰りのバスの時刻を確認し、 更に上川町東部会館まで戻って「幻境の碑」の前に立つ頃まで降り続いたが、 碑をカメラに収める頃には小降りとなって、その後、復路のバスが来るまでの時間、 周辺を歩く時にはすっかり上って強い陽射しが照りつけるのに遭遇したことは、 この訪問の一回性を一層際立たせ、かつ1世紀前の透谷の記憶へと繋がる出来事だった。

 一回性の経験は、それ自体は滅してしまうけれど、それを記録し、記憶し、更にそれに 基づき何か別のものが生じたとき、その一回性の経験は価値を持ち、世界のあり方を 決めるコントロール・パラメータとなりうる。 透谷の「三日幻境」こそ、まさにその最も説得的な範例であろう。

 私の記録がどのような価値を得るかについては、私の与り知らぬことではあるが、私は その経験を記録することが、かすかではあり、遠くからではあるけれども透谷への応答の 一部をなしうるように感じている。それゆえこの文章は、まさに己のために書くのではなく、 「己が囲まれるミステリー」の証言として、己れの声ならぬ「己れを囲める小天地の声」として 記録しておきたい。


 トラヴェラーと綽名された透谷は、青年期には退潮期の民権活動に加わって 「土岐・運・来」の半被を着て行商をしながら東海道筋を巡り、 キリスト教改宗後は外国人牧師の説教の通訳をし、 自分も詩篇などを取り上げた説教をし、布教活動に同行して東北を訪れている。

 若き透谷は既に「富士山遊びの記憶」内の漢詩において、 現実の世界、自分が動きまわる大地としての「地球」観を超えた、 地球の外に思いを致している。

問我何国人 道是男児国之民
男児国今在何処 不見地球濱
是在地球外

(富士山遊びの記憶)

 表面上は因襲的で独創性は見られなくとも、 自分の探り当てたものをそれに適った言葉で語ることが 未だできない若年の透谷が見ていたものは、 後年の透谷のそれと同じものであることは確かであろう。

 例えば「頑執妄排の弊」には、 「吾人が地球と名くる此の一惑星の中において此の変動あり、」あるいは「地球の表面は終始依然たり、 然れども其の形状は常に変はりつゝあるなり、 要は千年の眼を以て、天文台の観測をなすにあり。」といった言葉が出現しており、マーラーの「大地の歌」における 「大地=地球」ついてのアドルノの議論は、 マーラーの同時代人と言ってよい透谷の認識についての 注釈として用いることができるかのようだ。

 「三日幻境」の故郷は、「大地の歌」の終曲「告別」の 歌詞として用いられた王維の詩における「故郷」にほかならず、 「私はこの世では幸いに恵まれなかった」という認識の下に 帰還する故郷は山の近くにあって、決して遠くはないけれど、 最早現実には存在しないものなのだ。「こうした経験には、 人間よりも幸せな生物が住んでいるかも知れない他の惑星への メランコリックな希望がともにある」というアドルノの 「大地の歌」の末尾に対するコメントは、 そのまま透谷の認識について語っているかのようではないか。

 重要なのは、透谷は旅をどのように捉えていたかであり、 現実の川口村森下行を「三日幻境」と捉える姿勢こそ、心宮内の秘宮を、 内部生命を語り、他界の観念を語った透谷に相応しい。彼がそこを訪れたのは、 秋山国三郎という人物がそこにいたからであり、そのことが「風景」の質を、 その場所の価値を一変させるということを記している。無色透明な風景はない。 それはホワイトヘッドのいう「具体性の履き違えの誤謬」であり、 かつまた柄谷行人が日本近代文学の起源にあって、 「独歩的転倒」によって生み出された「風景」、どうでもいい「風景」として見出したものと同じものである。それはホワイトヘッド的には抽象化の結果としての 表象的直接性であり、自我そのものが成立する 契機であるところの因果的効果のベクトル性は隠蔽されてしまっているのだ。 透谷の「幻境」はそうしたベクトル性を顕わにし、価値とヴァーチャル性の 本質的な関わりを示すものである。


 だが、透谷の「一夕観」の背後にあるものを忘れてはならない。 「一夕観」において透谷が到達した認識の透徹は、皮肉なことに (だが透谷のような人間の場合、常に物事はこのような皮肉に 満ちているのだが)、透谷が生き続ようとすれば寧ろ、獲得しない方が良かったかも知れないものだったのではなかろうか。

 国府津前川の海岸は、透谷が生まれ育った小田原唐人町の海岸に程近い。 透谷は、もし生き続けようとしたならば、前川に赴くべきではなかったのではないか。 「三日幻境」で「リコレクションの故郷」と呼んだ場所の近くに何故彼は赴いたのか? しかも前川は父祖の地であり、謂わば彼が知らない絶対的な過去の地、 第二次過去把持では捉えきれず、スティグレール的にはテクノロジー(ここでは 菩提寺、墓、過去帳などが直ちに思い浮かぶ)の支持が必須の第三次過去把持によってしか到達できないそれ、もはや生き生きとしていない幽霊的な志向によってしか捉えられない異界ではなかったのか?

 実際その間には、酒匂川や山王川といった何本かの川の河口が 往来を隔てていて、「川一条は人界と幻界の隔てなり」という「処女の純潔を論ず」の 透谷自身の言明が示すように、洋の東西を問わず、古代の神話の冥府の河のように、「リコレクションの故郷」と「忘却」によって隔てられているようなのだが、 それは一般的な理解とは逆のベクトルを持っているのではなかろうか? 勿論、ミナにはそれがわかろう筈もない。透谷自身、無意識の力によって招き 寄せられたのであって、勿論そこが父祖の地であることは理解していても、 その意味するところには気付いていなかったようだから。

 「一夕観」は、それがどんなに透徹したものであっても、透谷個人の文脈においては、 いわば末期の眼差しの産物であったことを忘れてはならない。ここにおいて 再びマーラーの「大地の歌」の、とりわけても「告別」の末尾の、アドルノによって、 宇宙飛行士の地球外からの展望と結び付けられた王維の詩の書き換え部分との接点が生じる。 「創造の中心ではなく、ちっぽけではかないもの」、「人間よりも幸せな生物が住んでいるかも 知れない他の惑星への希望」(これこそが「幻境」ではなかろうか)、 それはベンヤミンの『歴史哲学テーゼ』XVIIIのメシア的な時間モデルにおける、人類の歴史が宇宙のなかにおかれたときのイメージとの符合に対応する。 だが、忘れてはならない。私はそうした地球に対して別れを告げるのだということを。


 同様に、透谷の「幻境」の背後にあるものを忘れてはならない。それは単なるアルカディアではなく、プッサンの絵で牧人が指差す「我またアルカディアにもあり」という文字が示す認識を伴ったものであり、とりわけ透谷にあっては、カフカの「審判」にも匹敵するような状況、「我牢獄」からの眺望であったことを忘れてはならない。

 彼にとって大阪事件の顛末は全く予期せぬものであっただろう。 良かれと思って参画した運動がこのような展開を示し、そこからの離脱によって彼は大矢蒼海と運命を違えたが、そのことによって 或る種のダブル・バインドに巻き込まれてしまった。彼は恐らく、 大阪事件の関係者として捕らえられることを(少なくともある時期)半ば本気で恐れ、一方ではそれを(自己懲罰的に)望んでいたのではないか?

 歴史家は、文学研究者は実証的に「事実」を明らかにしようとする。だが、「事実」とは常に語られたものでしかなく、ある視点からの記述に過ぎない。すべて事実を述べ、だが故意に幾つかの事実を述べなくても、偽証には あたらない。挫折したプロジェクトの内側にいる人間にしかわからない 心理機制があり、それにつけこんで火のないところに煙は立たない式の評価によって言い分が天秤にかけられ、結局声の大きいもの、巧妙に立ち回ったものが勝つのだ。聡明な透谷はそれを勿論百も承知の上で、だけれども、没落士族の気質もあってか、或るは、見え過ぎていることが禍してか、痩せ我慢の沈黙の中に閉じこもる。穿った見方をすれば、現実には透谷は検挙され、連座することもなく、それ故口を噤むことで 保身を図ったのだ、という見方だって成り立つし、実際にそう解釈して見せる人間だって居るのだ。

 「鬼心非鬼心」の狂女、「罪と罰の殺人罪」におけるラスコーリニコフ、「客居偶録」の其五乞食における流鏑の旧会津藩士主従、はたまた「秋窓雑記」の第十に書き留められた捨猫といった弱者、虐げられ、見捨てられた者に対する視線は、キリスト教的な原罪の 意識とは異なって、「我は識らず、我は悟らず、如何なる罪によりて 繋縛の身となりしかを」「然れども事実として、我は牢獄の中にあるなり」という「我牢獄」における透谷の自己認識(それは「楚囚之詩」の冒頭の 「誤つて法を破り」が、末尾の恩赦と対応して、透谷自身の認識であるよりも、例えば大矢蒼海の入獄に関する透谷の反応の反映と見なしうるのに比して、より透谷自身の自己認識の正確な 記述たりえているだろう)と無関係ではありえないし、「三日幻境」の後半に書き留められた高尾山訪問の際に出会った狂人に対する同情も、「蓬莱曲」の素雄の最期がそうであるように、自分もまたそうなのだという予感に由来しているだろう。

 「幻境」は、それが未来への希望への志向に基づいたものであるにしても、透谷個人の文脈においては、無慚な結末を迎えた過去に対する「どうして こうなってしまったのだ」という行き場のない感情、自分の行動が、 自分にはどうすることもできない成り行きによるカタストロフの後で、思いもよらぬ仕方で解釈され、批判され、断罪されることへの、絶望的な 抵抗の身振りであることを忘れてはならない。アドルノによって、カフカの「審判」と関連付けられた、「極めて反抗的に」というマーラーの第9交響曲ロンド・ブルレスケの身振りは、透谷のそれでもある。「歴史をさかなですること」というベンヤミンの「歴史哲学テーゼVII」の課題は、透谷のものであり、透谷と構造的に同じ状況に置かれた者全てのものでもある。つまり、私のものでも。

 あえて言えば、透谷のような挫折したプロジェクトの内側に居たことがあり、「我は識らず、我は悟らず、如何なる罪によりて繋縛の身となりしかを」「然れども事実として、我は牢獄の中にあるなり」という状況を「現実に」経験した人間でなければ、如何に優れた研究者であっても、詩人であっても、透谷の心の或る部分について本当の意味で「わかる」ということは あり得ないのではないか。勿論、それは作品の分析とは別の次元のことであろうが、そういう意味では、私にとって問題なのは透谷の作品ではなく、作品も含めた透谷という或る人間の総体なのである。

 そういう透谷の、別の時点での異郷での同伴者として私が思い浮かべるのは、ゴル事件に苦しみ、やはり自ら命を絶ったパウル・ツェランのことである。一方は政治的な次元の国事犯、他方は個人的な盗作疑惑と内容は違うが、例えば透谷に対して引合いに出されることがあるビュヒナーに比べたとき、表面的な類似にも関わらず、歴然としているのは、そうした出来事が彼等の心に及ぼす影響のあり方の違いであり、寧ろその点で、ツェランのケースの方が透谷により近いと私には思える。ヘルダーリンもまた、直接的な影響が 事実として存在し、実証的に扱うことができる伊東静雄の場合よりも、フランス革命に対する反動に曝され、宗教的権威や国家の圧迫を常に受け、経済的困窮の中で詩作を続け、ギリシアの神々とイエスを併置し、ソフォクレスの翻訳を試みたといった点、あるいはズゼッテとの関係や母との関係を、透谷と対照する方が遥かに興味深い。

(2014.7.14 公開, 2024.7.8 noteにて公開)

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