『人の嫌がることをすすんでしましょう』
『絶対にやってはいけないよ』
といわれなくても やってもいけないこと、がある。
苦手なもののひとつだ。
例えば込み合うホームで。
滑り込んで来た電車、雪崩をうって降りてくるだれか。
それを押し退けて 中へ乗ること。
常識的にはよくない、やってはいけないことだ。ただ、それは曖昧で、法律で罰せられる訳ではない。誰かに舌打ちされるくらいか。
わたしは何回かそれを見たことがある。
そのたびに 胃がきゅうとなるような 頭の中がかっとなるような なんとも言えない気持ち悪さを感じる。
『これをしましょう』
といわれても ためらうこと、がある。
苦手なもののひとつだ。
例えば 高齢者や婦人に席を譲ること。
道徳の教本には席を譲りましょう、と書いてある。
だが 反対に 譲ろうとしたら 断られたとか そういう声も耳にする。
近くの草臥れたような顔のおじさんに なぜおれに譲らない?的な顔で見られたらどうしよう。
見極めがむずかしい。
『人の嫌がることをすすんでしましょう』
この言葉には2つの捉え方がある。
1つは 人がやりたがらない、古風な例えであれば便所の掃除などをしましょう、という意味。
(自分のレア度をあげるポジショニング的な意味もあるが、ここでは善行のほうにクローズアップする。)
もう1つはめったに使われないだろうが、
人が嫌だと思うことを 生み出す、つまりは嫌がらせをしましょう、という意味。
そのまま文を文字通りの意味をとるとしたら、どちらだろう?
後者?前者?
普段使っていると気にしないけれど 日本語は曖昧で、雰囲気を読むことが必要になる。
これが日本語の学習を難しくさせているとか言われる。
『良いこと』だけをしていると浮く。疲れる。
電車に乗るときのマナー。降りるときのマナー。座席のマナー。それらには『こうすることが良いこと』というのがある。でもそれがうまく機能しない部分も多々ある。そのマナーを押し通し、他人に強要すれば 疲れるし 下手したら後ろから刺されかねない。違和感を感じてもグッと飲み込む場面もある。飲み込んで、しらんふりをすることで 自分の精神の動揺を最小限にしようとする。
マナーとは曖昧なものだ。
あいまいと多様性とストレスと社会と
最近、SNSで 『意見』という曖昧なもののふりをしたアジテーションが 多いような気がしている。
『無党派層が居ないことは政治の不健全を示す』とどこかで聞いた。無党派、ということは そのときの状況や主張によって 投票する党を選ぶということ。
ぱっと判断がつかない曖昧なもの。そのゆらぎと多様性があるからこそ、政治、ひいては社会が健全であるのだろう。
言葉とは曖昧なものだ。
ひとつの言葉はいかような意味にもとれる。
時に絶対的な呪縛となり、行動指針となり、希望になり、絶望になる。
受け取りかたは人次第である。
その言葉にどんな意味を付与させるかも人次第。その人のうけとりかたしだい。
自分とちがう、はストレスになる。摩擦は擦れて不協和音を鳴らす。それとたたかいながら うまく付き合いながら 生きていくこと。
それは、かなり辛く、苦しいことだ。
考えて、考え抜くこと。
他人のどんな文脈からその言葉や行為に至ったか考えること。
少しでも他人におもいを馳せたとき、世界は少しずつ変わっていく。
息を吸って、とめて、ゆっくりはく。わたしの文脈を探す。目を細めて 相手の背景を考える。
電車のまどから、紅葉に彩られた山がぼんやりと見えた。
自分がじぶんであれますように。そんな世界がひろがるように。見てくれてありがとう。