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『“容疑者”がみんな悪者に見えてしまうのはなぜ?』

今日の話題。
 立てこもりとか発砲とか、センセーショナルな事件のニュースをみて感じました。
 以下、長々スミマセン・・・<(_ _)>。

 人は誰でも、勝手な「決めつけ」をしてしまう生き物である・・・ということ。
 例えば、大きく報道される社会的事件や問題を目にすると、私たちはなぜかその加害者(容疑者)が悪魔のような人物に見えてしまいます(よね?)。
「なんて悪い奴なんだ!」
「とんでもないやつなのよ!」
「逃走中の犯人はきっと悪い奴なんだ!」
なんてこと、無意識にも思っちゃう・・・。

 事件報道に触れた世論の雰囲気からも、人間みんな「決めつけ」しやすい生き物なんだなぁと感じることありませんか?

 誰でも陥るこうしたエラーに、自分も陥って暴走しないため、無意識に「決めつけ」てしまうということを知っておくのも悪くないか。

◆人間は、他者の悪い行動の原因を、その人の内面にみようとする生き物。
 冒頭、事件報道を目にすると、「なんてひどい人たちなんだ!」「きっとやつは鬼畜のようなやつなのよ!」と、勝手に犯人像を作ってしまう心理があると記載しました。

 心理学では、これを「原因帰属」というそうで、人間の心が無意識に生み出すバイアスのひとつらしいのです(当たってるかな?)。

 これは、国籍を問わず人間であれば誰でもそうなるらしい。
 悪いことは本人の内面(内的因子)に原因を探そうとし、良いことは社会のおかげ(外的因子)とみる傾向にあり、事の本質を見誤りやすい生き物なんだとか(確かに、ニュースをみて無意識にそう考えている自分がいます・・・)。


◆先の世界大戦処理でも
 「決めつけ」としては、第二次大戦後のナチスの裁判が良い例かも。
 ユダヤ人大量虐殺を積極的に進めたA・アイヒマンという人物の裁判でも、史上最悪の悲惨な出来事に対し、世論的にも感情が先走り、「決めつけ」で道を誤ってしまいそうになったのでは…と感じました。

 この悲惨な出来事は、個人の責任?組織の責任?といったような議論もあったそうで、後者を主張する識者に対しては脅迫や強烈な批判も起きたそうなのです。
 悪魔を支持する悪者だと「決めつけ」たのかな。

 こうしたことを、某芸能事務所のことや最大手の中古車販売業者のことも、同じように感情に走ったきらいを感じませんか?

 そこでちょっと横道にそれますが、組織と個人の行動に関して、人(個人)が組織の中でいかに非人道的なことを厭わず実行してしまうかを証明した実験を見つけました。
(感情的に個人を責める風潮に一石を投じることになったと推察なのです)

◆優しい人も組織で凶悪になれるのが人間という生き物
 余談ながら、その実験についてちょっとだけご紹介。

 アイヒマン裁判の判決から1年後、組織に従属し凶悪化する人間心理について、「アイヒマン実験」(Sミルグラム)や、「スタンフォードの監獄実験」(Pジンバルドー)が有名なところ。いずれも人間のおそろしい一面をえぐりだすとともに、組織は善人さえも狂人に変えてしまうメカニズムが明らかになったのではないかと感じる次第です。

 例えば、「スタンフォード監獄実験」。
 公募したごく一般的な人間を、囚人役と看守役にわけ監獄生活をリアルに再現したところ、看守役がやがて非人道的な行動をとるようになり(2日目で異変発生)、行動がエスカレートして、被験者(囚人役)の気が狂い始めたことから、実験開始からわずか1週間で実験を中止する事態になったそうです。

 つまり、この実験では、狂気の沙汰も人間個人の性格・気質・人格によるものだけではない可能性を示しております(しかも1週間あれば、人はいとも簡単に豹変できるようなのです)。

 様々な組織犯罪や事件(悪いこと)も、加害者個人の内的因子に注視するだけではなく、外的因子(指示命令や社会環境等)も考慮したうえで、決めつけに陥らず慎重に結論を導き出さなければならないということでしょうか。

 もう少しだけ話は脱線しますが、「決めつけ」からこんなエラーがあると感じました。
 日本人には特に注意が必要なことかもしれませんので。


◆アカデミー授賞式ビンタ事件から見た日本人の他者把握の偏り・エラー
これ、覚えてますか?
 主演男優賞を受賞した有名な俳優さんが、司会者を壇上でビンタしちゃった・・・。

 こうした行為について、アメリカ人はいかなる理由があっても暴力は許さないと評した一方、日本人は奥様のことを揶揄されたのだからビンタされても仕方ないと考える傾向にあるそうです。

 つまり、普通なら非難されるべき暴力に対しても、日本人は<そこに大儀があるなら仕方ない。>と考える傾向がある。上記ナチスの狂気の沙汰も、もしそこに大儀があれば日本人はおそらく認めてしまったであろうことは想像するに難くないか。

 いや、自分自身もこうしたエラーに陥る可能性(危険性)があると常に戒めておかねばならないと感じる次第なのでした。

◆組織事件(犯罪)における個人の責任
 話を監獄実験のところに戻して、じゃあ組織の犯罪に加担した個人には責任がないんだろうか?と。

 組織による事件に対し、指示に従っただけだから自分に責任はないんだという理屈は本当か?

 これについて、「アイヒマン裁判」を傍聴したユダヤ系哲学者H・アーレントが記した著書に興味深い言葉でつづられているようです。これがとても啓示的なことと推察しました。
(参考:「アイヒマンと日本人」(山崎雅弘著)祥伝社新書(2023年)P189より)

 被告であるAアイヒマンは、自身の行動を上司命令に従っただけだと一貫して無罪を主張したそうです。それに対し、著者は<組織の指示に「従った」ということは、それを「支持した」ことにほかならない。>(意訳です。)と評し批判されたそうです。

 要するに、個人が組織の命令に従ったということは、個人がその考えを「支持した」ということ。外的因子に大きく起因するとしても、決して個人が責任を逃れることはないと、アーレントは述べています。

◆誤解やエラーとならないため
 自分は指示に従っただけという「決めつけ」では、かなりヤバいことになりそう。
 じゃあ一体どうしたら避けられるのでしょうかね?

 この世の価値が限定的だった時代ではなく、今は多様な情報に触れることができて民主的で自由な時代であり、人の数だけ価値が存在している時代です(良し悪しは別として)。

 様々な価値が存在する社会では、ひとりひとりが思考停止せず、内的因子や外的因子に基づくことが果たして本当に正しいのか、みんなの意見に耳を傾けて、道を踏み外さないようにしないとなりませんかね。

 組織人が陥りがちな「指示されたから」、「ルールで決まっているから」・・・(実は私も逃げ道に使います。。。)。
 確かにそのとおりではありますが、自分もそれを「支持した」ことに他ならないということも気に留めておきたい。

 その方向性に対し、大人として責任を負っていくためにも、自分の考え方を声に出していくことの大切さも少し感じてしまいます。そんな勇気は、なかなかわきませんけど(>_<)。

◆自分の考え方を声に出せる雰囲気とは?
 組織内で、絶えず話し合うことは大切そうですが、声に出すのはなかなか難しいし勇気がいる。
 個人が気づいたことを気兼ねなく口にできる雰囲気は「心理的安全性の確保」ということで説明ができそうですが、日本人にとってこれがけっこうハードル高いですよね。特に指示命令に従うを良しとしてきた高齢男性には。いや、それはわたしだ。

 心理的安全性は、1990年代後半にAエドモンドソン博士の研究で、今世紀にはgoogle(プロジェクト・アリストテレス)はそれを実証しておりますね。

 アメリカでは、その頃から「決めつけ」にならないような風潮が醸成されていたのかなぁ。

◆思考に偏りがあることを知っておく。
 そんな1990年前後、そのころ日本はモノ作りベースのバブル景気だったでしょうかね(”Japan as No1”なんて著書もあり浮かれ踊らされ…言い過ぎ、失礼)。

 モノづくり時代とは、指示命令にひたすら従い、画一的な大量生産に価値があり、たとえ「決めつけ」が横行しても別に問題にならない時代だったのかなぁ。

 かたや、情報が商品となる今の時代に、こうした一律な価値観で動くことは、むしろリスキーであり、多様性を前提とする労働者の働き方(いや、生き方、人生)にも歪みを起こしていますよね。

 その歪みがいろいろなところに不具合を生じ、組織が機能不全に陥ってしまうこともずっと知っています。

 ただ、会社や社会全体のことなので、大半の社会人にとって、こうした「決めつけ」の雰囲気を一朝一夕には変えられません。

 それでも、冒頭の「原因帰属」に陥りやすい人間の傾向を知り、日常からどんな出来事にも「決めつけ」せず、様々な情報や人の話に耳を傾けてみることで、道を踏み外さないよう努めることが大切なのでしょうかね。

 決して、短絡的に脈略なく「なんてひどい人たちなんだ!」「きっと鬼畜みたいなやつなのよ!」と思わず、日頃から冷静に様々な意見に聞き耳を立てて、自分も口を開き対応をしてみる訓練をしておきましょうか。


           yoitenki4110

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