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「三輪眞弘音楽藝術」の題名についてのメモ

「三輪眞弘音楽藝術 全思考1998-2010」(アルテスパブリッシング 2010年8月25日初版発行)

「まづは岩戸のその初め 隠れし神を出ださんとて 
八百万の神遊び これぞ神楽の初めなる」

(「三輪」)

能「三輪」の後場で杉小屋の作り物の引回しが下ろされ、作り物の中に居るシテである三輪の神が現れる瞬間、 私が拝見した最高の上演においては、光と空気の調子が一変し、光が舞台の上に満ち溢れ、見所を照らし、 能楽堂全体が光に包まれるような圧倒的な光景が繰り広げられた。「三輪」の能は、神楽の起源の物語であると同時に、 「面白」という言葉の起源の物語でもあって、 「また常闇の雲晴れて 日月(じつげつ)光り輝けば 人の面(おもて)白々と見ゆる / 面白やと 神の御声の 妙なる初めの 物語」という 詞も出てくるが、まさに「人の面白々と見ゆる」様を目の当たりにしたわけである。

「面白」の起源を天の岩戸の物語に求めるのは、「古語拾遺」、「先代旧事本紀」にも見られ、中世では「沙石集」などにも 見られる一般的な理解で、世阿弥の「風姿花伝」にも「(…)国土又明白あり。神達の御面、白かりけり。其時の御遊び、 申楽の始めと云々」(神儀云)というくだりがあるし、「古本別紙口伝」や「拾玉得花」などでも言及されているようだ。

ここで留意しておきたいのは、「面白」が、楽しいとか興味深いというニュアンスではなく、覆いが取れて顕現することの 効果として把握されていることである。(勿論、それが語源として正しいかどうかよりも、そうした語源解釈が含意する了解の方を ここでは専ら問題にしている。)ところで、例えば異なる文化に属する「ヨハネの黙示録」の「黙示」と邦訳されている語、 もとは70人訳ギリシア語旧約聖書でヘブライ語のgalaという語の訳語としてあてられたコイネーのapokalupsisであるが、この語は まさに「覆いを取り除くこと」である。ここで例えばフランス語で「発見する」を意味する動詞découvrirが、語源的に「覆いを取り除く」 dé-couvrirであることを思い浮かべてもいいだろう。(ここからハイデガーが「事態そのものへ」というフッサール現象学の格率を 「おのれの示すものを、それがそれ自身の方から現れてくるとおりに、それ自身の方から見えるようにすること」と解釈する際に 参照した(「存在と時間」序論第2章第7節)ギリシア的真理概念を思い浮かべる向きもあるだろう。あるいは更に、ハイデガーが 「技術は、その本質において、忘却のうちに眠る存在の真理の、存在の歴史に即したひとつの運命である。つまり、 テヒニーク[技術]は、その名称の点で、ギリシア人たちのテクネー[技術的知]に遡るだけではない。むしろ技術は、本質の歴史に 即するならば、アレーテウエイン[覆イヲ取リ除イテ真相ヲ露呈サセルコト]の一様式、すなわち存在者を顕わにすることの 一様式としてのテクネー[技術]に、由来している」(渡辺二郎訳)という「ヒューマニズムについて」の一節の方が、ここでの 文脈、つまり「三輪眞弘音楽藝術」の文脈においてはより強く思い起こされるということもあろう。だがここでは時間の制約もあり、 そちらへは立ち入らない。)

それゆえ「黙示」という日本語訳はなかなかニュアンスに富んでいるとはいえないだろうか。 沈黙の裡に、言葉を介さずに啓示されるのは、覆いが除かれることによってであり、それは「面白」なのだ。だから「面白」は、 もしかしたら「顔面蒼白」ですらあるのかも知れない。光源である神が「人の面白々と見ゆる」と見た光景は、勿論、光の効果によるのだろう。 厳密にはそれは「日蝕」そのものではなく、「日蝕」の終りの効果であり、だからパニックではなくパニックからの脱出の折の描写なのだという 意見もあるだろう(実は天の岩戸の物語の背景となっているのはそもそも日蝕ではなく、これまた世界の至るところに見られる「冬至」にまつわる 祭礼、つまり西欧ではクリスマスに相当するという説もあるようだが、ここでは「事実」がどうであったかには拘らず、私見では 能楽における解釈などが明らかにそちらの方を強く示唆するように感じられるという理由で、日蝕説を採ることにしたい)。 だが天の岩戸の物語が示唆する出来事、「日蝕」が古代の中国において、日本においてどのように受け止められていたかを 思い浮かべていただいても良い。世阿弥は「神達の御面、白かりけり」と言っているが、ここでは「神」の視点から「人の面白々と見ゆる」のである。 翻って人は、「常闇の雲晴れて 日月光り輝」くような天変地異に襲われた神ならぬ人は、一体そうした出来事、未曾有の カタストロフィー(ルネ・トムの理論における数学的な定式化とともに、ここでもまた語源となるギリシア語kata-stropheを 思い浮かべていただきたい)が生じる相転移の座標にあって、どう感じたであろうか。 今日の西欧の言語で一般的にそう解釈され、日本語の翻訳で「黙示録的」という語が示すような出来事に遭遇したのであれば。

「斯くて天にある神の聖所ひらけ、聖所のうちに契約の櫃見え、数多の電光と雷霆と、また地震と大いなる雹とありき。 また天に大なる徴見えたり。日を著たる女ありて、其の足の下に月あり、其の頭に十二の星の冠冕あり。」

(ヨハネの黙示録第11章19節, 第12章1節, 文語訳による)

繰り返して、ただし今度は順序を入換えて言うと、「三輪」の能は「面白」という言葉の起源の物語であると同時に、 神楽の起源の物語でもある。「まづは岩戸のその初め 隠れし神を出ださんとて 八百万の神遊び これぞ神楽の初めなる」 という認識は、既に引用した世阿弥の「風姿花伝」にあるように、申楽の、ということは能楽の起源についての自己認識でもある。 これは自己の起源を語る作品なのだ。

ところで現行の能楽もまたそうであるように、あるいは現存する神楽もそうであったように、起源においてもそれは「奏して舞う」もの、 音楽と舞踊が不可分で一体のものであったと認識されている。それは「八百万の神たち 岩戸の前にてこれを歎き、 神楽を奏して舞い給えば」という詞章でも言及されている通りである。(だがその「言葉」はどうだったのか。祈りの言葉、 それの応答としての「黙示」における言葉。「翁」の詞章に含まれる「呪文」と、「ヨハネの黙示録」の「来たれ」は、 いずれも認識の記述ではなく、行為遂行的な言語行為であろう。しかしこの点もここでは立ち入ることができない。) 「能楽」「神楽」は「音楽」を含むが、狭義の「音楽」そのものではない点に留意しよう。勿論能楽において、囃子のみの演奏、 あるいは舞を省略した演奏、あるいは謡のみによる演奏、囃子を略して謡と舞のみによる演奏というように、組み合わせ論的に 一部を取り出すことも行われているが、それはあくまで能の一部の抜粋と見做すのが一般的な了解であろう。

だが実際には事態は逆なのであって、ここで用いた「音楽」という語はそれ自体、第一義的にはヨーロッパの「音楽」を指し示す 翻訳語として見做されるべきなのだろう。勿論「音楽」という漢語自体の起源は非常に古く、紀元前3世紀の「呂氏春秋」に既に 確認できる(のみならず「呂氏春秋」の「大楽篇」は音楽論である)。日本の文献でも「万葉集」(注1)や「常陸風土記」などに 見られるようだ。だがそもそも「楽」という字そのものが弦楽器を表す文字に「白」を加えたものとされ、この一字でいわゆる「音楽」を表すことが できることもあってか、「音楽」という語はやはり西欧のmusicaの翻訳語で あるという印象が強い。現存する五経に加え「楽経」という書があったにも関わらず、秦の始皇帝の焚書によって喪われたという 伝承があったりして、古代中国における「音楽」のあり方、ひいてはそれが日本に輸入されたとき、どのように受容されたか、 あるいはされなかったかについても、もし日本における「音楽」について述べようとした場合には無視することはできないのだろうが、 ここではやはりそちらに立ち入ることはせず、今日における一般的な了解と見做して良いであろう「musica=音楽」に添っていくことに したい。(一言だけ付け加えれば、「楽」についてもいわゆる「たのしむ」という語義は或る種の転義であることには留意されて良いだろう(注2)。 ことさら「についても」と書いたのは、「面白」についても、ある解釈によればそうであることを上で確認した後で、同様の確認を反復して いることを強調せんがためである。)

[注1]「万葉集」巻第八, 1594 仏前の唱歌一首の詞書「右は、冬十月、皇后宮の維摩講に、終日大唐・高麗等の種種の音楽を 供養し、此の歌詞を唄ふ。弾琴は市原王と忍坂王となり[後姓を賜へる大原真人赤麻呂なり]。 歌子は田口朝臣家守と 河辺朝臣東人と置始連長谷等と十数人なり」
なおここでの「音楽」が、「日本書紀」等における用法と同じく、大陸から輸入された音楽(現在では「雅楽」の一部だが)を指し示して いることに留意されたい。そしてここで音楽が「供養」されていること、いわゆる<タマフリ>のためのものであったことにも併せて注意を払っておこう。 要するに、少なくともこの文脈において「音楽」は、今日しばしばそうなりがちであるにも関わらず、決して「自粛」の対象になるようなものとは 考えられていなかったのである。(ここで三輪さんの最近作、「算命楽」の日本初演のコンサートを思い浮かべていただいてもいいだろう。)

[注2]「楽」の訓み方が何であったについては流動的であったが、まさに「古事記」の天岩戸の部分において、いわゆる音楽としての 「楽」が用いられていることが確認できる箇所では、<アソビ>と訓じられることが普通のようだ。冒頭に引用した能「三輪」の詞章 「まづは岩戸のその初め 隠れし神を出ださんとて 八百万の神遊び これぞ神楽の初めなる」の「神遊び」は、だからまさに「神楽」なのである。
なお、<アソビ>という訓みは本居宣長が主張したもののようだが、その本居宣長は異なる訓みとして <ウタマヒ>(歌舞)の可能性を示唆していて、その典拠はと言えば、「日本書紀」での訓みであり、更には本文で 「面白」の起源を天の岩戸の物語に求めた最も早い文献として掲げた「古語拾遺」における当該箇所の「相与歌舞」の表記なのである。 そして興味深いのは、<ウタマヒ>は「日本書紀」では、「万葉集」の「音楽」同様、外来の音楽を指し示しているらしいことである。 いずれにせよ共通しているのは、それが狭義の「音の芸術」ではなく、音楽と舞踊が不可分で一体であったということだ。 (ここでもう一度、三輪さんの最近作、「算命楽」を思い浮かべていただいてもいいだろう。)


プラトンの対話篇は全て日本語に翻訳されているし、幾つかの翻訳についていえば比較的入手も容易であるから、遺された対話篇という 書物の翻訳を通してであればプラトンに接することは比較的容易であると言って良い。だが実際には、プラトンのギリシア語はしばしば 翻訳が著しく困難である。否、これは別にプラトンに限った話で無い。プラトンの同時代のギリシア語のある単語は今日の日本語の ある単語に対応しない。もっともこれはプラトンの時代のギリシア語に限った話ですらなく、一般に翻訳というのはそういうものなのだが。 (そう、それは日本語の中ですら起きうるのだ。例えば「メディア」という言葉は、メディアアートの世界と情報処理・ソフトウェアの世界では 一致しないだろう。こうした例は幾らでも挙げることができる。)
だから所詮は程度の問題ではあるけれど、例えば「ムーシケー」というギリシア語の単語の翻訳の困難さの程度は甚だしいものと 言わざるを得ない。mousikēという単語は、すぐに想像されるとおり、ラテン語のmusicaを経由して、英語のmusic、フランス語のmusique、 ドイツ語のMusik等になったが、にも関わらず、少なくともプラトンの時代およびそれ以前ではそれが今日「音楽」と日本語で翻訳される ものではないことは、例えば音楽史の教科書とかには書かれているので良く知られているかも知れない。mousikēはムーサ(Mousa)の女神達(複数 であることは確かだが、数は一定しない。一般には時代が下り、細分化が進むにつれて女神の数も増えていく傾向にあるようだ。)が司る すべての学術・技芸のことを指すようだ。それが不可分の統一体を為しているのか、集合的なものと見做されているのかそのものも揺れが あるようだが、音楽はもとより歌舞、詩作などの文芸などを包含しているので、例えば「パイドン」の冒頭で、ソクラテスが夢の中で命じられた "O Socrates", ephē, "mousikēn poiei kai ergazon" 「ソクラテス、mousikēを作り=為し、それを業とせよ。」(60E)のmousikēをどう訳すかによって、 翻訳を読んだ人間の受け止め方は大きく異なることになるのは避け難い。つまりプラトンの対話篇の翻訳は、 (これは日本語訳に限った話ではなく)mousikēをどう翻訳するかを都度判断する羽目に陥るのだ(注3参照)。

例えば「パイドン」の当該部分について言えば、岩波文庫の岩田訳では「文芸(ムーシケー)」とし、少し先で「哲学こそ最高の文芸」(61A) と述べるところで注をつけ、ムーシケーを魂の浄化の方法と考えていたピタゴラス派との関係からプラトンの「国家」や「法律」といった他の対話篇での ムーシケーの扱いに触れた上で訳語の選択に関する意図を注釈している。ただし実際には「哲学こそ最高の文芸」の傍証として挙げられている 「国家」や「法律」の該当箇所を参照しても、そのものずばりの記述には行き当たらない。「国家」の教育論ではムーシケーは哲人の教育を 頂点とするヒエラルキーの中で決して中核を占めることなく、国家の守護者たる軍人・貴族のための予備教育(プロパイデイア)の一部に位置づけられていることを考えれば、 寧ろ「国家」や「法律」では専らそれが「教育」の手段として扱われていることを踏まえた上で、彼我のニュアンスの差異に注意すべきように思われる。 実際、ソクラテス自身、すぐ後で「通俗的な意味でのムーシケー」という言い方をすることで哲学がムーシケーであるというのが、或る種の逸脱であることを 告げているとも読めるのだ。だがその一方で、このムーシケーの「通俗的でない」用法がレトリック、つまり比喩なのかそうでないのかについてはここだけでは 判断できない。(後述するように、例えば「パイドロス」のある部分でのソクラテスの言葉は、そうした判断の材料を与えるだろう。だが、それが「比喩」であるのか、 そもそもここで「比喩」であるかどうかを決定できるのか、決定する意味があるのかは依然として決定不能であろう。) もし比喩でないとするならば岩田訳の注は結局のところ妥当ということになるのだろうが、いずれにせよ、それにしても、その傍証として注が 参照している「国家」や「法律」の当該箇所を用いるのは無理があるだろう。
一方、ロバン(Léon Robin)によるフランス語訳ではずばりmusiqueが訳語としてあてられている。61Aの当該部分のフランス語訳 Y a-t-il en effet plus haute musique que la philosophie ; を更に日本語に直訳すれば「哲学以上に高度な音楽があろうか」となってしまい、その後の実際の製作作業についての語りも含め、 総じて岩田訳とは随分違った印象となる。のみならず後続の部分においては、讃歌を作るというのが音楽の作曲なのか詩作なのかという違いが現れてしまいもするのだ。 だがどちらが正しいかが決定可能であるという予断すらここでは許されていない。もしムーシケーがもともとそうであったとされるように統一体であったとしたら、 ここでソクラテスの作ったものは詩もあり作曲もあり、場合よっては踊りもありといった「総合芸術作品」かも知れないのだ。 例えば三輪さんの「愛の讃歌」がまさにそうであるかのように。

[注3]参考までに、"O Socrates", ephē, "mousikēn poiei kai ergazon" 「ソクラテス、mousikēを作り=為し、それを業とせよ。」(60E)の部分について、 簡単に参照・入手ができる幾つかの翻訳について以下に掲げておこう。
まずは19世紀前半のVictor Cousin訳:Socrate, me disait-il, cultive les beaux-arts.
19世紀後半のBenjamin Jowettによる英訳:Make and cultivate music, said the dream.
20世紀前半のÉmile Chambry訳(1930):Socrate, fais œuvre de poète et cultive la musique.
プラトンの翻訳史上著名なSchleiermacherの1809年のドイツ語訳では、»O Sokrates«, sprach er, »mach und treibe Musik!«
そして最後にLéon Robin訳:Socrate, prononçait-il, c'est à composer la musique que tu dois travailler!


プラトンがムーシケーについて言及している対話篇は多岐に渉る(私が知る限りでも「パイドン」「国家」「法律」の他、「パイドロス」「アルキヒヤデス」「イオン」 「ゴルギアス」「ティマイオス」などが挙げられる)し、それぞれにおけるムーシケーの位置づけの共通性と差異をここで述べる暇もないので、ここでは 要約的に以下の点に言及するに留めたい。

1.ムーシケーの多義性は既に述べたようにプラトンのテキスト内部に留まらない。しかもそれにはギリシア社会におけるムーシケーの役割の変化や 技術の細分化、専門特化といった通時的プロセスも関与している。実際、アテネが衰退する時期であったプラトンの時代は、ムーシケーは 狭義での「音楽」、舞踊、詩作(しかも詩そのものが叙事詩を始めとする幾つかのジャンルに下位分類化されていく)、詩の朗読、更には劇作といった ように細分化され、同時に拡張されていく時期であった。例えば「イオン」ではラプソドス(大衆娯楽の演者としての職業的な叙事詩朗誦者)が 対話の相手として登場し、ムーシケーの批判と言いながら、実際にはラプソドスの批判がなされるのである。あるいはまた「国家」においても、 ムーシケーが狭義の「音楽」を指し示していると受け止められる箇所がある。その一方で、実践ではない「学問」(エピステーメー)としてのムーシケーの定義が 「饗宴」の中で見られたりもする(「かくてムーシケーもまた、ハルモニアとリュトモスとの領域におけるエロースの事象と取り扱う学問(エピステーメー)である」(187C))。

2.プラトンのテキストの内部に限定しても「ムーシケー」という単語の用法は多様性に富んでいて、それは或いは上述のようなプラトンが生きた時代の ムーシケーの多様性に応じたものであり、或いは議論の文脈によるものであるが、そればかりではなく、ムーシケーに関連する話題が別の言葉によって 議論されることもある。例えば「ティマイオス」での「魂のハルモニア」についての言及(47C)で著名だが、「国家」でもすでに言及されている(617C)「ハルモニア論」は、 実践としての音楽ではなく音楽理論であり、ピタゴラス派からプトレマイオスなどを経て、中世的な七自由学科の一つとなる数学的な理論としてのmusicaに 繋がるものであるが、既に「ムーシケー」そのものとは異なる独自の名称を持つ理論的な領域が自立しつつあることが窺える。 (例えばボエティウスは既にmusicaを mundana / humana / instrumentaris に分類し、かつこの順序での序列付けをしているが、所謂「実践」を伴い、 聴覚でとらえることのできる「物質性」を備えた音楽は、musica instrumentaris 「道具の音楽」に分類される。 ここでは人間の「声」もまた「道具」であること、ギリシア的なムーシケーの分化の結果、いわゆる「技術」の次元が最も低い序列に押し込められている点に留意しよう。 ただし、後述のようにこの序列は、プラトンのイデア論とそれに応じた「魂のハルモニア」論、エートス論に基づくミメーシスの方向と一致しており、プラトン自体に 内包されているものであることにも同じく留意すべきである。)

3.だが全体としてはまだ「ムーシケー」を狭義の「音楽」に限定しない傾向が強いし、既述の通り、構成要素である「リュトモス」や「ハルモニア」についての 分析があるとはいえ、その一方で、例えば「法律」において(669-70)、楽器を独立に演奏することは「芸術に無縁(amousia)な見世物」でしかないという 言及がありもするし、それと表裏一体を為すように、「ロゴス」(これを言葉、つまり歌詞と考えるか、知性と考えるかでかなりニュアンスは異なるが)と「ムーシケー」との 結びつきを認める発言もある(「国家」376E)。その一方で注目すべきは、倫理的な側面が強い「エートス」との強固な結びつきの主張であろう。

4.プラトンへのピタゴラス派の影響の大きさは色々なところで述べられているが、ピタゴラス派との大きな違いとして、「エートス」と「ムーシケー」の関係の把握の 違いが挙げられるだろう。ピタゴラス派では、上述のように「魂の浄化」の手段として「ムーシケー」が捉えられており、「エートス」が「ムーシケー」に備わっていて、 「魂」(プシューケー)に作用すると考えられているのに対し、(当否はおくとして)プラトンにおいては「ムーシケー」はあくまで「魂」(プシューケー)の「エートス」の 「ミメーシス」である(「国家」399~401)。そしてこのことが教育におけるムーシケーのプラトンの扱いに影響することになる。 (既述のように、このミメーシスの方向はボエティウスをはじめとする中世的な音楽観における序列に一致する。 ピタゴラス派の「魂の浄化」は寧ろムーシケーの「魔術的」とでも言うべき側面であるが、この側面は中世には保存されない。 中世においては「道具=楽器」instrumentは悪魔のそれとして抑圧されていく。物質的なものが「魂」に作用する側面は、ルネサンスを経て、 Affektenlehre「情緒論」、Figurenlehre「音型論」、あるいは調性についての議論としてバロック期に再び理論化されるが、そこでは今度はピタゴラス派にあり、 プラトンにもあった超越的な契機、中世においてさえ「抑圧」という否定的なかたちであれ認められていた物質的な音楽の「魔術的」な側面、この後引き続き触れる 「狂気」(マニア)の側面は忘却されてしまっているかのようだ。)

5.その一方で、「パイドロス」などに見られる(248C,D)プラトンおよびピタゴラス派の両方に影響を与えたとされるオルペウス教的な輪廻転生の ミュトスにおけるムーシケーの位置づけにも留意すべきだろう。例えば「真実在をこれまでに最も多く見た魂は、知を求める人、あるいは美を愛する者、あるは 楽を好むムウサのしもべ、そして恋に生きるエロースの徒となるべき人間の種へ」(248C、引用は岩波文庫版の藤沢訳による)。「パイドロス」でのソクラテスの話の 展開上、この部分は普段はポリスの城壁の外に出ることなく、人間たちの間での議論にあけくれているソクラテスが蝉の声の響く人気のない郊外へと出、 かの「ダイモーンの合図」を受けて、しかも「コロスの創設者」と伝えられているステシコロスに仮託して語りだす(訳者は注で、ここにソクラテスの有名な 「空とぼけ」(エイローネイア)を認めていることにも注目しよう)物語にあって、「恋という狂気こそは、まさにこよなき幸いのために神々から授けられる」(245B,C)と いうことの証明の一部をなしているのである。先行する部分では「神から授けられる狂気は、人間から生まれる正気の分別よりも立派なものである」(244D)ことの 例証として、「世にもおそろしい疾病とか災厄とが、その氏族に属するある人々を襲った」ときに「狂気がやどって、神の意をつたえ」たこと(これはまさに「黙示」 であることに注意すれば、先に触れた「覆いを除くこと」がカタストロフィックな臨界点で、しかも人にとっては「到来」するという構造が窺える)に続けて、 「ムウサの神々から授けられる神がかりと狂気」(245A)への言及がなされる。(これを上述の「神楽の初め」と対照してみれば、「神楽」もまたそうした神がかり、狂気が もたらす熱狂と無縁でないことが思い起こされるだろう。)更には「技巧だけで立派な詩人になれるものと信じて、ムウサの神々の授ける狂気にあずかること なしに、詩作の門に至るならば(…)狂気の人々の詩の前には、光をうしな」(245A)うとさえ述べられている。(またしても「光」、覆いを取り除くことによる 「面白」である。)

6.そしてこの「ムウサの神々から授けられる神がかりと狂気」は、一見それと相容れないかに見える「国家」や「法律」での教育論での文脈においても、 その教育の、いわば効果を支える力となっていることを強調しておきたい。そしてそれが「子供にでもわかる」という効果をもたらすこと、それゆえ予備教育である プロパイデイアに有効であるという点に目配せをしておこう。教育のヒエラルキーの下位に位置することの持つ意味の両義性に気をつけよう。それはその力の 測り知れない強さゆえであることに注意しよう。つまり、「まだ若くて、なぜそうなのかという理(ことわり)を把握することができないうちから」(「国家」402A)の教育に 「ムーシケー」が有効なのは、「ムーシケー」は「魂」(プシューケー)の「ミメーシス」であることと、恐らくは上記の「パイドロス」で言及された「狂気」に 関係する「ムーシケー」の持つ「魂の内奥へと深くしみ込んでいき、何にも増して力強く魂を掴むもの」(「国家」, 401D)という性質、「ロゴス」を介さずに、 優れた「魂」(プシューケー)の「エートス」の「ミメーシス」を通じて優れた人間を形成することができる点に存するのである。 そして繰り返しになるが、こうした「ムーシケー」の効果の法外さに対する認識と「エートス」の把握とが、プラトンにおいて「ムーシケー」が数理的な理論とならずに 実践的な局面に引き止めている点は留意されていいだろう。


結局のところ、「ムーシケー」概念を巡るこうした詮索から三輪さんの活動を振り返ってみてわかることは、別に木戸さんの復元楽器のための 新作に携わる過程で古代ギリシアの楽器に接しているからというわけではなく、三輪さんの活動の総体が「ムーシケー」の多義性を 巡っての実践的な探求といった側面を持っていると考えることはそんなに突飛なことではないのではないかということである。 現代を特徴づけるかに見えるマルチメディアの多次元性、多感覚性が、「音楽」を聴覚的な側面(ドイツ語にはTonkunstという単語が存在するが、 これにぴったり対応する単語は何故か西欧の他の言語には見当たらないようだ)に限定しようする、既に古代ギリシアにも存在していた西洋音楽史の 大きな流れとどう関係するのかはここでは問題にしないが、ワグナーあたりから出現し、例えばスクリャービンなどに顕著な「総合化」への指向との関係も含め、 三輪さんの特に近年の活動、「新しい時代」を経て「逆シミュレーション音楽」にいわば方法論的に凝縮された「音楽」の捉えなおしを検討するにあたり、 中世の音楽へのリファレンスも興味深いが、更に遡った「神楽」や「ムーシケー」と突き合わせるのは一層興味深いように思われてならない。

また「ムーシケー」は「魂」(プシューケー)の「エートス」の「ミメーシス」であるという定式に要約されるプラトンの立場と、「ムーシケー」に狂気を認める 立場の緊張に由来する政治的・教育的な文脈における「ムーシケー」の価値の両義性は、後でもう一度触れるように、三輪さんの活動が自覚的な仕方で 備えている政治的・倫理的側面を考えるときの手がかりになるのではなかろうか。中世の音楽に継承されたピタゴラス派的な人間の魂を離れた「天体の ハルモニア」に通じるような見方であっても、つまり「ムーシケー」をムーサの女神達からの「贈与」と見做す場合でも「パイドロス」におけるような神的な霊感と 熱狂の賜物と見做すような立場ではないにしても、「ティマイオス」(47D)において「ムーシケー」を「魂」の「ハルモニア」を秩序づけ、保持するための「贈与」と 見做すような立場をプラトンが取る以上、プラトンにとって「ムーシケー」は人間の営みに他ならない。それはコンピュータを用いた作曲、アルゴリズムに基づく 自動作曲を手段としつつ、演奏する人間の身体性や実演に拘る三輪さんの姿勢を測るための視点を提供するように私には思われる。


とりあえず定められた時間内で終りに辿り着かなくてはならないので、急いで次に進もう。次は「藝術」について。

私は別のところで、「芸術」と「藝術」という異体字により表記の差異に言及したことがある。その時には「東京芸術大学」という 固有名詞におけるそれが問題になっていたのだが、ここでは普通名詞であえて「藝術」という表記が選ばれているように見える。 その時には、現在一般に用いられている「芸」という字はいわば略字で、しかも「藝」の本来の会意形声からすれば別体字の「蓺」に後から 追加された「艸」(くさぎるの意味)の部分の方が残るという経緯から、本字である「藝」の方を選ぶという考え方はあっておかしくないだろう。 (ちなみにもともとの意味は、別体字「蓺」が保持しているそれ、即ち人がかがんで木を土の上に植えるさまに由来する「うえる」「わざ」で あったことは確認されてよいだろう。「芸」という略字はいわばその行為の結果の状態を図らずも示しているという見方ができるかもしれない。)

だが実は、ここでもまた「音楽藝術」は固有名詞であるかも知れないのだ。つまりそれはかつて刊行されていた音楽雑誌の名前であり、 このタイトルはその雑誌への、その雑誌が担っていた或る種の姿勢に対するオマージュに由来しているのかも知れない。そしてこの場合には、 実は雑誌としても「音楽藝術」と「音楽芸術」の両方が時期を違えて存在していたことに気付く人がいるかも知れず、その差異に注目して、 「音楽芸術」に先行して刊行されていた「音楽藝術」誌を特定するためにあえて選択したという深読みをする人がいても不思議は無い。

しかしながら、例えば上の両方について著者がそれぞれ態度決定をしたとして、その結果が両立しえない場合のことを考えてみよう。 即ち最初の設問については「うえる」「わざ」としての「藝」にこだわり、だが一方で、事実問題として著者が接したのは「音楽芸術」誌で あったような場合を。勿論、結果として決定され、印刷された題名は、そうした逡巡の痕跡をとどめているわけではない。けれども人が 題名を眺めて事足れりとするのではなく、本を開いて読み進めていくならば、事実問題としての題名の「由来」を超えた地点において 三輪さんの活動が「音楽」を、「芸術」を問い直す、際立って鋭利な批判的な姿勢に貫かれていること、えてして個別の専門領域に ついての驚くほどの無知と誤解の混淆物を大量に含みがちで、肝心な部分の論理性については甚だ怪しい、結局のところ借り物に 過ぎない理論によって自分の対峙している事態を却って蒙昧化する愚を犯すこと無く、その実践によってまさに「音楽」を、「芸術」を 創り出しているのだということを確認するだろう。更にまた、大震災、津波、原子力発電所災害といったカタストロフにあって「中部電力 芸術宣言」を公開する姿勢は、それ自体そうした「実践」の一部をなす、この著作に含まれる文章と響き合うのを聴き取ることが できるだろう。


そして人はここでもう一度、「ムーシケーはプシューケーのエートスのミメーシスである」というプラトンの定式を確認するかも知れない。 ムーシケーは第一義には音楽だが、それは神楽がそうであるように、あるいはギリシアにおいてもある時期までそうであったように、舞踊や 詩などを含んだ実践のことであって、記録され複製された音響そのものではないし、プシューケーは「魂」だが、それはむしろ「亡霊的」なものが その典型をなすような非存在のはたらきであって、一般に「心」とか「フィーリング」と呼ばれているものではないし、エートスとはいわば そうした「魂」の、「倫理的(エーティケー)」な側面と結びつくような意味合いでの「性格」であって、単なる旋律や調性の「性格」のことでもなければ、 いわゆる「情緒」ではなく、「情操」とも関係ないし、ミメーシスは模倣だが寧ろ異なる空間での絶えざる「再創造」であり、それは単なる「コピー」、 同じ相空間における「複製」ではない。

そしてそうした差異は、プラトンにおける善のイデアの優位、善が「存在の彼方」であることに由来する超越性と無縁ではないだろう。 実際、善が「存在の彼方」であることは両義的であり、一方ではプラトンは、「国家」や「法律」で教育の手段としての「ムーシケー」を論じることで、 「ムーシケー」を別の目的、「善による美の包含」の手段として回収しているように見えるが、その一方でプラトンの議論に含まれる、回収しきれない 残余、人が神から授かるもの、自分では制御できない贈与があって、それもまた、くだんの超越性に基づいているのだ。残念ながらこの点について ここで議論をこれ以上展開することはできないが、しかし以下のことは述べておきたい。
「超越」を切り離してを内在化してしまえば、既にアリストテレスにその傾向が見られる、「ムーシケー」を遊戯や休養、教育、閑暇な知的教養の 手段と見做す立場に帰着するだろう。逆に音楽をピタゴラス派的に端的に超越的なものとし、外在的な論理や秩序への「聴従」と見做し、 それにより「魂の浄化」を追求することは、超越性を、超越の運動をいわば「忘却」し、消去することに他ならず、 「ほとんどファシズムに見られるような制御を設けて自律性を否定し、全く廃れたポストヒューマンの概念を持ち出してきた」という「逆シミュレーション音楽」に 対するゴールデンニカの講評が指摘するような批判に抗することは難しいだろう。 そしてその両者の帰結は(これは古代ギリシアではない別の国で、別の時代に起きたことであるが)音楽を皇国民の「徳性の涵養」「国民的情操の醇化」と いった教育の目的の手段として利用することであり、あるいはまた(これも別の国で、別の時代に起きたことであるが)「頽廃音楽」というレッテルづけによる 「焚書」(もう一度、「楽経」を文字通り焚書したかも知れない秦の始皇帝のことを考えてもいいだろう)に至るかも知れないのである。

だが、それではその危険を察知することは如何にして可能になるのだろう。ほとんど論理的循環に見えたとしても、そしてその点についての 論証をする暇が今の時点ではないにしても、その可能性がもう一度「ムーシケー」にあるのではないかということだけは書き留めておきたい。 「子供でもわかることに気付く」ことは、それ自体「ムーシケー」によってしか辿り着けないのではないか。

ここでいう「ムーシケー」もまた、狭義の音楽に限定されないだろう。ソクラテスが「パイドン」の冒頭(60E)で回想する、反復される夢の告げ、 姿は違ってもいつも同じ「ソクラテス、ムーシケーを作り=為し、それを業とせよ。」という声を思い出そう。そしてこの期に及んであの ソクラテス(つまり一方で「死への配慮」を、「死への練習」を説く(81A)彼)が「もし本当にポイエーテイス(作る人)であろうとするなら、 ロゴスではなくミュトスを作らなければならない」(61B)とすら述べたことを併せて思い起こそう。更にはこの発言を「国家」の教育論に おけるロゴスとミュトスの関係とつき合わせてみてもいいだろう。(「国家」では対話はすべてソクラテスによる伝聞として全て間接話法で 語られること、「法律」では最早ソクラテスが出現しないということも併せて、この発言の位置を測らなければ、プラトンの文脈における この発言の主旨について誤解する危険を冒すことになるであろうことには留意すべきだろう。)更にそれに加えて、ここでソクラテスが まさに「夢の告げ」に従っているということに注意しよう。夢は現実ではないし、三輪さんの活動においては「音楽」の「由来」を 語るフィクションの枠組みとなっている(最初には不可視であった括弧が最後に突然出現し、「…という夢をみた」で結ばれる) ことを思い出そう。更にはパイドロスで「蝉の神話(ミュトス)」(内容については欄外の注4を参照)として語られる、 ムーシケーと狂気との関係を思い出そう。

三輪さんの「蝉の法」の「由来」は中央アジア一帯の少数民族が行っていた古代ハープの奏法という「ミュトス」だが、中央アジアは 中国の箜篌と古代ギリシアのアングルハープという共通した構造を持つハープ(それは「楽」という字の由来でもあることもまた、 思い出そう)の伝播の通路であったに違いない。ここでは言い落とされているが、そこはパイドロスに記録された「蝉の神話」の 伝播経路でもなかったろうか。蝉からの贈与である蝉の「声」の由来をなす、ムーシケーからの「贈与」としての蝉の宿命の物語が 「パイドロス」全篇で果たす機能について留意しつつ、「パイドン」における「夢の告げ」が、延期された死までの時間をムーシケーを 作ることにあてることを命じた、「という夢をみた」とソクラテスが発言したという事実(とはいえそれ自体、プラトンの対話篇の中で 語られている以上、「フィクション」の中なのだが)を考え直してみよう。

そこには或る種の(無意識の?、意識自身が主体では最早ないような?)反抗、結局は勝ち目のない、それでもなお企てずには いられない抵抗を見出すことができないだろうか。仮象性の無力がそのまま最大の批判する能力であるような表裏一体の状況を 「現実」として認識し、同時にその能力を実際に行使すること。ヨハネがかの「黙示録」を書いた「パトモス島」を題名に持つ 讃歌において、ヘルダーリンが「危険のあるところ、救いの力もまた育つ」と歌ったのに倣って、だがその行為を回収しようとする 解釈に逆らいつつ、(それゆえ実在するそこではなく)「極東の架空の島」においてムーシケーを作り=為すこと。


かくしてようやく私は「三輪眞弘音楽藝術」の題名に辿り着く。(生まれからしてそうなのだが) 常に私は遅れて、別の場所で、三輪さんからの贈物(だがそれはこの私に宛てられたのではない、誤配されたものに違いない)を、 「来たれ」を受け取っている。(つまるところここでも私は予め、返すことのできない負債を負っているのだ。)いつも私ができることは 送られてきた「もの」、どこか幽霊的なものの前に遅れて立ち、別の場所から語りかけることでしかない。それは「挨拶」のようなもの、 誤配の通知であれ、配達証明でしかないだろう。しかもその通知自体、誤配の可能性を孕み、届く保証はない。 だが私はきっとこれからも「誤配」されたものを受け取るし、こうした「挨拶」を繰り返すだろう。


[注4]「パイドロス」における「蝉のミュトス」は以下の通りである。訳はこれまで同様、岩波文庫版の藤沢訳による。
「むかし、あの蝉たちは人間だった。ムウサの女神たちがまだ生まれない時代に生きていた人間どもの仲間だったのだ。 ところが、ムウサたちが生まれて、この世に歌というものがあらわれるや、当時の人間たちの中のある人々は、たのしさに我を 忘れるあまり、食べることも飲むことも忘れてただうたいつづけ、そして、自分でそれと気がつく間もなく死んで行ってしまった。 その後、蝉たちの種族が生まれたのは、この人々からであった、彼らはムウサたちから、つぎのような贈りものを受け取って きたのだ。すなわち、彼ら蝉たちの種族は、この世に生をうけると、何ひとつ身を養う糧を必要とせずに、生まれたすぐその時から 死んでいくその日まで、食わず、飲まず、ただひたすらにうたいつづけ、そして死んでからのちは、ムウサたちのもとへ行って、 この世に住む人間どもの誰が、どのムウサの女神を敬っているかを、報告するということになったのである。」(259B,C)
後続の部分(259C,D)で言及される女神はここでは4人。「テルプシコラ」(合唱と舞踏)、「エラト」(恋)、「カリオペとウラニア」(知を 愛することとしての哲学)。「この二人の女神(=カリオペとウラニア)こそは、ムウサたちの中でもとりわけ天界のことと、 神と人間の物語りとをつかさどる女神たちであって、その送る声は、もっとも美妙なのである」という言及は、本文でも既に 目配せしておいた通り、「パイドン」の「哲学こそ最高の文芸(ムーシケー)」(61A)というソクラテスの発言と響き合う。 だが、この言及がソクラテス自身が語る「蝉のミュトス」という「フィクション」の内部で為されていることにより、 「パイドン」の発言は、いわば「夢の中」でしか論証できないかのような循環、「空とぼけ」(エイローネイアー)の裡に宙吊りに なったまま留まっているのである。

(2011.8.12初稿, 8.13,14,15,17,27,28,30加筆修正, 2024.7.4 noteにて公開)

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