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「古代」村落の想像的根拠から「極東の架空の島」へ:第1章 <二分心>の位置づけ

第1章 <二分心>の位置づけ


1.心のシステムと社会のシステムの関わりを問うことの妥当性

まず心のシステムと社会のシステムの関係はおよそ自明ではなく、単純な同一視は許されないことに留意する必要がある。藤井貞和『古日本文学発生論』における古橋批判「国家成立以前的段階から以後へという展開が、意識の次元でとらえられているという決定的な弱点(…)」(同書, p.20)を常に念頭におく必要があるということだ。確かに古橋の議論には直ちには首肯し難いものが感じられるが、それがどうしてなのかを突き止めつつ、ここでの議論を上記の批判に耐えるものとしなくてはならない。

実際、第一年度に<二分心>から意識への移行を辿ろうとしたときに、考古学・歴史学・地理学の知見に基づく村落や祭祀組織といった社会構造の変化が検討の主な対象となったのは、まさにここでの古橋の議論のような水準で「心」や「意識」の次元を持ち込むことを回避するためであったと言って良い。だが文献記録が限定され、空間的な禁忌のために考古学的な調査にも制約のある状況下では、最初の問題設定に立ち返ることが困難で、発散してしまった。

今回は、心のシステムと社会のシステムの対応を手掛かりにして、神話・儀礼・神歌の関連を背景に、それらの「形式」に注目しながら、儀礼の「行為遂行の相」における心のシステムの動作モードを探り出すというアプローチを試みる。

直接的なフィールドワークではなく、フィールドワークの記録の分析・解釈を方法論とする制約から極めて不完全なものにならざるを得ないが、やまだようこの『ことばのはじまり』3部作における「質的心理学」の萌芽的な対応物を、人類学的・民俗学的フィールドに適用する試みであると言っても良い。裏返せば、ジェインズの著作もまた、比較対象のための資料体として、狩俣の儀礼を扱った研究と同じような仕方で扱うということを意味する。

狩俣の儀礼を扱った研究の特徴の一つとして、フィールドワークによる儀礼の観察記録、儀礼に関与する様々な人間への聞き取り調査の結果が豊富に存在し、それに基づいた分析が行われていることが挙げられる。

フィールドワークによる儀礼の観察記録が重要なのは、儀礼がまさに「ことばの生成」のプロセスと密接に関わり、そこでの「ことば」は、出来上がった記号のシステムを前提とした、概念や象徴の操作に先行する側面を含むために、ことばの立ち上がりのプロセスを行為の文脈の中で見ていく必要があるからだ。また聴き取り調査は、外部から観察できない、儀礼の参加者自身の認識を証言したり、そうした認識の一部として/を通じて、直接観察することのできない、観察された行動の文脈や環境についての情報を補完するものとして欠かすことができない。何しろ基本的には全て口承の世界であり、文字記録は、一部を除けば外部の観察者の観察の結果に過ぎないのだ。儀礼の観察記録は、いわば「行動」の記録であり、聴き取り調査の結果は、いわば「認識」の記録であり、かつ「認識」のフィルタを通じた「環境」についての記録なのだ。

これをやまだようこの『ことばの前のことば』で採用されたアプローチと比較すると、前者は「行動の側からことばを眺めてい」く(『ことばの前のことば』, p.iv)ことに対応しており、それは以下のような認識を共有すると捉えたい。

ことばは、ヒトを人間たらしめるもっとも重要な行動であるが、表に現れたことばは、表面下に大部分を沈めた氷山の一角のようなものである。ほんとうは、ことばにならないことばこそ大切ではないだろうか。
最近では、あまりにもことばをそれだけ独立したものとしてとらえすぎてきた反省のうえにたって、非言語的コミュニケーションや前言語的コミュニケーションや発話行為に関心がもあたれるようになった。それは「はじめにことばありき」という西欧的世界観が崩れはじめていることを示しているが、まだまだことばを中心に行動を眺めていることにはちがいない

(同書, p.iii)

勿論、上で対象となっているのはヒトの子供の成長プロセスだが、ここでの試みは、個体発生における意識構造の発達のプロセスを系統発生の末端の、文化的進化の最中に見ようと企図するものであるわけだから、並行性の存在は仮説の一部でもある。
一方後者は、儀礼への参加者が発達過程の子供や動物ではないという単純な事実に基づき要請されるものだ。控え目に言っても儀礼の参加者は、より後で成立した意識のモードから、儀礼を通じて、より前の<二分心>のモードへの遡行しようとしているわけで、そもそも儀礼自体が通時的なものの堆積を共時的に横断することを可能にするための装置といった側面があると考えられる。丁度、脳神経科学や精神病理学が、患者の言語的な報告を通じて、正常な状態では隠されてしまっている次元に辿り着こうとしているのと同様に、ここではつい先頃までは存続していた、「古代性」を保存していると言われる儀礼についての証言を共時的に横断する作業を通じて、通時的な遡行を試みているのだと考えられる。

2.ジュリアン・ジェインズの<二分心>の位置づけの確認

それではここで、<二分心>の提唱者であるジュリアン・ジェインズ自身による<二分心>の位置づけについて確認をしておきたい。<二分心>がなんであるかの説明に続いて、ジェインズは『神々の沈黙』第6章 文明の起源 を以下のように始める。

  だが、何故に<二分心>のようなものが存在するのだろうか。そしてなぜ神々が存在するのか。そもそも、神々の起源はいったい何だろうか。また、仮に<二分心>時代の脳の構造が、前章で推察したとおりだとしたら、人間の進化の過程で、どのような淘汰圧があのように重大な転換をもたらしたのだろうか。
 本章で説明しようとする推論―まさしく純然たる推論―の論旨は、これまで述べてきた事柄から必然的に導き出される、明白な結果に過ぎない。<二分心>は社会統制の一形態であり、そのおかげで人間は小さな狩猟採集集団から、大きな農耕生活共同体へと移行する。<二分心>はそれを統制する神々とともに、言語進化の最終段階として生まれた。そしてこの展開の中にこそ、文明の起源がある。

(p.126)

まずここで注目すべきは、<二分心>が「社会統制の一形態」として捉えられていることであろう。個体の脳の中で神の声が響くという規定からすると、それは単独の個体の心のモデルであり、自律的で閉じた心のオートポイエーシスの動作形態であるように思われるし、実際、そうした把握自体は間違いではない側面もあろうが、それが「社会統制の一形態」である以上、あくまでも社会脳の側面から捉えるべきだということになり、すると直ちに、群れを形成する社会的動物の心のモードとの連続性を考慮すべきだということになろう。その一方で、それが「言語進化の最終段階」として位置づけられていることから、言語獲得が先行しており、それが脳の構造の変化にもたらした影響への考慮が求められるだけでなく、他の動物では恐らく静的に固定している社会集団の規模や性格が、ヒトの場合には例外的に変化するものであり、ヒトがこの点に関し他の動物にない可塑性を持ち、自由度を獲得したことが<二分心>と密接に関わっていることに留意すべきだということになる。
要するにここで求められているのは、脳の中に響くとされる神々の声の由来を社会脳的な脳の機能が言語と出会ったことによって生じた構造変容に求める自然主義的な説明であり、言語の獲得によって、一旦は確立した中核意識の心の構造と、<二分心>崩壊後の自伝的意識(ここではエーデルマンおよびダマシオの両方を念頭において「中核意識」「自伝的意識」の語を対比的に用いることとする。エーデルマンについては『脳は空より広いか』、ダマシオについては『無意識の脳 自己意識の脳』を参照のこと。)との中間に<二分心>をおいたと仮定した場合の心の構造変容の説明である。

3.フラー・トリーの自己の発達の進化理論の一部の検討

「中核意識」から<二分心>を経て「自伝的意識」へ、という道筋を思い描くときの参照点として、例えばフラー・トリーが『神は、脳が作った』で提示した自己の発達のプロセスとの比較を検討することは有効であるし、必要なことでもあるだろう。というのも人類の進化の歴史のほぼ同じ段階を扱い、ほぼ同じ現象に着目しているという並行性の一方で、トリーは進化の過程の各段階を順序だてて描き出すのに対し、ジェインズはその最終段階と一つ手前の段階に集中して注目している点で対照的であるだけでなく、時期的に重なるのは明らかであるにも関わらず、トリーはいわば「<二分心>抜き」で理論構築をしている点で際立った相違を示しており、読み手は比較検討することによってどちらが妥当かの判断を迫られることになるからである。同じ事はミズンの説についても言えて、やはりそれは「<二分心>抜き」の説明であるが、だからといってトリーとミズンの所説とが一致しているわけではなく、それ故その両者との比較によってジェインズの「<二分心>」についての一層細かな検討を行うことが期待できるだろう。

トリーはまず、神概念をパトリック・マクナマラが「クモにとってのクモの巣、ビーバーにとってのダム、鳥にとっての歌のように、その特徴の担い手を象徴するものだ」とするのに同意し、「神々がいつどの地にやって来たにせよ、一人ないし複数の神を信じることが、人間が心の底から求めることであるのは明らかだ。」(トリー『神は脳がつくった』, p.2)と主張し、世論調査の結果を示す。このことは、神が実在するかどうかの問題とは別に、神概念が人間の心にかなりの程度随伴するものであることを示しており、それはヒトの心の構造と関りがあることを窺わせるに足る。控えめに言っても、ヒトの心の構造は、神概念を生み出す強い傾向性を持っているというようには言えるのであって、どのようなメカニズムが神概念を発生させるのかという問いを立てることを正当化するように思われる。より自然主義化されたシステム論的な言い方をすれば、システムの外部に存在するという意味で超越的な存在を概念として内在化できるために必要な心の構造の条件とは何か、という問いになるであろう。

またこのことは、意識概念の消去主義が神の消去主義と共犯関係にあるという疑いをもまた、示唆してはいまいか?ただし、神概念はもともと意識の産物だから存在論的な水準では消去可能なのに対して、意識の自己表象は意識の産物だから消去できても、意識そのものは物理的な世界と、どんなに控えめに言っても相関し、恐らくは因果的に繋がっている―神経回路網の特定の配列とその上での発火のパターンと意識の発生は相関しているのみならず、前者なしでは後者はなく、前者が後者を算出しているのはほぼ確実であろう―のだから、その存在論的な位置づけが異なり、従って妥当性の程度もまた異なるのだが、それにしても意識についての消去主義的手続き、即ち自己表象たる意識概念が仮構されたものであり、例えば意識の連続性というのは、そうした自己表象の一部に過ぎず、実際には意識は頻繁に中断され、再開されるものであることと、意識自体が因果的効果を持ちえないとする判断から(実際にはそれ自体が誤謬であるというのが本論の立場だが)、意識なしであるにも関わらず外見上は意識がある場合と区別がつかない「哲学的ゾンビ」を導入し、意識を消去する手続きは、意識の構造が半ば必然的に生み出す心的表象である神概念に対し、神の実在性の否定をもってそれを無意味なものとして消去する手続きと構造的にも関連し、かつ同じ形式の誤謬である点が、却って意識と神の関わりの深さを浮かび上がらせるように感じられ、非常に興味深い。

また神をクモの巣、ビーバーのダム、鳥の歌といった対象に類比することは、それら自体が進化の過程で獲得された生得的なものであれ、それらが餌となる他の生物や他の個体を含めた環境とのインタフェースである点で注目されてよい。直ちにこの水準で人間を象徴するものとして思い浮かぶのは何といっても「言語」だろうが、言語が身振りのような非言語的なコミュニケーション手段の延長として了解可能であるのに比べると、神概念は、類人猿や初期のホモ属との違いを浮かび上がらせるという意味でも特徴的なものであると言えるだろう。社会的動物が群れを統制するための手段というのも様々なものが観察されているが、神をそうした社会の統制のための手段であるという考えは、まさに<二分心>の主張に繋がっていくし、自己と外部とのインタフェースの一形態であるという本論の背景となる主張への橋渡しを可能にする点も指摘しておきたい。

更に具体的な比較における要点を事前に整理しておくと、凡そ以下の点についての扱い方が特に注意を要する点と考えられる。

  • 心の理論の獲得とその高次化の段階/他者および自己の死についての認識/自伝的意識の成立/祖先崇拝の成立 の相互間の関係

  • 上記に対して言語の獲得がどのようなタイミングで起き、どのような影響を及ぼしたか。関連して、夢の内容についての了解、偶像の制作(偶像の禁止も含む)といった要素の位置づけ

  • 農耕の発生が及ぼした影響:計画・予測能力の発生(暦法の成立や占術の発生)/定住による所有概念の成立/文字の発達に繋がる記憶の外部化

フラー・トリーの自己の発達に関する通時的=進化理論的な階層を要約すれば以下の通りである

  1. より賢くなった自己:新皮質の増大:ホモ・ハビリス

  2. 自分がわかる自己:自己認識:ホモ・エレクトス

  3. 思いやりのある自己:心の理論:ホモ・ネアンデルターレンシス

  4. 自分の心を見つめる自己:内省的自己意識:初期ホモ・サピエンス

  5. 時間を意識する自己:自伝的記憶:現代ホモ・サピエンス

  6. 霊魂を信じる自己:祖先崇拝

  7. 神を信じる自己:制度的宗教の成立

一見したところ、フラー・トリーの階層の中に、そこでは想定されていない<二分心>を敢て位置づけようとする試みは戸惑いを惹き起こす。それは第一義的にはトリーの階層で想定されている進化論的な変化を支える力学が<二分心>を想定していないが故に、<二分心>抜きでも成立するように構成されていることによるもので、トリーの説で過不足なく説明ができれば<二分心>は不要、控え目にいって、ありえたかも知れないが実際には選択されなかった分岐としての位置づけしか持たないことになるだろう。だがそれだけではなく、<二分心>仮説が要求する様々な条件の布置が、トリーの仮説のそれと一致しない点が当惑を惹き起こしているのだ。その原因はどこにあるかと言えば、フラー・トリーの階層では<二分心>は神概念の発生と宗教の成立に関わる6→7の移行に対応づけるのが適切に思われる一方で、自伝的記憶の獲得はそれらに先行して既に5の段階でなされていること、また<二分心>が言語の獲得を直接の契機としているとするならば、それは4と5の間に位置づけられるという不整合に存する。トリーの階層に即して解釈をするならば、自伝的意識が確立して以降の祖先崇拝の成立、制度的宗教の成立は、寧ろ<二分心>崩壊後の出来事という解釈が妥当ということになりそうだ。またトリーは6を農業と結びつけており、それが集団の定着と大規模化を可能にし、制度的宗教が成立するという道筋を思い描いており、一見したところジェインズの説とはかなりの懸隔があるように見える。
もっともジェインズの側がかなり発達の段階については無頓着で、少なくとも説明上は、トリーの階層でいくと1.から急に<二分心>に一足飛びに移っている側面もあり、また取り上げる事象が<二分心>そのものなのか、<二分心>の崩壊に関わるのか、前者でも<二分心>のいわば典型的な形態なのか、派生的・周縁的な形態なのかといった点についての明確な説明がないように思われるので、トリーの階層との間に存在する懸隔をある程度以上の精度で測ること自体が困難な印象をも抱いてしまう。特に<二分心>そのものか、<二分心>の崩壊に関わるのかという点は、<二分心>があったとして、その崩壊の後の地点から振り返って見る他ないという展望の制約に由来する混乱がジェインズの側に存在する可能性を考えれば、そうした混淆を検出するための手段として、トリーの説との対照を試みるという見方も可能であろう。
ともあれ、それでは先に掲げたチェックポイントについて、トリーの言うところを確認していくことにしよう。
まず、心の理論については、3.思いやりのある自己の段階に位置づけられていることは明らかで、子供における発達、動物における有無、その欠如が引き起こす病理(自閉症やダマシオの著作で有名になったフィアネス・ゲージの事例など)について明解に語っている。(トリー『神は、脳がつくった』第3章 )特に興味深いのは、アスペルガー症候群であるか健常であるかと神の信仰への強い支持との間に確かな逆相関があるという、ウィル・ジョルヴェの研究事例の紹介である(同書, p.94)。ただし、注意すべきは、心の理論には次数があって、二次の心の理論の獲得は、4.自分の心をみつめる自己の段階に位置づけられており、それが自己認識を可能にするという立場がとられていることだ。
ところが心の理論については明解であったトリーの見解は、言語の獲得との関わりについてはかなり曖昧なものに後退しているように見える。トリーは内省的自己意識の発達を述べるところで言語の獲得について言及するが(同書, p.113)、言語の獲得と内省的自己意識の発達の関係については諸説あって定説に至っていないことを紹介して、「内省的自己意識と私たちが知っている言語は、そろって発達した可能性がありそうだ。」(同書, p.116)という極めて慎重な言い方に留まっている。
ここで注意すべきなのは、トリーの言い方が慎重になる原因の一つとして、ここでの「言語」の定義、つまり「私たち知っている言語」の多様な側面のうち、どこ側面が問題になっているのかが明確でない点である。それは引き続いて、再び動物にフォーカスを戻して「類人猿がしゃべらない唯一の理由は、言うべきことがないからだ」というジョージ・ワシントン・カーヴァ―の主張を参照している部分に明らかに思われる。というのはこの言い方はそれ自体極めて曖昧であって、「言うべきこと」が当の「言語」の定義によって決まるものなら、単なる同語反復的な空虚な言明であるともとれるからである。社会的動物の集団の成員間のコミュニケーションは非言語的な手段に非常に多くを負っていて、それは言語が獲得された後のヒトの集団、それどころか現時点のヒトにおいても該当することは、例えばやまだようこの『ことばの前のことば』と動物行動学関連の文献を比較することなどから明らかであるし、そこでは先行する情動的・共感的側面と認知的・行為遂行的側面とが統合されることが現実の言語の獲得と発達において重要な契機であることが述べられていることを思えば、非言語的手段では出来なかったことで、言語の獲得によって可能になったことは何であるかをまず問うべきなのではなかろうか。私見では、それは既に萌芽的な形では認知・記憶の様態としては存在していたゲシュタルト化によるカテゴリーの形成が言語という支持体に媒介されて、現実の世界の分節に適用されることを越えて、現実とは独立した概念のネットワークを形成し、その概念のネットワーク上でのメタな概念間の連関としての象徴作用が成立したことにある。だが、ここではトリーの所説の検討に戻ることにしよう。
トリーの階層における自伝的記憶は4.時間を意識する自己の段階で獲得されるとされている。そして死の了解に言及されるのも、その段階においてである(前掲書, p.161以降)。まず子供の発達における死の理解(以下のトリーはそれを「すべての人に必ずやってくる」「取り返しがつかない」「体のあらゆる働きが止まる」「身体的な原因がある」の4つからなると捉えている)が確立する時期を確認した後、再び動物にフォーカスを移す。そして「死についての理解は、ヒトに特徴的な性質と動物の存在を隔てる違いとして、道具作り、脳、言語よりもはるかに決定的な断絶」という主張を受け入れているように見える。だがここも、トリー自身が区別する4つの側面のそれぞれについて、個別に心の発達段階との対応づけをしていく必要がないだろうか?そしてまたそれらのうちどれが、言語の獲得とは直接関係を持たないにせよ、言語の獲得によって切り開かれた可能性に依存するのかを確認する必要があるだろう。
ここでも見通しについて私見を述べれば、トリーの4つの側面は、見事なまでに心の発達における異なった側面に対応している。「体のあらゆる働きが止まる」ことの観察は、認知における対象の同一性が保障されれば十分だし、「身体的な原因がある」は簡単ではあっても推論が介在する。一方、「取り返しがつかない」というのは、それが不可逆であることが事実として認識される段階と、それを汎化して、仮定された時間的延長におけるその永続性を主張することであるから、これはかなり高度な時間についての表象が前提となっている。何しろ魂の不滅であったり、復活といった宗教的な(しかも高度に神学的な水準まで体系化された中で最終的な位置づけをえることになる)主張は、「取り返しがつかない」という認識の否定なのだから、「取り返しのつかなさ」の了解自体が極めて奥行の深いもので、分析を要するものであることは論を俟たないであろう。そして最初に戻って「すべての人に必ずやってくる」もまた論理的には全称命題であって認識の一般化が必要であり、これは言語の獲得と密接な関係があるという立場もありうるだろう。つまり「すべての人に必ずやってくる」という認識に関して言えば、「すべての人に必ずやってくる」という言語的命題を述べることができることと概ね同義と捉えられるのではなかろうか?逆に4つの側面を全て、その内容を持つ言語的命題を述べることと同一視する分析哲学的な発想、つまりすべてを言語の獲得の後に可能になるものと主張するのは、或る種の遠近法的倒錯によるもので、具体性の履違えの誤謬を含むように感じられる。「すべての人が」の全称化はそういう意味では、最も言語の獲得による概念的な操作に基づく一般化の能力に近いだろうが、これとて、現実に即した翻訳をすれば「集団の成員の全ては…」という社会的な了解が、集団で共有され、それが「私」に反射された上で、「私を含むすべての人は…」として汎化されるというのが実態ではなかろうか。
夢に関してのトリーの言及は簡単なものであるが、ヒト固有のものではなく、哺乳動物に備わっていることが指摘される一方で、その内容を他者に伝えるには言語の媒介が必要であるという性質が指摘される(上掲書, p.171)。しかしながら夢の位置づけで重要なのは、それが現実の外部の環境世界とは異なる「物語」を「自己」に対して提示する点にあるという点に存するであろう。それがトリーが参照するタイラーの言うところの「人が死ぬと魂や霊魂が体を離れてある種の霊界や死者の国で生き続けるという考え」(同書, p.171,)に繋がることであろう。ただしその前提としては、夢の内容の素材にあたる記憶の内容が持つ構造が、過去の再現、未来の想定といった、現在時間意識を超えた延長的な時間の広がりを持ったものであることが条件となる。つまり夢を見る事自体というよりは、自伝的意識の確立に伴って生じた夢の内容の構造的な変化が重要であって、基本的には覚醒時に過去を想起したり、未来を予期したりする能力が前提となるわけだが、その一方で、覚醒時の空想とは異なって、夢というものが無意識の領域に属するものであり、「自己」がそれに対して受動的であることは、その内容の自己に対する他者性を備え、「自己」が帰属する外部の「現実」の環境とは異なる領域、別の世界が存在するという認識を獲得するにあたり本質的であろう。
一方「祖先崇拝」の発生に関しては、トリーがジェームズ・コックスによる「来世に対する信念が祖先崇拝に先立って現われ、そのような信念があることが、そのあと祖先崇拝の発生を促す」という報告を参照している点が注目される。ただしこれは疑問の余地がないというには程遠く、寧ろ検討を要するもののように思われる。恐らくは「祖先崇拝」における「祖先」の定義の問題がまずあるのだろうが、それは措いても、祖先の方は、「私」が帰属する集団の構成員である親の親といったように、集団の構成員の間のリンクの極限として定義することができ、いわば集団の起源を象徴するのに対し、「来世」というのは時間論的に逆を向いているだけではなく、「現世」との断絶、現実からの超越を含意するものに思われるのであって、直観的には遥かに高度な心性を必要とするものにしか思えない。強いて言えば、最終的には「来世」概念に到達する萌芽的な段階として、現実のすぐ隣にある異郷、寧ろ空間的な隔たりの彼方を考えるのであればまだしもであり、こちらならば、ここで考察の対象とする狩俣村落の世界認識にも通じるものがあるだろう。本論の立場は、「来世」概念は、それを最初に置くにはあまりに複合的で、それが成立するための要因が多岐に亘り過ぎるように思われて、与し難いというものである。
この段階はもともと農耕の発展が「自己」に及ぼす影響を中心に構成されているのだが、それが時間性に与える影響、特にその中でも未来方向の時間性にあたえる影響ということであれば、寧ろ、トリーの指摘する「計画を立てる能力」(同書, p.233)の延長線上にあるものの方が興味深い。「計画を立てる能力」というのは現代風には、まさにプロジェクトを企画し、実行する能力ということになるが、将来発生する事態を予測し、事前に対策を講じるためには、季節の循環を認識し、暦を作成し、暦に従った行動を企図することが必要となり、更には予測困難な事態への対抗手段として占術による予知を行うこともまた求められることになったと思われる。祭祀については、ここでは祖先崇拝のそれが想定されているわけであるが、多くの場合、祭祀の実施は季節の循環のリズムに同期して予定されて反復実行されるものであることを思い起こせば、少なくとも今見られるような祭祀が、季節の循環の認識、暦の作成を前提にしていることはほぼ間違いなく、ここで取り上げる狩俣の祭祀についてもそれは言えることである。更に加えて、占術等のテクノロジー(それはいずれ「科学」への変容を遂げることなるが)と祭祀の関わりについても同じことが言えるだろうが、同時にそうした技術は、それが継続的に実施されるためには記録され、世代を超えて継承される可能性があるという点にも注目すべきだろう。言い替えればそれらがテクノロジーとして確立するには、言語が前提となっているのは言うに及ばす、文字による記録のテクノロジーに伴われていると考えるべきだということだ。

4.農業を契機とした所有概念の確立:村や町の成立と心の構造の変容の対応

だがこの段階で注目されるべきは寧ろ、農耕を契機とした土地所有が心の構造に及ぼした影響の大きさであろう。寧ろ、農耕による定住の結果、村落の起源についての神話が語られるようになる条件が整い、それとともに土地を代々継承してきた父祖たちに対する崇拝が発生するというストーリーの方が遥かに自然に感じられる。トリーが参照した文献の要約によれば、「しばしば、土地と祖先たちには深いつながりがある。多くのアフリカの部族では、祖先たちは土地の究極のオーナーつまり所有者である…。オーストラリアの先住民では、祖先たちが土地そのものの一部だと考えられている。」(上掲書, p.212)ということだが、農耕による土地への定着が所有概念を生み出すのだし、定住によって所有概念は世代を超えた継承を含意するようになる。そして継承の方向は自分の子供に向けてである一方で、それを正当化する権威としては始原への遡及がなされる結果、祖先が起源として機能するようになると考えられる。

土地所有に限らず、一般に所有の概念は、自己の規定、および自己表象のあり方にとって本質的である。(加藤敏「統合失調症の現在 進化論に注目して」V.所有(property)の問題枠における近代的自我と所有概念との関わりを参照のこと。)従って、所有の形態は、恐らく自己のあり方に影響を及ぼしうる。もし個人レベルでの所有というのがなく、所有は常に村落全体の共有であるか、親族間で継承されていく権利という位置づけであれば、逆に例えば「自己」の身体の延長としての道具に先にあるものとして、自己の境界を決定する要因としての「自己」は成り立ちにくいであろう。かくして加藤が参照するアフリカの部族しかり、ここで検討の対象としている狩俣の村落の成員しかり、Sowを参照して加藤が要約する通り、そこでの自己は「垂直軸は祖先との強い絆があり、水平軸には共同体の仲間との強い絆があり、この垂直軸、水平軸での集団自我(group ego)が堅固な仕方で存在している」ことになる(加藤, 上掲論文, p.341)。逆にそうした村落での共同所有、先祖からの土地の相続という土地所有の形態があるからこそ、自己はそれの個体への反映として、集団的なものである他ない。逆に、産業構造の変化や交通の利便性の増大などによって土地との結びつきが希薄なると、集団的な自己は維持し難くなり、自己は個体へと分散し、相互に孤立するとともに、村の境界の内部外部の境界が曖昧なものとなり、移動しつづける根草無し的な「自己」が成立するのではなかろうか。

興味深いのは、所有概念の確立というのが、村や町の成立という社会構造の変容と、上記のような心の構造の変容に対して、ある並行性をもって影響しているように見えることである。そこで今度はトリーの「村」の形成についての部分を見てみよう。

「現代ホモ・サピエンスが自分の畑のそばに住みつくことが増えるにつれて、親族を含む拡大家族たちが、互いに近い場所に家を建てるようになった。1万1千年前から1万年前にかけて、そのような家族の集団が徐々に大きくなって村ができた。そのころになると、ヨルダン川西岸のエリコなどの村では、人口が2000人ほどに達していた。考古学的記録から、これらの初期の村で「近所の家々に血縁関係があった」ことが確かめられている。人びとがそのように固まって生涯を暮らすことは、人類の歴史で初めてだった。そのおかげで、人びとは何事についても集団で意見を交換できるようになった。」

(トリー『神は、脳が作った』, p.214)

してみると、後述するように、ここでのトリーの「村」は、ジェインズの「町」と規模の上では違いがないことがわかる。興味深いのは、村が親族集団として定義されていることであり、これを狩俣の村落の構造と突き合わせてみる必要がある。例えば、ここでは複数の親族集団が融合するといった過程は含まれていないが、だとしたら、狩俣の村落形成の過程の最初期に対応する段階についての記述と考えていいのか?更に不可解なのは、編年的な絶対年代が示され、「人類初」であることが指摘される点だ。それではもっと後になって形成された村はどうなるのか?(ちなみに、後で見るように狩俣村はそちらに属する。これは第1年目の調査で確認したことであるが、狩俣における村落形成は、恐らくはずっと遅れて、12世紀を遡ることはないものと思われる。)また、ここで記述される構造は、その成立年代が何時であるかに依らず、その構成員が親族集団であるような村一般に通用するものではないのか?逆に人類初でない他の村では何かが違うのか?そもそもが人類が一箇所から移動して、全世界に拡散したのだとしたら、或る場所への定住には必然的に時間的なずれが伴うことになる。そこで絶対的な年代やそれが「人類初」であることが持つ意味は、やはり不明である。こう言ったからといって、その年代に意味がないと言っているわけではない。だがそれはたかだが、人類の歴史において、その年代以前には村はなかったという事実に関する上限の年代を語るに過ぎず、それ以上のものではなく、ここで関心を寄せているヒトの集団の規模の変化や構造的な変化(両者は関係があって、ある定数が構造の変化を引き起こす閾値として存在している可能性は十分にある)が、構成員の心の構造の変化にもたらす影響という、構造的な観点に関しては意味を持たないと考えてしまいたくなる。言い替えれば絶対的な年代によらず、村の成立の条件は農業の発達がもたらした親族集団の定住であり、それが集団の規模を2000人程度まで増大させたという構造的な連関のみに注目すれば十分ではないか。そして集落の人口の増加は、社会統制手段の進化を促す要因になるということであれば、その仮説には一理ありそうだ。
同様にジェインズにおいても、農業への言及がある(ジェインズ『神々の沈黙』, p.169)それは「<二分心>の入り口」にあたると述べられているから、<二分心>の起源を考える上では極めて重要な契機ということになるだろう。
従ってその限りでは、トリーでは6.の霊魂を信じる心の段階より後がジェインズの<二分心>の時代であるという対応はほぼ問題なく成立するだろう。違いは別のところにあって、例えばジェインズではいきなり「神」が登場して、トリーがそれとは区別する霊魂がジェインズにおいては独立の概念としてはほぼ扱われていないことに気づく。そしてこの点が<二分心>概念にどのように影響するかの見極めが必要となりそうである。

5.スティーブン・ミズンの「認知流動化」:社会的知能の言語獲得に対する先行

一方ミズンは、心の進化における振動(『心の先史時代』, p.276以下)について語っている。即ち、認知の流動化により一般知能を経て、社会的知能が発達すると、一旦、逆行が起き、モジュール化によって技術的知能、博物的知能が発達した結果としての言語の獲得を折り返し点に、再度、認知の柔軟化が起きたとする。その過程を大まかに捉えれば、以下のようになる。

一般的・社会的知能                個別的・認知的知能
ホモ・ハビリス(社会的知能の確立)→(モジュール化)
    →ホモ・エレクトゥス
    (モジュール化による技術的知能、博物的知能の獲得)
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ミズンが「振動」という言葉で指し示しているのは、認知科学における社会脳と認知能の競合・均衡という共時的なモデル(cf.芋阪・越野『社会脳ネットワーク入門』)における社会脳と認知能の間のバランスにほぼ重なることは確かだが、「振動」は何度か起きており、かつ、それぞれの周期で具体的に何が起きたかは、振動の向きが同じであっても階層によって全く異なると考えるべきだろう。<二分心>が社会統制と関わる以上、それは専門化から一般化への最後の段階に位置づけることは確実だが、トリーとの比較で行けばそれは、結局、言語の獲得以降、それが社会的な脳の機能にどう影響を及ぼしていったかについての、5→7のプロセスに重なるというに過ぎず、いずれの場合でも外的な条件については語られても、心のシステムの構造変容、特に言葉の獲得の影響の具体的な様相についての記述はないので、その点を仮説としてであれ、補うことが必要になる。

そこでまず一旦、<二分心>と言語の関係についてのジェインズの記述を確認してみる。言語については、ジェインズは明らかに、<二分心>にも先行しているとの見解を示す。

部族の一員が…不在のとき…「考える」と言っても、ここでは言語構造に当てはめるという、意識とは無縁の特別な意味でだ。

(ジェインズ『神々の沈黙』, p.167)

ジェインズは名前=対象の同一化と同時に、墓の構築についても語っているが、これに関連しては固有名の発生の意義を測る必要があるだろう。実は固有名という言語的なラベルがなくても個体の識別は可能である。多くの社会的生活を営む陸棲哺乳動物は、多くの場合嗅覚によって相手を判定し、しばしば群れの中の序列を形成する。だから固有名が個体識別に何か寄与するというのは遠近法的な倒錯なのだ。名前の付与によって、付与された個体が死んでも、その個体についての表象が存続するというのもそういう意味では疑わしい。言語的なラベルでなくても、或る種の知覚モード(例えば匂い)が、一連のエピソード記憶(の萌芽的なもの)の連想のトリガーになるような構造さえあれば十分で、寧ろ名付けは、自伝的記憶の発達により、時間を貫いて同一の者として存在する個体という表象が形成されることに随伴するというべきなのではないか?そうした個体の表象が確立してしまえば、それに名前がなくても、その個体の表象の同一性は、その個体の存続を越えて、それとは独立に存在する。そうした表象が確立すれば、それにユニークなラベルを付与するのはほぼ自明の作業となるだろう。逆にそういうラベル付が可能となるような表象が獲得されるという言い方もできる。そして勿論、一旦言語が獲得されてしまえば、そのような表象の形成にあたって、言語が重要な役割を果たすということは大いに考えられる。だが、そのことは、言語がそうした表象の形成の必要条件であるということを意味しないのではないか。

一般に自伝的意識もその萌芽段階のものであれば、ヒト固有のものとは言えない。脳が発達し、長期記憶を持ち、個体が長い寿命を持つ生物であれば、自伝的意識を持つ可能性はある。だが、だからといって、そうした動物の自伝的意識や自己や他の個体についての表象が、言語を媒介した場合と同一のものである保障はない。この地点の近傍で、言語を持つことがもたらす違いを見つける必要があるのだろう。

そして農業が集住を可能にし、20人単位の集団から200人単位の町の形成に至るというようにジェインズの説明は続く(同書, p.169~172)。<二分心>の人々の集団に関するジェインズの以下の描写(勿論、ジェインズの推測によるものであることに対する留意が必要だが)と、言語を持たないが、高度に発達した社会的集団を形成する動物の群れの生活との比較をおこない、相違点を確認すべきだろう。

エイナンの社会生活を想像してみるにあたって思い出してのほしいのだが、このナトゥフ人たちに意識はなかった。彼等は<物語化>ができなかったし、他者との関係で、自分自身を「見る」アナログの自己も持っていなかった。彼らを「合図に拘束された人々」と呼ぶこともできる。つまり刺激に対するように、たえず合図に反応しながら、それらの合図に統制されていたのだ。

(同書,p.172)

次々と出現する「なかった」が、<二分心>だけではなく、ジェインズの説ではそれに先行するという位置づけの心の状態においても成立することに注意すべきだろう。ここでいう合図が「言語」を媒介とした「声」ではなく、何らかの鳴き声やボディランゲージをきっかけとして個体の内部に誘発される傾向性、ある方向への衝動であるとしたらどうだろうか?ここでもまた、ジェインズの<二分心>の仮説は、現実に幻聴があること、「言語」を媒介とした「声」による固体の行動の制禦というのが、現時点においても(しばしば病理的な状態として)存在し、文献記録などから読み取れる限り、古代の或る種の集団でも存在したと解釈できる可能性があるという点に依存しているように読めてしまう。そした「事実」が仮にないとすれば、<二分心>はやはり不要で、それ以前の心のモデルで十分だということになってしまいかねない。

だから問題は、結局ジェインズが<二分心>を「言語を獲得した副作用」(p.165にて初出。だが頻用の言い回しはp.173での再説におけるもの)と定義する点に懸かっているように思われる。それによって獲得されたものについて言えば、同型の構造について、言語を媒介とすることでメタなレベルが得られるという違いが考えられる。或る種の反復がここに存在するのだ。最初は言語なしで、次に言語つきで、というわけだ。これは先に簡単に検討した、ミズンの考える発達過程での一般的知能と特殊知能との間の揺れ動きの反復そのものであるとも考えられるし、或いは兼本の言うところの「ベルクソンの縮約」(兼本浩祐『なぜ私は一続きの私であるのか』, p.123 図-16、およびp.172 図22を参照)の2回目の縮約と同じかも知れない。

結局のところ、そこに「言語」が加わると、社会統制は「言語」によって、「声」によって行われると言っているに過ぎず、それがどのような質の変化をもたらしたかの説明がジェインズの説明には不在なのではなかろうか?ジェインズの説明は、反復の1回目と2回目の違いを明らかにしない。寧ろ「言語」が介在する「以外は違いがない」ようにさえ見えるが、<二分心>の是非は別として、これは絶対におかしいのだ。言語が介在することで、構造は根本的に変容してしまう筈であり、それは寧ろ脳神経科学的な脳のネットワーク構造の形成において裏付けを持っている事実である(つまり言語の獲得の前と後では、脳内のネットワークの構造は大きく異なり、事実上、以前の構造は、新たに追加された構造によって覆い隠されてしまう)。であるにも関わらず、それがもたらす違いが何であるのかの説明ができないのは何故なのか?実は1回目を2回目を通してみるしかないが故に、1回目についての理解が正しくないのだろうか?結局のところ、ジェインズの言う「言語獲得の副作用」がどのようにして起こり、それがどのように1回目におけるシグナルやボディランゲージと異なる機能を持ち、構造的にどのような働き方をするのかを推測していくしかなさそうである。

更に言えば、<二分心>崩壊後の反省的・自伝的意識の発達とどう捉えるかに関しても、ミズンの「認知的流動化」との比較は重要な視点を提供する。つまり<二分心>の崩壊を「認知的流動化」の流れの中で捉えるのか、それとも「認知的流動化」に対して、―ミズンの説はそれを想定しているわけではないが―部分的にであれ逆行する流れと捉えるのかという問題が生じるのである。ジェインズの<二分心>の崩壊についての論調からすると、ジェインズは後者のようなニュアンスで考えていた側面も感じられるが、実際には<二分心>の崩壊に伴い、「神の声」に基づく社会統制が不可能になったとはいえ、反省的・自伝的意識の確立によって別の社会統制の仕方に切り替わったと見るのが適当であろう。ここでは詳述しないが、反省的・自伝的意識の確立によって言語の構造は複雑化・高度化し、一層高度な流動化が達成されたと見るのが適切であろう。そのことは例えば「科学」に対するジェインズとミズンの見解とを対比したときに鮮明なものとなる。ジェインズは「科学」を<二分心>の崩壊に対する反応として捉えようとし、その傍証としてガリレオが数学を神の言葉と呼んだことや、パスカルやライプニッツが数学の持つ正確さに神の声を聞いたことを指摘する(ジェインズ『神々の沈黙』, 第三部<二分心>の名残 第6章 科学という占い, p.523以降)。一方、ミズンはそれを認知的流動性の産物と見做す(ミズン『心の先史時代』第11章 心の進化,認知の面から見た科学の起源, p.280以降)。特に興味深いのは、ジェインズが意識を特徴づける時に重視する言語の持つ属性である「比喩」(ジェインズ, 同書, 第一部 人間の心 第2章 意識, p.63以降)について、以下のように述べているのである。

(…)もしかするとさらに重要なこととして、認知的流動性は、それなしでは科学が成り立たないほどの強力な比喩や類推が使えるようになるという可能性を開いた。
実のところ、もし現生生物の中で我々に最も近い親類である類人猿の心だけではなく、絶滅してしまったが我々とはもっとずっと近かった祖先の心とも区別できるように祖先の心とも区別できるような、現代の心の属性を具体的に挙げるとしたら、それは比喩の使用であり、ジェリー・フォーダーが類推的なものに対する好みと呼んだものであるはずだ。チンパンジーに比喩や類推が使えないのは、比喩を作る心も、もちろんそれを表す言語を作る心も、特化した知能が一つしかなかったら供給しえないからである。初期人類に比喩が使えなかったのは、認知的流動性が欠けていたからである。だが現代人類にとっては、類推や比喩は思考のすみずみにまで浸透し、芸術や宗教、科学の根幹をなすものになっている。

(ミズン『心の先史時代』第11章 心の進化、認知の面から見た科学の起源, p.282)

ミズンが類人猿や初期人類を現代人類と対比させて述べていることは、ジェインズの<二分心>を持ち込むと<二分心>についても当て嵌まる筈であり、ややもすると<二分心>は寧ろミズンの言う「認知的流動化」の手前にあるかの如き印象すらあるのだが、あくまでも<二分心>の社会統制の機能を踏まえて考えるならば、それは「認知的流動化」の萌芽的な初期段階として位置づけるのが適当ではなかろうか。その結果として、後続する<二分心>の崩壊と意識の発生は、認知モジュールと一般的知能の関係の再組織化として捉えられ、それによって言語の構造が高度化し、類推や比喩が可能になったことで、科学や芸術、宗教が現在見られるような形態になったと考えるのが適切であるように思われる。
上記より、<二分心>とミズンの「認知的流動化」の説との関係についてまとめると、<二分心>は、言語獲得による認知的モジュールの再組織化の後の「認知的流動化」による社会的・一般化の過程の産物と位置づけられる。ただし、言語獲得によって最初の社会化と具体的にどのような違いが出たかが明らかではないため、その社会的な機能として、言語なしの場合との違いが明らかでないのみならず、意識の成立後と比較した時に、社会的機能としてのその具体的な特徴を把握するのが困難になっているように思われるのである。そしてそれは、<二分心>が「言語あり」「意識なし」という段階に位置づけられながら、そこでの「言語」がどのような属性を備えたもので、どのように社会的統制に寄与しているのかについての具体的なイメージが明瞭とは言い難い点に起因しているように思われるのである。

6.幻聴の起源についてのジェインズの論理は破綻している

そこで以下では、言語そのものではなく、それと密接関わる「神の声」の成立機序を確認し、ついで<二分心>の特徴の一つとされる幻聴についての議論を辿ることで、<二分心>と言語獲得の関わりについての手掛りを求めることにしたい。まずトリーに戻り、彼が言及、引用する神概念に関連する以下のような神経科学的側面に目を向けた理論上の知見に注目してみよう。

アスペルガー症候群は神を持たない。

(トリー『神は、脳がつくった』, p.94)

多くの研究で、側頭葉が着目されてきた。なぜなら、側頭葉てんかん患者が、発作中に神を見るなどの宗教経験をすることが、ときおり報告されるからだ。カリフォルニア大学サンディエゴ校の神経科学者ヴィヤラヌル・ラマチャンドランは、そのような発作の前に患者の四分の一が「神がいると感じたり、神とじかに対話しているといった感覚を抱いたりするなど、深い感動を覚える霊的体験をする。」と報告した。

(同書, p,312)

マイケル・パーシンガーは、「神と出会う体験は、側頭葉の構造と関連する現象」であり、「個人的ストレス、愛する人の喪失、予期される死の宣告といった微妙な心理的要素によって急に引き起こされる」小発作の一種だと主張した。パーシンガーは次のように考えている。「神と出会う体験をする生物学的能力は、ヒトという種が生き延びるために欠かせなかった…神と出会う体験は、側頭葉の構造と関連する現象であり…もし側頭葉が実際とは違うように発達していたら、神と出会う体験は起こらなかっただろう。」

(同)

(…)マクナマラも同じように「宗教経験に関与する脳領域と、自己感覚や自己意識に関与する脳領域は解剖学的にかなり重なる」と指摘している。(…)

(同書, p.313)

これらは、意識をもつこと、意識を実現する神経科学的なネットワーク構造の獲得が、神を経験すること、ひいては神概念を持つことと極めて密接な関係があることを示唆する。だがそのことと幻聴との結びつきは必ずしも自明とは言えない。そこで一先ず幻聴の側からアプローチしてみることにする。

ジェインズの主張が幻聴の研究の側から参照されている例として、以下を示すことができる。

オランダの心理学者ベルナディーン・エンシングは、日本臨床心理学会主催の講演会「声が聞こえる前の体験と声がもたらすもの」の中で、ジュリアン・ジェインズの「声を聞いた体験の研究」を紹介している。古代の文献を見ると、紀元前9000年のメソポタミアでは、誰もいないのに声が聞こえることはありふれたことだった。文明発生の初期には、人間は言葉を使って考えることに慣れていなかったため、重要な決定をするときは、祖先の声を聞き、それに従っていたのではないか、とジェインズは考えた。

(日本臨床心理学会編『幻聴の世界』, p.29)

では続けて、幻聴についてのジェインズ自身の神経学的記述を見てみる。

ここで非常に重要なのは、患者の「自己」が気づいていない単純な知覚判断を、患者の神経系が行っているという事実だ。その後、この知覚判断は前述の例と同様、予言のような声に形を変えうる。たとえば廊下をやって来る雑役夫がほんの小さな音を出す。患者はそれを意識していない。だが患者は、自分の幻聴の声が叫ぶのを聞く。「さあ、誰かが水の入ったバケツを持って廊下を歩いてくるぞ。」それからドアが開き、予言は実現する。声の持つ予言的側面に対する信頼は、<二分心>の時代にそうだったかもしれないように、こうして高められ、保たれる。

(ジェインズ『神々の沈黙』, p.116)

幻覚があるということは、神経組織に何か先天的なものがその根底にあるに違いない。これは生まれつき、あるいは非常に幼い頃からまったく耳が聞こえなかった人の事例を研究することによってはっきりわかる。そうした人たちでも、どういうわけか幻聴を経験する場合があるからだ。これは一般に、耳の不自由な統合失調症患者に見られる。

(同書, p.117)

最も納得のいく仮説は、言葉の幻聴は、行動を制御する方法として自然淘汰によって進化した言語理解の一副作用だった、というものだ。
 ある男が、居住地を流れる川のはるか上流に、魚を捕るためのやなを仕掛けるように命じられたとする。もし男に意識がなければ、当然状況を<物語化>することも、それによってアナログの<私>を空間化された時間の中で心に抱き、十分に結果を想像することもできない。それでは、彼はどのようにするのだろうか。言葉だけが、午後中かかるこの仕事を彼に続けさせられるのだと思う。更新世中期の人間は、自分が何をしているのかを忘れてしまうだろう。だが言葉を話す人間は、思い出させてくれる言語がある。自分で言葉を反復するのかもしれないが、それには一種の意志が必要で、その時代の人間に意志があったとは思えない。となれば「内なる」声という幻聴が、何をするのか繰り返し教えていたと考えた方がよさそうだ。

(同書, p,165)

ここの箇所のジェインズの論理は、厳密に考えればかなり奇妙なものだし、直後でそのことをジェインズ自身が認めている。意識ある存在に備わっているものを取り除く仕方で<二分心>を構成しておいて(だから一先ずは、それはあくまでもジェインズの理論的仮構である)、その結果として<二分心>における幻聴の妥当性を導くという論法になっているのだ。

しかし以下の部分の記述は、本能に基づかない後天的な行動を意識のない心において反復・継続させるためには<外部>からの刺激が必要であるということを述べているに過ぎない。

<性向決定構造>にもっと緊密に即した行動(あるいは、昔の用語を使えば、より「本能的な」行動)には、一般的な呼び水は必要ない。しかし、学習によって習得した行動で、しかも欲求が満たされて完結することないものは、何か外的要因によって維持してやらねばならない。その役目を果たすのが幻覚の声だ。

(同書, p.166)

それが現象的に「幻聴」であるというのは一つの可能性に過ぎないことになり、幻聴によって<二分心>が特徴づけられるのだとしたら、「幻聴があるのなら、<二分心>もあるだろう」といっているに過ぎない。多分<二分心>を否定する論者は、学習によって習得した行動で、しかも欲求が満たされて完結することないものを維持する手段として別のものを用意して、<二分心>を消去するであろう。<二分心>抜きで代替の説明ができれば、それでも<二分心>を根拠づけるのは、現実に「幻聴」があるという事実しかなく、病理的な形態であれ、意識を持つようになった人間においてそれが存在するからには、その起源を通時的に遡行して「過去に求める」べきであるという点にしか根拠はないことになる。

ところがその論理は必ずしも必然的なものではない。現時点で病理的な形で存在するものの発生の要因は、共時的に現在、意識をもった人間が取り囲まれている環境の構造に求めるべきで、通時的に遡行したときにもそれが存在しなくてはならないというのは誤謬推理であろう。それが正しいのなら、現在あるものはすべて過去にも存在しなくてはならないことになってしまうだろう。勿論、だからといって、<二分心>が存在した可能性を否定することにはならないし、その存在を前提とした心の構造の変化の歴史の一時期の説明を試みること自体が原理的な水準で禁じられてしまうわけでもない。従って、その後の論理が奇妙なものであったとしても、ここで引用した冒頭の部分で掲げられた仮説、即ち、「最も納得のいく仮説は、言葉の幻聴は、行動を制御する方法として自然淘汰によって進化した言語理解の一副作用だった、というものだ。」という主張自体はなお検討の余地はあることになる。

一方で、上記のジェインズの説明は、例えば、発達心理学におけるやまだようこの主張における「「うたう」ことの優越」と矛盾するわけではない。というのも「うたう」というのは、出発点においては、情動的な共感や行為遂行性の側面の重視にドライブされており、幻聴を聞くことが行動に直ちに直結するなら、命令する声とその応答は認知の次元ではなくて行動の次元に位置づけられるし、そうした行為は常に既に情動に彩られている筈であるからだ。その意味で、届いた言葉が行動を(もしかしたら不随意的に)誘発するというような事態は、それを幻聴において声の知覚にフォーカスすることなく、寧ろ「うたう」次元に位置づけることの方がより適切であるとも考えられる。もっと言えばジェインズが初めから「幻聴」を答と決めつけて探している「外的要因」は、言語の獲得に先行する非言語的なものであると考える方が、上述の発達心理学的知見のみならず、動物行動学の領域における学習に関する知見からしても自然な発想ではなかろうか。そしてそれらはすべて<二分心>抜きでも、フラー・トリーやミズンによる心の発達の回想の中に位置づけることが可能なように見える。

なお「学習によって習得した行動で、しかも欲求が満たされて完結することないものは、何か外的要因によって維持してやらねばならない。」というジェインズの規定を、エマニュエル・レヴィナスが<無限なもの><他なるもの>へのそれとして設定する「形而上学的渇望」(レヴィナス『全体性と無限』第1部<同>と<他>,A形而上学と超越, 1,見えないものへの渇望, 岩波文庫版ではp.39)及び、それと対比的な位置づけを持つ「享受」における「欲求」「成就」(同書第2部 内部性とエコノミー, A.生としての分離, 岩波文庫版ではp.208以降)といった概念群と比較対照することは、レヴィナスが情動による価値づけや感性を重視していることや認知的な側面よりも社会的な側面に重点をおいていること、更には「享受」を出発点として、主体の構造の変容プロセスの中で住居、所有や労働といったものを捉えている点、そして何よりも<他なるもの>の或る種の極限として神を捉えている点、最後にそれらを時間論的な枠組みで考えている点―レヴィナスによれば「時間は孤立した独りの主体の産物ではなく、主体と他者との関係そのものである」(レヴィナス「時間と他なるもの」,合田正人編訳『レヴィナス・コレクション』所収, p.232)―を考えれば極めて興味深い。

ここで重点は「しかも欲求が満たされて完結することない」という性格付けにある。ジェインズは結局のところ、それを「仕事をやりぬく」(ジェインズ『神々の沈黙』, p.166)ことに結び付けているが、それが単に、目的―手段分析における目的―手段関係の階層構造(これについては、例えば、ハーバート・A・サイモン『システムの科学』第3版, 4.記憶と学習:思考に対する環境としての記憶のプロダクション・システムに関する箇所(p.121)および 5.デザインの科学:人工物の創造の目的―手段分析に関する箇所(p.145)を参照のこと)の中で、直接的なゴールではなく、最終目的に対しては手段となるサブゴールに到達するという意味合いに過ぎないのであれば、言語獲得はおろか、その遥か手前の道具の作成、使用が観察されている哺乳類や鳥類と場合にも適合可能であるかに見えてしまう。ジェインズは<二分心>の存在を主張するにあたり、まず最初に意識なしでできることが如何に多いかを説明して以下の点を主張した。(ジェインズ『神々の沈黙』第1部 人間の心 第1章 意識についての意識 を参照。)

  • 意識は経験の複写ではない

  • 意識は概念に必要ではない

  • 意識は学習に必要ではない

  • 意識は思考に必要ではない

  • 意識は理性に必要ではない

その上で「意識は必要か」と問い、意識なしの心の様態としての<二分心>を導入したのであった。ここまで検討してきた内容は、実は上記のジェインズの意識に関する主張を反駁するものではない。そうではなくて、ジェインズが<二分心>に帰属させる認知や行動が、意識はおろか、<二分心>すら無しでも実現可能ではないかということなのである。だが一方で、権利上の問題としても現実の問題としても、<二分心>のような心の構造そのものが不可能であるというわけでもない。問題は、「幻聴」をはじめとするジェインズが<二分心>を特徴づけるものとして取り上げる現象が、<二分心>の構造そのものに由来するというよりは、意識ありの現在の心のモードから、自らの基層を覗き込んだ時に生じるもので、それ自体が遠近法的な倒錯の産物ではないかという点にある。端的に言えば、それを「幻聴」であると自覚するシステムが、無媒介に「神の声」を聴き、それに無意識に従うような心の構造のみを備えているということは既にありえず、それは意識的な反省に媒介された認識の筈だということだ。その一方で、ジェインズが「神の声」の機能として示すものが、<二分心>なしで、そもそも言語さえなしにすら成り立ちうる、より基層的な心の機能に由来するものではないかということでもある。

本論では最初にフラー・トリーの階層の中にあえてジェインズの<二分心>を位置づけようとし、言語獲得に纏わるギャップの存在を確認した上で、意識なし、言語ありの条件をみたす心の様態として<二分心>を位置づけようとしたが、その結果わかったことは、ジェインズが<二分心>に対して持ち出す論理は、意識なし、言語ありの条件をみたす心の様態に過不足なく当て嵌まるとは言い難いということであった。大方の考えでは、それは<二分心>が余計だからで、実はそんなものは存在したことがないからだ、という風に考えるであろうし、その可能性があることは否定できなが、本論は<二分心>は多分、全くの出鱈目というわけではなく、多分、それ抜きの理論にある致命的なギャップを埋めるような仕方で嵌る筈だという立場をとりたい。そしてそのためには<二分心>によってジェインズが示そうとした心の水準を、ジェインズの定義とは独立に確認することが必要となる。

そこでここでは一旦、ジェインズの<二分心>から離れて、意識の水準に戻り、ありうべき<二分心>の位置づけを試みることにしたい。

7.<二分心>の位置づけに関する現時点でのとりあえずの見通し

それを神と呼ぶかどうかはともかく、構造的に、自分が直接認識できない彼方にある何者かというのを、(<二分心>は、ではなく)意識は抱えてしまうように出来ているのではなかろうか。ごく粗い言い方をすれば、自律したシステムは外部を持つが、自分が自律していることを自覚しているシステムは、外部をそのようなものとして認識する。更に、自分が自律していることを自覚しているという構造を対象化する装置を備えたシステムは、そのことによって自分が埋め込まれている世界に対して超越的な存在への通路を手にすることになるのだ。この階層構造は、津田一郎がスマリヤンを参照しつつ『複雑系脳理論』第8章 記述不安定性 8.3 推論の階層とカオス で提示している以下のような推論の階層に対応するだろう。

1型の推論者:
(1)すべての恒真式を信じている。
(2)任意の命題x,yに対して、xとx→yを信じるならyを信じる。
ここで「xを信じる」を簡単のためBxと書こう。
2型の推論者:
1型の推論者が行う(Bx and B(x→y))→Byの形のすべての命題を信じる。
3型の推論者:
任意の命題xに対して、xを信じればBxも信じる。
4型の推論者:
任意の命題xに対して、Bx→BBxを信じる。
階層はここで終了である。これ以上高次の推論者は存在しないことが証明される。

(津田一郎『複雑系脳理論』, p.84)

ここで1型の推論システムは三段論法を計算する機械に対応し、自分が三段論法を計算していることを知らない。それに対し、2型は自分が三段論法を計算できることを知っており、3型は自分が2型であることを知っている。そして4型は、自分が3型であることを知っているというような階層を成していることになる。

津田の階層は、信念システムにおける推論者の階層であるが、それは「自覚的システム」の成立条件としての意識が備えるべき自己参照的な構造の階層であるので、それを他者認識のようなレベルに適用して議論が可能なのは当然であるが、それを踏まえて言えば、心のシステムがどの推論者の階層に対応する構造を備えているかに応じて、その心が自己について持ちうる認識が条件づけられる、つまり自分がどのような構造を持っているかについての認識が変わり、それに応じて他者をどのようなものとして認識するかもまた変わってくるという点がここでは重要である。自己や他者の構造は、推論の対象となるxに単純に代入することができない点に留意が必要なのだ。そしてこの文脈においては、神概念もまた他者の一部であるから、上述の議論は、神概念についても適用されることになる。<二分心>における神がどんなものであるかを議論することの厄介さの一部は、このように、自己の構造と神概念が相関的であるという点に存すると思われる。

ともあれこの推論の階層に基けば、<二分心>と<二分心>崩壊後の意識の成立以降では、推論の階層には違いがあることになる。端的に言えば、反省的・自伝的意識を持つ推論者は自分が正常であることを知っている4型の推論者であるのに対し、<二分心>は3型の推論者であるということである。そしてこの自覚のレベルの違いに応じて、他者についての「心の理論」のレベルも限界づけられることになる。一般に、自己についての自覚のレベル以上の「心の理論」を構築することは不可能である一方で、「心の理論」のレベルは、自己についての自覚のレベルに対応するとは限らない。(例えば自閉症の場合には、自己についての自覚のレベル上は構築可能な筈の「心の理論」の構築ができないのだから、レベルに乖離が存在することになる。)

それでは<二分心>の持ち主の「心の理論」がどうであるかであるが、ジェインズの<二分心>についての記述は、それが社会統制という機能を持つことを主張しながら、心の社会的な側面に関する記述を欠いており、ジェインズ自身の記述からこの点を直接確認することは困難である。だが一方でジェインズの記述にある<二分心>における声の主である「神」がどのようなものであるかを通じて、間接的に窺うことはできるだろう。既に見たように、トリーは神概念とそれに先行する霊魂の概念を区別するが、ジェインズではその点は明らかではなく、例えば祖先崇拝について主題的な言及はない。

そのことを踏まえた上で、<二分心>の心が聴く声の主を神と呼ぶとしたら、レヴィナスの他者論の鍵概念である「顔」を踏まえ、その神は「顔」を持つのか?という問いを立てることが可能であろう。「顔」を持つとしたら、それは意識が探し求める「沈黙する神」、「隠れたる神」である一方で、<二分心>の神は「顔」を持たないのか、それともこうした二分法が成り立たない、中間の過渡的な領域があって、そこに<二分心>の神が位置づけられるのだろうか。勿論ここで「顔」を持つという言い方をしているのは、文字通り視覚的に把握できるかどうかという水準の話ではない。そうではなくて、相手をどのような構造を持つものと了解し、相手とどのような関係を持っているのかについての構造上の差異に関わる水準の区別である。レヴィナスが、『全体性と無限』の中でこの区別に関して、<二分心>における神について考える上で示唆的な言及をしている。以下の文脈において、レヴィナスの神話の神が「非対称」であるとされる点に注目すべきだろう。それは明らかに一方的に「語りかけてくる」が、「語りかけることができない」という点で「非対称」と考えられており、その規定は、まさにジェインズの<二分心>の神に一致する点を指摘しておきたい。

(…)不確定なものとしての始原的なものの未来は、具体的には、始原的なものの神話的な神性として生きられている。顔を欠いた神々、語りかけることのできない非人称的な神々が、享受のエゴイズムを境界づける虚無を、始原的なものに対する享受の親密さのただなかに刻みこむ。とはいえこれが、享受によって分離が達成されるありかたなのである。分離された存在は異教徒になる危険を冒さなければならない。異教徒であることで存在の分離があかされ、そこで分離が達成されるからである。顔を欠いた神々が死に絶え、分離された存在が無神論と真の超越にみちびかれる瞬間まで、この危険はつづくのである。
未来という虚無によって分離が確証される。享受される始原的なものは、分離する虚無にいたる。私が住まう始原的なものは、夜とのさかいにある。私に向けられている始原的なもののおもてによって隠されているのは、あらわれることが可能な「なにものか」ではない。それは絶えず新たなものとなる不在の重みであり、存在者を欠いた存在であって、際立って非人称的なものである。存在と世界の外部で、あらわれることなく存在するこの様式は、神話的なものと呼ばれなければならない。始原的なものが繰り延べられてゆく夜は、神話的な神々の王国であるからである。(…)
未来のこうした夜の次元を、私たちは“ある”という標題のもとに記述したことがある。始原的なものは、“ある”へと繰り延べられる。内部化するこころみとしての享受が遭遇するのは、大地の異邦性にほかならない。
とはいえ享受は、労働と所有に援助をもとめることができるのである。

(レヴィナス『全体性と無限』第2部 内在性とエコノミー B 享受と表象 5 始原的なものという神話的な様式, 岩波文庫版では、上巻, p.284~5)

なおここでレヴィナスが言及している“ある”からの意識の発生を、レヴィナスはhypostaseと呼んでいるが、ジェインズが<二分心>から意識への移行の過程に対して基本的には同じ用語であるヒュポスタシスを用いているのは偶然にしては出来過ぎており、上記引用の末尾で、労働と所有に言及がなされている点と併せ、両者のより厳密な照合が求められるだろうが、本論の範囲を超えることになるため、ここでは示唆に止めたい。ただしヒュポスタシスについては後ほど改めて言及することにする。

<二分心>とか宗教の起源、神概念の発生を辿ることが難しいのは、既に意識を持たされてしまっている我々にとっては、神とは「隠れたる神」でしかないので、それ以外の神との関わり方をイメージすることができないことに理由の一つがあるだろう。<二分心>の神にも、ついつい、自分の神の了解である「隠れたる神」を投影してしまっている可能性があり、それは或る種の「還元」操作をしてやる必要があるのだと思われる。(ジェインズ自身もその弊を逃れているわけではなく、場所によっては、パースペクティブが裏返っているように感じられるところもあるように感じられるが、この点について後述することになるであろう。)

逆にジェインズの考え方を敷衍すると、ヨハネ伝の冒頭の「はじめにことばがあった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」は、神が「言葉」として、ここでは<二分心>が聴く声として「心」に現われたということを示唆するように解釈できるのだろうか。「言葉」が神であるというのは、最初の段階では、言葉は概念的な意味の次元ではなく、行為遂行を促す「力」として獲得されたというのを示すのか?また、他者とのコミュ二ケーションはどうなるのか?同じ部族の他の成員は他者ではあっても「神」ではない。

もう一つの素朴な疑問として、個体発生は系統発生を繰り返すのであれば、子ともの発達の段階で<二分心>に相当する段階が見られないのは何故か?それとも見られないというのは間違いで、実は<二分心>的な発達段階はあるのか?という問いが提起できるであろう。

だがこの問いは不適切である可能性がある。まず言葉の獲得が<二分心>に先行すると言うジェインズの説を前提にすれば、動物とは異なって、報告する手段がないため、そうした段階の有無を確認できないという可能性は排除できそうだ。だけれどもだからといって、<二分心>の心の状態を他者に伝達可能であると決めつけるのは早計かも知れない。しかし少なくとも、<二分心>の心を持っていることを外部から推測することを可能にするような反応を観察できる可能性はありそうだ。しかもそれは、言語を獲得する以前の段階まで遡ることはないことが(ジェインズの定義により)保障されている。ただし<二分心>の状態が、意識を備えた個体が外部から観察したときにどのようなものとして観察できるかは明らかではない。幻聴が報告されるといったようなわかりやすい徴候を示すのであれば別だが、一見したところ<二分心>の段階にあることが気づかれないということはないだろうか。だが残念なことに、ジェインズが意識における<二分心>の残滓として指摘する例は、ここでの観察に役立ちそうにないものがほとんどのようだ。

もう一つ留意すべき点は、個体発達の段階と系統発達の段階では、言葉を遣り取りする個体の心の構造に違いがある点だ。まず個体発達の段階では、最初に言葉を遣り取りする相手である母親の方は<二分心>の心を持っていない。ところが系統発達の段階では、定義上、成員はすべて<二分心>の心を持っていることが想定されているように思われる。この時それら二つの段階における言葉の遣り取りが構造的に同じものであるとは考え難い。そればかりか、個体発達の段階においては、相手が<二分心>の心を持っていないが故に、<二分心>の段階というのが陽に観察できない、更にはそもそもその段階を通過しないという可能性すら考えるべきだろう。心の構造は個体単独で閉じた状況で決まるものではなく、そもそも最初から外部に向けて開かれていて、外部との関係で定まっていくものと考えるならば、系統発達と個体発達の間に並行性が見られないという方が自然であり、結果として、<二分心>的発達段階は存在しなくても不思議はないことになる。このように考えると、こと心的システムの発達に関して言えば、系統発生と個体発生の間に共役不可能といって良い構造的な差異があるため、個体発生は系統発生を繰り返すとは言えないというように考えるのが妥当なのかも知れない。

その一方で、やまだようこの『ことばの前のことば』の中には、意識が成立する以前の段階のコミュニケ―ションが含まれている筈である。<二分心>そのものではなくても、個体の行動を制御するような「言語」の使用が見られれば、それは機能的には<二分心>に対応すると考えていいだろう。外部からの刺激の知覚、情動の伝染といた基盤の上で、直接的に、相手の「言語」に反応して行動するのではなく、そうした経験が内面化され、個体の中で閉じたループを形成した状態というのがもしあれば、そしてそれが<物語化>のような意識なしでは不可能なものではなく、いわば現在時間意識の内部で起きるとするならば、それが幻聴として聴こえるかどうかといった特徴によらず、機能的にも構造的にも<二分心>相当の機構の存在を想定することができるのではないか。

もう一度ヨハネ伝の冒頭を手掛かりとするならば、ジェインズは神を社会統制機能と考えているのだから、行為を促す、ないし禁止する「言葉」、命令する「言葉」が神そのものであると考えられるだろう。だがこれは、近年の社会脳的な観点や、やまだようこの一連の「ことばの前のことば」の研究の背景にある言語観と対立するものであるようにも見える。実際、やまだはその第2巻にあたる『ことばのはじまり』の冒頭において、まさに上記のヨハネ伝を引用した後で、自分の立場を以下のように規定している。

「はじめにことばありき」の世界観では、ことばによる名づけが世界をつくり、ことばによって世界が恣意的に区切られるということば観をつくってきた。ことばによって構築される世界を特別に重視し、ことばは天地や物質よりも永遠に生きながらえる真実であると考えられたのである。この世界観はときに価値が反転して、ことばや文化や精神とは対極にある「自然」の価値を大きくする。ことばや文化と対極にある「ありのままの自然や生得的なもの(nature)、身体的なもの」を特別視する方向に大きく傾くのである。しかし両者は正反対に見えて実は同じ世界観の両極にすぎない。
 それに反して、私がこの本で述べようとしているのは、「ことの端のことば」観と言えるかもしれない。この世界観は、ことばが〔ここ〕という場所や文脈から独立して永遠に存在しうる真理であるかのようにみなされてきたことへの懐疑から出発する。

(やまだようこ『ことばのはじまり』, p.19-20)

ジェインズの<二分心>は言語の獲得によって脳に、それゆえ心に生じた変化を不連続なものと考えているのに対し、やまだの考えではそれは、常に非言語的なものとの関わりで捉えられるものという違いがあることは確認しておくべきだろう。だが、<二分心>の神は、最終的に形成された超越的な「永遠の神」ではなさそうであり、言語が構築する文脈非依存の概念のネットワークとも無縁で、寧ろ〔ここ〕という場所や文脈に依存した存在である筈である(それが定義上、延長的な自伝的自己の表象を持っておらず、物語化もできないので)。つまり言語の獲得と自伝的な意識の成立の間にもしズレがあるならば、そのズレを埋める心の様態として<二分心>が存在する余地があるということになる。従って、そのズレがあるならば、やまだの観察の中にも<二分心>を示唆するようなものが存在することになる。ただし、そのズレの存在は自明ではなく、実際にはそうしたズレは存在しないかも知れない。

更に言えば、もし狩俣の祭祀において<二分心>ないしその残滓と呼べるものが一時的にであれ発生するのだとしたら、通常は意識ある個体において、意識の中断が起きてモードが切り替わることを意味する。だが意識の中断そのものは、祭祀のようなものを持ち出さなくても頻繁に発生している。というより意識の連続性というのは、それ自体が意識の自己表象に過ぎず、自分を連続的と思っている意識自体は連続的ではないというのが実際である。とするならば、後は<二分心>というのが、脳のネットワークの形成のされ方として、意識を持つ場合のそれと共存しうるもの(同じ結線のネットワークの一部が不活性化されるといったかたちでの実現を含めて)かどうかに懸かっているのだろう。構成主義的な視点、進化の過程から自然に導かれる仮説は、意識のネットワーク上で<二分心>のネットワークのシミュレーションは可能だが、その逆は成立しない、というものだろう。従って、少なくとも構造上は、或る種の還元によって、もしそれが実在するならば、<二分心>を再構することが可能なのであって、実は祭祀こそがその再構のための操作なのだということになる。だが、仮にそうした再構が実現したとして、それにアクセスするためには二重の障害が存在する。一つは意識とかクオリアと同様、それが外部から直接アクセスすることが原理的にできないという、オートポイエティックなシステムが孕む構造上の制約であり、もう一つは祭祀が非公開であり、<二分心>の状態を外部から観察することや、外部に報告することが禁忌とされているからである。従って、狩俣の神歌や祭祀に<二分心>を見出そうとする試みは、そうした二重の制限の下で、だが幸いにして、そうした禁忌の存在を考えれば例外的と言って良い程に豊富な記録や分析から、<二分心>の所在を間接的に透かし見ることが求められていることになる。

神は意識にとっては「隠れた」ものであるにしても、心のモードにおいて常に意識が支配的であるわけではないとすれば、<二分心>のモードと意識のモードの切り替えが行われていると考えるべきなのであり、その意味では、意識の背後で今なお「神」が訪れることは起きると考えるべきなのではなかろうか。<二分心>の名残というと過去にあったものの残滓としての周縁的、或いは病理的な現象といった色合いが強いが、現実の「心」に即して考えるならば、「私」の表象に関しては、意識のモードが卓越してしまうが、「自己」のモードとしては、意識のモードを中断して、<二分心>のモードで動作することも可能である、というような解釈で「名残」を説明できないだろうか。<二分心>によってジェインズが探り当てようとした心のモードは意識によって改変を受けてはいるだろうが、破壊され、喪われてしまって、最早「名残」を留めるばかりとなっている廃墟などではなく、或る意味は、現在でも意識の背後で動作しているものとして捉えるべきなのではなかろうか。つまり、共時と通時の重層的な構造というのは、寧ろ、現実の心の構造として実在的なのであり、決して、理論的な抽象の果ての仮構などではないのだ。

ジェインズの<二分心>仮説に問題があるとすれば、それが脳の左右の独立性に原因があるとする幻聴という側面を強調するあまり、社会脳/認知能のバランスに関して、著しく認知能に偏向した特徴を与えられている点にあるかも知れない。そのせいで、<二分心>における神の性質についての通時的な変容プロセスについても、遠近法的な倒錯が生じてはいないかついて検討の余地があるように思われる。既に「幻聴」に関してそうした倒錯の存在を示したが、後続の章では、「幻聴」と並んで<二分心>を特徴づける顕著な現象であり、<二分心>の意識との断絶を示しているかに見える「憑依」についても同様の再解釈を試みることとする。そしてそこでは「心」というものが本来備えている社会的な側面、そもそもそれが外と関わることで生じ、外部とのインタフェースとして機能するという側面が重視されることになるであろう。そもそも<二分心>にせよ、神概念にせよ、いずれも社会統制の役割を果たすものであり、本質的に、孤立した個人の心の閉じた内部で起きるものとして捉えること自体が不適切であり、寧ろ今日なら、社会脳の視点で捉えられるべきものなのだから。

8.<二分心>の位置づけにおける規範と言語

言語を媒介とした対人コミュニケ―ションの確立にあたって、「命令に従う」という側面が、社会統制の手段としての<二分心>を前提とした場合には焦点になるように思えるのに対して、例えばやまだようこの「ことばの前のことば」のシリーズのような発達心理学のモデルでは、そのような規範に従うといった側面が出てこないように見えることは何を物語るのだろうか。
差し当たり言えるのは、もし「規範に従う」ということをやまだの文脈で扱うとしたら、それもまた、相互の模倣と共感といった情動的な側面を出発点として捉えられるだろうということである。従ってそれは、最初は「規範」としての性格を持たず、模倣の失敗/成功であったり、共感の存在/不在といった形で情動価として現われ、その背後に存在するパターンとして浮かび上がるようなものであろう。そして学習によって背後にあるパターンが個体内部の価値のシステムにマップされ、それが最終的に「規範」として内面化されるという過程を経るものと思われる(フロイトのモデルなら「超自我」の形成に対応すると考えられる。)だが、そのプロセスが「規範」の成立として具体的に記述されたり、スキームが提示されているようには見えないのは、恐らく、やまだが対象としている発達段階とのギャップによるものであろう。言い替えれば言語がどう関わるのかと言う点に着目すれば、「ことばの前のことば」から「ことばのはじまり」にフォーカスすると、「規範」が言語化され、「規範」として自覚される段階というのはより後の発達段階に相当するのかも知れないということである。
だが、それを言語化し、「規範」として自覚することではなく、自分が帰属する社会的集団の規範に随伴するということに限定したらどうだろうか?社会的動物の行動を念頭におけば、言語抜きでも成り立ちそうである。それは反射弓による条件反射とは異なって自動的なものではないし、高度に脳が発達した鳥類や哺乳類であれば、社会集団の構造もまた種によって規定されているとさえ言えず、どのような社会的集団が形成されるかさえ環境に応じて或る程度の可塑性を持っていることが知られている。更にその集団の中での序列をはじめとする個体間の関係は流動的であり、個体は動的に変化する社会的関係に応じて、集団の中での自分の位置づけを変えていく。規範自体は固定的だが、その規範を、具体的な特定の場面において、誰に対して適用するか、その場で許容される行動は何であるかの判断が、都度行われており、そこでは言語を介さずとも、高度で複雑な認知が関与していることは明らかである。そこでは限定されたものとはいえ学習による或る程度の汎化すら実現しており、言語獲得後であれば「比喩」として捉えられる或る種の「類推」すら可能になっていると見ることも不可能ではないようだ。それは現在構成主義的ロボティクスにおいて検証されているレベルの、言語獲得の前段階としてのシンボルグラウンディング(この点については、土井・藤田・下村編『脳・身体性・ロボット 知能の創発をめざして』、特に第3章である谷淳「力学系に基づく構成論的な認知の理解」を参照)が実現されているということでもあろう。
<二分心>についての本論での理解は、もしそれが実際にあった/あるとしたら、既に一旦は言語抜きで成立していた外部とのコミュニケーションの再構築といった側面を持つというものである。或る種のやり直しを、もう一階層ループを追加する建て増し工事でやっている。だけれども勿論、建て増ししてできるようになったことは、それ以前とは質的に異なったもので、そこには「創発」があるのだというように整理できるように思われる。ただし<二分心>という段階が存在するとしたら、そこで建て増しにより構成されるのは意識ではない。<二分心>の段階では、定義上、まだ意識はないのであり、意識を持つには更にもう一段必要だということである。「規範」として内面化する、ということについても同様で、まず言語なしでできていた段階があり、それを言語あり、意識なしでやるのが<二分心>、言語あり、意識ありでやるのが現在の人間の普通の心なのだ、という整理になるであろう。
トリーのヒトの心の進化プロセスにおける言語の位置づけの曖昧さについては既に指摘した通りであるが、そこでも述べたように、「言語」ということで実質としてどのような構造を持ち、どのような機能を持っているものを指しているのかが問題なのである。既にミズンとの比較を行った際に指摘した通り、ジェインズの文脈に照らせば、彼は言語の持っている比喩の役割を、<二分心>にではなく、その後の意識の段階に結び付けていた。それを踏まえれば、社会的動物としての鳥類や哺乳類の「言語以前」と、「比喩」を可能にする、象徴的な言語使用との狭間(とはいえ、それは通時的に見れば、それ以降、今日に至る迄に比べて遥かに幅を持つ区間なのだが)に、「言語あり」「意識なし」の<二分心>は位置づけられることになる。やまだは人間の幼児の言語発達の過程を把握するにあたって、「意味記号(シニフィアン)」を、合図、指標、表象、象徴に区分しているが(やまだようこ『ことばのはじまり』第7章 記号としての「これ」―世界よ小さくなあれ 3 意味記号の区分, p.297以降を参照)、この4つのうちのどこまでが、<二分心>以前に獲得、使用され、<二分心>においてはどうであり、<二分心>の崩壊の過程で獲得されたものはどれか、ということを問題にしても良かろう。
「言語」としてどのようなものを想定するかに関して言えば、比喩の問題と同じ程度に重要と思われるのは、時制や反実仮想といった、反省的・自伝的意識の確立との関係が強く示唆されるような言語表現が、<二分心>においてはどうであったかという点も問題にできるのではなかろうか。そしてそれは「規則に従う」ということの実質が<二分心>においてどうであり、その後の<二分心>の崩壊と意識の発生でどのように変わったかに本質的に関わるものと思われる。ただし、言語表現に手掛りを求めようとしたときには、文字の発生によって記録が可能になる以前の段階について、直接的な証拠を得ることには原理的な困難が伴う。ジェインズの<二分心>に関する記述を見る限りでは、あくまでも権利上だが、そこで要請される言語表現は極めて限定的なものであり、命令や禁止のモダリティや、条件表現、全称や否定オペレータは含まれるだろうし、現在を中心とした、現在の延長としての近い未来や過去についての表現も求められるだろうが、「歴史意識」に関わるような時制表現、異なる仮想現実についての言及のために必要な表現形式が必要であるようには見えないし、反省的意識なしの意識の様態において「規則に従う」ことの実質は、反省的意識の様態の下でのそれと同じものではありえないだろう。一言で言えば、既に参照した津田=スマリヤンの推論の階層に対応した「自覚」のレベルの違いが存在するということである。4型の推論者は自分が「正常」であることを知っていることを思い起こそう。自分が「正常」である(=3型の推論者である)というのは「規則に従って」いることに他ならず、「正常」であることを知っていることは、「規則に従っていることを自覚している」ことに他ならない。
本論においては後続の章で、狩俣の神歌が歌われる場での当事者である神役(達)の(共同)主観的認識において「規則に従う」ということがどういうことであるかについての確認を行いたい。それは当然、規則に従うことの失敗としての「規則に違反する」ことをも問題にすることなる。とはいえ、狩俣の祭祀や神歌に関する記録に、例えば脳波を測定した結果があるわけではなく、資料体として用いる聞き取りの問題意識も本論のここでのそれとは異なるものであり、資料から導けるものについては自ずと限界がある。その一方で、狩俣の神歌の言語表現を直接探る試みは本論の扱いうる範囲を超えており、残された課題として最後に言及するにとどめざるを得ない。その一方で、三輪眞弘の「逆シミュレーション音楽」において「規則」に従うことの様相を検討することは、それが「逆シミュレーション音楽」の定義自体に関わるだけに本質的でもあり、それを通して得られる知見から<二分心>の心の様態を浮かび上がらせることは可能であるように思われる。今日における構成主義的ロボティックスが、実際に工学的に機械に心を実装することによるシミュレーションであるとしたら、まさにそれは「逆シミュレーション」による<二分心>へのアプローチと言いうるであろう。本論の主旨から外れるためここでは扱わないが、前者についても、あくまでも理論的水準の考察ではあるが、嶋津好生による試みが存在する(嶋津好生「ロボットが神々の声を聴くとき」)が、本論では以下で簡単に後者のアプローチでの検討を試みる。(なお、「逆シミュレーション音楽」については、三輪眞弘『三輪眞弘音楽藝術 全思考1998-2010』所収の、「音楽における3つの「相」に基づく「逆シミュレーション音楽」の定義」(同書, p.73以降)を参照のこと。この後、三輪眞弘の具体的な作品に言及するが、それらについての楽譜や音源等の参照は割愛する。出版譜があるものについては、巻末の参照文献に記載した。)
「逆シミュレーション音楽」には「規則による生成」「解釈」「命名」の3つの相が存在するが、ここでは「逆シミュレーション音楽」の「解釈」に従って演奏することについて考えてみる。例えば、規則をコンピュータ上でプログラムしてそのプログラムを動かすことが考えられるが、この時プログラムが動作するコンピュータはまさに津田=スマリヤンの階層では、1型の推論者に相当する。一方、人間が「逆シミュレーション音楽」を演奏する場合は、恐らく、作曲者によって言語で記述された「解釈」を読み取って、それを身体的に実現するだろう。その時「解釈」される「規則」についても了解をして、自分の解釈が規則に従っていることを確認することができる。結果として人間は、解釈に誤りが生じたことに対して自覚的であり、エラーが発生したことを自ら検出して停止することができ、やり直すことができる。
通常、考えられるのは上記の2つのモードのみに見えるが、実際には、別のモードを考えることも可能である。即ち、他者の教示による解釈を模倣して学習することにより実現する場合がそれである。他者の教示といっても、規則や解釈が言語により明示された形での教示なら、作曲者が言語で記述した指示を読むことと同じであるが、ここではそうした言語化された指示を一切媒介せず、あくまでも実現された解釈を模倣することのみより、自分もまた解釈を実現できるようにするケースを考えるのである。これは規則が論理的にではなく、いわば類推によって陰伏的・経験的に獲得されることに相当する。
ここで注意が必要なのは、ここでの模倣は単純な動作そのものの身体的なコピーではないということである。「逆シミュレーション音楽」の規則は有限状態オートマトンであり、初期値が異なればどのように系が発展するかが異なってくる。「またりさま」のような単純な規則であれば、初期値ごとにどのように系が発展するかについて全ての場合を書き下すことも可能だが、ここで求められているのは、初期値の幾つかで学習をさせて、別の初期値を与えた時に「規則」をまもっているかのように動くことであり、その時に正しく汎化でき、学習が行えたことになるのである。逆にそのような学習の結果に基づけば、動作が正しいかどうかをそれなりの精度で判定できさえするだろう。これは構成主義的ロボティックス的なやり方でロボットに「またりさま」をやらせることに相当する。
だが、上記のようなシステムは規則に従っているだろうか?作曲者によって言語で記述された「規則」と「解釈」を読み取った場合と同じだろうか?
違いはエラーの検出に関して起こる。この場合には仮に「規則」をまもらなくても、システムは止まらない。なぜなら間違っていることに気付かないからだ。エラーはなく、規則に違反したことによる停止はないのだ。このシステムは自分がある「規則」に従って動いていることに自覚的でありえ、かつ自分が「正常」であると信じうるが、自分が「正常」であるかどうかを知ることはないのである。
上記の思考実験が<二分心>に対してどのような位置づけを持つかは、更に検討が必要であるが、少なくとも「言語」や「意識」を前提せずとも、つまり定義上は<二分心>以前でも、上述のようなシステムは構築可能であることになることから、<二分心>のモードにおける「規則随伴性」についての手掛りを得ることはできるだろう。
最後に幾つかの指摘をして、考察を終えたい。まずこのやり方では「教示」が必要であることである。つまり「他者」の存在が欠かせないのだが、<二分心>の神の声は、その他者を或る仕方で内面化した状態と捉えることができるのではなかろうか。また、この「類推」ベースのやり方の類似物として、伝統芸能の伝承の仕方が挙げられるだろう。ただし完全に口伝で、記譜法のシステムが存在しない(或いは禁忌によって排除されている)ような極限形態を考えるわけである。後に狩俣の神歌の継承について見る際に、それも同様に、極めて近いものであることを確認することになるであろう。
更に、上記のようなシステムでは、規則を破る、規則を変える、新しい規則を作るということがありえない点にも注意すべきだろう。勿論、いつの間にか規則が変わっているということは起こり得るが、それに対してシステム自体は自覚的ではない。そこには「新しさ」というのが存在する余地がないのである。規則の外に出るという意味でシステムの外だと考えれば、上記の類推システムには外部はなく、その限りにおいてオートポイエティック・システムなシステムであるということができるだろう。一方では、完全に自覚的なシステムをいわば抽象したものとして「逆シミュレーション音楽」の定義がある。他方、ここで提示したものは、結果的に似た振舞はするが、全くその動作原理を異にするシステムの或る種の理論的極限である。<二分心>は、それがもしあるとすれば、恐らくその後者にかなり近いものであることが想定されたが、<二分心>崩壊後、なおも存続し、「古代性」を残すと言われる狩俣の祭祀のシステムはどうか?だが、どのような位置づけを持つものであれ、その位置づけを考えるには、それが潜り抜けてきた<二分心>の崩壊過程について事前に一瞥しておく必要があるだろう。

9.<二分心>崩壊から意識へのプロセスにおけるヒュポスタシス

<二分心>が崩壊して意識が誕生する契機を、ジェインズは『イリアス』と『オデュッセイア』の間におく。そして意識発生の過渡期を、以下の4段階からなるヒュポスタシスによって特徴づけている。ちなみに既述の通り、レヴィナスにおいても意識の発生の契機はhypostaseによって特徴づけられており、恐らく両者は相互に無関係に理論構築を行っていると思われるだけに興味深い符合だが、レヴィナスのそれは、出来事からの存在の生成の謂であり、それゆえ日本語訳では「実詞化」「基体化」という訳語が当てられるものなので(前者は『実存から実存者へ』の邦訳のもの、後者はちくま文庫版『レヴィナス・コレクション』所収の「時間と他なるもの」の訳語である)、内容の関連づけには些かの径庭なしとしない。だがその一方で、レヴィナスの概念は、自己なり主観性なりがhypostaseにより生成する存在者を基体として、その上での動作により構成される「現象」に過ぎず、都度構成されることによってその連続性が仮構されるものであること、そしてそうした機制が、意図的、能動的に行われるわけではなく、多くの場合、それが中動態的な性格のものであることに注目しており、その具体的な様相をもし補おうとすれば、ジェインズのいうヒュポスタシスに近いものとなるということは十分に予想される。

また「私」という現象が如何に都度立ち上がり、しかも連続的に維持されているかのように自己認識されるが故に、それを錯覚とみなすこと自体には一面の真理があるものの、錯覚なのは「私」に関する自己表象がそうであるだけで、実際にはそうした自己表象を維持するメカニズムこそが問題なのであり、寧ろそちらのメカニズムの方を指してそこに「自己」を見る姿勢の方が適切であることは疑いない。一例だけ挙げれば、例えば鏡像自己認識の実験があり、それがあるレベルでの自己の成立の傍証になるのは間違いではなくても、ダマシオのいう中核的な自己はそれ以前から存在するし、逆に高度な自伝的自己の成立を見るには不足なのである。そのことを確認した上で、ジェインズのヒュポスタシスが自己表象が確立する諸契機とその段階を示していると読めば、<二分心>から意識への心の構造の変換が何であったかについてのモデルを構築する際に重要な素材を提供してくれるものと評価できるだろう。

第1段階 客観的段階 これらの用語が、たんなる外部からの観察結果を述べるにとどまっていた<二分心>時代の段階
第2段階 内面的段階 これらの用語が、体の内部のこと、とりわけ体内の特定の感覚を意味するようになった段階。
第3段階 主観的段階 これらの用語が、いわゆる「心的」過程を指す段階。当初は行動の原因と思われる内的刺激を意味していたものが、その後、比喩の形で行動が起きうる内的空間を表わすようになった。
第4段階 統合的段階 様々なヒュポスタシスが合体して、意識ある一つの自己を形成し、内観できるようになる段階

(ジェインズ『神々の沈黙』p.311)

ここで直ちに気付くのは、特に初期段階が、ダマシオの言うところの原自己を構成する契機である体性感覚の信号(ソマティックマーカー)のマッピングとの明らかな並行が見られることである。ダマシオにおいては、まず体性感覚の一次表象としての「原自己」があり、更にそれと対象のマップ、修正された原自己のマップが組み合わさることで二次のマップが組み立てられ、中核自己を形成するとされる(ダマシオ『意識の脳 無意識の脳』, 第5章 隠された身体あと脳 および 第6章 中核意識の出現―無意識と意識の間, 特にp.219表6-1, p.221 表6-2,p.225 図6-1を参照のこと。)だが上記のような並行性は、一見して矛盾しているように思われる。なぜならば既述の通り、ジェインズが<二分心>を位置づけている段階というのは、心の構造の発達の最後期段階、ダマシオでいけば、中核意識・中核自己よりも更に後の段階である延長意識・自伝的自己の発生の段階に対応するとされていることは明らかなことと思われるからある。更に言えば、ジェインズはそれを言語の発達の最終段階とさえ述べているが、ダマシオの所説においても言語の発達は自伝的自己と延長意識の出現の後に位置づけられ(上掲書, p.372)、一方、原自己・中核自己であれば、トリーの段階においても、ミズンのそれにおいても、その出発点のヒトが種として分化して発生した時点において既に備わっていたと考えるのが妥当と思われるからである。実際、ジェインズ自身、先に参照した第6章 文明の起源の冒頭における<二分心>の位置づけの提示の後の社会統制の考察において、哺乳動物の群れの進化から説き起こし、社会構造を支えるのが個体間の意思疎通であることを述べた後、霊長類での「非常に変化に富む複雑な合図」(ジェインズ『神々の沈黙』p.158)について具体的に紹介した後、言語の発達の段階に進む手前で以下のように述べているのである。

200万年前にヒト属が誕生した頃から、古代の人間が、他の霊長類たちと同様に暮らしていたと考えてはいけない理由はない。手に入る考古学的証拠は、一つの群れの大きさが30人くらいだったことを示している。この数は、社会統制の問題と、個体間の意思疎通経路の開放度によって制限されていたようだ。そして、群れの大きさの上限という問題を解決すべく、神々が進化の歴史に登場したのかもしれない。

(同書,p.159)

もしそうであるならば、<二分心>の崩壊後、意識の確立の過程で、改めてダマシオが述べるようなソマティックな情報がヒュポスタシスとなるという、ともすればやり直しに見えることが生じるのであろうか。
この疑問を解く鍵は、ジェインズの言うヒュポスタシスの水準においては、ソマティックな情報が、かつての原自己・中核自己の確立におけるような心的過程における感受そのものとしてではなく、<二分心>の確立以前に既に獲得されたている言語を介して、<二分心>の崩壊に瀕して、改めて概念的な水準での自己表象の構成要素として、以前とは別の水準で統合され直していく必要があったと推測されるということである。つまり、以前と同じく、自己の確立の過程である点は共通であり、かつその素材も共通しているけれども、脳内の神経回路網の発達の度合いに応じて、再帰の水準が異なり、ここではソマティックなものの感受ではなく、ソマティックなものの感受が自己表象に与かるという、いわば「心の理論」の構築が問題となっているということに注意すべきだということに存しているように思われる。それ自体は既にあり、既に確立された(即ち中核自己の)水準で自己は既に作動していた、勿論そこにも既に或る仕方での自己認識(の萌芽とでも言うべきもの)は、外部からの働きかけに応じる都度存在する。そこに今度は言語が関与し、言語を媒介にして、恰も一般抵な他の対象と同じような水準での「自己」の構造を自分で認識し、操作し、更には報告できるようになったことと捉えるべきなのだ。
そしてそれはジェインズのヒュポスタシスの第4段階での自己の内部状態の「内観」というのが、モニター機構の確立という「中核意識」における出来事とは異なった水準の出来事であり、その段階に至ってようやく、モニターされた内容を更に言語的に把握し、他者に報告可能になったということを意味する。それは同時に、対象の認識においても、モード毎にばらばらの知覚内容や、やはりばらばらに到着する体性感覚を統合した、マルチモーダルな対象-自己構造の確立でもあり、中核意識がそこでの主体であった、過去と未来に対する把持と含む現在時間意識を越えて過去を想起し、未来を予測することによって、現実の現象の絶えざる流動の背後に、時間を超えて、外部からは直接観察できない内部状態を持つ自律した個体としての「対象」や「自己」を仮構し、現実を越えて抽象化・概念化することにも通じるのである。つまり、ここにおいて「オートポイエティックな自己」という自己表象が確立するということである。それは脳神経科学的な神経回路網の水準では、特に前頭前野の連合野の著しい発達の結果として考えられてきたことに相当するであろう。
見方を変えれば「心の理論」も、或る意味では、既にその非言語版を社会的動物は備えているという言い方もできるだろう。だが、それを言語と概念のネットワークによって再構築し、他者に対して報告し、更には文字に記録して継承することができるようになったという点が、ジェインズの言う<二分心>崩壊後のプロセスの決定的なポイントではなかろうか。つまり「心の理論」一式を言語によって構造化して把握しなおし(もっと言えば「心の理論」を持っていること自体を「自覚」し)、結果として情報の交換、記録や継承が容易になったことが、ヒュポスタシスから読み取れるように思われるのである。こうして見ると<二分心>の状態というのは、少なくとも今、そのようなものとして把握されている言語が獲得される以前の萌芽的な段階とさえ見えてくる。一言でいえば、言語抜きで一旦完成した心のシステムを、言語を媒介にすることによりバージョンアップしていく途上での、過渡的な心の構造として<二分心>を捉えることができるのではないかというのが、ここでの取りあえずの理解ということになる。
してみると恐らく、自己表象の成立を記述する語彙として、脳神経科学におけるニューロンの結合の仕方やコラム化といった水準はやや低すぎるのではないか?生命のオートポイエーシスをニューラルネットの構造の水準で扱うのは、マトゥラーナ=ヴァレーラの創見であったが、実際には、神経ネットワークを持たない、より原初的な形態の生物がたくさんいることから、生命一般について語るのにはやや高水準過ぎるのに対して、こちらはエーデルマンの言うように、心のオートポイエーシスを語る水準としてまずは再帰ネットワークへの再利用の渦が適切であるとしても、自己表象を持ち、自伝的自己を備えた心を扱うには、今度は水準が低すぎるように思われる。自己表象の成立を説明するのは、恐らくは言語使用による、知覚される現実世界とは独立の概念のネットワークの水準なのであろう。自伝的自己を備えた自己のモデルの記述には、それ固有の適切なレベルの構成素が求められるのであろう。
いずれにしても<二分心>を位置づけることができる可能性がある時期は、通時的にみて最終段階である現代ホモ・サピエンスになって以降の時期であり、一方で狩俣の祭祀を通路とした通時的な遡行もまた、認知の流動化が起き、自伝的記憶を持てるようになった後、宗教の確立時期辺り迄がそのスコープと考えられ、まさにそれは宗教の確立の契機とその制度化の動因を探ることに対応する筈であって、今観察できる形態としては高度に制度化された後の狩俣の祭祀を通じて、その原初を透かし見ようとするものになるのだが、それはまた同時に、狩俣の祭祀の中における社会脳と認知能の競合・均衡のありようを確認していくことでもあるだろう。従ってそれは、共時的には認知脳に対する社会脳の優位が前提となっており、通時的にはミズンの図式における認知の柔軟性の結果としての心の(再度の)一般化の段階、トリーの階層における宗教の制度化の契機であるという対応の仮説を立てることができるだろう。ここでも共時的な垂直な地層に沿って、通時的な進化の結果の堆積を縦断することになる。
また、道具の利用、言語の獲得、現実とは独立の概念のネットワークや象徴秩序の確立といった側面との関わりについては認知的流動性(スティーブン・ミズン)の観点からの検証が必要だろうし、社会的動物、霊長類やイルカ・クジラ、発達した脳を持つ鳥類においては、必ずしも層序が保存されるとは限らないことにも注意が必要だろう。ヒトが辿った途は、唯一のものではなく、様々な可能性のうち、偶々選択されたものに過ぎないだろう。社会脳と認知能のバランスについても、ヒトのそれが唯一の解ではないだろう。けれども、ではヒトが獲得した何がその偶然の選択に依存するのかについては、更に別に検証する必要があるだろう。つまるところ、<二分心>もまた、そうした偶然の選択がもたらした進化上のアトラクタの一つであったかも知れず、高度な知能を持てば、必ず<二分心>の段階を通り過ぎるとは限らないだろう。更に言えば、どんな病理的な状態がありうるかもまた、唯一必然のものではなく、偶々我々が辿った経路に固有のものと考えるべきなのかも知れない。

10. <二分心>から意識への移行と狩俣の歴史との対応

ともあれここではそうした論理的な可能性の多岐性に深入りする必要はなく、ただ<二分心>から意識へという移行が、狩俣の場合にはどのような経過を辿ったと考えることが整合的なのかを突き止めさえすれば目的は達したことになる。

更に言えば、ジェインズにせよトリーにせよ、そこで取り上げられる宗教は、西欧中心の世界的な展望において選択された、特定の時期・特定の地域に発達したものであるが、それに対して時代的には遥かに下って、つい先頃まで存続し、現代に居ながらにして「古代」を垣間見ることを可能にすると言われた狩俣の祭祀を取り上げることにより、まずは

(1)狩俣の祭祀や神歌が、記紀の時代に先行する、より始原的な形態と認定できるかを、一先ずそれ固有の文脈の側から出発して検討し、

次いでそこから折り返して、

(2) 黒田喜夫を参照しつつ藤井貞和が指摘する「亡滅」が、ここでの問題意識に照らした時、<二分心>の崩壊という出来事を呼び起こすものであるのかについての検証を行う

可能性を見出すことができる。つまりそれは、藤井が設定する以下のような仮説枠(藤井貞和『古日本文学発生論』, p.132以降、ふたたび「亡滅について」を参照のこと)に対し、「心」の構造との同型性を一旦仮定して、対応する「心」の構造が備えているべき条件を突き止めようとするものでもあるだろう。

<南島歌謡>の世界

↓亡滅

<記紀歌謡>の世界

留意すべきは、ここで問題なのは、参照される仮説のどれが正しく、どれが間違っているかを検討することではなく、寧ろそうした様々な、しばしば両立しえない側面を含みうる仮説群に対して、もし可能ならば調停を行うことによって、それが垣間見ようとしている風景の輪郭をより明確なものにすることが問われているのだということである。

そこでまず編年的な事柄を確認しておくべく、以下の藤井の指摘を出発点としよう。

原始社会が崩壊して、古代社会へと移行したのは、宮古島でみるとほぼ十四世紀のころに属している。

(藤井貞和『古日本文学発生論』p.40)

文字記録はないものの、伝承などから再構できるプロセスは以下のようなものであろう。(以下は第1年度の調査結果に基づく。詳細は別紙参考資料『狩俣村年代記 ver.1.10 2019.8.11版』及び『「狩俣村年代記」説明 ver.1.10 2019.8.11版』を参照。なお、検討にあたって確認が必要な場合には、本論中において、適宜典拠となる資料を参照・引用することにする。)

第1段階:南走平家の集団/原住民:村建て

⇒根井間村/狩俣村

第2段階:平家末裔を支配層とする旧村落/クバラパアズを中心とする外来の呪術・職能集団

⇒仲間+大城元/志立(=後から成立)+仲嶺元

藤井の指摘と上記のプロセスは一致している。原始社会の崩壊=古代社会への移行は、<二分心>の崩壊=意識への移行であり、本永清の指摘する「三分観」の成立でもあるが、それは14世紀であり、それと構造的に対応するのは、クバラパアズによる城壁・石門構築という村落の境界確定による「ミヤーク」の成立と、それに伴う「フンムイ/バイヌスマ」の対立の成立である。ここで構造的な観点で重要なのは第2段階が加わって、双分組織の複合が再帰的に生じることによって三分観が成立したと考えられることであるが、この点は次章で詳しく見ていくことになる。

ところで「南走平家=根井間村・磯津御嶽・仲間元」説を採用した時、根井間村の集団は、文字記録のための技術を持っていただろうか?その後の宮古統一期以降は、再び、支配層は文字記録を知っていた可能性はある。従って狩俣集落の支配層(平良を代表とする村落外部との接触の機会があった人物)が文字記録を知っていた、或いは少なくとも、自分では運用できなくとも、そのような記録の技術が存在していることを知っていても不思議はない。だがその場合でも、狩俣の祭祀集団自体は文字の文化圏の外にあり、従って狩俣の祭祀のシステムは、口承のみを継承の媒体とするものではなかったか?その場合に、平家漂着の際には、識字能力があったのだが、その後の狩俣への定着の過程で無文字文化に退行した可能性も考える必要があるだろうか。

クバラパーズの狩俣支配の構造上の機能は何か?彼は城壁や石門の構築者であり、従って大規模な土木技術を備えた職能集団を引き連れていた可能性がある。一方、クバラパーズを抱く神女がシマヌヌスであると言う事実は、通時的な構造変化のプロセスの中では、後世の間切成立以降の「四島の主」(=狩俣間切に含まれる、狩俣、大神、島尻、池間の主)を想起させずにはおかない。クバラパーズが狩俣村落単独の支配者であったことが「島の主」=狩俣村落の主という名称に集約されているような印象を受けもする。

だが、それ以上にクバラパーズに関して、当時の社会への影響力が大きい特徴を挙げるならば、恐らくその筆頭が、彼が占術を能くし、暦や文字記録を理解できたことである事はほぼ確実と考えていいだろう。それは時間意識の観点からは、現在の延長としてではない、不確定の未来について考えることができるようになったということを意味する。その点に注目した時、クバラパーズに関する伝説には未来に対する認識の所有という点に関わるものが幾つか含まれることは興味深い。今日の時点から見ると却って見て取り辛いが、クバラパーズ以前に他者の寿命が何時尽きるかについての将来予測とか、自分の寿命が尽きたことについての自己認識が可能であることを前提とした説話があるかどうかを確認してみるのは意味があることかも知れない。要するに、占術・妖術というが、それを未来予測や未来に向けてのプロジェクトのためのテクノロジーの所有と見做し、そうしたテクノロジーと共進化していく心の構造変化のプロセス、特に他者および自己の有限性についての自己認識の獲得のプロセスを考えてみることができるのではないかということである。ここでは狩俣吉正『宮古島・狩俣民俗誌』の第6章「クバラパアズ(玖波良葉按司)の時代」の記述を参照することにする。

(…)夫と息子を殺されてしまった思千代按司の妻は、糸数按司の陰謀だったことを知った。怒りに震えながら狩俣まで行き、兄の玖波良葉按司に「兄さんの妖術で夫と息子の仇を討ってくれ」と頼み込んだ。妹から話を聞いた玖波良葉按司は、早速、糸数按司の命数を占って妹に「心配することはない。糸数按司の命数はもうすぐ尽きる。勝算は我が胸中にあるので時が来るまでしばらく待っておけ」と言って妹を帰した。

(狩俣吉正『宮古島・狩俣民俗誌』, p.135)

(…)この後、程なくして按司は自分のことを占ったところ命数が尽きたのを知った。東天がにわかに曇り、大小の石や貝が雨の如くに降り、屋外の者はこれに打たれて負傷する者も出るほどだった。「これは何事であるか、天地が崩れ始めたのか」と驚いていたところ、今度は東の空が真っ赤に燃え大いなる火の玉が襲ってきて茅葺家が燃え上がった。按司が外に出た時に降ってきた岩塊に打たれて亡くなった。

(同書, p.129)

ジェインズの<二分心>仮説との対応では、大まかには、クバラパアズがイリアスの時代の人物に対応するのか、オデュッセイアの時代の人物に対応するのか、という問いに対する判断材料を求めていることになる。クバラパアズが双分観から三分観への移行の劃期をなす城壁と石門の構築の当事者であることを踏まえれば、権謀術数の宮古島の戦乱の時代を占術(とそれと不可分の暦や「双紙」と呼ばれる伝書)とテクノロジーで生き抜いたクバラパアズが狩俣に登場することによって、狩俣の集落はイリアスの時代からオデュッセイアの時代に移行し、「ナカズマ・ミヤーク」を意識し、聖なる山脈とバイヌスマを価値的に対立するものとして捉えることができるのではないか、というのがここで検証を試みている仮説ということになるだろう。

更に言えば、そうしたクバラパアズの事績は、直接は狩俣の神歌ではその固有名をもっては語られない。クバラパアズは狩俣においては「島の主」(スマヌヌス)として狩俣までの道を整備した神とされ、現在は交通安全の神として祀られている(内田『宮古島狩俣の神歌』, p.35を参照のこと)らしく、城壁の構築は神歌で語られることはなく、あくまでも伝承の中で語られるのみのようだ。つまりクバラパアズという存在は、「神話・儀礼・神歌」という連続体の中では、いわば境界的な存在なのだ。その城壁の外に出てはならないという禁忌が帰せられる程にその後の村落の現実的な側面での動向に決定的な影響を与えた存在でありながら、それらは神歌の中で取り上げられる神話となることはない。按司時代には寧ろありふれたことと言って良いが、土着ではない外来者の者でありながら村落の支配者であった彼は、では抑圧され、忘却されたかといえばそうではなく、かつての彼の屋敷跡とされるところに拝所があり、祭祀組織にあっては、冬の三元と呼ばれるうちの一つ前の家元(マイニヤームト)に属する神役の一人がその祭祀を担当しているし(奥濱『祖神物語』,p.170を参照のこと)、神役がよむビャーシの中ではスマヌヌスの名は何度となくよみあげられるが、その事績が語られる神歌は存在しないのである。まるで「神話・儀礼・神歌」という連続体に、表面からは気付かないギャップ(盲点)が存在し、だが、その盲点を中心として構造化が行われて、その結果として盲点があることが忘却されたかのようだ。盲点であった部分は、「島の主」という、如何にもそれに相応しい神の名が占めているが、その役割は、その名前に対して著しく見劣りするものでしかない。狩俣の村落叙事詩と見做される「狩俣祖神のニーリ」でも登場することなく、だが「神話・儀礼・神歌」の連続体の外側に伝承があり、禁忌があるというのが、狩俣のオデュッセウスたるクバラパアズの構造上の位置づけとなる。このことは、狩俣の「神話・儀礼・神歌」と、双分観から三分観への移行、ひいては<二分心>から意識への移行の関わりを考える上で、念頭に置くべきことに思われる。この点を踏まえ、次章では、編年から離れ、まずは双分観から三分観へという観点で狩俣の村落の動的な構造を見ていくことにする。

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