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断片IX 巡礼におけるヴァーチャリティ

 ここでは2つの「巡礼」が問題になっている。 一つはリアルなもので、「移動性をもった視線」もまたリアルなものだ。 もう一つはヴァーチャルなもので、「仮想の移動性をもった視線」によるものだ。 ここでいう仮想の移動性というのは、自宅のPC上で訪問可能ということでもあり、 マウスの操作によって、インタラクティブな仕方で道路上を移動し、ある場所で 視線の方向を変更できるという意味合いもある。

 ところで「視線」そのものは 仮想なのだろうか?身体の向きを変え、首を回し、頭を上げ下げするといった 仕方ではないが、マウスの操作と画像の変化のインタラクションを、リアルな 運動感覚と視覚とを補綴する人工器官と考えてみることができるだろう。 例えば、映画やテレビジョンの画像のように、撮影され、編集され、予め 定められた他者の視線と同化することにより、仮想の「いま・ここ」を獲得する こととは異なることがここでは生じている。

 勿論、Street Viewの撮影車が通ることができ、実際に通った道路からの風景に 制約され、幾つかの目的地(寺の中、人間しか入れない小道にあるなどの場合) には到達できないという制約はある。更に時間方向には、撮影車が撮影を行った 日時に限定されてしまっている。同じ日の別の時刻に同じ場所をもう一度訪れる ということは(少なくとも現時点では)Street Viewでは不可能だ。 ある地点はある時刻に時間的視野が限定されていて、その日時の天候や太陽の位置には 代替がない。常に同じ日時の同じ地点が反復されるのであって、「リアルな反復」は 不可能なのだ。(勿論、Street Viewのある地点の画像が更新されることはあるが、 その場合には、過去の画像はStreet Viewの時空からは消滅する。記憶から呼び起こされる、 現在に対するという意味合いでの「過去」はここには存在しない。)

 つまり、画像の更新が行われない限りは時空の構造は静的である点は、 いわゆる複製技術時代の媒体である写真や映画と変わるところはない。 StreetViewのモードに切り替えることができる上空からの画像にはしばしば写真が 貼り付けてあるが、それはSteet Viewとは異なる「過去」の時点の、 Street Viewの視野とは基本的に独立の他の展望からの画像であるが、Street Viewの 方は映画とは異なって、それを見るものの現在を、映画の物語の時空の中に 移動させるのではなく、撮影日時が過去であることをいわば「なかったこと」にして、 あたかもStreet Viewの操作者が現在見ている画像であるかのような「 シミュレーション」が行われるのであり、だから「映画」とは「現在」の価値が全く異なっている。 従ってまた「反復」の構造も全く異なっており、「映画」を繰り返し観ることはは フィクションの再読と同型であるのに対し、Street Viewでの「再訪」は、訪問者の 「現在」が実は過去のある時点の「反復」によって偽装されているのである。

見方を変えれば、Street Viewにおいては「過去」を「現在」に偽装することで、 「現在」自体の「今・ここ」性を希薄化し、無時間的な不特定の時点における 風景を提示しているかのように見做されるのである。Street Viewである場所を訪れる者は ある特定の時点の風景を見るのでもなく、同時性という意味での現時点、今この瞬間の その場所を見るのでもなく、或る種の観光で意図されるような特定の季節なり時間帯なりの 風景を見るのでもなく、時間の次元を抜き取った、ある場所の風景を見ているのである。 実際には秋の落葉の、あるいは春の新緑の、晴天の、曇天のといった特定の季節の特定の 天候の、こちらは撮影上の制約に由来して、交通量の少ない早朝の時間帯が多いようだが、 特定の時間帯の風景を見ているのにも関わらず、そうした個別性を抽象して風景を 眺めている。(勿論、Street Viewをそのように見なくてはならないという制約がある のではないが、撮影の時点は、見る者にとっては固有性のある時点ではないし、 Street Viewの提供側も、特定の時点の画像を提供することが少なくとも主要な意図では ないことは確認されて良かろう。)

 またStreet Viewにおいては、空間的連続は時間的連続ではない。 これはトポロジカルな問題であり、Street Viewにおける交差点の構造を考えれば良い。 Street Viewの中の時空の構造は、いわば一筆書き的になっている。 つまり空間の移動方向に対して時間は非対称で方向を持っているので、 同じ道を逆向きに辿ることは、時間を逆行することになるのである。 交差点は、そうした有向のパスが4つ出ているノードであり、 入る方向と出る方向の時間的に連続している2つのパスの組2つから構成されている。 組の間を渡るような交差点での方向変換は、時間的にも不連続や飛躍をもたらすのである。

 こうしたStreet Viewという人工器官の持つ構造は、だが「巡礼」が仮想的でしか ありえないとき、つまりStreet Viewで訪問するその場所を、「リアルに」訪問したことが なく、「リアル」な経験で上書きすることがないだとした場合には、そうした「リアルな」 制約を乗り越えて、擬似的であれ、「現地をリアルに訪問」する ことの代補として機能することができる。

 それでは「リアルに」その場所を訪問することができるとしたら? 可能性としてではなく実際に「リアルに」も訪問したとしたら、その両者の関係は どうなっているのか?2つの巡礼の関係についての最初の問いは、このような 性質の問いなのである。

 例えばStreet Viewで同じ場所を複数回訪れることは、リアルに同じ場所を複数回 訪れることとは異なる。特に意図してというわけではなく、Street Viewで事前に訪問し、 その後リアルに訪問をするというのも何度かやってみた。リアルな「巡礼」のための 準備として、従来してきたように、現地周辺の地図を確認し、交通手段を調べ、 その日の巡る場所と訪問順序やコースの大まかか予定を作るための調査の一環として、 Street Viewは極めて強力な手段である。

 かつてであればガイドブックの類を参照することがほぼ唯一の手段であったのに 対して、インターネットの発達によって、そうしたガイドのオンライン版が 参照可能になり、また訪問記のような文章も参考にできるようになったが、 それらと地図の組み合わせの場合、いざ現地を訪問しようとすれば、 地図の情報は限定的なものであることがわかる。地図には載っていない道が あったり、地図にある道が通れなかったり、地図の作成時点と様子が 変わってしまっていたり、ということはしばしば起きる。Street Viewと同等の 自動車での旅行であればともかく、公共交通機関を除けば基本的には徒歩での 移動という条件下では、別段、透谷巡礼のために用意されたわけではない 地図の情報には限度があり、それゆえ訪問記の類から得られる補助情報が 役に立つことが多いのだが、Street Viewは、やはり同様に車載カメラが 通った場所以外は存在していないという制限はあるものの、現地に行くまでに 見える筈の風景を、多少の展望の違いはあれ、事前に確認できるメリットは 非常に大きい。

 従って、ヴァーチャルな「巡礼」はリアルな「巡礼」の準備としての 役割を果たすといった面があるのは確実なことである。

 だが、訪問の頻度を考えると、リアルな「巡礼」はそんなに何度も訪れる わけにはいかないし、訪問したくでも、様々な状況が許さなければできない。 偶々透谷の場合のように、凡そ半日もあれば訪問して、幾つかの場所を 巡って戻ってくるということが可能な場合ですら、訪問の回数は自ずと 限られることになる。勿論、それはリアルな「巡礼」の重要な特性であって、 それゆえ目的地を全て踏破することに価値が生じ、そこに儀礼的な側面が、 「アウラ」が生じるのであろう。逆に、お百度参りのように同じ場所を 訪問する回数の多さがそのための条件となる方向性もあるが、いずれにせよ、 それはリアルな移動に随伴する様々な困難が、価値を高めるという構造を 持っている。

 全ての場所が、というわけには行かなくても、Street Viewによって訪問が 可能な場所については、そうした訪問の困難性というのはなく、反復が 生み出していく差異の累積というものもない。同じ場所を2度訪れるのは、 Street Viewについては、勿論訪問者のリアルな時間においては異なる 2つの時点ではあり、従って自宅のPCを取り囲む文脈の方の累積はあっても、 ヴァーチャルな移動性と伴う視線は、常に車載カメラが撮影した同じ時刻の 映像を再認するだけである。

 その差異は、「リアルな巡礼」に際して撮影した写真が、一回性の巡礼行の 過去の記録となるのに対し、「ヴァーチャルな巡礼」で、Street Viewで 車載カメラが透谷の記念碑を視野の中に捉えた一瞬の画像を保存することが、 同じ時間性を持ち得ないことからして明らかであろう。

 その一方で、Street Viewでは同じ時刻の同じ場所を繰り返し訪れることができる。 音楽で言えば、三輪さんの言う「録楽」と同じ時間の構造がここにはある。 これは複製技術が初めて可能にしたものであるが、「かつてあった過去」の 事実性の証人たる写真が、ある同一の過去の記憶への通路であるのに対し、 Street Viewによる巡礼の反復は、寧ろ同じ演奏の録音を繰り返し聴くことに近い。 勿論写真についても、前回まで気付かなかった細部にある回に初めて気付くと いった経験はありうるだろうが、Street Viewでの同じ時点・地点の再訪は、 別の経路を辿って到達することもあり得るだろうし、視点を変え、前回見なかった 方向を確認し、といった異なる展望の知覚でありうるのは、単なる程度の問題では 済ませることができない、質的な差異を孕んでいる。

 ある場所から別の場所への移動もまた、リアルな巡礼における制約が無いが故に、 ほぼ自在に行える。リアルな巡礼なら、例えば小田原訪問の場合は、小田原駅を起点に、 城山高長寺→唐人町生誕碑→小田原文学館顕彰碑という経路が一つのモジュールを 構成することになり、もし時間が許せばその前後に国府津前川の長泉寺訪問を 付加することになるだろう。

 八王子訪問は、上川町森下の2つの幻境の碑の訪問は一モジュールにできるが、 バスのルートの制約から、みつい台の造化の碑を一緒に訪れようと思えば、 八王子の駅に一旦戻るか、あるいは中野から東楢原にかけてのどこかから みつい台までを徒歩で歩くことになる。それよりは「三日幻境」に従って 森下から網代温泉に向かう選択肢もあるだろう。 いずれにしても、一度の訪問でどこを通るかの選択は基本的にはやり直しが 利かず、やり直そうと思えば、それは別の「巡礼」行となるだろう。

 しかしStreet Viewであれば、そうしたやり直しはStreet Viewが記録した ルートの範囲内においては容易である。ただしこれだけなら、例えば自動車を 使って訪問すればリアルにも類似のことは可能かも知れないが、Street Viewでなら、 そもそもそうした経路を辿ることなく、上空からの画像から直接目的の場所に ズームインしてStreet Viewのモードに切り替えれば済むのであり、 そもそも経路というものの意味が希薄化していることに注意すべきだろう。

 そしてそうした仕方で何回となくStreet Viewでの「巡礼」をしていけば、 StreetViewで確認できる地点の情報を補足・注釈するものとして、 リアルな「巡礼」を捉えることもまた、可能かも知れない。私は実際には そうしていないし、そうするつもりもないのだが、Google Mapにマーキングして 「リアルな巡礼」の記録たる写真を埋め込んでいくことをしていったものを、 事後的に眺めれば、まさに「リアルな巡礼」は地図上に注釈として埋め 込まれているのでしかない。

 だがしかし、「透谷巡礼」をGoogle Map上にそのように記録すること自体は、 それを支えるテクノロジーがあって初めて可能になったものであるけれど、 リアルな「巡礼」は、ヴァーチャルな「巡礼」の注釈であるという構造自体は、 より古い起源を持つものではなかろうか。そもそも「巡礼」という規定自体、 それを成立させる観念的な世界における風景において成立するものであり、 単なる空間移動ではない「巡礼」はそもそもヴァーチャルなものなのだ。 そして、そうしたヴァーチャルなものの古さはテクノロジーのそれと同じレベルのものなのだ。 どんなに遡ったところで、そうした構造はテクノロジーと無縁であることはありえない。 なぜならば、生物学的なヒトが現在のような意識を持つ、高度な心性を備えた存在であるのは 生物学的な進化のみならず、社会的・文化的な進化をも考慮せざるを得ないからであり、 それはテクノロジーと不可分のものだからだ。

 近年語られることのある仮想現実から拡張現実へ、「いま・ここ」とは異なる もう一つの現実から、「いま・ここ」の拡張による読み替えは、局所的には破局論的な 出来事と、テクノロジーの発達がもたらした現象のように見えるかも知れない。 だが、現実を幻境化する志向というのは別段新たなものではないし、現実とは異なった 他界の観念にしても同じことが言えるだろう。「透谷巡礼」は、謂れを付加するだけで 平凡な現実の空間を聖化する「偽史的想像力」なるものからすればアナクロニズムという ことになるのかも知れない。それは紛れもない正史、かつての現実をなぞる行為に過ぎないし、 本来の意味における聖地巡礼とも異なっていて、訪問することに何等かの利益なり、 あるいは修行的な要素を含み持つものではない。強いて言うならば、その起源の一つである 殉教した聖者の墓を訪ねる行為に近いとは言えるかも知れないが、その行為は墓の建立者という 最初の記念行為の、常に遅ればせの反復でありつつ、まさにそのことによって記憶の継承を、 記念という行為を成立させているのである。

 同時にそれは、虚構を現実である日常性の単なる拡張と見なすことを許さない。「透谷巡礼」 は寧ろ日常から虚構への、他界への通路なのである。ただしここでいう虚構とは、 黙示録的=終末論的な口調で語られる非日常のことではない。虚構とは、寧ろ超越の、 「時の逆流」の、つまり創造のプロセスに伴う想像力/構想力の働きであり、 既成のものから未完結なものを救い出し、まだ存在しない未来へと向かう動き、 未来に対する責任を引き受けることに繋がっていく心の働きの産物なのである。 「透谷巡礼」をメディアコンテンツを媒介としたツーリズムの喚起、ムラオコシと 文化創造型交流の可能性を探るための素材とすることは不可能ではないかも知れないし、 その意義を否定するものではないが、「透谷巡礼」自体は、透谷その人に相応しく、 「勝利を目的として戦はず、別に大に企図するところあり、空を撃ち虚を狙ひ、 空の空なる事業をなして、戦争の中途に何れへか去ることを常とするもの」の一部を為すものなのだ。

 そして、「巡礼」を「観光」と区別し、恐らくは「遊歩」とさえ区別するポイントは、 Google Map上に記録される情報の中には含まれていないのではないか。それとも 「透谷巡礼」をGoogle Map上に記録したものが、事後的に見て、文人の旧跡を 巡る観光ツアーのガイドと見分けがつかないのであれば、実は「巡礼」であるという 規定の方が単なる思い込みに過ぎないのであり、本当は「観光」しか最早ないのだろうか? Google Map上に記録しきれない余剰とは何かについて正確に規定をするのは困難だが、 そうした余剰の存在自体は私にとっては疑いえないものだし、余剰を具体的に 例示することならば出来るだろう。ただしそれは、ヴァーチャル・リアリティの発達の 先にあっては、最早リアル・ヴァーチャルの対立軸を規定するものではなく、 ヴァーチャルなものの中における差異を特徴付けるものになるだろう。


 フィルム・ツーリズムやサブ・カルチャーにおける「聖地巡礼」においては移動自体は リアルであることが自明の前提になっているかに見える。ところで、 フリードバーグにおいても視線はヴァーチャル化されたが、移動自体はリアルであると されていた。だが、シネマ・コンプレクスで供給される映画の選択肢の中を 動き回ることは、設えられたテーマパークやお化け屋敷の中を移動することと 変わるところはないし、そもそもそれの先駆としてのパサージュの中の移動自体、 そもそもリアルとは言えないだろう。移動自体はその身体性においてリアルでも、 その中を移動する風景の方は仮構されたものであり、設えられた物語を受け取る しかないのだ。

 仮構された風景の中での固有の身体の移動。仮構されたヴァーチャリティ(のシミュラクル)、 仮構された幽霊性(のシミュラクル)。だが、「現実」の中で知りうる「事実」は、 同じようにして、どこか他の場所で起きた出来事が、映像を通して、文字を通して 提示されるだけだ。それはほとんどの場合仮構されたものではないのだが、 仮構されたものとの区別をすることは難しい。何を見て何を見ないかの選択権が 手元に残ったとしたところで、所詮は所与の中のどれを選ぶかであり、選択の スコープは予め(良かれ悪しかれ)仕組まれているのだ。

 テーマパークやお化け屋敷での移動の危うさは、その移動が、予め設定された 枠の中をしか動き回れない点でマスメディアでの番組の選択、記事の選択と 同じ点にある。テーマパークでの催しは、コンサートホールでの演奏や 能楽堂での演能とは異なって、一回性の出来事のアウラはなく、映画館での 映画の上映に似て、同じものが見られることが要求されている。実演ならではの ハプニングの可能性は残るだろうが、それさえ、管理されが偶然としての 観客サービスのメニューに回収される傾向性を持っているだろう。

 そこで残された身体の移動の「リアリティ」はどうなっているのだろうか? 決められた時刻に、決められたペースで、決められた順序で、決められた場所を 移動するように暗黙裡に強制されている身体の移動にリアリティを認めることが できるだろうか?

 ツーリズムにおいても、自由度の観点から見れば、テーマパークの中を 巡回するのと変わるところのない性質のものもあるだろう。 自分が他に文脈を持たない土地を、与えられた固定化されたイメージによって 眺めるだけであれば、テーマパークやそれは映画の中での経験と変わるところがない。

 コンテンツツーリズムは、リアルには別の文脈を持っている風景に対して、 ヴァーチャルな文脈を付与することによって現実を拡張する試みと見なすことが できるだろう。サブカルチャーにおける「聖地巡礼」をはじめとするコンテンツ・ ツーリズムでも、移動そのものは「リアル」であるが、ここではコンテンツ自体が ヴァーチャルであるが故に、ツーリズムの側の「リアル」さに価値がかかっている という構造がある。風景の方が、別のリアリティとしての日常性を、付与される 文脈以前に備えていなければ、それは特定のキャラクターに会えるテーマパークを 訪れることと変わることがない。風景のリアリティは、コンテンツのヴァーチャリティと 相補的であり、風景の中の移動の現実性は、コンテンツ側の時空のヴァーチャリティを 現実に繋ぎ止めるように機能している。(古典的なところで、歌枕や謡跡めぐりが そうだろう。)それは、コンテンツの側の危うさを救出するという志向において、 過去の歴史の忘却の中から抹殺されてしまった幽霊的な存在を救い出す動きと 共通する点があるだろう。

 だがもしそうだとしたら、その志向はツーリズムという形態を最適な実現形態と するだろうか?ツーリズムではなく、同じことをあえて「巡礼」と呼ぶのは、 同じ身体の移動に別の意義を見出すことを企図しているのではないか。 私はなぜ、一連の移動を「巡礼」と呼んだのか?

 巡礼のリアリティは、反復にあるのではないか?繰り返しによる記念・記憶という 働きのうちにあるのではないか?ここでの反復は、私が何度もその場所を訪れる ことではない。それはかつて存在したものが辿った跡を再び辿ること、 かつて起きたことを反復することにより回想し、記念することである。 そして反復が可能になるためには、かつて存在したものとの間に、 リアルなものであれ、記憶媒体を介したヴァーチャルなものであれ、 対話が生じているのでなくてはならない。それは過去からの呼びかけに対する 応答であり、応答もまた繰り返され、対話とならなければ応答たりえない。

 一方でGoogleMapsやGoogle Earth上でのStreet Viewを用いた移動は、例えば夢の中 (これもまた、ベンヤミンのパサージュ論のキーワードだが)での移動と比較して どうなのか?映画での他者の視線の移動とは異なって、ここでは移動は インタラクティブなものなので、ヴァーチャルな空間を移動するための人工器官 によって「私」が移動する、と見なしうる。だがStreetViewで見ることのできる 風景は、常に過去のある時刻のものであり、反復は風景の側ではなく、風景を 訪れる主体の側にしか存在しない。しかもその特定の過去は寧ろ不定の匿名の過去であり、 別の時点と交換可能なものとして定義されている。

 その一方で、そもそも、知り合いのいない、訪問したことのない土地の名前、 地図上の地名、風景写真、映像は、「固有名」といえるだろうか?「そこ」を 移動することを他の場所と区別し、交換不可能なものとするのは、 意識ある主体としての人間の尺度の限界の内部においては、 緯度・経度の違いなどではない。 ある場所とある時刻を、今・ここと連結する媒介が必要であり、 「そこ」にいることが「経験」である必要がある。そして「経験」を媒介する ものは、無時間的な現在ではなく、現在への呼び掛けるヴァーチャルなもの、 幽霊的なもの、過去からの呼び声であり、未生のものへの呼びかけであろう。 つまるところ、リアリティの成立には、常にヴァーチャルなものが必要なのだ。

(2014.7.14  公開, 2024.8.4 noteにて公開)

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